チョコレートのにおいで学校中がむせ返る日は、バレンタインデイ以外にないだろう。
教室は朝からチョコレートの匂いでいっぱいだった。女の子の机のかばん掛けにはチョコのお菓子の入ったトートバッグや紙袋なんかが、スクールバッグと一緒にかかっている。
友チョコの交換でにぎわっている教室の中、男子がそれを眺めながらそわそわしているのは、何となく雰囲気や視線で分かる。
私たちのグループも友チョコの交換をしていた。
サナはガトーショコラ、モモエはカップケーキ、サエリは生チョコで、ナナミはトリュフ。
でも、私は。
「あれ、カスミからはチョコないの?」
はてなを浮かべる友人に、私は謝る。
「実は、大失敗しちゃって……」
「うそー、カスミって器用そうなのに」
「ちなみに何作ろうとしてたの?」
「チョコチップの、スコーンを……」
これは一応、本当だ。チョコレートは苦手だけれど、生地にチョコチップを混ぜ込む程度なら、できると思っていた。チョコ味のものでない代わりに凝ったものにしようと、スコーンの簡単なレシピを探して、材料をそろえたところまではよかった。
でも、買ってきたチョコチップの袋の封を切ったとき、あの時の記憶がよみがえってきて、結局生地に混ぜることもできなかった。焼いたプレーンスコーンは今朝の朝ごはんになった。
既製品は大丈夫、買う分には問題ない。でも「作る」となると違った。当然作業をすれば手にチョコレートの匂いが残る。それが気持ち悪くて、どうしてもだめだった。
そんな経緯を一から彼女たちに話すつもりはなかったから、笑ってごまかした。
「カスミって案外不器用なんだね」
「そう、なの。だから、一応保険としてチョコは買ってて、かわいかったから……」
よかった、受け入れてもらえそう。そう思って、市販のチョコアソートの箱を渡そうとすると、サナが首を振った。箱を持つ手に力が入って、手提げの紙袋の中から嫌な音を立てた。
「カスミの気持ちは伝わってる。だから、ホワイトデイのお返し、期待してるよ」
「え……」
サナの態度に、周りも同乗して「そうそう」と口々に言う。
「確かに。せっかくなら、カスミのスコーン、食べたいし」
「そうだね。失敗したのでもよかったのに」
「ホワイトデイのお返しってことで」
ていうかカスミってお菓子作り苦手なんだね。カスミは結構いろいろそつなくこなすと思ってたけど。でも、カスミがもう少し身近に感じて嬉しいかな。
そんな言葉に体が固くなる。
「身近?」
聞き返すと、サエリは「あ、悪い意味じゃなくてね」と弁解する。
「だってなんか、カスミってさ、いい子すぎるっていうか」
「例えるなら、マリア様的なポジション?」
「あ、わかるー」
「……そう、うかな?」
私をほめそやすような言葉を並べているけれど、私が用意したチョコは受け取ってくれないらしい。チョコの箱をつかんだままだった手の力を抜くと、コンっと他と箱の上に落ちた音が静かに聞こえた。
こんなことなら、吐いてでも作るんだった。
教室に充満した、甘い匂いに気が滅入る。何もあげないのも反感を買う気がして、変わりのものを用意したのに、受け取ってもらえなかった。
今度は私が、ハブられたメッセージグループを作られる番かもしれない。
ナナミが先輩にチョコをあげると惚気ているのも、モモエが今日告白すると意気込んでいるのも、サエリが浅田にあげろとみんなにからかわれているのも、どんどん遠ざかっていく。口の中から乾いたような笑いがでて、なんだか自分じゃない気がして、怖くなった。
「ずっと、好きだったの」
そんな言葉が、私の向かおうとした方向から聞こえてきたものだから思わず身を隠した。
みんなそれぞれに予定があるからと今日は教室で解散になって、私はなんとなく帰りたくなくて、図書館にいた。適当に手に取った小説が面白くて、気づいたら日もとっぷり暮れてしまったから、帰ろうと教室に向かっていた。
私の教室は、この角を曲がったところだったけれど、遠回りしようと階段を下りるところだった。告白の現場になっているのは、その階段の踊り場だ。
「付き合って、もらえませんか」
本当なら人の恋路を覗くような野暮な真似はしない。でも告白していた女の子の声に驚きを隠せなくて、盗み聞きをしてしまっている。だって、ここから彼女の姿を見ることができるけど――サナだった。
好きな人がいるなんて、知らなかった。今までだって、誰が気になっているとかそんな素振り、他の三人と違って一度も見せたことがなかったから。
これはたぶん、知らないふりをした方がいいに違いない。変に結末を知ってしまって後々ぼろが出るよりもこの場で立ち去るのが吉だ。
このまままっすぐ教室に戻ろうとした。けれど、聞こえた男子の声に、思わず足を止めてしまった。
『ごめんなさい』
告白されている男子は陰になって見えない。でもその「声」は確かによく知るものだった。
『気持ちは、うれしいです。ありがとう。でも、申し訳ないけど、僕には応えられないです』
「カスミのことが、好きなの?」
かぶせるように問いかけたサナの声は、震えていた。
今までサナが、佐々木くんの話題になると突っかかってきたりしたのは、このことが原因だったのかと納得した。今朝のチョコレートを受け取ってくれなかった件も、おそらくこのことがあったのかもしれない。
『秘密、です』
彼――佐々木くんは、それだけ答えた。サナはその顔に落胆の色を浮かべていた。佐々木くんがどんな顔をしていたのかは、分からない。サナはしばしの沈黙の後、「わかった。気持ち、聞いてくれてありがとう」と告げると、階段を下がっていったようだった。
上がってこられたらまずかった。ほっと胸をなでおろした。
束の間、佐々木くんが現れたから、口から心臓が出るところだった。当の佐々木くんも相当驚いたようで、声は出ないものの、これでもかというほどに目を見開いていた。
「……ご、ごめんなさい」
とりあえず謝罪を述べた。
「全く、盗み聞きするつもりはなかったんだけど、本当に……ごめんなさい」
いっそこのまま消え去りたい。ぎゅっと目をつむって待っていると、『河野さん』と呼ばれた。
「とりあえず、場所、移そう」
教室を目指して歩く佐々木くんの、少し後ろをついていった。
私の席は廊下側の真ん中、一番後ろ。佐々木くんはその隣。
二人で腰かけても、しばらく沈黙は続いたままだった。
二月の日の入りは早い。特に七時間目まである日なんかは、ホームルームが終わると、太陽は地平線にその名残だけがあって、すっかり夜のとばりが下ろされている。蛍光灯のついた教室の窓からは外の様子は見えない。代わりに、私と、そして佐々木くんの姿が映っていた。
『河野さんは、彼女のこと知ってた?』
彼女のこと、とは、サナが佐々木くんを好きだという事実、と指しているのだろう。全く見当もつかなかったと、首を振った。右を向くと、佐々木くんは頬杖をついて黒板を見ていた。
『そっか』
甘酸っぱさなんて微塵もない声音だった。
全部を知ってるから友達で、親友でも、何か一つでも知らないことがあれば友達じゃない、なんてことは言わない。私だって、みんなにすべてを見せているわけでもない。今までのみんなの態度を見て、サナが誰にも秘めた恋心を打ち明けないと決めていたのならそれでもいい気がした。ショックはなかった、ただ自分はまた同じことをやってしまったのか、とそればかり考えていた。
「佐々木くん」
隣から視線を感じる。私は、机の上で祈るように手を組んだ。
「私、チョコレートが苦手なの」
『うん?』
「昔はね、好きだったの。普通に、食べれた」
小学六年生、まだ私が本当の意味の絶望を知らなかったころ。仲良しだったグループのメンバーは私を含めて六人、内三人がある人気ものの男の子、もう名前も忘れてしまったけれど、Aくんのことが好きだった。
「カスミちゃんには相談するけど、わたし、Aくんのことが好きなの」
類は友を呼ぶという様に、同じグループにいるということは、それなりに趣味嗜好に似ているところがある。私は席替えで隣になったことから、グループの中で一番最初に、Aくんと仲が良くなった。当時、好きな本のシリーズが一緒だったことが大きかった。Aくんはかなりの読書家で、私の知らない知識をたくさん持っていた。それを聞くのが、純粋に楽しかったのだ。
私のAくんに対する感情に、恋のようなものはなかった。全く。知らないことを教えてくれる、むしろ先生のような存在に近かったと思う。
だから恋の相談をされたとき、心から応援できたし、友達の助けになりたいと思っていた。
「カスミちゃんのこと、信頼してるから」
「カスミになら、相談できるの」
そういわれてしまえば、自尊心というのはむくむくと大きくなって。
思い返せばどうして自分がそんな立ち位置になったか、そのきっかけは覚えていないけれど、人の顔色を窺って、考えを先回りしてしまう癖はもともとあった。みんなの輪が崩れないための自分の立ち回り方を探していたら、いつの間にか「いい子」のレッテルを貼られていた。
いい子だね。
優しいね。
ありがとう。
その言葉が嬉しくて、その言葉をもらえる努力は、していた。
三人それぞれから受けた相談も、決してほかの人にもれないように細心の注意を払ったし、それぞれがうまくいくように平等にAくんの情報を提供した。自分の行動は感謝されているのだと、信じて疑わなかった――あの日、緊張して顔を真っ赤にする、Aくんを目の前にするまでは。
それはバレンタインデイの数日前のことだった。
図書委員の作業を終えて帰ろうというときに、Aくんが私を呼び止めて言った。
「河野さんのことが、好きなんだ」
いつも自信ありげに話をするAくんの手が震えているのを見つけて、私は静かに絶望した。
三人にあげたAくんの情報――誕生日、好きな食べ物、嫌いな食べ物、好きな本、好きな言葉、好きなスポーツ選手、将来の夢……――は、私がグループの中で自分の居場所を担保するもの。それが全部、一瞬にして霧散した。
この事実が知られてしまっては、みんなの信用を、自分の居場所を失ってしまう。何としてでもそれは避けたい。私とAくんを通して、私のグループと、Aくんのグループの交流も増えていて、修学旅行の自由行動は一緒だったほど。
わたしは橋渡し役としての自分の適性すら見出していた。
だから、Aくんの矢印が自分に向いていることに気づけなかった。
『ごめんなさい』
Aくんにはみなまで言わさず、私はその場を走り去った。トイレに駆け込んで、お昼に食べたカレーの残骸のようなものと、胃酸を吐き出した。ようやく落ち着いたときには日もすっかり暮れていて、それをいいように泣きながら帰った。
翌日登校すると、Aくんに私は無視された。私のグループの他の子とは普通に会話するけれど、明らかに私のことは避けた。みんなに何があったのか不思議がられたけれど、私は本当のことは言えずに、ただ、委員会で怒らせてしまった、とだけ答えた。
迎えたバレンタインデイ。みんな持ち込みを禁止されているチョコレートをこっそり体操着入れやランドセルに詰めて登校していた。思い人がいる子たちは、直接チョコを渡したり、靴箱や、机の中に入れたりと、それぞれのやり方でチョコを渡していた。私に相談を持ち掛けてきた三人も「告白するんだ」と意気込んでいた。私はそれぞれが誰を思っているのか知らないふりをして、送り出した。
話があるんだけど、と呼び出されたれたのは、まだほんのりバレンタインデイの余韻が残る翌日。私を呼び出したのは一人だったけれど、着いていった場所にはあと二人いた。彼女たちは、私にAくんのことで相談していた、三人だった。
嫌な予感程、当たるのだ。三人を前に胸がざわめいて、手先の感覚がなくなっていった。口の中が渇いて、呼吸が苦しくなっていった。
二月のその日は風があって、一段と寒かった。型どおり、私たちは体育館裏で対峙していた。
「どう言うことか説明してくれる?」
私に心当たりがあることをわかっているような口ぶりだった。三人の顔はみんな同じように、失望と怒りと、そして憎悪に満ちていた。
「ごめんなさい」
とっさに謝った。とりあえず謝罪は口にしなければと思った。頭を深く下げて、ただ謝った。
「なんのために謝ってんの?」
なんのためにと言われても、なんと答えていいのかわからずに、黙ったまま頭を下げ続けていた。
「私は、カスミを信用していたんだよ」
その言葉は強く胸に突き刺さった。それは私が何より欲した言葉なのに、全てが過去形になってしまっていた。
「それなのにさ、こんなことってなくない?」
声が震えているのに気づいて顔を上げると、彼女は泣いていた。唇を噛み締めて、強く拳を握っている姿はみな同じだった。三人の視線が肌を焼いていくようで、ピリピリと痛かったのをよく覚えている。
でも私は他に言葉を知らなかった。いくら自分の辞書の中に探してみても、見つからなかった。その場を効果的に収める方法が、分からなかった。
一人がポケットの中から、昨日私があげたチョコクッキーを取り出した。それに続いて後の二人も同様に同じものを手にしていた。そして三人で目配せすると、それを思いっきり地面に叩きつけて、踏みつけた。クッキーは音を立てて割れ、粉々に砕かれた。ラッピングの袋は破れ、リボンは土で汚れていった。
「裏切りもの」
そう吐き捨てて、彼女たちはその場を後にした。残されたのは私と、そして食べられなかったクッキーたち。風に吹かれて砂埃と一緒に黒い小麦粉の塊が宙に舞い、甘い香りが漂っていた。私は泣きながら、クッキーの破片をかき集めて、ごみ箱の中に捨てた。
あとから聞いた話だと、私はあの三人のことが嫌いで、実らない恋を掴ませた詐欺師し仕立て上げられていた。自分の「いい子」を振りかざして、Aくんに色目を使い、彼女たちのみならず、全く気持ちのないAくんまでも陥れる、悪女であると。
私だって反論を試みなかったわけではない。けれど私が声を上げたところで、Aくんと、三人の友人を傷つけた事実は変えようがなかったから、その報いを受けることにした。
その日から、私の居場所はなくなった。グループから省かれ、「裏切りもの」のレッテルが貼られた。
それ以来、しばらくはチョコレートを見ると吐き気を催すほどだった。今はだいぶマシになり、自分で買ったりもできるけれど、チョコレートのお菓子を作ることは、できない。
「だから、今の私にとって、チョコレートは友情を壊したものっていう印象が強く、残ってて……苦手、なの」
チョコレートからしたら、いい迷惑だと思う。ただきっかけになったというだけなのに、勝手に縁起が悪いと言って、嫌われて。
今日だって。誰かにもらわれるはずのかわいらしいチョコレートは、私の都合のせいで行き場を失ってしまった。食べてあげられたら、一番いいのだけど。
『それは、僕に対しての、予防線だったりする?』
ぎょっとして隣を見る。佐々木くんはスマホから顔を上げない。
「え、あの……」
うぬぼれているわけではないけど、そういう意図がなかったわけではない。もし佐々木くんが少なからず私にそういう好意を抱いてくれているのであれば、サナと友達である以上、サナの告白の一件は墓場まで持っていくつもりだ。佐々木くんとそういう関係になることも、望んでいない。
