全員の匿名他己紹介が終わったと聞かされたのは、二人目として鬼塚くんの紹介が終わってから一時間半後のことだった。ずいぶんと待たされたような気もするし、短かったような気もする。
 私たちはそれぞれ別室に案内され、私に振りあてられた部屋は小さなミーティングルームだった。さっきまでいた会議室とは大きさは違うものの、
 配置はほとんど同じ。中央に長机がひとつ、その周りに椅子がいくつか並べられている。窓はなく、壁にはホワイトボードがかけられているだけの無機質な部屋だった。
 部屋に入ると、思わずため息が漏れた。空気が重い。外の喧騒がここまで届かない分、静寂がやけに不気味に感じる。椅子に腰を下ろすと、ぎしりと音を立て、肌に冷たい感覚が走る。
「次を早く探さないと……いや、もういいかな」
 就活なんて。
 私の頭の中には、先ほどのやり取りが何度もリピートされていた。誰かが秘密を暴くためにこの状況を作り上げた。そして、私はその渦中に巻き込まれた──いや、巻き込んだのは私自身か。
「なんでこんなことになったんだろう」
 できることなら、駅のホームに戻りたい。靴擦れが痛いとリップクリームを塗り、母から電話がかかってきたあのとき。そこまで戻ることができれば、私は今日のような失態を犯さなかったかもしれない。
 ……いや、私のことだから、また同じことを繰り返していたのだろう。最悪だ、と思わず口にしてしまったが、答える人は誰もいない。自分の中の問いかけが、ただ空気に溶けていくだけ。
 本当にここまでしてよかったのか、と。何度も自分を責め、皆に申し訳ない気持ちだけが募っていく。みんなの人生を滅茶苦茶にしてしまった。その罪は変わらない。
 その時、軽いノック音が聞こえた。
 扉が開くと、そこには香田さんが立っていた。
「本日はお疲れ様でした。さきほど全員の他己紹介が終わりました」
 終わった。
 ということは、私の罪も洗いざらい話されているのだろう。
 ありがとうございました、とお礼を告げ、あとは帰るだけだ。「お話、いいですか」と香田さんに声をかけられるまでは。お約束の件です、と伝えられた。
「あ、……はい」
 今度は香田さんがお礼を言った。私のような人間にその言葉は必要がない。今日の最終面接を壊した張本人なのだから。
「選考の結果、ぜひ弊社の一員として活躍していただきたいと考えております。つきましては、現時点での森さんのご意思を教えていただけますでしょうか」
こうなるのではないかと、どこかでわかっていた。目の前に座る香田さんの言葉が、頭の中で何度もリフレインする。「弊社の一員として活躍していただきたいと考えております」。その言葉を受け入れるのに、時間がかかった。
「……あの、私でいいんでしょうか」
「ええ、森さんは四名の方から推薦がありましたので」
 その数字は、私が裏切ってしまった数字の数と同じだ。けれど香田さんの顔には、まったく疑いの色がなかった。私は一瞬、何かの冗談かと思ったが、どうやらそうではないらしい。
「でも……私、あんなことを……」
 言葉が詰まった。自分が何をしたのか、今さらながらに思い出す。今日の最終面接で、私は他の候補者たちの秘密を暴き、場の空気を壊した張本人だ。それなのに、なぜ──。
「森さん、貴女が他の候補者たちに対して行ったことについては、もちろん認識しています。それでも、私たちは貴女の行動を評価しました」
「評価……したんですか?」
 信じられない気持ちで、香田さんを見つめる。彼女はそのまま、落ち着いた口調で続けた。
「森さんの行動には、確かに問題があったかもしれません。しかし、その根底にあるものは、企業として求める資質に繋がると判断しました。リスクを取る姿勢、他人の裏をかく鋭い洞察力、そして冷静な判断力。どれも、弊社で成功するために必要な要素です」
 そんなわけがない。ただ自分が助かりたかっただけだ。
「……私は、他の人たちを傷つけました」
 その事実だけは変わらない。候補者たちの秘密を暴いて、彼らの将来を台無しにした。それを正当化できる理由なんて、どこにもないはずだ。
