ひだまりの美術室。連続的に聞こえてくる、鉛筆の芯が画用紙を擦る音。
 それを心地良いと感じたのは、もしかすると生まれて初めてかもしれない。(るい)はじんわりと胸の奥が温まっていくのを覚えた。
 何度も注がれる(ゆき)の真剣な視線が、対象物となる塁の横顔を捉える。そしてまた滑るように鉛筆を動かして、デッサンを完成へと導いていく。
 夏休みまで、あと一週間という暑い日の出来事だった。


 *


三崎(みさき)!」

 二年生の教室が並ぶ廊下で、担任教師の(しば)に呼び止められた。帰りのSHRが終わり、いの一番に教室を出た塁が気怠けに振り返る。

「柴ちゃん,なに?」

 吊り上がった目尻と威圧的な高身長が、近寄るなオーラを放つ。が、本人にその自覚はない。
 センターパートの長い前髪と襟足、イエローブラウンに染めた髪色は校内でももちろん目立っていた。おまけに両耳にはピアスを計四つ光らせる。こんな派手な生徒、この高校には一人もいない。
 そんなわけで全校生徒は学年問わず、みんな塁を周知している。さらに陰では“目が合っただけで討ち取られる三崎塁”という異名も囁かれていた。

「なに? じゃないよ。今日は三崎の三者面談日なんだぞ?」
「…………あ」
「帰る気だったな⁉︎」

 全校生徒に恐れられている塁にも、柴は分け隔てなく接する。教師であり担任という立場ももちろんだが、そもそも柴は塁のことを手のつけられない問題児とは思っていなかった。どちらかというと、優秀な問題児。

「なるほど、面談だからそんな服着てんだ?」
「先生の服について触れなくていいんだよまったく」

 普段はジャージだったりTシャツだったり、動きやすい服装をしている柴。それが今日は、カチッとした白ワイシャツに皺のないチノパンを穿いている。三十八歳、年相応の服装だけど、多分奥さんに選んでもらったんだろうなと塁が勝手に予想する。
 高校二年生は年に一度しか行われない三者面談が、本日からはじまった。夏休み前の一週間が全て午前授業なのは、そのためだ。

「十六時に親御さんくるんだから、その時間は校内にいろよ?」

 柴に言われた途端、塁は眉根を寄せてそっと視線を逸らす。
 塁の唯一の"親御さん"である母が、今日の面談にくる保証がなかった。
 ヘアサロンを三店舗経営していて、毎日忙しい日々を送っている。だから三者面談という大事な予定をスケジュールに組み込んだものの、本当にくるかは謎だった。仕事以外のことは、どうでもいいと思っている人だから。
 柴の期待を裏切るかもしれない。後ろめたい気持ちを抱きつつ、塁は頭をかきながら返事をした。

「はいはい、学校にいればいいんだろ」
「あと柴ちゃんて呼ぶな。“柴先生”だ」

 柴はキメ顔でそう指摘すると、面談準備のために職員室へと向かった。
 面倒そうな表情を浮かべる塁は、重いため息をついて校内をぶらぶら歩く。
 現在、午後の一時を過ぎた頃。
 面談がある生徒は、一時帰宅してもいいし校内で時間を潰していてもいい。そして面談も部活もない生徒は、さっさと校門に向かい下校していく。
 塁は三階の廊下の窓から、生徒たちの下校の様子を眺めていた。

(……家に帰るのも面倒だしな)

 面談開始の十六時まで、まだまだ時間がある。
 どこか静かなところで昼寝でもしようか。塁がそう考えていた時、突然背中に衝撃を受けた。
 どかっという鈍い音と共に、塁がゆっくり振り返る。そこには他クラスの男子二人組が、しまったという顔で立っていた。

「ひぃ、三崎くん! すすすみませんでした!」

 塁が先輩だったらまだわかる反応だが、同級生だというのにこの怯え様。まだ何も声を発していない塁の鋭い目つきは、怒っていなくても誤解されやすい。
 二人組は青ざめたまま、逃げるようにその場を走って逃げていった。
 今となってはこんなことで傷つかないし、誤解されることにも慣れている。
 生まれ持った目つきは弄らない限り変えられないわけで、今更身長を縮めるなんてことも不可能。
 元々無口で群れるのも苦手な塁にとっては、たいした問題ではなかった。
 ただ、一つだけ納得していないことがある。

(誰だよ。目が合っただけで討ち取られるなんて変な異名言い出したやつは……)

 いつから自分は武将扱いになったのだろうと思いながら、塁は廊下の姿見に映った自分を見る。
 顔のパーツに触れるのはもうやめるとして。ワイシャツの首元はボタンを外し、深緑色のネクタイはゆるゆるにただぶら下がっているだけ。
 鞄は教科書が入っているのか疑うほどに薄っぺらく、上履きの踵は踏んづけていてもはやスリッパ。
 見た目は確かにヤンキー。ただ、これは自分が好んでいるスタイルという理由だけの、偽のヤンキー。
 そのせいで他校のヤンキーに絡まれることはあったけれど、敵意がないことを話して持っていた飴を配り、安いカラオケ店を教えたらいつも穏便に済んでいた。
 だから人を殴ったことも、ましてや討ち取るなんて行為もしたことがない。

(って説明する機会もないし、めんどいわ)

