*


 三者面談を終えた塁は、本日予定していた全面談をクリアした柴とともに教室を出た。
 塁は帰宅のため、そして柴は職員室に向かうため、二人並んで階段を降りる。
 その空気はどこか気まずさが漂っていた。

「三崎。今日の面談内容は、急遽来られなくなった親御さんにも伝えておくように」

 結局、塁の母は三者面談に姿を現さなかった。予想的中の塁は全く驚きもせず、面倒そうな顔を柴に向ける。

「そんな顔をするな。三崎のお母さん、お店経営されていて忙しい方だから」
「だったら初めから三者面談に“出席する”なんて言わなきゃいいだろ」

 ドタキャンするくらいなら、初めから欠席すると言って欲しかったのが塁の本音だ。
 一人息子の面談すらもまともに出席できない。まるで、中学受験から逃げた塁への、当てつけのような気がしてならなかった。

「まあ、三崎は成績だけは優秀だから親御さんも安心してるんだろうな」

 そんなフォローを口にして、慰めるように塁の肩を叩く。
 ただし、塁は聞き逃さなかった。

「成績“だけ”は余計」
「あとは校内の風紀を乱す格好を直してくれたらな〜」

 イエローブラウンの髪とピアスに視線を向けながら、柴が呆れたようにため息を漏らす。
 と言いつつ、指導室に呼んで説教するようなことはしない柴に、塁は少なからず感謝していた。
 だから、今回の母のドタキャンは柴の期待を裏切ったと考えて代わりに謝る。

「柴ちゃん、なんかごめんな」
「それは三崎が、面談に十秒遅刻したことへの謝罪か?」
「は? ちが――」

 雪のデッサンに付き合わされていた塁が、美術室を退室して面談に向かった。
 同じ階にある自分の教室まで全力疾走したものの、十秒遅れてしまった話を蒸し返される。
 柴の意地悪さが見えたような気がして、塁がギラっと睨んだ。
 すると柴は笑いながら寛容な対応をする。

「だったら謝るな。三崎も親御さんも悪くないんだから」
「……柴ちゃん」
「柴先生な?」

 塁は感動の眼差しを向けるが、柴は寛容な対応から一転して笑顔が引き攣った。
 いいかげん“先生”をつけろというオーラを放つ。
 それを「はいはい」と雑に返事した塁は、職員室のある二階で柴と別れた。

(あー早く帰りたい……)

 三者面談という面倒な予定を終え、塁の足取りは軽くなる。
 階段を降りて昇降口に差し掛かったとき、姿は見えないが一年生用の昇降口から会話が聞こえてきた。
 おそらく面談を終えた女子生徒と母親。「もっと勉強しなさいね」と言われた女子生徒が「数学苦手なんだもん」と答えている。
 上履きからスニーカーに履き替える塁が、その会話を耳にして考える。
 今更、羨ましいなんて感情は湧かない。ただ、これが普通の親子の会話なのだとしたら、塁と母の親子関係はとっくに破綻している。

(まあ、別に困らないからこのまま放置でいいけど)

 塁は校舎を出て、そんなことを夕景の空に祈った。
 そこでようやく大事なことを思い出す。

「あ、雪先輩ほったらかしだった」

 ハッとして振り向き、夕日を浴びた校舎を見る。
 美術室のある三階まで視線を動かしたが、雪の姿が窓に映る気配はない。
 かといって、もう校舎を出てしまったから、美術室には戻りたくない。
 塁は鞄の中から、筒状に丸められた契約書を取り出した。
 その中身を思い浮かべて、小さなため息をつく。

「……ま、いっか」

 どうせ明日も授業はあって、午前授業で下校する。
 美術部の活動があるかはわからないけれど、雪を捕まえる機会はある。
 すでに横顔を描かせている。だから今度は雪が、“三崎塁の変な異名のイメージを払拭します”の契約通りに働くのみだ。
 あまり期待はしていない塁は、そのまま帰路についた。