私の言葉以上に、本人に伝わっていることが分かって、驚いたのだ。
『冗談、謝らないで』
口癖のようになっている「ごめん」という言葉を封じられる。喉まで出かかったその言葉を飲み込んだ。
『河野さんのことを、どう思ってるかを彼女に言わなかったのは、自分の河野さんに対する気持ちは、わざわざ他人に言うことではないと思ったからだよ。だから、僕が河野さんのことをどう思ってるかは、河野さんにも、秘密です』
佐々木くんはいたずらっぽく笑った。
「なにそれ」
『だって、何を言う前にそんなこと言われたら、もう何も言えないじゃん。ずるいなー、河野さん』
「えー」
この場を和ませるための、軽口だってわかってるから、私も笑いながら返す。
佐々木くんには、どう思われてもいいような気がしてきた。もし特別な好意を持ってくれているのだとしても、無理して答えなくてもいいといわれているように感じた。
教室の掛け時計より少し上にあるスピーカーから、最終下校時を促す放送が流れる。ほたるのひかりが、良いとは言えない音質でそのあとに続いた。
『帰ろうか』
佐々木くんは立ち上がって、大きく伸びをした。
『河野さんは、駅まで?』
「うん。佐々木くんも、だよね?」
登校中、何度か反対路線の車両から出てくるのを見かけたことがあった。
『そう。一緒に帰ろう、と言いたいところだけど』
首をかしげると、佐々木くんは気まずそうに私の様子を窺った。
『そしたら、困る、よね?』
きっとサナのことを言っている。前までの私なら、絶対に断っている。それに、そもそも教室までついてきたりしないし、嫌いになった経緯すら、話そうとは思わなかった。
でも、佐々木くんなら聞いてくれるのではないかと、期待した。
あのチョコレート事件から卒業までの時間は、ほぼ一人で過ごすことになり、卒業アルバムの寄せ書きは真っ白だった。それからお父さんの仕事の都合で転勤が決まり、私は逃げるように十二年間過ごした土地を後にした。
仲良しなんて作らない。
そう決めたはずなのに。
「ひとり」は、虚しかった。
「佐々木くんさえよければ、一緒に帰ろうよ」
私の佐々木くんに対して持っている今の気持ちは、きっと恋とは異なる形をしている。どちらかといえば、あの夕暮れの放課後の教室に切望したものになるのではないか、そんな予感。
まだ確証はないけど、このつながりを大切にしたいと願う。
『じゃあ、帰ろ』
ロッカーにかけてあったコートを羽織り、教科書を入れたスクールバッグを背負うと、机のフックにかかっている、紙袋が目に入る。
『河野さん』
佐々木くんは私からチョコレートの入った紙袋を、取り上げてしまった。
『よければこれ、僕にくれない?』
**
週末に理由もなく、街中を歩くことは時々あった。家にいるとスマホの通知が余計に気になってしまうから、外の空気を吸いながら歩く方がいくらか健康的な気がする、ってだけの理由で。
でも今日は特に、と外に出ようという気持ちになった。テレビで梅の見ごろが始まったニュースを見たのと、今朝起きてカーテンを開けたら雪が降っていたからだ。いつもよりも着込んで、雪の上をあるいても大丈夫なようにブーツを履いて出ると、昨日の夜から降り続けていた雪はしっかり積もっていた。この辺は積もること自体がそんなにないから、ワクワクしていた。
今日は誰とも約束がなかったから、朝から出かけて都心の方まで足を延ばし、昼食はふらりと立ち寄った喫茶店で取り、あとはぶらぶらと気持ちの向くままに歩いていた。駅近くの公園では梅の花が咲き乱れていて、自動販売機で買った缶のお茶を片手に花見もした。
こういう日に限って、スマホはおとなしくて、久しぶりに自分の時間を満喫していた。
まだ二月の下旬、日の入りは早い。四時前だというのに日が傾いてきている。朝はあんなに積もっていた雪も、お昼を過ぎると太陽でほとんど解けてしまい、道路わきに名残があるばかり。
そろそろ帰宅しようかと、駅に向かっていた。大きな駅だから人通りも多い。注意していたつもりだったが、運悪く通行人にぶつかってしまった。
「すみません!」
振り返って謝ると、それは見知った顔だった。
「佐々木くん?」
佐々木くんは「申し訳ない」と唇を動かして、私に気づくと大げさに驚いて見せた。その腕には真っ白な薔薇の大きな花束を抱えていた。彼はちょっと待って、とまた口だけ動かすと、両手で持っていた花束を左腕に抱えなおして、ポケット方スマホを取り出した。
『河野さん、ぶつかってしまって申し訳ない』
「いや、私の方こそごめんなさい……あと、すごい花束だね」
『今から、墓参りなんだ』
「そうなんだ。えと、どこまで?」
『潮留の方まで』
潮留は海辺の町。ここからは、電車を一回乗り換えて片道一時間はかかる。そこはキリスト教系の有名な共同墓地があるきれいな場所だと、いつかSNSで見たことがあった。あいにく土地の関係で土葬はできないのだけれど、墓石があり、花を手向けることができて、小さな教会があるのだ。
「遠いね」
『一緒に来る?』
「え?」
突然のお誘いに素っ頓狂な声を出してしまったが、すぐにからかわれたのだと気づく。佐々木くんはいたずらっぽく、右端の口角を上げていた。
『冗談。毎年、僕はこの時間って決めてるから』
行き交う人は私たちのことを、少し邪魔そうに、その大きな花束を一瞥して去っていく。佐々木くんは、花束を愛おしそうに見つめて言った。
『河野さんは? 出かけてたの?』
「うん。雪が降ったからうれしくなって。あと花見に」
先ほど梅の花を見た公園の方を指すと、佐々木くんは「ああ」と理解したようだった。
『河野さんって、お花好き?』
「え? あ、まあ……?」
『なら、プレゼント』
佐々木くんはスマホをポケットにしまうと、花束から一本薔薇を抜き取り私に差し出してきた。
「え、でも、この花……」
両手がふさがってスマホを出せない佐々木くんは「いいから」と受け取るように催促する。誰かのお墓に備えるもののはずだから、気軽に受け取れないと躊躇していると、もう一度、胸の前に差し出される。
「本当に、いいの?」
半ば押し付けられるようにして受け取ると、佐々木くんは満足そうだった。
『この前言ってた、お礼に』
いつかの傘のお礼のことを言っているのだろう。すっかり忘れていた。
『ずっと何がいいか悩んでて。でも今日、ちょうど出会っちゃったし。ラッピングも何もしてなくて悪いけど』
「ううん、うれしい」
幾重にもなっている花は顔に寄せると、ほんのり甘い匂いがした。白い薔薇なんて、なんだかロマンチックだ。
『それじゃあ、僕行かなきゃ』
「あ……」
引き留めて、ごめん。そう謝罪しそうになるのを、佐々木くんが止めるようにこちらを見てくるから、慌てて口をつぐんだ。
「気を、付けてね」
『ありがとう。じゃあ、また学校で』
「うん。また、学校で」
佐々木くんは手を振って、改札の方にかけて行った。
さて、私も帰ろう。
そう思って歩き出そうとすると、足元に深い青色の財布が落ちているのを見つけた。拾い上げると隅の方には「Kouga.S」の刺繍がされていた。さっき佐々木くんと話している時には気づかなかった、落とし物らしい。近くの交番に届けようと拾い上げると、お札入れの場所に入れてあったのだろう、大量のカード類がバラバラと落ちてきた、慌てて拾いあげた。飲食店や雑貨屋、ドラッグストアのポイントカードがほとんどで、病院の診察券、保険証が混じっていた。カード入れに収まりきらなかったカードには「佐々木幸雅」と刺繍と同じ名前が書かれていたが、一緒に落ちた学生証には――佐々木リョウガと記されていた。
悪いと思いつつ財布の中身を開くと、カード入れに一枚だけ入っていた保険証にも、同じように「佐々木リョウガ」と書かれていた。
どうやら佐々木くんが財布を落としていったらしい。すぐに連絡しようと思ったけれど、佐々木くんとは連絡先を交換していない。メッセージアプリを開いて、学年のトークグループから佐々木君くんを探し出し、友達追加してメッセージを送ってみたけれど、既読がつかなかった。
もしかすると落としたことに気づいて引き返してくるだろうか。そう思って、私はその場を動かずにしばらく待ってみたけれど、来る様子はない。私は思い立って駅の改札へ急いだ。
確か潮留まで行くと言っていた。
改札の頭上、電光掲示板に表示された電車の発着状況を確認すれば、潮留への乗り換え地点となる栄街までの電車が来るまで、あと二分となかった。
迷ってる暇はなかった。私は急いで改札を抜けた。プラットホームへ駆け下りて、大きな花束を探すけれど、人が多くて中々見つからない。構内アナウンスと共に電車が入ってくるのが見えて、私はとりあえずやってきた電車に飛び乗った。
あたりを見回すけれど、佐々木くんの姿はない。私は扉にもたれ、肩を上下させながら、呼吸を整えた。そこでハッとして握っていた薔薇を確認する。形は心なしか風の抵抗を受けて、きれいに丸かったのが歪んでいるように感じた。花を手で丸く囲むように整えると、佐々木くんからもらった時のように、元に戻り安心する。
真冬で寒いはずなのに、全力疾走したせいで体中汗が噴き出していた。ハンカチで額の汗をぬぐい、少し落ち着いてから、乗り換える駅での電車の時刻表を検索した。どうやらこの電車が栄街駅に着いてから、潮留駅に行く電車が来るまで、待ち時間にして三十分ほどあるらしい。その間にきっと探せるだろう。
今頃同じ電車内で、財布を忘れて慌てていることを願いつつ、私はぼんやり車窓から外を眺めた。住宅街を抜けて、公園や神社があって、お店が軒をつらね、そこまで高くもないけれど、いくつかビルも建っていて、青い空はだんだんと黄色に染まっていく。流れていく景色の色鮮やかさに、夕暮れの気配をそこかしこに感じた。真っ白の薔薇はしおれないように、やさしく枝を持っていた。
電車に揺られること四十分、目的の栄街駅に到着した。駅構内にはうどん屋さんと喫茶店が入っていて、待合スペースも充実しているからそこまで暇を持て余すこともない。
アナウンスとともに開かれた扉から下車すると、花束を抱える少年がいないかあたりを見回す。あれだけ大きな、しかも真っ白な薔薇の花束を持っているのだから、すぐわかりそうなものの、見当たらない。
いったいどこにいるのだろう。
乗ってきた電車に次の乗客がのりこみ発車するまで、私はきょろきょろとあたりを見渡し、ひとが捌けるのを待ってからプラットホームを探した。
すると、ベンチに花束を置いて、体中を触り何かを探している様子の人を発見した。
私はすぐさま駆け寄った。
「佐々木くん!」
声をかけると、佐々木くんは勢いよく顔を上げた。
「これ、だよね。今探してるの」
先ほど拾った、財布を差し出すと、佐々木くんは心底安堵した表情になった。
『申し訳ない、本当に、本当に、ありがとう』
「ううん、届けられてよかった」
『ありがとう。本当に。なくしたと思った』
財布の中身を心配していたというよりも、財布自体が見つかったことに対して安堵しているように見えて、私も胸をなでおろす。
佐々木くんはもう一度ありがとう、と言うと喫茶店で何か私におごることを考えていたようだが、断った。それでも『お礼がしたい』と言って食い下がるので、私は自動販売機の上段にならんでいる、お茶を買ってもらうことにした。
「じゃあ、遠慮なく」
私が温かいお茶の缶を受け取ると、佐々木くんも同じお茶缶のボタンを押した。
財布も渡したし、お茶ももらって。戻る電車が来るまではまだ時間があるし、潮留行きの電車もまだ来ない。
日も傾き、日中に比べれば幾分冷えてきたけれど、今日は風がないのが幸運だ。喫茶店も暖を求めている人で、中に入ろうとの声はかけづらい。手持無沙汰で、とりあえず買ってもらったお茶缶のプルタブを開けた。ほわほわと立つ湯気と一緒にお茶を飲むと、体の内側から温かくなるようだった。
『財布、死んだ兄貴のものなんだ』
佐々木くんは今しがた私が返した財布を取り出すと、名前の刺繍をそっと指でなぞった。深い青の布地の財布。「見て」と差し出されて、顔を近づけて見れば、ピーコックグリーンの糸で縫われた名前は、よく見れば花びらを模していた。それはとても細かい刺繍で、私の口から感嘆がもれた。
「すごい、綺麗」
『でしょ。器用だったんだ、兄貴』
誇らしげなのに、寂しそうに笑うのが印象的で、兄弟の仲がどんなものだったのか察せられた。
佐々木くんに促されて、一緒にベンチに腰掛けた。
『生まれつきあんまり体が丈夫じゃなくて、学校も休みがちだったけど、前向きは明るい性格で。手先も器用で、いつも弟の僕に優しくて自慢の兄貴だったんだ』
花束の持ち手は隣の席を侵食していて、佐々木くんはその右手で一輪の薔薇の花弁をなでていた。純白、とよぶのがふさわしいような真っ白な薔薇。私の手元にも一輪同じのがあって、それはきれいな八重だった。
『でも、三年前の今日、死んだんだ』
佐々木くんは、思案するように瞼を閉じて、そしてゆっくり開けた。
『被検体って、話をしたの、覚えてる?』
私が佐々木くんのスマホを壊した翌日。新品を弁償するといったら、佐々木くんはそんなことを言っていた。そしてあの上級生に、それ以上を話すことを止められていた。
『この読み上げソフトの声は、あの人が作ったもので。僕の兄貴の声なんだ』
パソコンに向かう、あの細身の上級生を思い出す。
『だから、被検体。僕が日常的に使ってみて、違和感があれば都度報告して、細かい修正を加えてもらって、僕は変わりにスマホの代金を払ってもらってる。そうやって、この流ちょうな音声が出来上がったんだ』
思い返してみて、とんでもないことを言っていたのだと、思い返してみる。スマホを交換するのも遠慮するわけだ。きっと佐々木くんはやさしいから、断らなかったのだと思うと、今更申し訳なさがこみ上げてくる。
けれど、そんな私の心中を知ってか、佐々木くんは言った。
『スマホがなくたって、僕は平気なんだけど。家族がさ、兄貴の声があると安心するから。保健室にまだ残ってたあの人に、河野さんのスマホにアプリ入れてもらって、翌日までに新しいスマホ用意してもらったんだ』
「それって、なんか……」
はっと口を両手で抑える。思わず口走りそうになった言葉を飲み込むけれど、佐々木くんは聞き逃さなかった。
『なんか?』
こっちを見られているのが分かり、隣が見れない。自分の、バカ野郎。最近こういううっかりが多いのは、大体が佐々木くんの前で、自分が彼を前に相当油断しているのが分かる。この場を逃げ切るすべは、正直に言うほかないと悟り、開口した。
「なんか……佐々木くんが、いないみたいだな、って」
お兄さんが亡くなって、寂しい気持ちはわかる。話を伺うに、あの上級生と佐々木くん兄弟は長い付き合いなのだろう。本人亡き後、その音声を使って佐々木くんの「声」を作ってしまうほど。
けれど、それはなんだか、行き過ぎた愛情のようにも聞こえてしまった。
私も、近しいひとを亡くした経験はある。小学校低学年のころ、夏休みを使って祖父母の家に遊びに行ったとき。おじいちゃんを朝起こしにいって、呼んでも返事がないものだからその体に馬乗りになったら、冷たくなっていた。