 そう結論に至り、卒業までの残り一年半を変な異名に付き纏われる覚悟を決めていた。
 塁が思考を巡らせながら歩いていると、いつの間にか静かな場所まできていた。
 三階は二年生の教室があり、他にも部活動の教室も奥にある。塁がたまたま足を止めたのは、同じ階の美術室の前だった。
 二年の教室から離れているせいか、帰り支度をする生徒の声も遠くに聞こえる。静かな時間が過ごせそうだと思った塁が、その扉に手をかけた。
 特別教室は本来、利用する時以外は施錠が義務。なのにガラッと音を立てて、美術室の扉が簡単に開いてしまった。

(鍵かかってねーのかよ)

 施錠忘れか、すでに誰かが中にいるのか。塁はそっと室内を覗いた。
 閑散とした広めの教室の隅に、木製のイーゼルがいくつも並べて保管されている。
 大きな窓からは夏の午後の太陽光が差し込むが、空調が効いていて暑苦しくはない。
 ただ、人の気配はなかった。
 ということは前回の利用者の施錠忘れ。そう判断した塁は、ここで昼寝をすることに決めた。
 できれば人目につかず、空調が直接当たらない場所。そんな条件で塁が周囲を見渡す。
 その時、背後から声をかけられた。

「あれ? 君……」

 ドキッとした塁が慌てて振り向く。すると一人の男子生徒が、扉付近に呆然と立ち止まったまま塁を見上げていた。
 ストレートマッシュの黒髪から覗く、パッチリとした丸目が塁に突き刺さる。
 そこで塁は、名前を呼ばれるより前に振り向いたことを後悔した。
 全校生徒に知られている、塁の変な異名。
 どうせまた“目が合っただけで討ち取られる”と恐れられ、謝られて逃げられるのがオチだ。
 と思っていたら、男子生徒は塁の予想の逆をいく。

「やっぱり! 二年の三崎塁くんだよね?」

 呆然としていた顔が、突然パッと笑顔を咲かせて距離を詰めてきた。
 不意を突かれて、小さく頷いた塁の方が一歩後ろに下がってしまう。
 三年専用の紺色ネクタイをかっちりと首元で締め、色白で細身の平均身長。見た感じは、ザ優等生。
 そんな彼が“目が合っただけで討ち取られる”という異名を持つ塁と、視線を合わせたまま話しはじめた。

「僕、三年の丹野(たんの)(ゆき)。美術部の部長だよ」
「……三崎塁」
「知ってる知ってる。もしかして入部希望⁉︎」
「……いや、昼寝場所を探し――」

 言いかけて塁は口を噤んだ。
 入部希望を期待する雪のキラキラした瞳を見てしまい、本当のことは言わない方が良い気がした。
 しかし、聞き逃していなかった雪は眉を下げてしゅんと肩を落とす。

「そっか〜残念」
「……なんか、すんません」
「いいよ。昼寝も大歓迎だからどうぞ」
「は……?」
「僕がいる間だけだけど、その辺の机使ってもいいし」

 雪は塁に気軽に話しかけながら、イーゼルとカルトンをセッティングしていく。
 何もお咎め無し。それだけでなく塁に怯えることなく、美術室での昼寝も許された。
 一つ上の先輩だけれど、ちょっと変わった人。そんな第一印象だった。

「……迷惑だろ、普通」

 誰の意見なのかわからないことを、塁が口走る。
 ただ、恐れられている自分の存在は、他の生徒にとっては迷惑だと思い込んでいた。
 カルトン上に四つ切サイズの画用紙を固定していた雪が、ふと手元の動きを止める。
 そして意外そうな顔を塁に向けた。

「それが普通なの? じゃあ僕は普通じゃないのかも」

 柔らかく目尻を下げて、塁の後ろめたさを跳ね返すくらい明るい笑い声を漏らした。
 校内でこんなふうに普通に会話するのは、担任教師の柴以外で初めて。
 雪の反応が新鮮すぎて胸の奥がざわついた塁が、声の出し方を忘れた。

「塁くん?」
「⁉︎」

 塁を心配して雪がそっと寄ってくる。いきなり下の名前で呼ばれて、思わず塁の肩が跳ねた。
 感動を通り越して、意味不明な怒りのようなものまで込み上げてくる。
 絶賛混乱中の塁が雪を直視できず、誤魔化すように顔を背けた。
 その横顔を見つめていた雪に、突然落雷を受けたような衝撃が走る。

「あああ三崎塁くん!!!!」

 腹から出てきた大きな声と、今度は改まってフルネームで呼ばれた塁がさらに驚く。
 そしてガシッと強く腕を掴まれて、雪に顔を覗き込まれた。
 その燃えたぎった瞳と塁を掴む力には、「逃がさん」という雪の強い意思が込められているようだった。

「な、なんだよ……」
「正面向かない! 横向いて!」
「????」

 ものすごい剣幕で怒られた塁は眉根を寄せる。納得いかない表情を浮かべながら、言われるまま横を向いた。
 塁の心情を気にも留めない雪は、その横顔をまじまじと見つめて――。

「良い、良いよ塁くん。君の横顔最高だよ!!」
「……はあ?」

 星々を撒き散らすような輝いた瞳で、雪は塁を褒めまくってきた。
 言っている意味が理解できず、雪のテンションにもついていけない。
 そんな塁の頭の中では、思考停止音が鳴り続けた。





