「独り身なんだから残業してよ、みたいな。ミキの部署、子持ち主婦と新婚さんがいるんでしょ? そのひとたちに、なんか言われた?」
そこでやっと理解して、あわてて首をふる。
「ちがうちがう! ふたりはそんなこと言わないよ!」
「あ、そうなの」
「うん。いいひとたちだもん。いまのは、ただ」
「ただ?」
「……自分で、そう思っただけ」
苦笑して言うと、今度は篠さんが首をかしげた。酔っているからか、けっこう角度がついている。首を痛めちゃいそう。
「独り身だから、わたしが残業しますよー、とか言ってきたってこと?」
「そう」
「なんでそんなこと」
「だって、ふたりのほうが忙しいだろうし、家に帰らなきゃいけない理由があるだろうなって思ったから。だから今日、ひとりで居残りしてきたんだよ」
「ばっかだねえ、ミキは」
唐突に笑い飛ばされてしまった。
「自分で自分追い詰めてどうすんのさ」
その声は、わたしをばかにするようなものじゃなかった。あまりにもさっぱりとしていて、なんだかわたしも笑えてきた。
「ほんとだね。ばかだったよ」
突然笑い出したわたしたちを、くろさんが不思議そうに見上げた。人間にはいろいろあるんですよ。小難しいことを考えてしまう、ばかな生き物なので。ほほ笑むと、くろさんがちょん、と鼻先をわたしの鼻にあててきた。よくわからんが笑っている暇があるなら愛でろ、ってところかもしれない。
わたしはまた黒猫の毛並みをなでるご奉仕にもどった。
野上係長と佐川くんが、早く家に帰らなきゃいけないのは間違いないと思う。だけど、わたしが自分を安売りしなきゃいけない必要性なんてどこにもないはずだ。ふたりに比べてわたしは楽な生活だから、なんて引け目を感じる必要も、きっとない。
わたしは、たくさん頑張っているんだから。
今度残業が発生したら、わたしも帰りたいって言い切ってしまおうかな。業務が回らなくなったら困るけど、意思表示することくらいは許されるはずだ。あのふたりとなら、どうにか全員が早く帰れるように一緒に考えることだってできるはずだし。
なんなら今日、ふたりともわたしに残業をさせて申し訳なさそうな顔をしていた。わたしひとりで抱え込むより、相談したほうがふたりも気が楽かもしれない。
うん、そうしよう。それがいい。
わたしは五分ほど経ってからくろさんを床におろすと、立ち上がった。
「お風呂入ってくるね」
「いってらー」
くろさんも満足してくれたみたいで、おとなしくクッションの上で丸くなった。最後にもうひとなでしてから、お風呂に向かう。
あつあつのシャワーを浴びると、身体に抱えていたものが全部流れ出していくような気がして、ほうっと息がこぼれた。心地よさに包まれる。お風呂って面倒だけど、やっぱり気持ちがいい。
身体を洗いながら、ぽっこりふくらんだお腹に手を当てた。満腹って言葉のとおりのふくらみで、つい笑ってしまう。今日はよく食べた。ぽんぽん、とたたくと、なんだか自分がかわいく思えてくる。狸のマスコットみたい。でもこのお腹は、ひとには見せられないなあ。
お風呂から上がると、篠さんはまだリビングにいた。
「ミキ、もう一本お酒ちょうだい」
「いいよー」
あとでわたしも飲もう。風呂上がりの冷たいお酒は大好きだ。
そう思いながら自分の部屋にもどって、化粧水導入液、化粧水、乳液、美容クリーム……と、肌に塗りたくっていく。本当にこの時間が面倒くさい。でも手入れをしないと後悔するのは自分だし、仕方がない。
顔が終わったらつぎはボディクリームの出番。乾燥する季節がやってくるから、念入りに保湿しないとかゆくなってしまう。ああ、面倒くさいなあ。
「うっ、届かん……」
背中がいつもかゆくなるのに、なかなか指先が届いてくれない。柔軟性がほしいなあ、と毎年思う。
四苦八苦しながら自分のケアを終わらせると、脱衣所に行って洗濯機を回した。ひとり分の服だと二日に一回くらいのペースがちょうどいい。今日がその洗濯の日だった。
がたごと洗濯機が働いているうちに、ドライヤーで髪を乾かす。夏の間は暑くて嫌になる作業だ。秋冬はちょっと楽になるのが救いかも。
よし、できた。
また部屋にもどって通勤鞄から水筒を出す。キッチンに向かい、夜ご飯の食器と一緒に洗っていく。グラタン皿にこびりついたチーズをごしごしスポンジでこすっていると、洗濯機が鳴った。
はいはい。いま行きますよ。
水切りかごにお皿を入れて、脱衣所へ。蓋を開けて重たい洗濯物を取り出し、自分の部屋の物干しラックに干していく。最後の一着をかけたところで自然と、はあああ、とため息が落ちた。
家事終了。お疲れさまでした。
腰に手を当てて、自分をほめてあげる。今日もよく頑張りました。
それにしても、篠さんのグラタン、おいしかったな。お腹の中でグラタンをエネルギーに変えようとしているのか、ぐるぐる、と小さな音が鳴った。ちょっとはずかしい。
今日は篠さんに助けられた。
わたしと篠さんは同居をしているけど、家族じゃないし恋人でもない。でもそんなわたしたちでも助け合うことはできる。つかずはなれずの関係が、なんだか心地よかった。