 *


 翌日。夏の朝日がすでにギラギラしていた。
 普段通りの時間に登校した塁が校門をくぐる。額には汗を滲ませ、機嫌もそれほど良くはなかった。
 その理由は昨夜帰宅した塁の母から、謝罪の言葉がなかったから。
 三者面談をドタキャンしておいて平然と寝支度をはじめる母に、塁は腹を立てていた。
 本日も無意識に放つ、塁の近づくなオーラが凄まじい。登校中の生徒は内心ヒヤヒヤしていた。
 目を合わせたら討ち取られると思い込んでいるので、塁を避けるように後者へと避難する。

(ほら、まだイメージは払拭されていない)

 契約はまだ達成されていないことを知り、塁が勝ち誇った気持ちを抱く。
 昨日の雪は、自信満々に塁との交渉を受け入れ契約書も用意した。
 それでも現在進行形で、塁のイメージは今までとなんら変わっていない。

(今日の下校時間にでも、雪先輩が“できませんでした”と謝りにくるかもな)

 そんな予想をしながら、塁が上履きに履き替える。
 昇降口を抜けたとき、その先に設置された掲示板に人だかりができていた。
 部活動の勧誘ビラや、吹奏楽部の定期演奏会の案内ポスターが貼られている。
 普段はそれらを素通りする生徒たちが、掲示板を見ようと集まっていた。
 塁が少し不審に思いつつも、教室に向かおうと階段に向かう。すると掲示板を見終えた二人組の女子生徒が、塁の存在に気づいた。

「三崎先輩っ」
「……っ⁉︎」

 後輩に声をかけられるなんて今まで一度もなかった塁が、見知らぬ後輩に初めて名前を呼ばれた。
 あまりに突然の出来事で、吊り上がった目を全開にして驚きを隠せずにいる。
 すると二人組の女子生徒は少し照れながら、甘ったるい声で朝の挨拶してきた。

「お、おはようございます」
「??」
「私たちも好きですよ、アレ」
(アレ? アレってなんだ??)

 アレが何か見当もつかない塁は、混乱して返事ができなかった。
 まるで仲間を見るような目で見てくる二人組の女子生徒は、キャッキャと楽しげに立ち去っていく。
 それを皮切りに他の生徒たちも、目が合ったら討ち取られるはずの塁をじろじろ見てきた。
 明らかに何かがおかしい。塁はその原因が掲示板にあると思い、恐る恐る近づいていく。
 群がっていた生徒たちの隙間を縫い、掲示板の一部が見えた。

「……んだよ、これ……!」

 塁は愕然として目が離せなくなる。
 掲示板には、四つ切サイズの画用紙が貼られていた。
 まるで白黒写真と見間違えてしまうほどに完成度の高い、塁の横顔が描かれている。
 この瞬間、塁は雪の才能を初めて知る。しかし、なぜこんな目立つところに絵が貼られているのか。
 塁が疑問に思ったとき、群がる生徒がはけて絵の全体図を見ることができた。

(……は⁉︎)

 そこでようやく、二人組の女子生徒が言っていた“アレ”の意味を塁は理解する。
 頭の中で何かがプツンと切れた音を感じた。同時に、塁は勢いよく掲示板へと突進して、貼られていた絵をべりっと剥がした。

「…………おのれ、丹野雪」

 絞り出すような声で呟いた塁の背中は、殺気に満ちていた。それを察した周囲の生徒たちはびくりと体を震わせる。
 そして絵を片手に持ったまま、塁は脇目も振らずに駆け出した。
 ほんの一瞬の出来事に、群がっていた生徒たちは唖然とする。
 そんな中で聞こえてきたのは――。

「三崎くんって、見かけによらず可愛いところあるんだね」
「本当だね。イメージ変わったかも」
「私も!」

 塁と同じクラスの女子生徒たちが、そんな会話をしながら盛り上がっていた。
 また別の三年の男子生徒たちは、塁の最後のセリフを聞いて雪を心配する。

「やっぱり今の絵って丹野が描いたんだ。もしかして丹野、討ち取られる……?」
「丹野が無事だったら、三崎塁の異名は消滅するだろうな」

 この一件が拡散され、生徒たちの間で塁の怖いイメージがじわじわと覆されていった。
 そうとは知らない塁は、息を切らしながら必死に階段を駆け上っていく。この絵を描いた張本人に会うために。