人間ってこんなに冷たくなるのだと、感じた恐怖は未だに鮮明に思い出される。おじいちゃん、おばあちゃんっこだったから、なおさら。お通夜、告別式、納骨から四十九日まであっという間で、私たちを置いて時間だけが過ぎてしまっていくようで、しばらくおじいちゃんのいないことに慣れるのが大変だった。居ると思って会わないのと、居なくて会えないのとでは、こんなに違うのか、と。
普段の生活を一緒にしていなかった祖父にさえ、そんなことを思ったのだ。ましてや、生まれた時から共に生きてきた同胞を亡くすという気持ちは、計り知れない。
『言うね』
ずん、とその言葉が胸に響いた。ただの「音声」のはずなのに、様々な感情が含まれていた。怒りと、失望と、憎しみ、そんなものが聞こえた。
言い過ぎた。でも、言葉にしてしまったものは取り消せない。
自らも望んでいるのであれば、それでいい。故人との思いでを大切にするための手段としては、とても理にかなっていると思う。人間はその人が亡くなったとき「声」を一番最初に忘れるというから。
でも、今佐々木くんは言っていた。
言ってしまった言葉はもう消せない、なら言ってしまえ。
「スマホが壊れて欲しかったのは、佐々木くんの方だったんじゃないの?」
ざあっと、突風が吹いた。反対車線に、電車が入ってきた。とっさに花弁を守るようにうずくまる。佐々木くんの席の向こう側では、ラッピングからむき出しになっていた部分が風にあおられている。ばさばさと大きな音を立てながら、花弁が数枚ひらひらと風に乗っていくのが見えた。
佐々木くんはスマホから顔を上げなかった。
どの間、沈黙していたか、わからない。行き交う人の話ているのが気になるほどには、私と佐々木くんはお互いに黙っていた。いつの間にか太陽は沈んでいて、夜空に星が瞬いていた。
左手から電車が入ってくるのが見えて、ここが電車の最後尾の方なのだということが分かる。電車のライトがまぶしくて、目を細めながら電車が入ってくるのを見ていた。
はああああ、と大きなため息が隣から聞こえて身を固くした。佐々木くんは座ったままで体を折り曲げると、ばねのように直った。
電車の速度がおちるのと同じように、佐々木くんはゆっくりと立ち上がって、少し形の崩れた花束を両腕に抱える。私に向き直ったその右手には、スマホを持っていた。
『いったん持ち帰る。また話そう』
「……え?」
『気を付けて帰って。財布もありがとう』
いくらか吹っ切れたような顔をして、佐々木くんは電車に乗り込んだ。
『じゃあ、また学校で』
「あ……」
何か言う前に、電車はその扉を閉める。扉付近に立っていた佐々木くんは逡巡して、けれど手を振ってきた。
電車はどんどん加速して、駅を去っていった。だんだんと小さくなって、やがて車体が見えなくなるまで、私は佇んでいた。
**
佐々木くんとあんな別れをして迎える月曜日は、今までのどの月曜日よりも憂鬱だった。少なくとも、スマホの貯めてしまった通知を見ても、何の罪悪感を感じないほどには、精神を消耗していた。学校を休んでしまおうか。そんな考えも頭をよぎったが、「カスミ、生きてる?」と飛んできたメッセージに、現実に引き戻された。
『体調悪くて、スマホほとんど見てなかったの。ごめん。今から読むよ』
返信すると、すぐに既読はついて『お大事に』なんていたわる言葉をかけてくれた。
だるい体を起こして、支度を整えて登校する。隣の席の佐々木くんは、私より先に登校していた。友人たちと談笑している姿はいつもと変わらない。
身構えて自分の席に近づくと、気づいた佐々木くんが声をかけてきた。
『おはよう』
隣同士の席になってもう半月以上になるけれど、それまで一度だって言われたことのない言葉だった。大抵はほかの友人の席のところに行っていることが多かったからかもしれないが、どういう風の吹き回しなのか。
戸惑いながらも「おはよう」と返せば、佐々木くんは満足そうにして、また友人たちとの会話に戻っていった。「お前、河野さんと仲良かったっけ」と言う友人たちに『まあ、教科書貸してもらったし』なんてそれっぽいいいわけをしていた。それ以上のことにはあまり興味はなかったようで、そこから話が広がっていくことはなかった。
それからも、佐々木くんは毎朝私に『おはよう』とあいさつしてきた。そのたびに私も「おはよう」と返すけれど、そこからさらに発展したことはない。毎日一回、おはよう、とかわすだけで、私たちの間には何もなかった。
佐々木くんが『また話そう』と言った、「また」も来ていない。もしかすると、あの場を丸く収めるための社交辞令だったのかも。もう、私とは話をしないとの意思表示なのでは。そうだとしたら、私も潔く身を引くべきだと思って、佐々木くんのことを変に意識することをやめた。
やっぱり、特別な誰かを作るというのは、今の自分には難しいのかもしれない。
それに答えるように、机の中のスマホが鳴る。バレンタインデイを気に、モモエはあの先輩を付き合うことになった。
最近はモモエの恋愛事情がよく話題に上がる。サエリは未だ浅田くんとの進展はないらしいけれど、どうやらメッセージの送りあいとかはしているらしい。ナナミと先輩との間は順調で、サナは相変わらず傍観者のポジションに落ち着いていた。
幸い告白現場を見ていたことに気づかれてはいないようだった。あの後もサナの挙動には注意していたけれど、特に何かを言われることもなく、今まで通りの日常が続いている。
こんなふうに、また今までそうもそうであったように、高校生活を終えるんだろうか。
そんなことをぼんやり考えていたら、「その日」は突然、私たちの意思などお構いなしにやってきた。
何って理由はわからないけれど、とても学校の中がざわざわしている気がした。生徒が、というよりは先生たちが。職員室からいつもより緊迫した空気が漂っていた。
教室内でも先生たちが騒がしいという話で持ち切りで、朝のホームルーム開始時刻になっても担任が来なかった。隣のクラスからもざわざわと聞こえてただならぬ雰囲気を感じ取ったところに、担任の先生がやってきた。
「みんな聞いて。今から体育館に集合」
いやそうな声が上がる。それはそうだ。こんな真冬に体育の授業だっていやなのに、外も同然の体育館で体も動かさずに話を聞くだけのために集められるなら、教室でいいじゃないか。そんな声が聞こえる。
それでも、いつもあかるい調子の担任の切羽詰まった様子を見たら、みんな不思議な胸騒ぎを感じたらしく、担任の指示に従った。
私たちの学年だけではなく、体育館には全校生徒が集められていた。生徒が全員着席したのを確認して、校長先生が我々の前に現れた。
一つ上の学年の男子が、自宅マンションから飛び降りたのは、昨日の早朝、未明のことだったらしい。週末を目の前にした金曜日、一時間目を削って緊急でもたれた学年集会では、フクザツな家庭環境が背景にあって、彼の中で選択肢は他になく、やむ負えなかったと聞かされた。
私を含めた全校生徒で黙祷を捧げて、教頭先生からの「命は尊いのだから」という話を聞いているときに、ひとりの男子生徒が突然取り乱した。先生に宥められながらも彼は騒ぎ立てるのをやめず、しまいには半狂乱になって泣き叫んだ。
彼のその言葉で、場が一斉に凍りついた。
――「俺が『お前なんていなくなれ』って言ったから」
教室に戻って誰かが教えてくれたけど、そのひとは亡くなった男子生徒の親友だったそうだ。
彼と亡くなった男子生徒はその数日前、些細なことで口論になり、その生徒に対して投げてしまった、と言った。彼はそれで飛び降りたのだと言い張って、叫び続けるから、生徒指導の先生数名によって保健室に連行された。
その後は生徒も先生もみんな心ここに在らずで、真面目に授業をしているものも、受けているものもいなかった。いつもは授業中に鳴りやまないスマホの通知も、今日は控えめだった。
『自殺なんてする人、本当にいるんだね』
それにみんなが、びっくりだよね、って。漫画見たい、って。あの人すごかったね、って。
あの人も、死んじゃうのかな、って。
私は『悲しいね』って返す以外、できなかった。
三月の席替えで端の窓際の列になった佐々木くんだけが唯一、普段と変わりのないように板書をとって、まっすぐ黒板と、先生の目を見ていた。
掃除の時間、トイレ掃除をしていたはずの佐々木くんが、いつかのように舞台のごみ袋を変えていた。あの駅での一件以来、佐々木君は一言も話しかけてこなかったし、私もあえて自分から声をかけに行くことはしなかった。
その日が来たんだな、と思って『今日の放課後空いてる?』と聞かれたから、「空いてるよ」と答えた。
待ち合わせは保健室じゃなくて、駅だった。忘れ物をした、と学校に戻るふりをしてみんなをだまし、雑踏に身を置きながら佐々木くんを待っていた。
佐々木くんはスケッチブックをわきに抱えて、現れた。
『ちょっと歩かない?』
頷いて、私たちは歩き始めた。きっと今朝の事が尾を引いいた。道中、一言もお互いに発しなかった。私たちの地面を踏む音が、やけに耳についた。
ボーッとしていたのか、駅前の横断歩道を渡るとき、赤信号にも関わらず一歩を踏み出した私の制服を佐々木くんが引っ張ってくれたことで、今日初めて意識が戻ったような気分だった。
佐々木くんに着いて行っていきついたのは、公園だった。自動販売機て暖とりのために、お茶の缶を一つずつ買って、ひとも疎らな公園のベンチにふたり腰掛けた。
お母さんに背中を押してもらって楽しそうにブランコを漕いでいた男の子を見つめていたら、目の前にスケッチブックが現れた。
『今日ずっと、ボーッとしてたね』
私の顔を覗き込んで『大丈夫?』とさらに尋ねてくる彼に、ゆるく頷いた。
「みんなそんな感じだったね」
『田中先生、チョーク折ったしね』
「いつもなら乱れない板書も、ガタガタだったもんね」
数学の授業を思い出して、少しだけ笑いが戻る。綺麗にきっちり一直線に文字を書くことで有名な田中先生。今日は板書の文字もガタガタで、計算も間違っていたし、途中で力み過ぎてチョークも折っていた。授業中は誰ひとりクスリともしなかったのに、今になって笑うことができるのはどうしてだろう。
「佐々木くんは、書くのも早いんだね」
スケッチブックを使うのを見たのは、スマホを壊した時以来だ。
『小学生はスマホ持てなかったから、練習した』
「そうだったんだ」
『手話も一応できるけど、相手に覚えてもらわないといけないから、こっちの方が楽で』
スマホの方がもっと楽なはずなのに、今日わざわざスケッチブックを使うのは、どうしてなのだろう。佐々木くんがそれきり何も「しゃべらなく」なったので、私も沈黙に身をゆだねた。
少しずつ温かくなってくる三月のはじめ。遊んでいた男の子の姿ももうない。夜のとばりはすっかりおろされて、公園に私たち以外誰もいなかった。住宅街の中に位置しているせいか、とても静かだった。油断したら、暗闇に飲み込まれそうなほど。
ベンチの横に立つ街灯の光は弱弱しくて、ぎりぎりスケッチブックに明かりが届くくらい。
さっさっ、とスケッチブックの上を鉛筆が滑る音が聞こえる。喉が渇いてしまって、缶のプルタブを起こした。すっかり冷えた緑茶は、逆に水分を奪っていったような気がした。
鉛筆の音がやむ。隣を見ると、佐々木くんが少しだけ、私の方にスケッチブックを寄せてきた。
『僕ね、河野さん』
内緒の話をするみたいに、さっきよりも文字が小さくなった。読んだ意思を示して頷くと、佐々木くんはその後に続けた。真っ白い画用紙の上に、一文字一文字黒い文字が浮かび上がっていく。佐々木くんの払うような筆跡を目で追い、お茶の代わりに息を飲んだ。
動揺で揺れた私の瞳には気づいたかもしれないけれど、しばらく顔を上げることができなかった。
――『生まれて初めて、喋れなくてよかった、って思っちゃった』
速くなる鼓動は正直だ。私は少しだけ期待していた。
佐々木くんは、自分が話せないことを、強みにしているって。
墓参りに行くといった佐々木くんを見送ったあの日の答えが、そこにはあった。
佐々木くんはずっと「しゃべる」ことを望んでいた。兄の身代わりになるとかそういうことも含めて、「普通のひと」と同じようになることを、願っていたのだろう。
兄の身代わりとかそれ以前に、「話す」ことのできない己に対するそれほどまでの劣等感を抱いているとは、思えなかった。
考えてみれば「普通の人」と同じように「しゃべる」ためにスマホをいついかなる時も携帯しているのは、そんな意思の表れだろう。でもスマホを使って「しゃべる」のは、ある種の特技のように見えていた。
だから「しゃべりたい」とは思っている人が「しゃべれてよかった」とは思っても、「しゃべれなくてよかった」と思うなどとは、考えもつかなかった。
私は、どんな顔をしていたのだろう。佐々木くんは『なんでそんな顔してるの?』と笑った。
佐々木くんが笑顔なんだから、私も笑えればよかったけれど、それは許されないような気がして、ただ唇を一の字に結んだ。じわりを熱くなる目頭に、今はお前が出てくる番ではないと舌を噛む。
佐々木くんは小首をかしげて暫く私と見つめ合ったあと、スケッチブックのページを捲った。そうして佐々木くんは、どうしてお兄さんの声を、自分の「声」として使うようになったかの経緯を教えてくれた。
――少し長くなるんだけど、読んでもらえたら嬉しい。
兄貴は、小さいころから入退院を繰り返して、学校も休みがちだったんだけど。それでも明るくって、僕たちにとっては光そのものって感じだった。昏いところは一切見せずに、明るく振舞って、病がどんどん進行するにつれて、自力で起き上がれなくなっても、「大丈夫」「できる」と思い通りに動かない表情筋をどうにか動かして笑っていた。
それなのに、あの日、あんなに取り乱した姿を初めて見た。涙を流す両親も、見舞いに来てたサトル(保健室のあの人の名前)も、駆けつけた看護師や医師も寄せ付けず、僕だけが病室に通されたんだ。
枝のように細い腕でこんな力がまだ残っていたのかと思うほどに、病室はひっちゃかめっちゃかだった。兄貴の頭はぐしゃぐしゃに掻き毟られて、棚も机も、車椅子もひっくり返って、ガラスの花瓶は原型をとどめないくらいに粉々にたたき割られてた。その破片が窓から差し込む光を反射して宝石みたいだな、って思ったよ。
そしたら兄貴に呼ばれた。
「リョウガ、俺はこんな風にはならないんだよ」って砕けたガラスを指さして、「もっともっと粉々になって、風化していくんだ」って。生けてあったはずの花束は、花びらと茎とにバラバラにされて、床に転がってた。
ちょうどホスピスに移動してから、少し経った頃だったから、思い返したら無理もなかったと思う。同時に命の終わりをただ傍観するしかできない、己の無力さも、不甲斐なさも痛感した瞬間だった。
真っ白の薔薇やシーツは、兄貴が暴れる過程で作った傷口から流れた鮮血で、赤に染まってて。そんな中、しばらくお互いに見つめあってた。
兄貴はしゃべれない僕をずいぶんかわいがってくれてた。ハンディのある者同士、通じ合う部分があったのは確かだよ。でもその時の眼差しは、羨望とも憎しみともとれるものだった。