 *


「あはは、いきなりごめんねー?」

 我に返った雪が、緊張感なく頭をかきながら笑顔で謝罪している。そしてなぜか二つの椅子を用意して、塁と向かい合い座っている状況。
 発端は塁の横顔を見た雪が、急に興奮しながら褒め称えてきたこと。
 「とりあえず話そうか」と雪に言われて、塁も大人しく椅子に腰を下ろしたわけなのだが。一体これはなんの時間なんだ?という気分が拭えなかった。

「びっくりしたよねー? 僕、たまにビビッときたものにすぐ飛びつく性分みたいで……」
「言ってる意味が、よくわかんねーんですけど」

 返事をする塁もまだまだ動揺していた。
 とりあえず目の前の先輩は、ビビッときたものに飛びつくらしいと脳内に叩き込むので精一杯。
 塁の抱いている疑問を察した雪が、包み隠さずに話しはじめた。

「僕、横顔フェチなんだ」
「……横……フェ?」

 雪は頬を微かに赤らめて、手元をもじもじと動かしながら恥じらっている。ただ塁には馴染みのない言葉で、まだよくわからなかった。

「想像でデッサンしたりするんだけど、なかなかうまく描けなくて」
「……はあ、で?」
「理想の横顔を求めて早六年……」

 しみじみと自分の歴史を振り返りながら語る雪は、涙が滲んでいるような滲んでいないような。
 逆算すると中学一年から横顔フェチらしい。そんな事実が明かされて、塁がなんとも言えない表情をする。
 何の話を聞かされているのだろうと、心が無になりかけたその時。雪は座っていた椅子を後ろに倒すくらいに勢いよく立ち上がって、塁の顔を両手で掴んだ。

「たった今! 理想の横顔を見つけたんだよ!」

 言いながら、掴んでいた塁の顔をグギッと横向きにする。その乱暴すぎる行動に、塁は危うく首筋を痛めるところだった。

「いきなり何すん――!!」

 キレかかった塁の言葉を遮り、雪が独自の横顔分析をひとつひとつ声に出していく。

「額から眉間にかけての真っ直ぐな線! 富士山のように高く美しい鼻筋と尖った鼻頭! 上下のバランスが絶妙の口唇!」

 雪の息が頬にかかりそうで、今すぐ突き飛ばしてやりたくなる。そんな塁が躊躇してしまう理由は、あまりに雪が横顔を褒めてくるせい。恥ずかしすぎて、塁の体がいうことをきかなくなってしまった。
 全校生徒から恐れられている塁がガチガチに固まっているとも知らず、雪の癖のある分析は続けられる。

「このシャープな顎ライン! からの骨張ったフェイスラインも完璧すぎ! 立派な胸鎖乳突筋に男性的な喉仏も最高!」

 優等生で優しい雰囲気からかけ離れた、多弁で興奮気味の雪が目をギンギンにしている。
 美術的観点であることはわかっていても、ここまで言われるとむず痒くて逃げ出したい。
 そう思っていた塁に、ついに雪が本心を口にした。

「塁くんの横顔を描かせてほしい!」

 横を向かされたままの塁の耳に、雪の願いがダイレクトに入ってくる。
 何言ってんだこいつ。相手は先輩だけど、それが塁の脳裏に浮かんだ最初の言葉だった。
 ただ誰かにこんなに求められたことがなくて、胸の奥で感じたことのない衝撃を受ける。
 昼寝をしたくてやってきた美術室で、こんな展開になるなんて誰が予想できただろう。
 複雑な感情を抱きながら、塁は顔を掴まれている雪の手を払った。
 そして吊り上がった目をさらに鋭く細めて、見下ろしてくる雪に冷たく接する。

「……それ、俺に何かメリットあんの?」

 美術室内にピリッとした空気が流れた。
 別に断固拒否しているわけではないけれど、初めて会った先輩の言うことをホイホイ受け入れる理由もない。
 その返答によっては、すぐにここを立ち去ろう。塁がそう思いながら雪を睨む。
 すると自身の顎に手を添えて、雪は天井を見ながら考えはじめた。

「たしかに、描かせてもらうだけじゃ僕の欲望が満たされるだけだよね〜」
「欲望っていうな」

 背筋をゾワゾワさせて塁が指摘するも、雪は無邪気な笑顔で反論してきた。

「これは紛れもない僕の欲望だよ! 塁くんの美しい横顔を心の底から描きたいって思ってるんだから」
「あーあーやめろ、俺の横顔を美しいとか言うなっ」

 ついに耐え切れなくなって、塁はバレない程度に頬を赤ながら両耳を耳を塞ぐ。
 恥ずかしげもなく、さらっと言ってしまう雪が本当に理解できない。
 だけど自分の気持ちを包み隠さず他人に言えてしまうところは、ほんの少しだけ羨ましいと思った。
 変な異名だけが一人歩きしていても、塁は否定できないまま今日までを過ごしてきたから。
 すると、雪はふと真面目な表情で丁寧に問いかけた。