胸がじわりとあたたかくなってくる。
そこでやっと理解して、あわてて首をふる。
「ちがうちがう! ふたりはそんなこと言わないよ!」
「あ、そうなの」
「うん。いいひとたちだもん。いまのは、ただ」
「ただ?」
「……自分で、そう思っただけ」
苦笑して言うと、今度は篠さんが首をかしげた。酔っているからか、けっこう角度がついている。首を痛めちゃいそう。
「独り身だから、わたしが残業しますよー、とか言ってきたってこと?」
「そう」
「なんでそんなこと」
「だって、ふたりのほうが忙しいだろうし、家に帰らなきゃいけない理由があるだろうなって思ったから。だから今日、ひとりで居残りしてきたんだよ」
「ばっかだねえ、ミキは」
唐突に笑い飛ばされてしまった。
「自分で自分追い詰めてどうすんのさ」
その声は、わたしをばかにするようなものじゃなかった。あまりにもさっぱりとしていて、なんだかわたしも笑えてきた。
「ほんとだね。ばかだったよ」
突然笑い出したわたしたちを、くろさんが不思議そうに見上げた。人間にはいろいろあるんですよ。小難しいことを考えてしまう、ばかな生き物なので。ほほ笑むと、くろさんがちょん、と鼻先をわたしの鼻にあててきた。よくわからんが笑っている暇があるなら愛でろ、ってところかもしれない。
わたしはまた黒猫の毛並みをなでるご奉仕にもどった。
野上係長と佐川くんが、早く家に帰らなきゃいけないのは間違いないと思う。だけど、わたしが自分を安売りしなきゃいけない必要性なんてどこにもないはずだ。ふたりに比べてわたしは楽な生活だから、なんて引け目を感じる必要も、きっとない。
わたしは、たくさん頑張っているんだから。
今度残業が発生したら、わたしも帰りたいって言い切ってしまおうかな。業務が回らなくなったら困るけど、意思表示することくらいは許されるはずだ。あのふたりとなら、どうにか全員が早く帰れるように一緒に考えることだってできるはずだし。
なんなら今日、ふたりともわたしに残業をさせて申し訳なさそうな顔をしていた。わたしひとりで抱え込むより、相談したほうがふたりも気が楽かもしれない。
うん、そうしよう。それがいい。
わたしは五分ほど経ってからくろさんを床におろすと、立ち上がった。
「お風呂入ってくるね」
「いってらー」
くろさんも満足してくれたみたいで、おとなしくクッションの上で丸くなった。最後にもうひとなでしてから、お風呂に向かう。
あつあつのシャワーを浴びると、身体に抱えていたものが全部流れ出していくような気がして、ほうっと息がこぼれた。心地よさに包まれる。お風呂って面倒だけど、やっぱり気持ちがいい。
身体を洗いながら、ぽっこりふくらんだお腹に手を当てた。満腹って言葉のとおりのふくらみで、つい笑ってしまう。今日はよく食べた。ぽんぽん、とたたくと、なんだか自分がかわいく思えてくる。狸のマスコットみたい。でもこのお腹は、ひとには見せられないなあ。
お風呂から上がると、篠さんはまだリビングにいた。
「ミキ、もう一本お酒ちょうだい」
「いいよー」
あとでわたしも飲もう。風呂上がりの冷たいお酒は大好きだ。
そう思いながら自分の部屋にもどって、化粧水導入液、化粧水、乳液、美容クリーム……と、肌に塗りたくっていく。本当にこの時間が面倒くさい。でも手入れをしないと後悔するのは自分だし、仕方がない。
顔が終わったらつぎはボディクリームの出番。乾燥する季節がやってくるから、念入りに保湿しないとかゆくなってしまう。ああ、面倒くさいなあ。
「うっ、届かん……」
背中がいつもかゆくなるのに、なかなか指先が届いてくれない。柔軟性がほしいなあ、と毎年思う。
四苦八苦しながら自分のケアを終わらせると、脱衣所に行って洗濯機を回した。ひとり分の服だと二日に一回くらいのペースがちょうどいい。今日がその洗濯の日だった。
がたごと洗濯機が働いているうちに、ドライヤーで髪を乾かす。夏の間は暑くて嫌になる作業だ。秋冬はちょっと楽になるのが救いかも。
よし、できた。
また部屋にもどって通勤鞄から水筒を出す。キッチンに向かい、夜ご飯の食器と一緒に洗っていく。グラタン皿にこびりついたチーズをごしごしスポンジでこすっていると、洗濯機が鳴った。
はいはい。いま行きますよ。
水切りかごにお皿を入れて、脱衣所へ。蓋を開けて重たい洗濯物を取り出し、自分の部屋の物干しラックに干していく。最後の一着をかけたところで自然と、はあああ、とため息が落ちた。
家事終了。お疲れさまでした。
腰に手を当てて、自分をほめてあげる。今日もよく頑張りました。
それにしても、篠さんのグラタン、おいしかったな。お腹の中でグラタンをエネルギーに変えようとしているのか、ぐるぐる、と小さな音が鳴った。ちょっとはずかしい。
今日は篠さんに助けられた。
わたしと篠さんは同居をしているけど、家族じゃないし恋人でもない。でもそんなわたしたちでも助け合うことはできる。つかずはなれずの関係が、なんだか心地よかった。
胸がじわりとあたたかくなってくる。