お前は健康でいいな、って。
実際、兄貴が暴言の類を僕に投げることはなかったけど、代わりに聞かれた。
「声を形に残すことって、できると思う?」って。
最初は何言ってんだろう、って思ったけど、気づいたんだ。兄貴はこの世から忘れられるのが怖いんじゃないかって、死んで、存在事なかったことにされるのが嫌なんじゃないかって。
だから、誰も兄貴を忘れないように、動画に兄貴の様子を収めることにしたんだ。もうちょっと健康そうなときにやってくれよ、って呆れられたけど、僕にはどこまでも甘いひとだったから。学校帰りにまっすぐ病院に向かって、それで沢山お話して、たくさん兄貴の生きている瞬間をビデオに収めた。
楽しかった。カメラを向けると、嫌そうにふざけるところも、ちょけるところも、大胆に笑って見せるところも。この人が死ぬなんて、嘘なんじゃないかって思った。
そうやってしばらく過ごしてたら、一日だけ外出の許可が下りたんだ。
外に出たいって兄貴が言うから、サトルと二人で頼み込んで、一日だけもぎ取った。その日はたまたま学校が休みになったから、朝から兄貴と二人で、兄貴を背負って、点滴を引いて、外に出たんだ。ちょうど梅の花咲き始めたころで、見に行きたいって。
小さいときはお前は負ぶられる側だったのにな、ってぶつくさ言う兄貴を背負って。許された三十分でめいいっぱい、外の世界を楽しんでもらおうと思った。
目に見えてやせ衰えてはいたんだけどさ、太ももとか脛の太さが元気だったころの半分くらいになってて、肋骨はペッタリと僕の背中にくっついて、呼吸とともに動くの。
正直怖いって思った。でもそんなこと兄貴に知られたくないかったから、頑張って考えないようにしてたんだ。あの人は、僕がしゃべれなくても、僕の声を聴けてしまう人だったから。
そしたら、兄貴が言ったんだ。
「俺の声、お前にやるよ」って。
え、って思った。声なんてもらるわけがない。何言ってるんだろうと思って首傾げてたら、「でも、重いかな」って一人で笑うの。おかしそうに。喉を鳴らして――。
事前に書いたのだという、その続きを求めてページを捲った。
『そしたら、翌日。兄さんは死んだんだ。自らの手で、命を終わらせた』
その言葉は、ものすごい破壊力で私に迫ってきた。
――外出許可の下りた、翌日だったんだ。僕がたまたま風邪をひいてしまって、お見舞いに行けなかった日。今思うと、兄貴はそんな瞬間が来るのを望んでいたんだと思う。
その日はサトルがお見舞いに行ったんだ。そしたら教室に兄貴がいないことに気づいて、看護師さんたちに声をかけて、捜索が始まった。あんな体で遠くに行けるはずがないってみんなで探し回って、兄貴を見つけたのはサトルだった。
病院の屋上。立ち入り禁止なのに。火事場のバカ力ってやつだったんじゃないかな。
柵を乗り越えようとしてるところで、サトルは必死になって兄貴を呼び止めたけど、兄貴の決心は揺るがなかったんだ。
一言「ごめん」って、そういって。
大きな風が吹いたと当時に、兄貴ははなびらのように舞い上がって、そうやって消えたって、サトルは言ってた。
正直、幸か不幸かわかんない。両親は死に目に会えなくて、サトルは唯一の目撃者で、もうみんなボロボロだった。僕は自分が風邪さえ引かなければ、って責める暇もなく、葬式が、告別式が、四十九日が進んでいって。僕たちだけを置いて、時間だけが無情に流れていくんだ。両親はまだ大人だったからさ(たぶんだけど)、兄貴が言いならそれでいいって。あとから遺書っぽいものも見つかったし、受け入れていったんだけど。
サトルは、もう大変だったんだ。僕は正直よく知らないけど、昔いじめられてたのを兄貴がかばっただか何だかで、すっごい慕ってたから。ちょっと目を離せばすぐ後を追おうとして。どうにかして、サトルをこの世にとどめて置ける方法がないか考えて、兄貴の言葉を思い出したんだ。
「俺の声、お前にやるよ」っていうの。
サトルはコンピューターとかプログラミングとはすごい強かったから、絶対他人を寄せ付けなかった部屋のドア蹴破って、ビデオに録音した兄貴の声で、僕のために読み上げソフト作れ、って頼んだ。これしか方法がなくて一か八かのかけだったけど、結局僕の勝ち。
僕が撮った動画全部託して、サトルは今の僕の「声」を作ってくれたんだ。兄さんの面影を探すように、一日中音声づくりに没頭してたよ。飲まず食わずの生活が続いてぶっ倒れたりもしたけど、少なくともサトルは生きた。
そうやって、あの音声読み上げアプリができたんだ。僕の兄貴の声で作った、僕専用のアプリ。今までスケッチブックで話していた僕にとっては、画期的な道具で。すぐ入力の仕方をマスターしようとしたよ。
一番最初は、すっごい棒読みのものだったんだけど、改良に改良を重ねて、今の流暢な奴ができて。しゃべりかた、兄貴そのままだった。サトルも両親も喜んだ。兄貴の声が、僕が「しゃべる」だけで聞けるから。
一つ欠点は、「ごめん」は言えないんだ。気づかなかったかもしれないけど。サトルが兄貴の声の「ごめん」だけは聞けないって言って、それだけ、打っても音声が出ない仕様になってるんだ――。
そこで、文章は終わっていた。私は何の感想も伝えずに、スケッチブックを佐々木くんに返した。佐々木くんは私からスケッチブックを受け取ると、新しいページを開いて、また鉛筆を滑らせていく。
滑らかに動く彼の手に、今ははっきりと、罪悪感を抱いた。
『スマホ壊したかったのは僕の方だったんじゃないか聞かれて、本当にそうだと思ったよ。僕の『声』は僕のためでもあるけれど、結局は兄ちゃんのためで、家族のためで、サトルのためで。どこまで行っても僕の『声』は偽物にしかならない。どれだけ流ちょうにしゃべっていても、僕の本当の声じゃないんだって、言われた気がして。正直、ちょっと怒った』
佐々木くんの表情は書いてあることとは逆に、とても穏やかで笑みさえ浮かべていた。私は謝ることもはばかられて、ただじっと彼の「声」に耳を傾けていた。
『声ってちゃんと、心に届くよね。でも僕の『声』はどれだけ頑張っても、画面の上の、紙の上の言葉でしかない。だから河野さんたちが、うらやましい。すごく、すごく。喋ることのできるできる河野さんたちが、すごくすごく、羨ましかったけど』
佐々木くんはそこでいったん手を止め、思案するように瞼を閉じた。風が笑うようにほほを撫でていったけれど、寒さはみじんも感じなかった。ゆっくりを目を開け、続きを書こうとする佐々木くんの手は、小刻みに震えていた。
『あんな風に、心の突いてはいけない場所にも、『声』というものが、もし届いてしまうようなことがあるなら。話せなくてよかったって、思っちゃった』
――『生まれて初めて、話せなくてもいいことあるんだ、って思んたんだ』
くいっと口の端をあげて私を見る、深海のような瞳は、嘘の無い全きもの。
途轍もなく、自分が惨めに思えた。今まで佐々木くんを「普通の男の子」だと思っていたのに、心の何処かでは線引きを引いていたのだと思って、申し訳なくなった。まずそもそも佐々木くんのことを「普通の子」として自分は認識していた、その事実が間違っていた。その見解から彼を「特別視」していたのだ。どうしたって佐々木くんは「自分の声」を持つことができないし、どれだけ速記ができても、私たちと同じように声をあげて笑うことはできない。
普通に接しているつもりでも、いつも頭の片隅ではそのことを思っていて、どこかで遠慮していた。自分の中のその事実に、愕然とした。
――過去に「しゃべれなくて、いいのに」と思った自分を、恥じた。
佐々木くんはスケッチブックをたたむと、自分のほほで両の口角を上げて見せた。口をかしげる私にもう一度同じようにやって見せると「わらう」と唇を動かして笑って見せる。
そんな気分はでまるっきりなかったけれど、なんとか笑顔を作ってみせると満足したようで佐々木くんは大きく頷いた。
言葉を探す私を置いて、話を終えた佐々木くんは、お茶缶のプルタブを起こし、一気に飲み干した。そして向こうの方に見えたごみ箱をめがけて缶を投げた。スチール缶は大きな放物線を描き、見事ゴミ箱の中に着地。カランカランとほかの缶にぶつかつ音が公園中に響き渡った。
また、佐々木くんはリュックサックの中から購買のクリームパンを取り出すと『食べていい?』と私に断って、頬張り始めた。何にも気にしてないように振る舞う彼に、これ以上罪悪感を抱くのも失礼な気がして、私も缶のお茶を飲み干した。佐々木くんの真似をして缶を投げてみたけれど、惜しいところでゴミ箱のふちにはじかれてしまった。笑う佐々木くんを横目にちゃんと缶のごみ箱に歩いて行って捨てた。
普通に笑える。そう思うのに、何となくさっきの言葉に引っかかる。
佐々木くんはただ思ったことを吐き出して、私に聞いて欲しくて、それで終わりにしようとしたかもしれない。いつかの私のように。
闇夜の碧い雰囲気にのまれ、私の感情はいろんな意味で昂っていた。
「佐々木くん」
首をかしげて彼は私を見た。
「佐々木くんの言葉は決してただ画面の上の、ただ紙の上もの、なんかじゃないよ。佐々木くんの『声』の背景も、佐々木くんがどう思っていたかなんて、全然知らなかったから、バッチリグサって、私の心にも刺さったし。どこかで佐々木くんに対して線を引いていた自分に気づいて、申し訳なくなった」
佐々木くんはくわえていたクリームパンを噛みちぎると、ゆっくり咀嚼しながら手を下ろした。佐々木くんの膝の上にある、角が草臥れたスケッチブックの壁は、私にはどうしたって超えることはできない。
例えば彼の声は私には聞こえないだけで、他の人なら聞くことのできるものかもしれない。
できることなら、可能であるなら、私が佐々木くんを、みんなと同じように「話せる」様にしてあげたいけれど、そんなことは出来っこないと分かりきっているから。
「聞こえるのに、喋れないってどんな感覚?」
佐々木くんの咀嚼が、止まる。
握っていたクリームパンに少し力が入って、ガサリと包装の袋の微かな音が聞こえた。また吹いた風が私の頬を撫で、佐々木くんの髪を遊んで去っていく。暗くて顔が見えないのは好都合だった。
みんなの声は聞いて理解ができるのに、自分が話せないとは、どんな気持ちなのだろう。
想像はいくらでもできるけど、私は逆立ちしたって佐々木くんになることはできない。
彼が自分の立場をどう感じて、周りにどんな印象を抱いているのかを理解できるは、一生来ないだろう。
私が取り払うことのできない境界線は、他のみんなだってきっと無意識に作っているもので、どれだけ佐々木くんが「普通の男の子」であっても、そのスケッチブックを抱えている限り、スマホを握っているかぎり、私たちと佐々木くんには異なった人生がすでに決められている。
「佐々木くんは……どんな気持ちで、今まで過ごしてきたの?」
初めから何もない人と、後から失ってしまった人とでは、どちらの悲しみがより深いだろうか。
声を持っていた、早春の夜露となってしまった男子生徒と、届かない「声」を持つ佐々木くんでは、どちらの孤独が大きかっただろうか。
天秤にかければ、還らぬ命となってしまった男子生徒の方がより重いように思われるかもしれない。しかし、これから先、もっと長い時間を生きていく佐々木くんが直面する壁は、どれほど高くて、厚いのだろう。
思ったことを素直に口に出して相手に伝えられないのは、どんな気持ちなのだろう。
佐々木くんの瞳の奥が揺れたのがわかった。
漆黒の空を映すその瞳に、私は居なかった。
白いパンからはみ出た黄色いクリームの上に、星屑が落ちた。
パタリ、パタリと溢れでてくる雫は、スケッチブックとクリームパンに落ちていく。
寒さからではなく震える肩に、私は立ち上がってそっと腕を回した。拒まない佐々木くんの体は私の中に到底納まりきらないけれど、肩に重みが加わった。
初めて抱きしめた男の子は、とても小さくて脆くて、もう少し力を入れるだけで壊れてしまいそうだった。でも、このまま抱き締めていないと、どこかに消えてしまいそうだった。
佐々木くんが泣いても声は出ない。ただただ鼻をすする音だけが、ちっぽけな空間に響いた。
一頻り佐々木くんが泣いた後で、私たちは来た道を引き返した。私が先に歩いて、佐々木くんは後ろをついてきた。その間、会話はなかった。二人で俯き、コンクリートの隙間に穴を探して、つま先ばかり見ていた。
ただ、駅の前で別れる時に手は振り合った。改札の向こう側の佐々木くんが振り返って小さく手を振ってくれたから、私も振り返した。
また、明日。
そんな意味を込めて。
佐々木くんの後ろ姿がプラットホームに消えていくのを見届けて、ようやく肩の力が抜けた。自分の乗る路線が入ってくるプラットホームのベンチに腰掛け、空を見上げる。昨日と変わらない、星天が広がっていた。
星が、目に入ってきた。
そんな言い訳をして、泣いてしまう自分を許したかった。
**
次の日もいつも通り、朝はやってきた。太陽が山の端にまだ隠れる暁の刻に、目が覚めてしまった。二度寝を試みても、寝付ける気もしなかったから、いつもは乗らない時間帯の電車に乗り込んで登校した。
校門が開いたばかりの校舎に足を踏み入れると、しんと静まり返って昇降口でひときわ目立つ靴箱を見つけた。それは二年生のあるクラスのもので、一つの靴箱に溢れんばかりの花が入っていた。扉も閉まらないくらいに溢れかえり、下の段の生徒に被害を与えていた。
色取り取りの花びらで敷き詰められた靴箱はとても目立っていた。もう履かれることのない上履きにも沢山の花と、メッセージの書かれた付箋が入れられて、生憎押し出されてしまったのか、落ちてしまっていた一枚を拾い上げると見えた「好きでした」の文字。
折りたたみ、靴底深くに入れてあげた。
『河野さん』
ふいに、名前を呼ばれる。振り返ると、立っていたのは佐々木くんだった。今登校してきたばかりのようで『河野さん早いね』なんて声をかけてくる。
右手に持っているのは、いつもと同じ、スマートフォン。
けれど。
「佐々木くん、声……変わった?」
恐る恐る尋ねると、佐々木くんは『そうだよ』と嬉しそうだった。
『遅ればせながら、声変わり。どう? 似合ってる?』
新しいおもちゃを買ってもらった子どもみたいに、はしゃいでいる。
その声は、今まで聞いていた佐々木くんの『声』よりも、もう少し、高くて穏やかな声色だった。朗らかに笑う佐々木くんに、ぴったりの。
「うん。いい『声』だね」
『昨日、サトルと話して。被検体やめるって言ったんだ。そしたら、くれたんだ。そろそろ成長しなきゃな、って言ってさ』
サトルさんにどんな心境の変化があったのだろう。佐々木くんと同じきっかけかもしれないし、そうでもないかもしれない。けれど、サトルさんも確実に、前に進みたいと願っている人なのだと知った。
「クラスのみんな、驚くよ、きっと」
『興奮して眠れなかったから、早く来たのは内緒ね』
唇に人差し指を当てるしぐさは、なんだかかわいかった。
上履きに着替えた佐々木くんの目にも、その靴箱が映った。佐々木くんは私の隣に来ると、手を合わせて静かに黙とうをささげた。私も彼に倣って、両手を合わせた。