「じゃあ塁くんは、僕に何かしてほしいことある?」

 塁の眉がぴくりと反応する。出会ったばかりの雪に何かしてほしいことなんて、すぐに出てくるはずがない。
 信用も信頼もしていない他人に、叶えてもらいたい願いなんて。
 しかし雪からは、どうしても塁の横顔を描きたいという意志がひしひしと伝わってくる。

「僕は塁くんの横顔を描きたい。塁くんは……?」

 今度は少し大人びた微笑みで、雪が優しく問いかけてきた。
 塁の回答を聞き出したくて、綺麗な黒目が塁を捉えて逃がさない。

「……だったら、俺にまとわりつく変な異名をなんとかできんの?」

 そこまで言うならやってみろという投げやりな態度で、塁も条件を提示した。ただし絶対にできないような条件。
 塁の異名は、入学当時から広まっていたもの。
 かれこれ一年半もその異名に付き合わされている塁は、今更それを覆すなんて無理だと決めつけていた。

「知ってんだろ? 俺が陰で何言われてるか」
「うん……でも僕はそういうの信じてないけど」
「そんなのどっちでもいい。できんの?」

 塁は威圧的な視線で雪を怯ませ、諦めさせる作戦をとってみた。
 変な異名も、本当は真実なのではと疑ってしまうような目つき。雪を“討ち取る”気で睨んでみる。
 そんな類を前に、雪は怯むどころか楽しみが倍増したような顔をした。そして一方的に塁の手を取ってぶんぶんと振った。

「わかった! 交渉成立だ! 引き受けてくれてありがとう!」

 笑顔の雪は上機嫌のまま、自分が倒してしまった椅子をイーゼル前に設置する。
 そこに腰掛けて、自前のデッサン用の鉛筆を鞄から取り出した。
 早速探し求めていた横顔を描こうと構えるので、塁は慌てて待ったをかける。

「は? まだ結果が出てないのに描かせるかっ」
「え〜口約束じゃダメってこと?」
「描かせた後に逃げられるかもしれねーだろ」
「もう疑り深いな塁くんは。わかったよ」

 ため息を漏らして、雪が目の前の画用紙に書いたのは、絵ではなく文字。
 塁がそれを覗き込むと、見出しとなる箇所に大きな文字で“契約書”と書かれていた。
 さらにその内容も、綺麗な字で箇条書きされている。
 一、丹野雪は、三崎塁の変な異名のイメージを払拭します。
 二、三崎塁は、丹野雪に横顔を描かせることを許可します。

「お、おう……お手並み拝見だな」
「僕、約束は守るタイプだから。見ててよね」

 ささっとクリップを外して、画用紙でできた契約書を塁に渡した。
 そうして満足げな笑みを浮かべる雪に、塁は返す言葉が見つからない。
 どこからそんな自信が溢れているのか見当もつかず、未だ疑いの目をかける。
 けれど、そうまでして雪が自分の横顔に価値を見出しているという事実が、塁の抵抗力を無にしていった。

「……十六時から三者面談なんだよ。それまでだからな!」

 渡された契約書をくるくると丸めて、塁は再度椅子に座り直した。
 その行動をオッケーと捉えた雪が、両手をあげて喜びを表現する。

「やった! ありがとう塁くん!」
(あーもうなんなんだよこの先輩……)

 今までに接したことのないタイプと絡み方に、調子を狂わされっぱなしの塁が髪をくしゃっと掴む。
 ただ、雪の喜ぶ姿を見るのは不思議と悪い気はしない。
 だから尚更厄介だと、塁は思っていた。






 現在、午後の十五時を回った。
 四階の音楽室から、アルトサックスを練習する音が微かに聞こえてくる。グラウンドでは、サッカー部がランニングしながら声を掛け合っていた。
 塁の三者面談の開始時刻まで、あと一時間という頃。

「塁くん! 顔が下向いてきたよ、まっすぐまっすぐ!」
(うるせぇぇぇぇ)
「口角も下がった! 上げて上げて!」
(うぜぇぇぇぇ)

 イーゼルの向こう側からひょっこり顔を出した雪が、塁を何度も注意した。
 横顔のモデルをしている最中の塁は、椅子に座り前方を見据えたまま動いてはいけない。同じ姿勢を続けている塁の表情が、苦痛により歪んできた。

「……顔に似合わず、遠慮ねぇな」
「そういう塁くんこそ、意外と忍耐弱いんだね」

 雪のおとなしそうな顔立ちからは想像もできないスパルタ指導に、塁が愚痴をこぼす。そして雪も負けじと辛辣な言葉を放ち、にこりと微笑む。
 悔しさと苛立ちから、塁のこめかみに血管が浮かび眉間には自然と縦線が刻まれた。

「ああ! も〜美しい横顔が台無しだよ〜」

 美しさを保っていない塁の横顔に、雪の文句は止まらない。塁の心情や体の負担より、美しい横顔維持が最優先らしい。
 それを知って、ついに鬱憤が溜まった塁は芸人ばりのツッコミをお見舞いする。

「誰のせいだよ!」
「あはは! 塁くんの顔鬼みたい、ウケる」

 塁と対等に会話する雪が、面白おかしく笑い声を上げた。姿勢の維持に加えて雪との会話にも疲れてきた塁は、大きなため息しか出ない。
 早く描き終われ。そして早く美術室を出たい。
 塁が思っていたとき、不意に記憶を辿りながら雪が話しはじめた。

