リビングのソファで眠るようになったのはいつからだっただろうか。パトカーに揺られながら、そんなことを考える。ある日帰ってくると、僕の部屋にダンボールが積まれていた。家中の邪魔なものを詰め込むように。その日、僕の部屋だった場所は物置きに名前を変えたのだ。

 母が中学受験の話題をしきりに出すようになったのは、父が亡くなってから数週間が経った頃だった。小学六年生になる前の最後の春休みのこと。頼れる父がいなくなって、自分がしっかりしなければならないと思ったのかもしれない。姉には高校受験、僕には中学受験。

「ちゃんと勉強すれば幸せになれるから」

 あの頃の母は口を開くたびにそう言った。それから家には家庭教師の先生が来るようになって、僕の生活は一変した。毎日ひたすらに机に向かって、鉛筆を握り続ける。母の受験に対する情熱は、多分傍から見ても異常なものだったのだと思う。だけどそれは、僕たちのためを思ってやってくれていることなのだとわかっていた。だから、大丈夫。受験が終わればきっと元通りの母に戻ってくれるだろう。そう思って僕は鉛筆を握り続けたのだ。しかし、その願いが叶うことはなかった。

 不合格通知が届いたその日、僕の存在は家から消えた。朝、僕を起こす声が聞こえなくなった。代わりに目覚まし時計の無機質な音が鳴る。机に並ぶ食事が一つ減った。代わりに置かれているのは千円札が一枚。毎日机に齧り付いて勉強していた部屋が消えた。代わりに硬くなった古いソファで眠る。追い出されたわけじゃない。殴られるわけでもない。ただ、家から僕が消えただけだ。

 僕はずっと見つけて欲しかった。自分がここで、ちゃんと生きているのだとわかって欲しかった。

「わたしと匂坂は違うんだよ」

 逢野の言葉が頭の中を響く。僕は利用したんだ。父親を殺した逢野と一緒に逃げて、そんな大事件を起こしたら誰かに見つけてもらえると思っていた。

 毎日、新聞を確認する際に、どこか言いようのない虚しさを覚えていたのは何故だろう。僕に関する記述がどこにも載っていなかったからだ。警官は僕のことを追っているのだと思ったのは何故だろう。そうであって欲しかったからだ。

 僕はずっと自分のことしか考えてなかった。こうやって誰かに見つけてもらうために、逢野を利用したんだ。

 思えば、この一週間僕はずっとこれからのことを考えていた。この逃亡が終わったらどうしよう。その時僕たちはどうなってしまうのだろう。そんなことをずっと。

 あの日、家の玄関で僕は逢野に疑念を抱いた。重大と深刻を身に纏っているような姿をしながら、どこか冷静なようにも感じられるのは何故だろうと。桐枝さんの家で僕は逢野に疑念を抱いた。逢野昭はここまで場当たり的な性格だったかと。だけど、おかしいのは僕だったのだ。逢野はきっと、最初からこの旅の終わりを知っていた。あれは自棄だったんだ。どうせもうすぐ全てが終わるのだから、もうどうなってもいいのだと。そう考えていたのだろう。僕は違った。もちろん、この逃亡に幸せな終わりがあると思っていたわけではない。だけど、その先のことを考えてはいた。終わりの先にまた新しい始まりがあるのだと。だから僕はずっと、いろいろなことを悩み、考えていた。逢野は続きなんてないと、最初からわかっていたというのに。

 車の外からは、どこまでも騒がしい蝉の鳴き声が聞こえた。蝉は僕を責め立てるように鳴いている。狂ったように何回も何回も。身体中を叩きつけるように大きな音で。どこに行こうがこの音からは逃げられないぞ。そう宣告されているような気がした。