朝陽は静かに、顔を出した。
教室は朝からチョコレートの匂いでいっぱいだった。女の子の机のかばん掛けにはチョコのお菓子の入ったトートバッグや紙袋なんかが、スクールバッグと一緒にかかっている。
友チョコの交換でにぎわっている教室の中、男子がそれを眺めながらそわそわしているのは、何となく雰囲気や視線で分かる。
私たちのグループも友チョコの交換をしていた。
サナはガトーショコラ、モモエはカップケーキ、サエリは生チョコで、ナナミはトリュフ。
でも、私は。
「あれ、カスミからはチョコないの?」
はてなを浮かべる友人に、私は謝る。
「実は、大失敗しちゃって……」
「うそー、カスミって器用そうなのに」
「ちなみに何作ろうとしてたの?」
「チョコチップの、スコーンを……」
これは一応、本当だ。チョコレートは苦手だけれど、生地にチョコチップを混ぜ込む程度なら、できると思っていた。チョコ味のものでない代わりに凝ったものにしようと、スコーンの簡単なレシピを探して、材料をそろえたところまではよかった。
でも、買ってきたチョコチップの袋の封を切ったとき、あの時の記憶がよみがえってきて、結局生地に混ぜることもできなかった。焼いたプレーンスコーンは今朝の朝ごはんになった。
既製品は大丈夫、買う分には問題ない。でも「作る」となると違った。当然作業をすれば手にチョコレートの匂いが残る。それが気持ち悪くて、どうしてもだめだった。
そんな経緯を一から彼女たちに話すつもりはなかったから、笑ってごまかした。
「カスミって案外不器用なんだね」
「そう、なの。だから、一応保険としてチョコは買ってて、かわいかったから……」
よかった、受け入れてもらえそう。そう思って、市販のチョコアソートの箱を渡そうとすると、サナが首を振った。箱を持つ手に力が入って、手提げの紙袋の中から嫌な音を立てた。
「カスミの気持ちは伝わってる。だから、ホワイトデイのお返し、期待してるよ」
「え……」
サナの態度に、周りも同乗して「そうそう」と口々に言う。
「確かに。せっかくなら、カスミのスコーン、食べたいし」
「そうだね。失敗したのでもよかったのに」
「ホワイトデイのお返しってことで」
ていうかカスミってお菓子作り苦手なんだね。カスミは結構いろいろそつなくこなすと思ってたけど。でも、カスミがもう少し身近に感じて嬉しいかな。
そんな言葉に体が固くなる。
「身近?」
聞き返すと、サエリは「あ、悪い意味じゃなくてね」と弁解する。
「だってなんか、カスミってさ、いい子すぎるっていうか」
「例えるなら、マリア様的なポジション?」
「あ、わかるー」
「……そう、うかな?」
私をほめそやすような言葉を並べているけれど、私が用意したチョコは受け取ってくれないらしい。チョコの箱をつかんだままだった手の力を抜くと、コンっと他と箱の上に落ちた音が静かに聞こえた。
こんなことなら、吐いてでも作るんだった。
教室に充満した、甘い匂いに気が滅入る。何もあげないのも反感を買う気がして、変わりのものを用意したのに、受け取ってもらえなかった。
今度は私が、ハブられたメッセージグループを作られる番かもしれない。
ナナミが先輩にチョコをあげると惚気ているのも、モモエが今日告白すると意気込んでいるのも、サエリが浅田にあげろとみんなにからかわれているのも、どんどん遠ざかっていく。口の中から乾いたような笑いがでて、なんだか自分じゃない気がして、怖くなった。
「ずっと、好きだったの」
そんな言葉が、私の向かおうとした方向から聞こえてきたものだから思わず身を隠した。
みんなそれぞれに予定があるからと今日は教室で解散になって、私はなんとなく帰りたくなくて、図書館にいた。適当に手に取った小説が面白くて、気づいたら日もとっぷり暮れてしまったから、帰ろうと教室に向かっていた。
私の教室は、この角を曲がったところだったけれど、遠回りしようと階段を下りるところだった。告白の現場になっているのは、その階段の踊り場だ。
「付き合って、もらえませんか」
本当なら人の恋路を覗くような野暮な真似はしない。でも告白していた女の子の声に驚きを隠せなくて、盗み聞きをしてしまっている。だって、ここから彼女の姿を見ることができるけど――サナだった。
好きな人がいるなんて、知らなかった。今までだって、誰が気になっているとかそんな素振り、他の三人と違って一度も見せたことがなかったから。
これはたぶん、知らないふりをした方がいいに違いない。変に結末を知ってしまって後々ぼろが出るよりもこの場で立ち去るのが吉だ。
このまままっすぐ教室に戻ろうとした。けれど、聞こえた男子の声に、思わず足を止めてしまった。
『ごめんなさい』
告白されている男子は陰になって見えない。でもその「声」は確かによく知るものだった。
『気持ちは、うれしいです。ありがとう。でも、申し訳ないけど、僕には応えられないです』
「カスミのことが、好きなの?」
かぶせるように問いかけたサナの声は、震えていた。
今までサナが、佐々木くんの話題になると突っかかってきたりしたのは、このことが原因だったのかと納得した。今朝のチョコレートを受け取ってくれなかった件も、おそらくこのことがあったのかもしれない。
『秘密、です』
彼――佐々木くんは、それだけ答えた。サナはその顔に落胆の色を浮かべていた。佐々木くんがどんな顔をしていたのかは、分からない。サナはしばしの沈黙の後、「わかった。気持ち、聞いてくれてありがとう」と告げると、階段を下がっていったようだった。
上がってこられたらまずかった。ほっと胸をなでおろした。
束の間、佐々木くんが現れたから、口から心臓が出るところだった。当の佐々木くんも相当驚いたようで、声は出ないものの、これでもかというほどに目を見開いていた。
「……ご、ごめんなさい」
とりあえず謝罪を述べた。
「全く、盗み聞きするつもりはなかったんだけど、本当に……ごめんなさい」
いっそこのまま消え去りたい。ぎゅっと目をつむって待っていると、『河野さん』と呼ばれた。
「とりあえず、場所、移そう」
教室を目指して歩く佐々木くんの、少し後ろをついていった。
私の席は廊下側の真ん中、一番後ろ。佐々木くんはその隣。
二人で腰かけても、しばらく沈黙は続いたままだった。
二月の日の入りは早い。特に七時間目まである日なんかは、ホームルームが終わると、太陽は地平線にその名残だけがあって、すっかり夜のとばりが下ろされている。蛍光灯のついた教室の窓からは外の様子は見えない。代わりに、私と、そして佐々木くんの姿が映っていた。
『河野さんは、彼女のこと知ってた?』
彼女のこと、とは、サナが佐々木くんを好きだという事実、と指しているのだろう。全く見当もつかなかったと、首を振った。右を向くと、佐々木くんは頬杖をついて黒板を見ていた。
『そっか』
甘酸っぱさなんて微塵もない声音だった。
全部を知ってるから友達で、親友でも、何か一つでも知らないことがあれば友達じゃない、なんてことは言わない。私だって、みんなにすべてを見せているわけでもない。今までのみんなの態度を見て、サナが誰にも秘めた恋心を打ち明けないと決めていたのならそれでもいい気がした。ショックはなかった、ただ自分はまた同じことをやってしまったのか、とそればかり考えていた。
「佐々木くん」
隣から視線を感じる。私は、机の上で祈るように手を組んだ。
「私、チョコレートが苦手なの」
『うん?』
「昔はね、好きだったの。普通に、食べれた」
小学六年生、まだ私が本当の意味の絶望を知らなかったころ。仲良しだったグループのメンバーは私を含めて六人、内三人がある人気ものの男の子、もう名前も忘れてしまったけれど、Aくんのことが好きだった。
「カスミちゃんには相談するけど、わたし、Aくんのことが好きなの」
類は友を呼ぶという様に、同じグループにいるということは、それなりに趣味嗜好に似ているところがある。私は席替えで隣になったことから、グループの中で一番最初に、Aくんと仲が良くなった。当時、好きな本のシリーズが一緒だったことが大きかった。Aくんはかなりの読書家で、私の知らない知識をたくさん持っていた。それを聞くのが、純粋に楽しかったのだ。
私のAくんに対する感情に、恋のようなものはなかった。全く。知らないことを教えてくれる、むしろ先生のような存在に近かったと思う。
だから恋の相談をされたとき、心から応援できたし、友達の助けになりたいと思っていた。
「カスミちゃんのこと、信頼してるから」
「カスミになら、相談できるの」
そういわれてしまえば、自尊心というのはむくむくと大きくなって。
思い返せばどうして自分がそんな立ち位置になったか、そのきっかけは覚えていないけれど、人の顔色を窺って、考えを先回りしてしまう癖はもともとあった。みんなの輪が崩れないための自分の立ち回り方を探していたら、いつの間にか「いい子」のレッテルを貼られていた。
いい子だね。
優しいね。
ありがとう。
その言葉が嬉しくて、その言葉をもらえる努力は、していた。
三人それぞれから受けた相談も、決してほかの人にもれないように細心の注意を払ったし、それぞれがうまくいくように平等にAくんの情報を提供した。自分の行動は感謝されているのだと、信じて疑わなかった――あの日、緊張して顔を真っ赤にする、Aくんを目の前にするまでは。
それはバレンタインデイの数日前のことだった。
図書委員の作業を終えて帰ろうというときに、Aくんが私を呼び止めて言った。
「河野さんのことが、好きなんだ」
いつも自信ありげに話をするAくんの手が震えているのを見つけて、私は静かに絶望した。
三人にあげたAくんの情報――誕生日、好きな食べ物、嫌いな食べ物、好きな本、好きな言葉、好きなスポーツ選手、将来の夢……――は、私がグループの中で自分の居場所を担保するもの。それが全部、一瞬にして霧散した。
この事実が知られてしまっては、みんなの信用を、自分の居場所を失ってしまう。何としてでもそれは避けたい。私とAくんを通して、私のグループと、Aくんのグループの交流も増えていて、修学旅行の自由行動は一緒だったほど。
わたしは橋渡し役としての自分の適性すら見出していた。
だから、Aくんの矢印が自分に向いていることに気づけなかった。
『ごめんなさい』
Aくんにはみなまで言わさず、私はその場を走り去った。トイレに駆け込んで、お昼に食べたカレーの残骸のようなものと、胃酸を吐き出した。ようやく落ち着いたときには日もすっかり暮れていて、それをいいように泣きながら帰った。
翌日登校すると、Aくんに私は無視された。私のグループの他の子とは普通に会話するけれど、明らかに私のことは避けた。みんなに何があったのか不思議がられたけれど、私は本当のことは言えずに、ただ、委員会で怒らせてしまった、とだけ答えた。
迎えたバレンタインデイ。みんな持ち込みを禁止されているチョコレートをこっそり体操着入れやランドセルに詰めて登校していた。思い人がいる子たちは、直接チョコを渡したり、靴箱や、机の中に入れたりと、それぞれのやり方でチョコを渡していた。私に相談を持ち掛けてきた三人も「告白するんだ」と意気込んでいた。私はそれぞれが誰を思っているのか知らないふりをして、送り出した。
話があるんだけど、と呼び出されたれたのは、まだほんのりバレンタインデイの余韻が残る翌日。私を呼び出したのは一人だったけれど、着いていった場所にはあと二人いた。彼女たちは、私にAくんのことで相談していた、三人だった。
嫌な予感程、当たるのだ。三人を前に胸がざわめいて、手先の感覚がなくなっていった。口の中が渇いて、呼吸が苦しくなっていった。
二月のその日は風があって、一段と寒かった。型どおり、私たちは体育館裏で対峙していた。
「どう言うことか説明してくれる?」
私に心当たりがあることをわかっているような口ぶりだった。三人の顔はみんな同じように、失望と怒りと、そして憎悪に満ちていた。
「ごめんなさい」
とっさに謝った。とりあえず謝罪は口にしなければと思った。頭を深く下げて、ただ謝った。
「なんのために謝ってんの?」
なんのためにと言われても、なんと答えていいのかわからずに、黙ったまま頭を下げ続けていた。
「私は、カスミを信用していたんだよ」
その言葉は強く胸に突き刺さった。それは私が何より欲した言葉なのに、全てが過去形になってしまっていた。
「それなのにさ、こんなことってなくない?」
声が震えているのに気づいて顔を上げると、彼女は泣いていた。唇を噛み締めて、強く拳を握っている姿はみな同じだった。三人の視線が肌を焼いていくようで、ピリピリと痛かったのをよく覚えている。
でも私は他に言葉を知らなかった。いくら自分の辞書の中に探してみても、見つからなかった。その場を効果的に収める方法が、分からなかった。
一人がポケットの中から、昨日私があげたチョコクッキーを取り出した。それに続いて後の二人も同様に同じものを手にしていた。そして三人で目配せすると、それを思いっきり地面に叩きつけて、踏みつけた。クッキーは音を立てて割れ、粉々に砕かれた。ラッピングの袋は破れ、リボンは土で汚れていった。
「裏切りもの」
そう吐き捨てて、彼女たちはその場を後にした。残されたのは私と、そして食べられなかったクッキーたち。風に吹かれて砂埃と一緒に黒い小麦粉の塊が宙に舞い、甘い香りが漂っていた。私は泣きながら、クッキーの破片をかき集めて、ごみ箱の中に捨てた。
あとから聞いた話だと、私はあの三人のことが嫌いで、実らない恋を掴ませた詐欺師し仕立て上げられていた。自分の「いい子」を振りかざして、Aくんに色目を使い、彼女たちのみならず、全く気持ちのないAくんまでも陥れる、悪女であると。
私だって反論を試みなかったわけではない。けれど私が声を上げたところで、Aくんと、三人の友人を傷つけた事実は変えようがなかったから、その報いを受けることにした。
その日から、私の居場所はなくなった。グループから省かれ、「裏切りもの」のレッテルが貼られた。
それ以来、しばらくはチョコレートを見ると吐き気を催すほどだった。今はだいぶマシになり、自分で買ったりもできるけれど、チョコレートのお菓子を作ることは、できない。
「だから、今の私にとって、チョコレートは友情を壊したものっていう印象が強く、残ってて……苦手、なの」
チョコレートからしたら、いい迷惑だと思う。ただきっかけになったというだけなのに、勝手に縁起が悪いと言って、嫌われて。
今日だって。誰かにもらわれるはずのかわいらしいチョコレートは、私の都合のせいで行き場を失ってしまった。食べてあげられたら、一番いいのだけど。
『それは、僕に対しての、予防線だったりする?』
ぎょっとして隣を見る。佐々木くんはスマホから顔を上げない。
「え、あの……」
うぬぼれているわけではないけど、そういう意図がなかったわけではない。もし佐々木くんが少なからず私にそういう好意を抱いてくれているのであれば、サナと友達である以上、サナの告白の一件は墓場まで持っていくつもりだ。佐々木くんとそういう関係になることも、望んでいない。