「……噂では知っていたよ。うちみたいな真面目な高校に“ヤンキーが入学してきた”ってね」

 一年前の春、塁がこの学校の新一年生として入学してきた。当時高校二年生だった雪は、校内がざわついた様子を塁に教える。
 入学したての一年生が髪を染めて登校していたら、それは目立つに決まっている。それでも好きなのだから仕方ないと割り切って、二年生の今までこのスタイルを貫いてきた塁。
 そんな後輩のことを、雪は毛嫌いすることも責めることもなく。ただ笑顔で楽しそうに語る。

「美術室って二年の教室と同じ階にあるでしょ? だから昼休みや放課後に、塁くんの後ろ姿をよく見かけていたんだ」

 画用紙の上で鉛筆を滑らせる雪が、懐かしむように囁く。先ほどのふざけた会話が嘘のように、穏やかな雰囲気が周囲に漂った。
 塁の疲れがふっと消え去ってしまうほどの、ゆったりとした時間。
 そう思っていたら――。

「もっと早くに塁くんの素晴らしい横顔に気づけていたら、クラスまでスカウトに行っていたのにな〜」
「絶対やめろ」

 急に悔しそうに本音を漏らす雪に、塁は眉をひそめて心底嫌そうな顔をした。
 まともに相手していても、やはり疲れるだけ。だからこちらも本音でぶつかっていこうと塁は決めた。

「……ほんと変わってんな、“雪先輩”は」

 慣れない様子で、わざと強調するように“雪先輩”と初めて呼んでみた。
 それが予想外すぎた雪は、虚をつかれたような顔をイーゼルからゆっくりと出す。
 ちゃんと言いつけを守って横顔をキープしたままの塁の視線は、どこか寂しげに窓を向いていた。

「誰も俺と関わろうとしねーのに。あんただけだよ、こんなに絡んでくんの」
「そうなの? 塁くん、別に怖い人じゃないのにね?」

 塁を“怖い人”だという人の気持ちが理解できない雪が、首を傾げて考えている。そんな雪にも素直に疑問を抱く塁が、あえて尋ねた。

「今日初めて会話したのに、なんでそんな断言できんの」

 塁の異名を知っていたのなら、多少は怖いイメージを持っていたに違いない。そう思っている塁が、適当なことを言い続ける雪に冷たい視線を送った。
 確かに見た目は怖いかもしれない。けれど雪には自分で導き出した答えがあった。

「だって、僕に横顔描かせてくれてるじゃん」
「っ……!」
「だから塁くんは、とても優しい人だよ」

 その言葉を最後に、雪は再び視線を戻して塁の横顔を描くことに集中した。
 しかし塁の胸中は今、とてつもない照れに支配され集中力が欠けている。それを雪に悟られるわけにはいかない塁は、歯を食いしばって耐え凌いだ。
 そうして穏やかで静かな時間が流れる中、徐々に落ち着きを取り戻していく。
 ひだまりの美術室に、鉛筆の芯が紙を擦る音だけが響き。それを心地良いと感じた(るい)は、胸がじんわりと温まっていくのを覚えた。

(鉛筆の音、嫌いだったのにな……)

 幼少の頃から、教育熱心な母に付き合わされてきた。学習机に向かい何時間も勉強させられて、いつしかノートに書き込む鉛筆の音が嫌いになった。
 塁に中学受験の道を用意した母は、成績にうるさく塾や家庭教師もつける。
 ついに母から逃げ出したくなった塁は、受験日の会場に姿を現さなかった。

(あれからだ。あの人が俺に興味持たなくなったのは)

 塁は結局、学区内の中学校、そして県立の高校へと進学した。
 母の期待を裏切り呪縛から解放された結果、唯一の親である母に見放されている。あれほどうるさかった成績や勉強についても、今はもう知ろうともしない。
 だから今日の三者面談、おそらく母は来ないと予想している。

「――塁くん?」

 呼ばれてハッと意識を戻すと、デッサンしていたはずの雪が塁の隣に立っていた。
 陽の光を背にして、椅子に腰掛ける塁を心配そうに見つめてくる。

「っ……なに」
「いや、なんか悲しそうな横顔に見えたから」

 塁の心情を横顔から読み取った雪が、そう声をかけた。
 自分がそんな顔をしていたなんて自覚がなかった塁は、もちろんすぐに否定する。

「なんでもねぇよ。それよりデッサンはもう終わったのか」
「うん。仕上げはまだだけど――」
「じゃあもう付き合う必要はねぇよな」

 ガタッと椅子の音を鳴らして立ち上がった塁は、同じ姿勢で居続けていた体をほぐす。
 腕を回し首を左右に倒していると、雪は冷静な声で一言。

「あと十秒で十六時になるよ」
「へぇ…………はあ⁉︎」

 もうそんなに時間が経っていたのかと驚いた塁が、つい大声を上げてしまう。
 それよりも、三者面談の開始時刻まで残り十秒というタイミングで、雪が冷静だったことにも腹が立った。
 そうしている今も時間は経過する。時間を過ぎれば、柴にまた何を言われるかわからない。
 塁は自分の鞄を乱暴に掴み、雪が描いた絵も確認しないまま美術室を飛び出していった。

