食器を出す音がしたとたん、わたしの電池残量がちょっとだけ復活した。篠さんに手間をかけさせるわけにはいかない。でも、慌てて立ち上がろうとすると、くろさんが低い声で鳴いてわたしを止めた。人間は黙って猫さまのカーペットになっていなさい、と言いたげな声だった。

「く、くろさん。ごめん、ちょっと空気を読んでもらいたく……」
「読んでるでしょ、くろは。今日のあんた、ちょっとおかしいからそこで寝てな」
「おかしい?」
「そう、おかしい」

 おかしい、のか。そうか……。

 だったら仕方がない。わたしはそのままの姿勢で待つことにした。篠さんがご飯を用意してくれる音だけがする空間で寝転んでいるのは、申し訳ないのと同時に、なんだか心地がいい気もした。実家みたいだ。お母さんが家事をしてくれる横で、わたしはいつも寝転んでいた。

 ちょっとくらい、お母さんの手伝いもしたらよかったかなあ。

 ……いや、どうかな。いまもたまに実家に帰ると、お母さんは張り切って料理をつくってくれる。「大量のご飯をつくるのは久しぶりだわ」なんて笑ってるんだ。いつまでたっても子どもの世話を焼くのが好きらしいから、わたしはおとなしくご飯を待っているだけでもいいのかもしれない。

 とはいえ、やっぱり篠さんにわたしの世話をさせるのは心苦しい。篠さんはお母さんじゃないんだから。

 そんなことを考えていると、背中を踏まれているような感覚があることに気づいた。規則正しい感覚で、ふみふみ、と。はっと気づいた。

 これはもしや……、パン職人というやつでは?

 猫がパンをこねるみたいに、クッションをふんでいる動画は、SNSでよく見かけていた。かわいいなあと思いつつ、くろさんがそれをしているのをいままで見たことがなかったんだけど……。

「ちょ、篠さん篠さん! パン職人いるかも!」

 くろさんを驚かせない程度の声量で叫ぶと、篠さんの足音が近づいてくる。

「えー? あ、本当だ。くろかわいいねえ」
「見たい。動画撮って!」

 なんて騒いでいるうちに、背中から重みが消えた。猫は気まぐれだ。動画を撮る隙を与えてはくれなかったらしい。ショック。

「見たかったのに……」
「残念でした。ミキはグラタンにパン派? ご飯派?」
「ご飯」

 悲しみは消えないけど、食事に関する話題にはすばやく答えていた。強欲だな、わたし。でもいま、お腹が空いているんだ。

「へえ。わたしはパン派だなあ」
「パンも好きだよ。でもグラタンの中にご飯入れて、リゾットみたいにするの好き」

 なるほどねえ、と篠さんは冷凍してあったご飯をレンジに放り込んでいるらしい。上半身だけ起こすと、ダイニングテーブルにはもう湯気の立つグラタンが置かれていた。わたしは気力を総動員して起き上がって、手を洗ってからテーブルにつく。

 ホワイトソースの上に、きれいに焦げ目のついたチーズが乗ったグラタンからは、いい香りがただよっていた。ぐうとお腹が鳴る。

「おいしそう……。でも、篠さん。本当に食べていいの?」
「いいって、何度も言わせないで」

 白米がこんもりともられた茶碗をわたしの前に置いてから、篠さんは肩をすくめてみせた。

「基本的には、自分のことは自分でやるべきだけどさ。元気ないときに放置するほど、わたしは鬼じゃないつもりだよ。前にミキが熱出したときだって、うどんつくったでしょ」
「それは、そうだね……。うん、そうだった。わたしも篠さんが風邪引いたときはおかゆつくった」
「あの微妙な味のおかゆね」
「えええ? ちょっと、頑張ってつくったのに!」

 たしかに、篠さんに比べたらわたしの料理スキルは低いけどさ。

「冗談だって。ほら食べな。冷めるよ」

 篠さんは笑って、わたしの前の椅子に座った。

「……じゃあ、いただきます」

 まさか、このアパートに帰ってきて、ほかほかの料理が出てくるなんて思わなかった。それに、今年初のグラタンだ。急に来た秋の気配を迎え撃つような、あたたかい料理。

 そっと、スプーンを入れる。中からむわっと湯気がたちのぼった。それと一緒に、いい香りも強くなって鼻先をくすぐる。わあ、わあ、わあ……、いいにおい!

 篠さんのつくるグラタンは、具材たっぷりだった。鶏肉と、マカロニと、ブロッコリーと、じゃがいもと……。ごろごろ具材が出てくる。上にかかったチーズもとろっとのびた。

「ひとのつくるご飯、久しぶりだなあ」

 猫舌のわたしは、スプーンにすくった鶏肉に何回か息を吹きかける。でも熱いほうがおいしいだろうなあっていう気がした。それに冷めるまで待っていられない。ええい、なんとかなるだろう。思い切って口の中に放り込む。

「あっつ!」

 まだ早かった。無念……。

「子どもか」
「うるさいよ。……あー、でも、おいしい」
「それはどうも」

 篠さんがちょっと照れたように笑った。わ、レアな表情だ。わたしもうれしくなって、もっと褒めてみる。

「ホワイトソース、わたしがつくるのとは、ぜんぜん味がちがう。コク? 深み? そいうのがある感じ。最高」
「いちからつくってるからね。ミキは市販の使ってるでしょ? それもおいしいけど、やっぱり手間ひまかけると、味がちがうから」
「さすが料理好きだね」

 言いながら、どんどんスプーンにすくっては口に運んだ。ホワイトソースはやさしく具材を包み込んでいた。このソースがあれば、どんな具材でもおいしくなりそうだ。手間ひまをかけるってすごい。

 ひと口目ほど失敗はしないけど、わたしは何度か熱さに負けて、口もとをおさえた。手の奥で口を開けて、熱い息を外に逃がす。お茶を飲んで流しこんじゃうのが楽なんだけど、そんなのもったいなくてできなかった。

 ああ、おいしい。

 なあ、と足もとで声がした。