私の言葉以上に、本人に伝わっていることが分かって、驚いたのだ。
『冗談、謝らないで』
口癖のようになっている「ごめん」という言葉を封じられる。喉まで出かかったその言葉を飲み込んだ。
『河野さんのことを、どう思ってるかを彼女に言わなかったのは、自分の河野さんに対する気持ちは、わざわざ他人に言うことではないと思ったからだよ。だから、僕が河野さんのことをどう思ってるかは、河野さんにも、秘密です』
佐々木くんはいたずらっぽく笑った。
「なにそれ」
『だって、何を言う前にそんなこと言われたら、もう何も言えないじゃん。ずるいなー、河野さん』
「えー」
この場を和ませるための、軽口だってわかってるから、私も笑いながら返す。
佐々木くんには、どう思われてもいいような気がしてきた。もし特別な好意を持ってくれているのだとしても、無理して答えなくてもいいといわれているように感じた。
教室の掛け時計より少し上にあるスピーカーから、最終下校時を促す放送が流れる。ほたるのひかりが、良いとは言えない音質でそのあとに続いた。
『帰ろうか』
佐々木くんは立ち上がって、大きく伸びをした。
『河野さんは、駅まで?』
「うん。佐々木くんも、だよね?」
登校中、何度か反対路線の車両から出てくるのを見かけたことがあった。
『そう。一緒に帰ろう、と言いたいところだけど』
首をかしげると、佐々木くんは気まずそうに私の様子を窺った。
『そしたら、困る、よね?』
きっとサナのことを言っている。前までの私なら、絶対に断っている。それに、そもそも教室までついてきたりしないし、嫌いになった経緯すら、話そうとは思わなかった。
でも、佐々木くんなら聞いてくれるのではないかと、期待した。
あのチョコレート事件から卒業までの時間は、ほぼ一人で過ごすことになり、卒業アルバムの寄せ書きは真っ白だった。それからお父さんの仕事の都合で転勤が決まり、私は逃げるように十二年間過ごした土地を後にした。
仲良しなんて作らない。
そう決めたはずなのに。
「ひとり」は、虚しかった。
「佐々木くんさえよければ、一緒に帰ろうよ」
私の佐々木くんに対して持っている今の気持ちは、きっと恋とは異なる形をしている。どちらかといえば、あの夕暮れの放課後の教室に切望したものになるのではないか、そんな予感。
まだ確証はないけど、このつながりを大切にしたいと願う。
『じゃあ、帰ろ』
ロッカーにかけてあったコートを羽織り、教科書を入れたスクールバッグを背負うと、机のフックにかかっている、紙袋が目に入る。
『河野さん』
佐々木くんは私からチョコレートの入った紙袋を、取り上げてしまった。
『よければこれ、僕にくれない?』
**
週末に理由もなく、街中を歩くことは時々あった。家にいるとスマホの通知が余計に気になってしまうから、外の空気を吸いながら歩く方がいくらか健康的な気がする、ってだけの理由で。
でも今日は特に、と外に出ようという気持ちになった。テレビで梅の見ごろが始まったニュースを見たのと、今朝起きてカーテンを開けたら雪が降っていたからだ。いつもよりも着込んで、雪の上をあるいても大丈夫なようにブーツを履いて出ると、昨日の夜から降り続けていた雪はしっかり積もっていた。この辺は積もること自体がそんなにないから、ワクワクしていた。
今日は誰とも約束がなかったから、朝から出かけて都心の方まで足を延ばし、昼食はふらりと立ち寄った喫茶店で取り、あとはぶらぶらと気持ちの向くままに歩いていた。駅近くの公園では梅の花が咲き乱れていて、自動販売機で買った缶のお茶を片手に花見もした。
こういう日に限って、スマホはおとなしくて、久しぶりに自分の時間を満喫していた。
まだ二月の下旬、日の入りは早い。四時前だというのに日が傾いてきている。朝はあんなに積もっていた雪も、お昼を過ぎると太陽でほとんど解けてしまい、道路わきに名残があるばかり。
そろそろ帰宅しようかと、駅に向かっていた。大きな駅だから人通りも多い。注意していたつもりだったが、運悪く通行人にぶつかってしまった。
「すみません!」
振り返って謝ると、それは見知った顔だった。
「佐々木くん?」
佐々木くんは「申し訳ない」と唇を動かして、私に気づくと大げさに驚いて見せた。その腕には真っ白な薔薇の大きな花束を抱えていた。彼はちょっと待って、とまた口だけ動かすと、両手で持っていた花束を左腕に抱えなおして、ポケット方スマホを取り出した。
『河野さん、ぶつかってしまって申し訳ない』
「いや、私の方こそごめんなさい……あと、すごい花束だね」
『今から、墓参りなんだ』
「そうなんだ。えと、どこまで?」
『潮留の方まで』
潮留は海辺の町。ここからは、電車を一回乗り換えて片道一時間はかかる。そこはキリスト教系の有名な共同墓地があるきれいな場所だと、いつかSNSで見たことがあった。あいにく土地の関係で土葬はできないのだけれど、墓石があり、花を手向けることができて、小さな教会があるのだ。
「遠いね」
『一緒に来る?』
「え?」
突然のお誘いに素っ頓狂な声を出してしまったが、すぐにからかわれたのだと気づく。佐々木くんはいたずらっぽく、右端の口角を上げていた。
『冗談。毎年、僕はこの時間って決めてるから』
行き交う人は私たちのことを、少し邪魔そうに、その大きな花束を一瞥して去っていく。佐々木くんは、花束を愛おしそうに見つめて言った。
『河野さんは? 出かけてたの?』
「うん。雪が降ったからうれしくなって。あと花見に」
先ほど梅の花を見た公園の方を指すと、佐々木くんは「ああ」と理解したようだった。
『河野さんって、お花好き?』
「え? あ、まあ……?」
『なら、プレゼント』
佐々木くんはスマホをポケットにしまうと、花束から一本薔薇を抜き取り私に差し出してきた。
「え、でも、この花……」
両手がふさがってスマホを出せない佐々木くんは「いいから」と受け取るように催促する。誰かのお墓に備えるもののはずだから、気軽に受け取れないと躊躇していると、もう一度、胸の前に差し出される。
「本当に、いいの?」
半ば押し付けられるようにして受け取ると、佐々木くんは満足そうだった。
『この前言ってた、お礼に』
いつかの傘のお礼のことを言っているのだろう。すっかり忘れていた。
『ずっと何がいいか悩んでて。でも今日、ちょうど出会っちゃったし。ラッピングも何もしてなくて悪いけど』
「ううん、うれしい」
幾重にもなっている花は顔に寄せると、ほんのり甘い匂いがした。白い薔薇なんて、なんだかロマンチックだ。
『それじゃあ、僕行かなきゃ』
「あ……」
引き留めて、ごめん。そう謝罪しそうになるのを、佐々木くんが止めるようにこちらを見てくるから、慌てて口をつぐんだ。
「気を、付けてね」
『ありがとう。じゃあ、また学校で』
「うん。また、学校で」
佐々木くんは手を振って、改札の方にかけて行った。
さて、私も帰ろう。
そう思って歩き出そうとすると、足元に深い青色の財布が落ちているのを見つけた。拾い上げると隅の方には「Kouga.S」の刺繍がされていた。さっき佐々木くんと話している時には気づかなかった、落とし物らしい。近くの交番に届けようと拾い上げると、お札入れの場所に入れてあったのだろう、大量のカード類がバラバラと落ちてきた、慌てて拾いあげた。飲食店や雑貨屋、ドラッグストアのポイントカードがほとんどで、病院の診察券、保険証が混じっていた。カード入れに収まりきらなかったカードには「佐々木幸雅」と刺繍と同じ名前が書かれていたが、一緒に落ちた学生証には――佐々木リョウガと記されていた。
悪いと思いつつ財布の中身を開くと、カード入れに一枚だけ入っていた保険証にも、同じように「佐々木リョウガ」と書かれていた。
どうやら佐々木くんが財布を落としていったらしい。すぐに連絡しようと思ったけれど、佐々木くんとは連絡先を交換していない。メッセージアプリを開いて、学年のトークグループから佐々木君くんを探し出し、友達追加してメッセージを送ってみたけれど、既読がつかなかった。
もしかすると落としたことに気づいて引き返してくるだろうか。そう思って、私はその場を動かずにしばらく待ってみたけれど、来る様子はない。私は思い立って駅の改札へ急いだ。
確か潮留まで行くと言っていた。
改札の頭上、電光掲示板に表示された電車の発着状況を確認すれば、潮留への乗り換え地点となる栄街までの電車が来るまで、あと二分となかった。
迷ってる暇はなかった。私は急いで改札を抜けた。プラットホームへ駆け下りて、大きな花束を探すけれど、人が多くて中々見つからない。構内アナウンスと共に電車が入ってくるのが見えて、私はとりあえずやってきた電車に飛び乗った。
あたりを見回すけれど、佐々木くんの姿はない。私は扉にもたれ、肩を上下させながら、呼吸を整えた。そこでハッとして握っていた薔薇を確認する。形は心なしか風の抵抗を受けて、きれいに丸かったのが歪んでいるように感じた。花を手で丸く囲むように整えると、佐々木くんからもらった時のように、元に戻り安心する。
真冬で寒いはずなのに、全力疾走したせいで体中汗が噴き出していた。ハンカチで額の汗をぬぐい、少し落ち着いてから、乗り換える駅での電車の時刻表を検索した。どうやらこの電車が栄街駅に着いてから、潮留駅に行く電車が来るまで、待ち時間にして三十分ほどあるらしい。その間にきっと探せるだろう。
今頃同じ電車内で、財布を忘れて慌てていることを願いつつ、私はぼんやり車窓から外を眺めた。住宅街を抜けて、公園や神社があって、お店が軒をつらね、そこまで高くもないけれど、いくつかビルも建っていて、青い空はだんだんと黄色に染まっていく。流れていく景色の色鮮やかさに、夕暮れの気配をそこかしこに感じた。真っ白の薔薇はしおれないように、やさしく枝を持っていた。
電車に揺られること四十分、目的の栄街駅に到着した。駅構内にはうどん屋さんと喫茶店が入っていて、待合スペースも充実しているからそこまで暇を持て余すこともない。
アナウンスとともに開かれた扉から下車すると、花束を抱える少年がいないかあたりを見回す。あれだけ大きな、しかも真っ白な薔薇の花束を持っているのだから、すぐわかりそうなものの、見当たらない。
いったいどこにいるのだろう。
乗ってきた電車に次の乗客がのりこみ発車するまで、私はきょろきょろとあたりを見渡し、ひとが捌けるのを待ってからプラットホームを探した。
すると、ベンチに花束を置いて、体中を触り何かを探している様子の人を発見した。
私はすぐさま駆け寄った。
「佐々木くん!」
声をかけると、佐々木くんは勢いよく顔を上げた。
「これ、だよね。今探してるの」
先ほど拾った、財布を差し出すと、佐々木くんは心底安堵した表情になった。
『申し訳ない、本当に、本当に、ありがとう』
「ううん、届けられてよかった」
『ありがとう。本当に。なくしたと思った』
財布の中身を心配していたというよりも、財布自体が見つかったことに対して安堵しているように見えて、私も胸をなでおろす。
佐々木くんはもう一度ありがとう、と言うと喫茶店で何か私におごることを考えていたようだが、断った。それでも『お礼がしたい』と言って食い下がるので、私は自動販売機の上段にならんでいる、お茶を買ってもらうことにした。
「じゃあ、遠慮なく」
私が温かいお茶の缶を受け取ると、佐々木くんも同じお茶缶のボタンを押した。
財布も渡したし、お茶ももらって。戻る電車が来るまではまだ時間があるし、潮留行きの電車もまだ来ない。
日も傾き、日中に比べれば幾分冷えてきたけれど、今日は風がないのが幸運だ。喫茶店も暖を求めている人で、中に入ろうとの声はかけづらい。手持無沙汰で、とりあえず買ってもらったお茶缶のプルタブを開けた。ほわほわと立つ湯気と一緒にお茶を飲むと、体の内側から温かくなるようだった。
『財布、死んだ兄貴のものなんだ』
佐々木くんは今しがた私が返した財布を取り出すと、名前の刺繍をそっと指でなぞった。深い青の布地の財布。「見て」と差し出されて、顔を近づけて見れば、ピーコックグリーンの糸で縫われた名前は、よく見れば花びらを模していた。それはとても細かい刺繍で、私の口から感嘆がもれた。
「すごい、綺麗」
『でしょ。器用だったんだ、兄貴』
誇らしげなのに、寂しそうに笑うのが印象的で、兄弟の仲がどんなものだったのか察せられた。
佐々木くんに促されて、一緒にベンチに腰掛けた。
『生まれつきあんまり体が丈夫じゃなくて、学校も休みがちだったけど、前向きは明るい性格で。手先も器用で、いつも弟の僕に優しくて自慢の兄貴だったんだ』
花束の持ち手は隣の席を侵食していて、佐々木くんはその右手で一輪の薔薇の花弁をなでていた。純白、とよぶのがふさわしいような真っ白な薔薇。私の手元にも一輪同じのがあって、それはきれいな八重だった。
『でも、三年前の今日、死んだんだ』
佐々木くんは、思案するように瞼を閉じて、そしてゆっくり開けた。
『被検体って、話をしたの、覚えてる?』
私が佐々木くんのスマホを壊した翌日。新品を弁償するといったら、佐々木くんはそんなことを言っていた。そしてあの上級生に、それ以上を話すことを止められていた。
『この読み上げソフトの声は、あの人が作ったもので。僕の兄貴の声なんだ』
パソコンに向かう、あの細身の上級生を思い出す。
『だから、被検体。僕が日常的に使ってみて、違和感があれば都度報告して、細かい修正を加えてもらって、僕は変わりにスマホの代金を払ってもらってる。そうやって、この流ちょうな音声が出来上がったんだ』
思い返してみて、とんでもないことを言っていたのだと、思い返してみる。スマホを交換するのも遠慮するわけだ。きっと佐々木くんはやさしいから、断らなかったのだと思うと、今更申し訳なさがこみ上げてくる。
けれど、そんな私の心中を知ってか、佐々木くんは言った。
『スマホがなくたって、僕は平気なんだけど。家族がさ、兄貴の声があると安心するから。保健室にまだ残ってたあの人に、河野さんのスマホにアプリ入れてもらって、翌日までに新しいスマホ用意してもらったんだ』
「それって、なんか……」
はっと口を両手で抑える。思わず口走りそうになった言葉を飲み込むけれど、佐々木くんは聞き逃さなかった。
『なんか?』
こっちを見られているのが分かり、隣が見れない。自分の、バカ野郎。最近こういううっかりが多いのは、大体が佐々木くんの前で、自分が彼を前に相当油断しているのが分かる。この場を逃げ切るすべは、正直に言うほかないと悟り、開口した。
「なんか……佐々木くんが、いないみたいだな、って」
お兄さんが亡くなって、寂しい気持ちはわかる。話を伺うに、あの上級生と佐々木くん兄弟は長い付き合いなのだろう。本人亡き後、その音声を使って佐々木くんの「声」を作ってしまうほど。
けれど、それはなんだか、行き過ぎた愛情のようにも聞こえてしまった。
私も、近しいひとを亡くした経験はある。小学校低学年のころ、夏休みを使って祖父母の家に遊びに行ったとき。おじいちゃんを朝起こしにいって、呼んでも返事がないものだからその体に馬乗りになったら、冷たくなっていた。