「あらら」

 廊下を走る足音が遠ざかっていく中、雪は他人事のような顔で塁の背中を見送った。そうして、ゆっくりとイーゼル前の椅子に腰掛ける。
 そっと視線をあげて、手がけていた塁の横顔のデッサンを眺めていた。
 まだ完成していないそれは、もう少し立体感を出すために描き込む作業を残す。ただ、塁と交わした契約を果たすため、雪は突如妙案を思いつき一人で感心する。

「僕、天才かも。そうと決まればここをこうして……」

 何やら塁の横顔に追加で描きはじめた雪は、楽しそうに鉛筆を滑らせていく。
 一体どんな絵が完成するのか。今ごろ三者面談中の塁には、想像するのも難しい。





 *


 三者面談を終えた塁は、本日予定していた全面談をクリアした柴とともに教室を出た。
 塁は帰宅のため、そして柴は職員室に向かうため、二人並んで階段を降りる。
 その空気はどこか気まずさが漂っていた。

「三崎。今日の面談内容は、急遽来られなくなった親御さんにも伝えておくように」

 結局、塁の母は三者面談に姿を現さなかった。予想的中の塁は全く驚きもせず、面倒そうな顔を柴に向ける。

「そんな顔をするな。三崎のお母さん、お店経営されていて忙しい方だから」
「だったら初めから三者面談に“出席する”なんて言わなきゃいいだろ」

 ドタキャンするくらいなら、初めから欠席すると言って欲しかったのが塁の本音だ。
 一人息子の面談すらもまともに出席できない。まるで、中学受験から逃げた塁への、当てつけのような気がしてならなかった。

「まあ、三崎は成績だけは優秀だから親御さんも安心してるんだろうな」

 そんなフォローを口にして、慰めるように塁の肩を叩く。
 ただし、塁は聞き逃さなかった。

「成績“だけ”は余計」
「あとは校内の風紀を乱す格好を直してくれたらな〜」

 イエローブラウンの髪とピアスに視線を向けながら、柴が呆れたようにため息を漏らす。
 と言いつつ、指導室に呼んで説教するようなことはしない柴に、塁は少なからず感謝していた。
 だから、今回の母のドタキャンは柴の期待を裏切ったと考えて代わりに謝る。

「柴ちゃん、なんかごめんな」
「それは三崎が、面談に十秒遅刻したことへの謝罪か?」
「は? ちが――」

 雪のデッサンに付き合わされていた塁が、美術室を退室して面談に向かった。
 同じ階にある自分の教室まで全力疾走したものの、十秒遅れてしまった話を蒸し返される。
 柴の意地悪さが見えたような気がして、塁がギラっと睨んだ。
 すると柴は笑いながら寛容な対応をする。

「だったら謝るな。三崎も親御さんも悪くないんだから」
「……柴ちゃん」
「柴先生な?」

 塁は感動の眼差しを向けるが、柴は寛容な対応から一転して笑顔が引き攣った。
 いいかげん“先生”をつけろというオーラを放つ。
 それを「はいはい」と雑に返事した塁は、職員室のある二階で柴と別れた。

(あー早く帰りたい……)

 三者面談という面倒な予定を終え、塁の足取りは軽くなる。
 階段を降りて昇降口に差し掛かったとき、姿は見えないが一年生用の昇降口から会話が聞こえてきた。
 おそらく面談を終えた女子生徒と母親。「もっと勉強しなさいね」と言われた女子生徒が「数学苦手なんだもん」と答えている。
 上履きからスニーカーに履き替える塁が、その会話を耳にして考える。
 今更、羨ましいなんて感情は湧かない。ただ、これが普通の親子の会話なのだとしたら、塁と母の親子関係はとっくに破綻している。

(まあ、別に困らないからこのまま放置でいいけど)

 塁は校舎を出て、そんなことを夕景の空に祈った。
 そこでようやく大事なことを思い出す。

「あ、雪先輩ほったらかしだった」

 ハッとして振り向き、夕日を浴びた校舎を見る。
 美術室のある三階まで視線を動かしたが、雪の姿が窓に映る気配はない。
 かといって、もう校舎を出てしまったから、美術室には戻りたくない。
 塁は鞄の中から、筒状に丸められた契約書を取り出した。
 その中身を思い浮かべて、小さなため息をつく。

「……ま、いっか」

 どうせ明日も授業はあって、午前授業で下校する。
 美術部の活動があるかはわからないけれど、雪を捕まえる機会はある。
 すでに横顔を描かせている。だから今度は雪が、“三崎塁の変な異名のイメージを払拭します”の契約通りに働くのみだ。
 あまり期待はしていない塁は、そのまま帰路についた。


 *


 翌日。夏の朝日がすでにギラギラしていた。
 普段通りの時間に登校した塁が校門をくぐる。額には汗を滲ませ、機嫌もそれほど良くはなかった。
 その理由は昨夜帰宅した塁の母から、謝罪の言葉がなかったから。
 三者面談をドタキャンしておいて平然と寝支度をはじめる母に、塁は腹を立てていた。
 本日も無意識に放つ、塁の近づくなオーラが凄まじい。登校中の生徒は内心ヒヤヒヤしていた。
 目を合わせたら討ち取られると思い込んでいるので、塁を避けるように後者へと避難する。

(ほら、まだイメージは払拭されていない)

