単刀直入に言えば、残業は発生した。残念なことに。

 小さな広告会社の経理部は、わたしを含めて三人の社員がいる。四十代のママさん社員の野上係長と、わたしより二個下で新婚の佐川くん。

「締日週末だから覚悟はしていたけど、来るわねー、経費申請」

 野上係長の言葉に、わたしも佐川くんも顔をしかめてうなずいた。

「余裕持って申請してって毎月言ってるのに、なんでぎりぎりに出すんですかね」
「ほんとっすよ。しかも、就業ぎりぎりの時間」
「そのうえ、そこそこ不備がある」
「ほんっとに、なんなんすかね」

 ねー、と佐川くんとため息をつく。

 五時くらいから急に集まり出した申請書には、すべて目を通した。問題ないものは処理済みで、あとは不備の修正待ちだけ。でも、それを処理しないことには帰れないから困る。

 佐川くんがこつこつこつ、と机を指先で小突いた。

「いっそ、週明けに処理しません? こんな時間に適当な申請する方が悪いっすよ」

 野上係長も難しい顔をして、画面をにらみつける。

「でも、そうすると支払いが半月後になっちゃうからね。お金がほしい社員たちに恨まれちゃうわ。まあ、佐川くんのご指摘はごもっともなんだけどねえ」

 もうすでに、就業時間の六時を十五分越えていた。経理部は残業ゼロを目指しているのに、残業上等な営業部の申請不備のせいで帰れないなんて、くそう営業部め。

 はあ、とため息がこぼれる。朝から予想はしていたけど、いざ残業が発生すると気分は沈む。

 わたしが頬杖をついたところで、ふたりがほぼ同時に壁掛け時計を見上げた。

「子どものご飯つくらなきゃいけないのに。まったくもう」
「うちも嫁に怒られますよ。せっかくご飯つくったのに遅いって」

 わあ、朝のニュースまんまだ。ママさん社員と、最近結婚したばかりの佐川くんは、やっぱり残業をしたくないらしい。

「三木谷さんも、ほら、ルームメイトが待ってるでしょう?」
「へ? あ、ああ……、どうですかねえ」

 急に話をふられて、視線が泳いだ。今朝の篠さんの姿を思い出す。いまごろ、くろさんを足もとにはべらせながら夜ご飯をつくっているかもしれない。うわあ、いいなあ。優雅な休日だ。

 なんて思いながら、顔には苦笑を貼り付けた。

「うちは、自分のことは自分でやる、干渉しすぎないがルールなんで。帰りが遅くても、気にするような間柄じゃないですよ」
「あら、いいわねえ。自由な感じ」
「っすね。友だちとルームシェアって楽しそう。ずっと学生気分でいられそうだし」
「あははー、そうですね、楽しいですよ」

 なんて返す自分の頬がひきつるのがわかった。この流れは、ちょっと気まずい。

 メール画面をちらりと見る。まだ修正は上がってこない。画面を見たまま、すこし考えた。……まあ、全員が残業する必要はないよね。

「おふたりとも帰っていいですよ。あとはわたしがやっておきますので」

 わたしが言うと、ふたりは「え?」と顔を見合わせた。

「だって、おふたりは帰らなきゃいけないんでしょう? 待っているひとがいるなら、早く帰ってあげてください」

 その点、篠さんはわたしの帰りが遅くても一切気にしないから、どれだけ残業しようとわたしの自由だった。なら融通の利くわたしが残るのが自然だと思う。

「でも、三木谷さんだけに任せるわけにはね」
「大丈夫ですよ。修正が来たら、わたしもすぐ帰りますし」
「……そう?」
「はい。お気遣いなく」
「うーん、じゃあ、お願いしてもいい?」

 野上係長は申し訳なさそうにしながら、それでもほっとした顔になった。佐川くんも同じような顔をしていたけど、わかりやすく瞳は輝いている。

「すみません、先輩。ほんと助かります!」
「いえいえー」

 ふたりは何度か感謝を述べてから、退勤していった。

 いいことをしたなあ、と思う。恩着せがましいけど、多分わたしはいいことをしたはずだ。さすがわたし、やさしい……と言うには、胸の内にもやもやしたものが立ち込めていて、困った。

 ――あーあ、わたしも帰りたかったなあ。

 野上係長と佐川くんが家路を急ぐ理由は百も承知だ。ふたりは残業するべきじゃない。でもだからって、わたしが残業を望む理由にはならない。ぶっちゃけ、とっても、帰りたい。残業面倒くさい。

 自然とため息がこぼれる。

 ……いや、自分から「ここは任せて」って言っておきながら不満に思うのは、よくないなと思うんだけど。心が狭すぎる。うん、そうだよね、ため息禁止。

 ぶんぶん、と頭をふった。

 適当に棚から書類を出してきて、不要なものをシュレッダーにかけて処分していく。壁掛け時計を見上げた。六時半。まだ修正が来ない。つい、ため息がこぼれそうになって、いやいや、とのどのあたりで押しとどめた。