人間ってこんなに冷たくなるのだと、感じた恐怖は未だに鮮明に思い出される。おじいちゃん、おばあちゃんっこだったから、なおさら。お通夜、告別式、納骨から四十九日まであっという間で、私たちを置いて時間だけが過ぎてしまっていくようで、しばらくおじいちゃんのいないことに慣れるのが大変だった。居ると思って会わないのと、居なくて会えないのとでは、こんなに違うのか、と。
普段の生活を一緒にしていなかった祖父にさえ、そんなことを思ったのだ。ましてや、生まれた時から共に生きてきた同胞を亡くすという気持ちは、計り知れない。
『言うね』
ずん、とその言葉が胸に響いた。ただの「音声」のはずなのに、様々な感情が含まれていた。怒りと、失望と、憎しみ、そんなものが聞こえた。
言い過ぎた。でも、言葉にしてしまったものは取り消せない。
自らも望んでいるのであれば、それでいい。故人との思いでを大切にするための手段としては、とても理にかなっていると思う。人間はその人が亡くなったとき「声」を一番最初に忘れるというから。
でも、今佐々木くんは言っていた。
言ってしまった言葉はもう消せない、なら言ってしまえ。
「スマホが壊れて欲しかったのは、佐々木くんの方だったんじゃないの?」
ざあっと、突風が吹いた。反対車線に、電車が入ってきた。とっさに花弁を守るようにうずくまる。佐々木くんの席の向こう側では、ラッピングからむき出しになっていた部分が風にあおられている。ばさばさと大きな音を立てながら、花弁が数枚ひらひらと風に乗っていくのが見えた。
佐々木くんはスマホから顔を上げなかった。
どの間、沈黙していたか、わからない。行き交う人の話ているのが気になるほどには、私と佐々木くんはお互いに黙っていた。いつの間にか太陽は沈んでいて、夜空に星が瞬いていた。
左手から電車が入ってくるのが見えて、ここが電車の最後尾の方なのだということが分かる。電車のライトがまぶしくて、目を細めながら電車が入ってくるのを見ていた。
はああああ、と大きなため息が隣から聞こえて身を固くした。佐々木くんは座ったままで体を折り曲げると、ばねのように直った。
電車の速度がおちるのと同じように、佐々木くんはゆっくりと立ち上がって、少し形の崩れた花束を両腕に抱える。私に向き直ったその右手には、スマホを持っていた。
『いったん持ち帰る。また話そう』
「……え?」
『気を付けて帰って。財布もありがとう』
いくらか吹っ切れたような顔をして、佐々木くんは電車に乗り込んだ。
『じゃあ、また学校で』
「あ……」
何か言う前に、電車はその扉を閉める。扉付近に立っていた佐々木くんは逡巡して、けれど手を振ってきた。
電車はどんどん加速して、駅を去っていった。だんだんと小さくなって、やがて車体が見えなくなるまで、私は佇んでいた。
**
佐々木くんとあんな別れをして迎える月曜日は、今までのどの月曜日よりも憂鬱だった。少なくとも、スマホの貯めてしまった通知を見ても、何の罪悪感を感じないほどには、精神を消耗していた。学校を休んでしまおうか。そんな考えも頭をよぎったが、「カスミ、生きてる?」と飛んできたメッセージに、現実に引き戻された。
『体調悪くて、スマホほとんど見てなかったの。ごめん。今から読むよ』
返信すると、すぐに既読はついて『お大事に』なんていたわる言葉をかけてくれた。
だるい体を起こして、支度を整えて登校する。隣の席の佐々木くんは、私より先に登校していた。友人たちと談笑している姿はいつもと変わらない。
身構えて自分の席に近づくと、気づいた佐々木くんが声をかけてきた。
『おはよう』
隣同士の席になってもう半月以上になるけれど、それまで一度だって言われたことのない言葉だった。大抵はほかの友人の席のところに行っていることが多かったからかもしれないが、どういう風の吹き回しなのか。
戸惑いながらも「おはよう」と返せば、佐々木くんは満足そうにして、また友人たちとの会話に戻っていった。「お前、河野さんと仲良かったっけ」と言う友人たちに『まあ、教科書貸してもらったし』なんてそれっぽいいいわけをしていた。それ以上のことにはあまり興味はなかったようで、そこから話が広がっていくことはなかった。
それからも、佐々木くんは毎朝私に『おはよう』とあいさつしてきた。そのたびに私も「おはよう」と返すけれど、そこからさらに発展したことはない。毎日一回、おはよう、とかわすだけで、私たちの間には何もなかった。
佐々木くんが『また話そう』と言った、「また」も来ていない。もしかすると、あの場を丸く収めるための社交辞令だったのかも。もう、私とは話をしないとの意思表示なのでは。そうだとしたら、私も潔く身を引くべきだと思って、佐々木くんのことを変に意識することをやめた。
やっぱり、特別な誰かを作るというのは、今の自分には難しいのかもしれない。
それに答えるように、机の中のスマホが鳴る。バレンタインデイを気に、モモエはあの先輩を付き合うことになった。
最近はモモエの恋愛事情がよく話題に上がる。サエリは未だ浅田くんとの進展はないらしいけれど、どうやらメッセージの送りあいとかはしているらしい。ナナミと先輩との間は順調で、サナは相変わらず傍観者のポジションに落ち着いていた。
幸い告白現場を見ていたことに気づかれてはいないようだった。あの後もサナの挙動には注意していたけれど、特に何かを言われることもなく、今まで通りの日常が続いている。
こんなふうに、また今までそうもそうであったように、高校生活を終えるんだろうか。
そんなことをぼんやり考えていたら、「その日」は突然、私たちの意思などお構いなしにやってきた。
何って理由はわからないけれど、とても学校の中がざわざわしている気がした。生徒が、というよりは先生たちが。職員室からいつもより緊迫した空気が漂っていた。
教室内でも先生たちが騒がしいという話で持ち切りで、朝のホームルーム開始時刻になっても担任が来なかった。隣のクラスからもざわざわと聞こえてただならぬ雰囲気を感じ取ったところに、担任の先生がやってきた。
「みんな聞いて。今から体育館に集合」
いやそうな声が上がる。それはそうだ。こんな真冬に体育の授業だっていやなのに、外も同然の体育館で体も動かさずに話を聞くだけのために集められるなら、教室でいいじゃないか。そんな声が聞こえる。
それでも、いつもあかるい調子の担任の切羽詰まった様子を見たら、みんな不思議な胸騒ぎを感じたらしく、担任の指示に従った。
私たちの学年だけではなく、体育館には全校生徒が集められていた。生徒が全員着席したのを確認して、校長先生が我々の前に現れた。
一つ上の学年の男子が、自宅マンションから飛び降りたのは、昨日の早朝、未明のことだったらしい。週末を目の前にした金曜日、一時間目を削って緊急でもたれた学年集会では、フクザツな家庭環境が背景にあって、彼の中で選択肢は他になく、やむ負えなかったと聞かされた。
私を含めた全校生徒で黙祷を捧げて、教頭先生からの「命は尊いのだから」という話を聞いているときに、ひとりの男子生徒が突然取り乱した。先生に宥められながらも彼は騒ぎ立てるのをやめず、しまいには半狂乱になって泣き叫んだ。
彼のその言葉で、場が一斉に凍りついた。
――「俺が『お前なんていなくなれ』って言ったから」
教室に戻って誰かが教えてくれたけど、そのひとは亡くなった男子生徒の親友だったそうだ。
彼と亡くなった男子生徒はその数日前、些細なことで口論になり、その生徒に対して投げてしまった、と言った。彼はそれで飛び降りたのだと言い張って、叫び続けるから、生徒指導の先生数名によって保健室に連行された。
その後は生徒も先生もみんな心ここに在らずで、真面目に授業をしているものも、受けているものもいなかった。いつもは授業中に鳴りやまないスマホの通知も、今日は控えめだった。
『自殺なんてする人、本当にいるんだね』
それにみんなが、びっくりだよね、って。漫画見たい、って。あの人すごかったね、って。
あの人も、死んじゃうのかな、って。
私は『悲しいね』って返す以外、できなかった。
三月の席替えで端の窓際の列になった佐々木くんだけが唯一、普段と変わりのないように板書をとって、まっすぐ黒板と、先生の目を見ていた。
掃除の時間、トイレ掃除をしていたはずの佐々木くんが、いつかのように舞台のごみ袋を変えていた。あの駅での一件以来、佐々木君は一言も話しかけてこなかったし、私もあえて自分から声をかけに行くことはしなかった。
その日が来たんだな、と思って『今日の放課後空いてる?』と聞かれたから、「空いてるよ」と答えた。
待ち合わせは保健室じゃなくて、駅だった。忘れ物をした、と学校に戻るふりをしてみんなをだまし、雑踏に身を置きながら佐々木くんを待っていた。
佐々木くんはスケッチブックをわきに抱えて、現れた。
『ちょっと歩かない?』
頷いて、私たちは歩き始めた。きっと今朝の事が尾を引いいた。道中、一言もお互いに発しなかった。私たちの地面を踏む音が、やけに耳についた。
ボーッとしていたのか、駅前の横断歩道を渡るとき、赤信号にも関わらず一歩を踏み出した私の制服を佐々木くんが引っ張ってくれたことで、今日初めて意識が戻ったような気分だった。
佐々木くんに着いて行っていきついたのは、公園だった。自動販売機て暖とりのために、お茶の缶を一つずつ買って、ひとも疎らな公園のベンチにふたり腰掛けた。
お母さんに背中を押してもらって楽しそうにブランコを漕いでいた男の子を見つめていたら、目の前にスケッチブックが現れた。
『今日ずっと、ボーッとしてたね』
私の顔を覗き込んで『大丈夫?』とさらに尋ねてくる彼に、ゆるく頷いた。
「みんなそんな感じだったね」
『田中先生、チョーク折ったしね』
「いつもなら乱れない板書も、ガタガタだったもんね」
数学の授業を思い出して、少しだけ笑いが戻る。綺麗にきっちり一直線に文字を書くことで有名な田中先生。今日は板書の文字もガタガタで、計算も間違っていたし、途中で力み過ぎてチョークも折っていた。授業中は誰ひとりクスリともしなかったのに、今になって笑うことができるのはどうしてだろう。
「佐々木くんは、書くのも早いんだね」
スケッチブックを使うのを見たのは、スマホを壊した時以来だ。
『小学生はスマホ持てなかったから、練習した』
「そうだったんだ」
『手話も一応できるけど、相手に覚えてもらわないといけないから、こっちの方が楽で』
スマホの方がもっと楽なはずなのに、今日わざわざスケッチブックを使うのは、どうしてなのだろう。佐々木くんがそれきり何も「しゃべらなく」なったので、私も沈黙に身をゆだねた。
少しずつ温かくなってくる三月のはじめ。遊んでいた男の子の姿ももうない。夜のとばりはすっかりおろされて、公園に私たち以外誰もいなかった。住宅街の中に位置しているせいか、とても静かだった。油断したら、暗闇に飲み込まれそうなほど。
ベンチの横に立つ街灯の光は弱弱しくて、ぎりぎりスケッチブックに明かりが届くくらい。
さっさっ、とスケッチブックの上を鉛筆が滑る音が聞こえる。喉が渇いてしまって、缶のプルタブを起こした。すっかり冷えた緑茶は、逆に水分を奪っていったような気がした。
鉛筆の音がやむ。隣を見ると、佐々木くんが少しだけ、私の方にスケッチブックを寄せてきた。
『僕ね、河野さん』
内緒の話をするみたいに、さっきよりも文字が小さくなった。読んだ意思を示して頷くと、佐々木くんはその後に続けた。真っ白い画用紙の上に、一文字一文字黒い文字が浮かび上がっていく。佐々木くんの払うような筆跡を目で追い、お茶の代わりに息を飲んだ。
動揺で揺れた私の瞳には気づいたかもしれないけれど、しばらく顔を上げることができなかった。
――『生まれて初めて、喋れなくてよかった、って思っちゃった』
速くなる鼓動は正直だ。私は少しだけ期待していた。
佐々木くんは、自分が話せないことを、強みにしているって。
墓参りに行くといった佐々木くんを見送ったあの日の答えが、そこにはあった。
佐々木くんはずっと「しゃべる」ことを望んでいた。兄の身代わりになるとかそういうことも含めて、「普通のひと」と同じようになることを、願っていたのだろう。
兄の身代わりとかそれ以前に、「話す」ことのできない己に対するそれほどまでの劣等感を抱いているとは、思えなかった。
考えてみれば「普通の人」と同じように「しゃべる」ためにスマホをいついかなる時も携帯しているのは、そんな意思の表れだろう。でもスマホを使って「しゃべる」のは、ある種の特技のように見えていた。
だから「しゃべりたい」とは思っている人が「しゃべれてよかった」とは思っても、「しゃべれなくてよかった」と思うなどとは、考えもつかなかった。
私は、どんな顔をしていたのだろう。佐々木くんは『なんでそんな顔してるの?』と笑った。
佐々木くんが笑顔なんだから、私も笑えればよかったけれど、それは許されないような気がして、ただ唇を一の字に結んだ。じわりを熱くなる目頭に、今はお前が出てくる番ではないと舌を噛む。
佐々木くんは小首をかしげて暫く私と見つめ合ったあと、スケッチブックのページを捲った。そうして佐々木くんは、どうしてお兄さんの声を、自分の「声」として使うようになったかの経緯を教えてくれた。
――少し長くなるんだけど、読んでもらえたら嬉しい。
兄貴は、小さいころから入退院を繰り返して、学校も休みがちだったんだけど。それでも明るくって、僕たちにとっては光そのものって感じだった。昏いところは一切見せずに、明るく振舞って、病がどんどん進行するにつれて、自力で起き上がれなくなっても、「大丈夫」「できる」と思い通りに動かない表情筋をどうにか動かして笑っていた。
それなのに、あの日、あんなに取り乱した姿を初めて見た。涙を流す両親も、見舞いに来てたサトル(保健室のあの人の名前)も、駆けつけた看護師や医師も寄せ付けず、僕だけが病室に通されたんだ。
枝のように細い腕でこんな力がまだ残っていたのかと思うほどに、病室はひっちゃかめっちゃかだった。兄貴の頭はぐしゃぐしゃに掻き毟られて、棚も机も、車椅子もひっくり返って、ガラスの花瓶は原型をとどめないくらいに粉々にたたき割られてた。その破片が窓から差し込む光を反射して宝石みたいだな、って思ったよ。
そしたら兄貴に呼ばれた。
「リョウガ、俺はこんな風にはならないんだよ」って砕けたガラスを指さして、「もっともっと粉々になって、風化していくんだ」って。生けてあったはずの花束は、花びらと茎とにバラバラにされて、床に転がってた。
ちょうどホスピスに移動してから、少し経った頃だったから、思い返したら無理もなかったと思う。同時に命の終わりをただ傍観するしかできない、己の無力さも、不甲斐なさも痛感した瞬間だった。
真っ白の薔薇やシーツは、兄貴が暴れる過程で作った傷口から流れた鮮血で、赤に染まってて。そんな中、しばらくお互いに見つめあってた。
兄貴はしゃべれない僕をずいぶんかわいがってくれてた。ハンディのある者同士、通じ合う部分があったのは確かだよ。でもその時の眼差しは、羨望とも憎しみともとれるものだった。
お前は健康でいいな、って。