 契約はまだ達成されていないことを知り、塁が勝ち誇った気持ちを抱く。
 昨日の雪は、自信満々に塁との交渉を受け入れ契約書も用意した。
 それでも現在進行形で、塁のイメージは今までとなんら変わっていない。

(今日の下校時間にでも、雪先輩が“できませんでした”と謝りにくるかもな)

 そんな予想をしながら、塁が上履きに履き替える。
 昇降口を抜けたとき、その先に設置された掲示板に人だかりができていた。
 部活動の勧誘ビラや、吹奏楽部の定期演奏会の案内ポスターが貼られている。
 普段はそれらを素通りする生徒たちが、掲示板を見ようと集まっていた。
 塁が少し不審に思いつつも、教室に向かおうと階段に向かう。すると掲示板を見終えた二人組の女子生徒が、塁の存在に気づいた。

「三崎先輩っ」
「……っ⁉︎」

 後輩に声をかけられるなんて今まで一度もなかった塁が、見知らぬ後輩に初めて名前を呼ばれた。
 あまりに突然の出来事で、吊り上がった目を全開にして驚きを隠せずにいる。
 すると二人組の女子生徒は少し照れながら、甘ったるい声で朝の挨拶してきた。

「お、おはようございます」
「??」
「私たちも好きですよ、アレ」
(アレ? アレってなんだ??)

 アレが何か見当もつかない塁は、混乱して返事ができなかった。
 まるで仲間を見るような目で見てくる二人組の女子生徒は、キャッキャと楽しげに立ち去っていく。
 それを皮切りに他の生徒たちも、目が合ったら討ち取られるはずの塁をじろじろ見てきた。
 明らかに何かがおかしい。塁はその原因が掲示板にあると思い、恐る恐る近づいていく。
 群がっていた生徒たちの隙間を縫い、掲示板の一部が見えた。

「……んだよ、これ……!」

 塁は愕然として目が離せなくなる。
 掲示板には、四つ切サイズの画用紙が貼られていた。
 まるで白黒写真と見間違えてしまうほどに完成度の高い、塁の横顔が描かれている。
 この瞬間、塁は雪の才能を初めて知る。しかし、なぜこんな目立つところに絵が貼られているのか。
 塁が疑問に思ったとき、群がる生徒がはけて絵の全体図を見ることができた。

(……は⁉︎)

 そこでようやく、二人組の女子生徒が言っていた“アレ”の意味を塁は理解する。
 頭の中で何かがプツンと切れた音を感じた。同時に、塁は勢いよく掲示板へと突進して、貼られていた絵をべりっと剥がした。

「…………おのれ、丹野雪」

 絞り出すような声で呟いた塁の背中は、殺気に満ちていた。それを察した周囲の生徒たちはびくりと体を震わせる。
 そして絵を片手に持ったまま、塁は脇目も振らずに駆け出した。
 ほんの一瞬の出来事に、群がっていた生徒たちは唖然とする。
 そんな中で聞こえてきたのは――。

「三崎くんって、見かけによらず可愛いところあるんだね」
「本当だね。イメージ変わったかも」
「私も!」

 塁と同じクラスの女子生徒たちが、そんな会話をしながら盛り上がっていた。
 また別の三年の男子生徒たちは、塁の最後のセリフを聞いて雪を心配する。

「やっぱり今の絵って丹野が描いたんだ。もしかして丹野、討ち取られる……?」
「丹野が無事だったら、三崎塁の異名は消滅するだろうな」

 この一件が拡散され、生徒たちの間で塁の怖いイメージがじわじわと覆されていった。
 そうとは知らない塁は、息を切らしながら必死に階段を駆け上っていく。この絵を描いた張本人に会うために。






 バァン!と大きな音と共に、美術室の扉が開け放たれた。
 施錠されていないことがわかって、雪がいると確信して顔を上げる。

「あ、おっはよ〜塁くん」

 お目当ての雪はやはり美術室にいた。昨日に変わらず満面の笑みで塁を迎える。
 その雪に向かって、塁はズカズカと乱暴な足音を立てて一気に近づく。そして目の前に例の絵をバっと開いて見せた。

「なんだこの絵は!」
「何って、昨日僕が描いた最高傑作! 朝イチで掲示板に貼っといた」

 塁の圧にも動じない雪が明るく答える。
 そこには間違いなく、雪に描かれた塁の横顔があった。
 しかし、ただの横顔ではなくて――。

「なんで! いちごオレを! 飲んでんだよ!」

 塁は眉根を寄せて頬を真っ赤にしながら、単語ひとつひとつを強調して叫ぶ。
 挿し込まれたストローに唇を寄せて、カッコつけた表情で紙パックのいちごオレを飲んでいる横顔だった。
 校内の自販機で買えるいちごオレは、パッケージがいかにもラブリーなピンク色。甘くて美味しく女子生徒にも人気。
 そんな可愛いイメージの飲み物を、塁のようなヤンキーが飲んでいるという不可解な絵に仕上がっていた。