「確かに、他の候補者の心情を考慮すれば、批判を受けるのは当然です。しかし、ビジネスの世界では、時に厳しい決断を下さなければならない状況もあります。森さんがその点で他者よりも一歩先に出たことは、むしろ評価に値します」
 香田さんの言葉は、私の中でどこか現実味を帯びてこなかった。どうして、こんな展開になるのか。私はただ、全てを壊して終わりにしようとしていただけだったのに。
「ですが、貴女にはもう一つ大きな課題があります」
 香田さんの声が急に鋭くなり、私の心を捕らえた。
「それは、森さん自身が何を目指しているのかということです」
「……私が、目指しているもの?」
「そうです。あなたは今日、他人の秘密を暴きましたが、それは一体何のためだったのでしょうか? 目的があったからこその行動だったのか、それともただの自己満足だったのか。その答えを私たちは知りたいのです」
 私はその問いにすぐには答えられなかった。今日の行動が何のためだったのか。
 それは、内定を勝ち取るためだ。そのためなら、他人を蹴落としてでも掴む必要があった。けれど、これからも同じようなことを続けながら私は生きていくのだろうか。そこを評価された私は、二度、三度と、また多くの人を傷つけながら、のし上がっていくのだろうか。
「目的が曖昧なままでは、どんなに優れた能力を持っていても長続きはしません。森さんがこの先、どんな道を歩んでいきたいのか、そのビジョンが必要です。私たちが見たいのは、あなたがこの会社で何を成し遂げたいのか、その覚悟です」
 香田さんの言葉が、私の胸に突き刺さった。自分が何をしたいのか、何を目指しているのか──それがないまま、私はただ流されて生きてきたのかもしれない。内定は就活にとってはひとつのゴールになるだろう。
 けれど、内定をもらうということは、社会のスタート地点に立つということだ。その先のことを私はきちんと考えているだろうか。ここで答えを出さなければ、きっと先には進めない。
 私は深く息を吸い込んでから、香田さんの目をまっすぐに見つめた。
「私がこの会社で成し遂げたいことは──ございません」
 ただ、内定が欲しかった。
 そんな自分が、この会社に入れたとしても、成し遂げたいことなど見つかるはずもない。
 辞退、などという甘美な響きではない。これは、私が自分に課す罪だ。受け入れられるはずもない。



「もしもし?
 ああ、お母さん。仕事中じゃないの? うん、今さっき面接が終わったとこ。
 落ちたわ。それだけ報告しておこうと思って。やたらと期待させちゃったみたいだし、パート仲間の人に言うのも気まずいだろうけどさ、まあ娘はだめだったって広めといて。
 よくできた娘じゃなくてごめんね。本当はお母さんの自慢になってあげたかったんだけど。……自分らしく出来たか? いや、どうだろう。そういう意味では最初からずっとだめだね。自分を良くみせたくて、ついちゃいけない嘘までついてたから。もう永遠に。どこまで続くんだろうって思うぐらい嘘で塗り固めて挑んでたから、それは落ちて当然だわ。私の姿みたら、お母さん倒れるんじゃないかな。
 私がいつか子どもを産んで、その子が私みたいだったら嫌だな。
 こんな人間になってほしくない。
 就活って怖いなって、なんか今さらながら思ったんだけどさ。でも見方を変えたら、こういう自分がいたんだって発見になる時間だったのかなとも思った。就活を経験しなかったら、こんなきつい時間を過ごさなくてよかったかもしれないけど、でも経験してなかったら、こんな自分を受け止められなかったかなとも思ったりするよ。
 なんか負け惜しみみたいに聞こえるかもしれないんだけどさ、今回の面接に行けてよかったわ。なんていうか、本当の自分を見つけた気がする。いや、かっこつけすぎたかも。
 私はなにも持ってなかったんだなって認めることが大事だったんだろうなって今は思う。
 私、空っぽだった自分を隠すために、いろいろ嘘ついてたところがあるからさ。