実際、兄貴が暴言の類を僕に投げることはなかったけど、代わりに聞かれた。
「声を形に残すことって、できると思う?」って。
最初は何言ってんだろう、って思ったけど、気づいたんだ。兄貴はこの世から忘れられるのが怖いんじゃないかって、死んで、存在事なかったことにされるのが嫌なんじゃないかって。
だから、誰も兄貴を忘れないように、動画に兄貴の様子を収めることにしたんだ。もうちょっと健康そうなときにやってくれよ、って呆れられたけど、僕にはどこまでも甘いひとだったから。学校帰りにまっすぐ病院に向かって、それで沢山お話して、たくさん兄貴の生きている瞬間をビデオに収めた。
楽しかった。カメラを向けると、嫌そうにふざけるところも、ちょけるところも、大胆に笑って見せるところも。この人が死ぬなんて、嘘なんじゃないかって思った。
そうやってしばらく過ごしてたら、一日だけ外出の許可が下りたんだ。
外に出たいって兄貴が言うから、サトルと二人で頼み込んで、一日だけもぎ取った。その日はたまたま学校が休みになったから、朝から兄貴と二人で、兄貴を背負って、点滴を引いて、外に出たんだ。ちょうど梅の花咲き始めたころで、見に行きたいって。
小さいときはお前は負ぶられる側だったのにな、ってぶつくさ言う兄貴を背負って。許された三十分でめいいっぱい、外の世界を楽しんでもらおうと思った。
目に見えてやせ衰えてはいたんだけどさ、太ももとか脛の太さが元気だったころの半分くらいになってて、肋骨はペッタリと僕の背中にくっついて、呼吸とともに動くの。
正直怖いって思った。でもそんなこと兄貴に知られたくないかったから、頑張って考えないようにしてたんだ。あの人は、僕がしゃべれなくても、僕の声を聴けてしまう人だったから。
そしたら、兄貴が言ったんだ。
「俺の声、お前にやるよ」って。
え、って思った。声なんてもらるわけがない。何言ってるんだろうと思って首傾げてたら、「でも、重いかな」って一人で笑うの。おかしそうに。喉を鳴らして――。
事前に書いたのだという、その続きを求めてページを捲った。
『そしたら、翌日。兄さんは死んだんだ。自らの手で、命を終わらせた』
その言葉は、ものすごい破壊力で私に迫ってきた。
――外出許可の下りた、翌日だったんだ。僕がたまたま風邪をひいてしまって、お見舞いに行けなかった日。今思うと、兄貴はそんな瞬間が来るのを望んでいたんだと思う。
その日はサトルがお見舞いに行ったんだ。そしたら教室に兄貴がいないことに気づいて、看護師さんたちに声をかけて、捜索が始まった。あんな体で遠くに行けるはずがないってみんなで探し回って、兄貴を見つけたのはサトルだった。
病院の屋上。立ち入り禁止なのに。火事場のバカ力ってやつだったんじゃないかな。
柵を乗り越えようとしてるところで、サトルは必死になって兄貴を呼び止めたけど、兄貴の決心は揺るがなかったんだ。
一言「ごめん」って、そういって。
大きな風が吹いたと当時に、兄貴ははなびらのように舞い上がって、そうやって消えたって、サトルは言ってた。
正直、幸か不幸かわかんない。両親は死に目に会えなくて、サトルは唯一の目撃者で、もうみんなボロボロだった。僕は自分が風邪さえ引かなければ、って責める暇もなく、葬式が、告別式が、四十九日が進んでいって。僕たちだけを置いて、時間だけが無情に流れていくんだ。両親はまだ大人だったからさ(たぶんだけど)、兄貴が言いならそれでいいって。あとから遺書っぽいものも見つかったし、受け入れていったんだけど。
サトルは、もう大変だったんだ。僕は正直よく知らないけど、昔いじめられてたのを兄貴がかばっただか何だかで、すっごい慕ってたから。ちょっと目を離せばすぐ後を追おうとして。どうにかして、サトルをこの世にとどめて置ける方法がないか考えて、兄貴の言葉を思い出したんだ。
「俺の声、お前にやるよ」っていうの。
サトルはコンピューターとかプログラミングとはすごい強かったから、絶対他人を寄せ付けなかった部屋のドア蹴破って、ビデオに録音した兄貴の声で、僕のために読み上げソフト作れ、って頼んだ。これしか方法がなくて一か八かのかけだったけど、結局僕の勝ち。
僕が撮った動画全部託して、サトルは今の僕の「声」を作ってくれたんだ。兄さんの面影を探すように、一日中音声づくりに没頭してたよ。飲まず食わずの生活が続いてぶっ倒れたりもしたけど、少なくともサトルは生きた。
そうやって、あの音声読み上げアプリができたんだ。僕の兄貴の声で作った、僕専用のアプリ。今までスケッチブックで話していた僕にとっては、画期的な道具で。すぐ入力の仕方をマスターしようとしたよ。
一番最初は、すっごい棒読みのものだったんだけど、改良に改良を重ねて、今の流暢な奴ができて。しゃべりかた、兄貴そのままだった。サトルも両親も喜んだ。兄貴の声が、僕が「しゃべる」だけで聞けるから。
一つ欠点は、「ごめん」は言えないんだ。気づかなかったかもしれないけど。サトルが兄貴の声の「ごめん」だけは聞けないって言って、それだけ、打っても音声が出ない仕様になってるんだ――。
そこで、文章は終わっていた。私は何の感想も伝えずに、スケッチブックを佐々木くんに返した。佐々木くんは私からスケッチブックを受け取ると、新しいページを開いて、また鉛筆を滑らせていく。
滑らかに動く彼の手に、今ははっきりと、罪悪感を抱いた。
『スマホ壊したかったのは僕の方だったんじゃないか聞かれて、本当にそうだと思ったよ。僕の『声』は僕のためでもあるけれど、結局は兄ちゃんのためで、家族のためで、サトルのためで。どこまで行っても僕の『声』は偽物にしかならない。どれだけ流ちょうにしゃべっていても、僕の本当の声じゃないんだって、言われた気がして。正直、ちょっと怒った』
佐々木くんの表情は書いてあることとは逆に、とても穏やかで笑みさえ浮かべていた。私は謝ることもはばかられて、ただじっと彼の「声」に耳を傾けていた。
『声ってちゃんと、心に届くよね。でも僕の『声』はどれだけ頑張っても、画面の上の、紙の上の言葉でしかない。だから河野さんたちが、うらやましい。すごく、すごく。喋ることのできるできる河野さんたちが、すごくすごく、羨ましかったけど』
佐々木くんはそこでいったん手を止め、思案するように瞼を閉じた。風が笑うようにほほを撫でていったけれど、寒さはみじんも感じなかった。ゆっくりを目を開け、続きを書こうとする佐々木くんの手は、小刻みに震えていた。
『あんな風に、心の突いてはいけない場所にも、『声』というものが、もし届いてしまうようなことがあるなら。話せなくてよかったって、思っちゃった』
――『生まれて初めて、話せなくてもいいことあるんだ、って思んたんだ』
くいっと口の端をあげて私を見る、深海のような瞳は、嘘の無い全きもの。
途轍もなく、自分が惨めに思えた。今まで佐々木くんを「普通の男の子」だと思っていたのに、心の何処かでは線引きを引いていたのだと思って、申し訳なくなった。まずそもそも佐々木くんのことを「普通の子」として自分は認識していた、その事実が間違っていた。その見解から彼を「特別視」していたのだ。どうしたって佐々木くんは「自分の声」を持つことができないし、どれだけ速記ができても、私たちと同じように声をあげて笑うことはできない。
普通に接しているつもりでも、いつも頭の片隅ではそのことを思っていて、どこかで遠慮していた。自分の中のその事実に、愕然とした。
――過去に「しゃべれなくて、いいのに」と思った自分を、恥じた。
佐々木くんはスケッチブックをたたむと、自分のほほで両の口角を上げて見せた。口をかしげる私にもう一度同じようにやって見せると「わらう」と唇を動かして笑って見せる。
そんな気分はでまるっきりなかったけれど、なんとか笑顔を作ってみせると満足したようで佐々木くんは大きく頷いた。
言葉を探す私を置いて、話を終えた佐々木くんは、お茶缶のプルタブを起こし、一気に飲み干した。そして向こうの方に見えたごみ箱をめがけて缶を投げた。スチール缶は大きな放物線を描き、見事ゴミ箱の中に着地。カランカランとほかの缶にぶつかつ音が公園中に響き渡った。
また、佐々木くんはリュックサックの中から購買のクリームパンを取り出すと『食べていい?』と私に断って、頬張り始めた。何にも気にしてないように振る舞う彼に、これ以上罪悪感を抱くのも失礼な気がして、私も缶のお茶を飲み干した。佐々木くんの真似をして缶を投げてみたけれど、惜しいところでゴミ箱のふちにはじかれてしまった。笑う佐々木くんを横目にちゃんと缶のごみ箱に歩いて行って捨てた。
普通に笑える。そう思うのに、何となくさっきの言葉に引っかかる。
佐々木くんはただ思ったことを吐き出して、私に聞いて欲しくて、それで終わりにしようとしたかもしれない。いつかの私のように。
闇夜の碧い雰囲気にのまれ、私の感情はいろんな意味で昂っていた。
「佐々木くん」
首をかしげて彼は私を見た。
「佐々木くんの言葉は決してただ画面の上の、ただ紙の上もの、なんかじゃないよ。佐々木くんの『声』の背景も、佐々木くんがどう思っていたかなんて、全然知らなかったから、バッチリグサって、私の心にも刺さったし。どこかで佐々木くんに対して線を引いていた自分に気づいて、申し訳なくなった」
佐々木くんはくわえていたクリームパンを噛みちぎると、ゆっくり咀嚼しながら手を下ろした。佐々木くんの膝の上にある、角が草臥れたスケッチブックの壁は、私にはどうしたって超えることはできない。
例えば彼の声は私には聞こえないだけで、他の人なら聞くことのできるものかもしれない。
できることなら、可能であるなら、私が佐々木くんを、みんなと同じように「話せる」様にしてあげたいけれど、そんなことは出来っこないと分かりきっているから。
「聞こえるのに、喋れないってどんな感覚?」
佐々木くんの咀嚼が、止まる。
握っていたクリームパンに少し力が入って、ガサリと包装の袋の微かな音が聞こえた。また吹いた風が私の頬を撫で、佐々木くんの髪を遊んで去っていく。暗くて顔が見えないのは好都合だった。
みんなの声は聞いて理解ができるのに、自分が話せないとは、どんな気持ちなのだろう。
想像はいくらでもできるけど、私は逆立ちしたって佐々木くんになることはできない。
彼が自分の立場をどう感じて、周りにどんな印象を抱いているのかを理解できるは、一生来ないだろう。
私が取り払うことのできない境界線は、他のみんなだってきっと無意識に作っているもので、どれだけ佐々木くんが「普通の男の子」であっても、そのスケッチブックを抱えている限り、スマホを握っているかぎり、私たちと佐々木くんには異なった人生がすでに決められている。
「佐々木くんは……どんな気持ちで、今まで過ごしてきたの?」
初めから何もない人と、後から失ってしまった人とでは、どちらの悲しみがより深いだろうか。
声を持っていた、早春の夜露となってしまった男子生徒と、届かない「声」を持つ佐々木くんでは、どちらの孤独が大きかっただろうか。
天秤にかければ、還らぬ命となってしまった男子生徒の方がより重いように思われるかもしれない。しかし、これから先、もっと長い時間を生きていく佐々木くんが直面する壁は、どれほど高くて、厚いのだろう。
思ったことを素直に口に出して相手に伝えられないのは、どんな気持ちなのだろう。
佐々木くんの瞳の奥が揺れたのがわかった。
漆黒の空を映すその瞳に、私は居なかった。
白いパンからはみ出た黄色いクリームの上に、星屑が落ちた。
パタリ、パタリと溢れでてくる雫は、スケッチブックとクリームパンに落ちていく。
寒さからではなく震える肩に、私は立ち上がってそっと腕を回した。拒まない佐々木くんの体は私の中に到底納まりきらないけれど、肩に重みが加わった。
初めて抱きしめた男の子は、とても小さくて脆くて、もう少し力を入れるだけで壊れてしまいそうだった。でも、このまま抱き締めていないと、どこかに消えてしまいそうだった。
佐々木くんが泣いても声は出ない。ただただ鼻をすする音だけが、ちっぽけな空間に響いた。
一頻り佐々木くんが泣いた後で、私たちは来た道を引き返した。私が先に歩いて、佐々木くんは後ろをついてきた。その間、会話はなかった。二人で俯き、コンクリートの隙間に穴を探して、つま先ばかり見ていた。
ただ、駅の前で別れる時に手は振り合った。改札の向こう側の佐々木くんが振り返って小さく手を振ってくれたから、私も振り返した。
また、明日。
そんな意味を込めて。
佐々木くんの後ろ姿がプラットホームに消えていくのを見届けて、ようやく肩の力が抜けた。自分の乗る路線が入ってくるプラットホームのベンチに腰掛け、空を見上げる。昨日と変わらない、星天が広がっていた。
星が、目に入ってきた。
そんな言い訳をして、泣いてしまう自分を許したかった。
**
次の日もいつも通り、朝はやってきた。太陽が山の端にまだ隠れる暁の刻に、目が覚めてしまった。二度寝を試みても、寝付ける気もしなかったから、いつもは乗らない時間帯の電車に乗り込んで登校した。
校門が開いたばかりの校舎に足を踏み入れると、しんと静まり返って昇降口でひときわ目立つ靴箱を見つけた。それは二年生のあるクラスのもので、一つの靴箱に溢れんばかりの花が入っていた。扉も閉まらないくらいに溢れかえり、下の段の生徒に被害を与えていた。
色取り取りの花びらで敷き詰められた靴箱はとても目立っていた。もう履かれることのない上履きにも沢山の花と、メッセージの書かれた付箋が入れられて、生憎押し出されてしまったのか、落ちてしまっていた一枚を拾い上げると見えた「好きでした」の文字。
折りたたみ、靴底深くに入れてあげた。
『河野さん』
ふいに、名前を呼ばれる。振り返ると、立っていたのは佐々木くんだった。今登校してきたばかりのようで『河野さん早いね』なんて声をかけてくる。
右手に持っているのは、いつもと同じ、スマートフォン。
けれど。
「佐々木くん、声……変わった?」
恐る恐る尋ねると、佐々木くんは『そうだよ』と嬉しそうだった。
『遅ればせながら、声変わり。どう? 似合ってる?』
新しいおもちゃを買ってもらった子どもみたいに、はしゃいでいる。
その声は、今まで聞いていた佐々木くんの『声』よりも、もう少し、高くて穏やかな声色だった。朗らかに笑う佐々木くんに、ぴったりの。
「うん。いい『声』だね」
『昨日、サトルと話して。被検体やめるって言ったんだ。そしたら、くれたんだ。そろそろ成長しなきゃな、って言ってさ』
サトルさんにどんな心境の変化があったのだろう。佐々木くんと同じきっかけかもしれないし、そうでもないかもしれない。けれど、サトルさんも確実に、前に進みたいと願っている人なのだと知った。
「クラスのみんな、驚くよ、きっと」
『興奮して眠れなかったから、早く来たのは内緒ね』
唇に人差し指を当てるしぐさは、なんだかかわいかった。
上履きに着替えた佐々木くんの目にも、その靴箱が映った。佐々木くんは私の隣に来ると、手を合わせて静かに黙とうをささげた。私も彼に倣って、両手を合わせた。
朝陽は静かに、顔を出した。