「篠さん、ありがとうね」

 リビングにもどって言うと、篠さんは目をまたたいた。

「なに急に」
「グラタン、最高でした」
「そんな何度も言わなくていいって。普通のグラタンだよ」

 篠さんがわたしから目をそらす。照れているみたいだ。もっと褒めちぎってやろうかと思ったけど、言い過ぎてもうざがられそうだし、やめておこう。

「さあて、わたしもお酒飲もうかなあ」

 缶チューハイを一本冷蔵庫から出して、ついでにポテトチップスもひと袋持っていく。コンソメ味だ。

「篠さんも食べる?」
「食べる。あ、でもしょっぱいもの食べると、甘いのも食べたくなるんだよね」

 そんなことを言って、篠さんは棚からチョコレートを持ってきた。アーモンド入りのチョコだ。いいね、好きだよ。

 ふたりでチューハイ片手にお菓子を食べる。わたしは缶からそのまま、篠さんはグラスに移して優雅に。

 さわやかな液体がのどを流れていく。レモンの香りが強くて、目が覚める心地だった。思わず「あ~っ」とため息がこぼれる。テレビのCMとかでよく見るリアクションだけど、実際やっちゃうんだよなあ。

 仕事が終わって飲むお酒は格別だ。これは学生のときには味わえないものだと思う。その点は、社会人って立場も悪くない。

「おいし~っ!」
「グラタンよりおいしそうな反応するじゃん」
「え、そんなことないよ」
「どうだか」

 篠さんは意地悪く笑いながら、なあ、と鳴くくろさんを抱き上げた。テーブルに顔を出すくろさんは、お菓子に興味があるのか黒い手をちょいちょいと伸ばしてくる。

「くろさんはだめ。猫には毒ですよ」

 ぴたっと、もぐらたたきするみたいに、わたしはくろさんの手を押さえつける。恨めしそうな顔をしても、これはあげられません。物ほしそうに鳴いてもだめです。

「ポテチ久しぶりに食べたなあ」

 にらみ合うわたしとくろさんをよそに、篠さんはポテチをぱりぱりと食べて言った。わたしは目をまたたく。
「え、うそ」
「ほんと。油がだめなのか、食べるとにきびできるんだよね」
「篠さんって、けっこう繊細だね」

 ポテチ、おいしいのに。わたしは週に一回はポテチとお酒のセットがないとやっていられない。これが至福のひとときだ。

「今日は食べていいの?」
「うーん、まあ、たまにはいいでしょ。自分へのごほうびに」
「篠さんは今日休みじゃん。なにに対するごほうび?」
「今日も一日を生きたこと」

 篠さんはグラスを掲げて、けらけらと笑った。

「なるほど、それは大切だね」

 わたしも笑い返して、缶を掲げる。なんとなく、ふたりでグラスと缶を合わせた。もうわたしの缶の中身は半分くらい減っていたから、遅い乾杯だ。でもまあ、いいよね、そういうのも。

 ただよう空気はふわりと軽くて、やわらかい。ぼんやりとした酔いが、わたしの意識を少しずつ溶かしていく。もうひとくち、お酒を飲んだ。さわやかさと、アルコールの苦みが鼻に抜けていった。酸いも甘いも、さわやかさも苦みも、いろいろあっていいんだと思う。

「お酒っていいよねえ」
「のんべえめ」

 篠さんは笑って頬杖をついた。そんな篠さんの顔も、だんだんとぼやけていく。

 いつまでもしゃべっているわたしたちに呆れたのか、やがて、くろさんはクッションの上に移動して丸くなった。

 お菓子をすべて食べ終わるころには、わたしたちの会話もぽつぽつと途切れがちになっていく。身体があたたかくて、すぐに眠りにつけそうな心地よさに包まれていた。

 今日はいい夢が見られそう。

 まぶたを閉じた。

「そろそろ寝る?」
「そうだね」

 のろのろと立ち上がり、洗面所で篠さんとめずらしく並んで歯を磨き、それぞれの部屋に入った。くろさんは一足早くリビングで眠っているみたいだった。

 やわらかなベッドに倒れこむ。

 明日は休み。グラタンのお礼に、篠さんの夜ごはんをつくらないと。なににしようかな。あたたかいものがいい。お腹をぽかぽかにして、幸せな気分にしてくれるものをつくりたい。

 そう考えているうちに、わたしは、すうっと眠りに落ちていた。