「塁くんの怖いイメージを覆すには、これかなって思って!」
「はあ⁉︎」
「好きでしょ? いちごオレ」

 なんの問題もないという瞳で、含み笑いを続ける雪が腹立たしい。
 ただ、塁にはこのいちごオレに心当たりがあった。

「……まさか、見たな」
「ん?」
「だから、俺がいつも昼休みに隠れて飲んでんの、見たんだろ!」

 耐え難い恥辱に体を震わせながら、塁が雪を責め立てる。
 男が、ましてやヤンキーに間違われるような見た目の自分が、いちごオレを好んで飲んでいる。
 それは塁にとってとても恥ずかしいことで、隠したい事実だった。
 すると雪は静かに首を振る。

「塁くんを見掛けていたのは、いつも後ろ姿だけだったよ」
「だったら、なんで……」
「だけど、昼休みにコソコソと非常階段に向かうとき――」

 言いながら、雪の脳内で当時の記憶が再生される。
 昼休みになると、一人で非常階段へと向かう塁を雪は知っていた。
 その手には昼食用の菓子パンと、自販機で買ったであろう紙パックのいちごオレ。
 実際に飲んでいる姿は見たことがない。けれど、その後ろ姿を毎回見ていた雪は、随分前から確信していた。
 ビシッと塁の顔を指差して、自身満々に言い放つ。

「塁くんはいちごオレ好き好きマンだと知ってしまったんだ!」
「…………何言ってんだ」

 ふざけているのか真面目なのか。分かりにくい雰囲気で話す雪に、塁の羞恥心も憤りも呆れに変わっていった。

「甘いもの好きに悪い人はいないよ! 塁くんのそんな一面をみんなが知ったら、変わると思ったんだ」

 根拠のない持論はさておき、塁との契約を果たすためにしたこと。
 得意げに説明する雪に、塁が大きなため息をついて頭を抱えた。

「……俺は、隠しておきたかったんだよ!」
「なんで?」
「揶揄われるだろ、男がこんなもん飲んでたら――」
「僕は好きだよ」

 必死に隠したい理由を述べる塁に構うことなく、雪はセリフを被せてきた。
 「好きだよ」の言葉が不思議と鮮明に耳に届いて、塁の口も表情も一瞬にして固まる。
 同時に、心臓がドクンと大きな音を鳴らし雪の言葉に反応した。

「男も女も関係ない。髪を染める塁くんも、いちごオレ好きな塁くんも、僕は好きだよ」
「な……」
「だから好きなものを否定しないで。隠さなくていい、そのままの塁くんをもっとみんなに知ってもらおうよ」

 真っ直ぐに塁だけを見つめ、真っ直ぐな言葉を塁だけに伝える。
 どういうつもりで“好き”という言葉を使っているのか、塁は頭の中ではわかっていた。
 犬好き、ラーメン好き、旅行好きの感覚。決してラブではないのに、雪の視線がほのかに熱を帯びているように感じた。
 そんな勘違いはしてはいけないと言い聞かせて、塁は雪から視線を外す。
 変に意識すると心臓の鼓動がさらに速くなりそう。こんな経験は初めてだった塁が、小さなパニックを起こしかけたとき。
 雪はいつもの調子に戻って、明るく締めくくった。

「ま、一番好きなのは塁くんの横顔だけどね!」
「…………あ、っそ」

 どうせ俺はデッサンの対象物ですよ。という気持ちで、塁が口先を尖らせる。
 複雑な感情の中にある、ほんの少しだけ抱いた残念な気持ち。
 それをあえて気づかないようにして、塁は髪をくしゃっとした。


 *


 もうすぐ朝のSHRが始まる時刻。美術室を出た直後の雪が、ふと塁に声をかける。

「これをきっかけに、塁くんと仲良くしたいって人も増えるかもね」
「……すでに何人かに声かけられた」
「え、すごいじゃん! 僕の戦略通りだ!」

 早速効果が表れていると知って、雪が自画自賛しながら喜んでいる。
 その姿が、一つ上の先輩とは思えないほどはしゃいでいて、塁の口角が少し緩んだ。
 塁はこのまま真っ直ぐ廊下を進み、二年生の教室に。雪は二階の三年生の教室に向かうため、階段を降りる。
 その別れ際に、雪が意味深なことを口にした。

「じゃ、また今日の放課後よろしくね」
「……は? いや、横顔のモデルは昨日で終わっただろ」
「ふふふ甘いな塁くん、いちごオレより甘いよ。契約書を見てごらん」

 ニヤリと笑みを浮かべる雪に腹を立てながら、塁は鞄から契約書を取り出した。
 雪の希望も叶えたし、塁の怖いイメージを払拭するという約束も、現在進行形で効果が表れていくだろう。
 これにて契約書はお役御免のはずだった。

「僕は“一度だけ”なんて一言も言ってないよ?」
「……それって」

 嫌な予感がして塁は眉を引き攣らせる。確かに、この契約の明確な期限は記載されていないし、決めてもいない。

「そう! だから今日の放課後も美術室で待ってるからね〜!」

 必ず来るんだよ〜と付け加えて、階段を降りていく雪の姿があっという間に見えなくなった。
 その場に呆然と立ち尽くす塁は、絶望感と少しの胸の高鳴りを覚えはじめる。
 この混ざり合うことのない思いを抱えながら、ポツリと呟いた。

「騙された……」

 なのに、塁はそれほど嫌な顔はしていない。
 契約書は再び鞄の中に収め、ため息をつきながら自分の教室へと向かった。
 放課後が待ち遠しいなんて気持ちも、そっと知らないふりをして。




 fin.




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