 就活する前に、まずは自分を受け入れていく作業が必要だったなって気付いた。
 そんなこともしないで、自分のいいところばかり見つけようとして、それを必死に他人にアピールしてさ。短所とかもさ、本当にそこが短所かよって思うようなところばかり挙げてたかも。ちゃんとした短所も伝えられないぐらい、自分のことを過信してた。
 これから生きていく上で黒歴史確定。二度と就活したくないって思ってるぐらい。
 え、素直かな。まあ、今朝に比べたらそうかも。
 私の娘は自慢って……お母さんから見たら、そりゃあ優しい娘には映ってるかもしれないけど、すごいどす黒いから。なんかもう、自分を脱ぎ捨てたくなるぐらい。でも、こういう時間が必要だったんだろうね。他人に評価されながら、本当の自分を見つけていく時間が。
 とはいえ、本当の自分なんて今でもよくわかんないんだけど。
 いや、さっきは見つけた気がするって言っただけだから。見つけたわけじゃないって。
 なんかさ、優しいってだけじゃ就活って戦っていけないからね。
 でも、無理に何かを持とうとしなくてよかったんだなって思う。もちろん、できる努力はしたほうがいいけどね。それさえもせずに、嘘ばっかついた自分に、そりゃあなんの価値もないよ。
 私ってさ、すごいちっぽけなんだなって思った。
 いや、別に大御所感を気取っていたわけでもないけど、でもどっかで自分は特別なんじゃないかって思ってたんだよ。そんなわけなかった。私が他人に思うように、他人も私のことなんてただの脇役にしか思っていなくて、ただの人間だったんだよ。
 誇れるものなんて何も持ってなかったけど、でもそれでよかったんだよね。
 弱かったなあ、私。ものすごい弱かった。
 頑張ってる人は当たり前のようにいて、そこに立ち向かっていくためには、私もちゃんとした頑張りを見せる必要があったんだなって勉強になった。
 何もないからこそ、自分と向き合って、何もない自分が社会でどう立ち回れるか、そういうことに頭を使ったほうがよかったかも。まあ、だからといってそれで内定が取れるかって聞かれたらそんなことないんだけど。
 ただ、やりたいことをちゃんと見つけてみようと思う。
 内定がもらえればどこでもいいんじゃなくて、私という人間がプラスに思ってもらえるような動き方をしたほうがいいんだろうなって。
 あー……そんな働きたいから頑張るってわけでもないんだけどね。欲を言えば働かなくてもお金が入るシステムを作りたいとは思う。でもそんなことは無理だから、地道に一からやっていくよ。
 ねえ、お母さん。
 私、ものすごい悪い人間だったらどうする?
 たとえば、……そうだな、人を陥れようとする人間だったら。
 ……逆の立場で考えてほしい?
 そりゃあ、嫌だね。自分のお母さんが他人を陥れようと頑張ってたりしたら。それと同じか。じゃあ、嫌だね。ごめん、私、そっちの人間になっちゃったわ。嫌な人間になった。人から恨まれるような人間に。
 ……一緒に謝りに行くって、それ子どものときの話でしょ。今は……なんで今も変わらないの。もう私、一応大人なんだけど。一緒に行かなくていいよ。
 でも、味方でいてくれようとするのは嬉しかった。こってり怒られるのは避けたいけど。まあ、全部受け止められるよりはいいのかな。ちゃんと怒ってもらったほうが。
 ……うーん、久しぶりに帰ろうかな。食べたいもの? ないって。作るの面倒だし、ご飯とか用意しなくていい。え、怒られるためのエネルギーつけないといけないの? それ、喉に通っていかないやつじゃない?
 うそ、ごめん。そうだな、なんか揚げ物がいいかも。最近食べてなかったし。節約してて、ほとんどご飯は後回しにしてから。わかったよ、食べます、食べますって。
 ねえ、お母さん。
 こんな娘でごめんね。
 私さ、本当にどうしようもない人間だけど、そんな自分が一番嫌いだから。変わっていくよ、なんとか頑張っていこうかな。
 就活は続けるよ。ここでは諦めたくないし。なんとなくだけど、自分がやりたいことを見つけられそうな気がする」