僕が戻ってくるや否や、逢野は目を見開いて泣き出した。
「どうしたの……それ」
傷だらけの僕を見て、消え入りそうな声で逢野が言う。
「ちょっと転んじゃった」と僕はできるだけ軽い調子になるよう努めて、笑顔を作る。
「そんなわけないじゃん……」
そう言った逢野の顔は涙でぐちゃぐちゃだった。
「大したことないって」
そう言って僕は、ここに来るまでにだいぶ軽快に動くようになった手をひらひらと動かした。
「わたしのせいだ……。全部、全部わたしの……」
逢野が肩を震わせる、
「埋めてあげようよ」
僕は森林の方へ向かうと、落ちていた石で土を掘り出した。肝心な時に逢野にかける言葉を知らない僕にできることは、きっとこんなことしかないから。
それを茫然と眺めていた逢野も、こちらに来て同じように地面を掘り出す。そうして二人で黙々と地面へ石を叩きつけた。何度も、何度も。
「わたしが死ねばよかったんだ」
不意に逢野がそう呟いた。その言葉は一体、何を指しているのだろうか。猫の代わりにということだろうか。それとも……。わからない。そしてそんな逢野にかける言葉もやはり僕は——。
だから僕は、地面を堀った。ひたすらに石を突き立てて。穴を掘る。こんなことになんの意味があるのかはわからない。きっと意味なんてないのだと思う。それでも穴を堀った。それが重大な意味を持った行為なのだとでも言うように。それがあの猫にしてあげられる最後の行為なのだとでも言うように。穴を掘っている。
*
でき上がった墓は酷く不恰好なものだった。浅い穴に木の枝を突き刺しただけ。それでも、これが僕たちにできる最善だった。
手を合わせて目を瞑る。昨日出会ったばかりの猫だ。商店街でたまたま見つけて、ここまで案内してくれて、ただそれだけ。それだけなのに、どうしてかすごく長い時間を一緒に過ごした誰かとの別れのように、心に穴が空く感覚があった。目を瞑って作り出した暗闇はその穴を表しているかのようで、何故だか今だけは、喧しく鳴り響く蝉の声がそれを埋めてくれるような気がした。
それから僕たちは放心したようにその墓をぼんやりと見つめて、どれくらいが経っただろうか。何十分、あるいは何時間。時間の間隔があやふやになっていたその時だ。蝉の喧騒に紛れて、何か人の話し声がすることに気づいた。僕は逢野の手を引いて木の影に隠れる。すると、拝殿の方で人影が二つ蠢いているのが目に入った。その二人は何やら話をしながら、辺りをキョロキョロと見回している。僕たちは鳴り響く心臓の拍動を抑えるように身を縮める。蝉の音に鼓動を隠すように。
——そこには制服を着た警官が二人いたのだ。
とうとう来てしまった。「破滅」がすぐそこに居る。恐れ続けたそれがもうすぐそこに。彼らは何かを探している。それはなんだ? 逢野か? 僕か? どっちにしろ見つかったら終わりだ。蝉の声をかき消すくらい鼓動が速まって早まっていくのがはっきりとわかった。逢野も息を呑んでじっと縮まっている。
来るな。こっちに来るな。そう何度も願う。そうだここは神社だ。頼むから、願いを聞いてくれ。来るな。そのまま階段を降りろ。このまま何事もなく。終われ。終わってくれ。
その願いが届いたのかどうか、彼らがこちらへ向かってくることはなく、そのまま石段を降りて行った。僕たちはとりあえず胸を撫で下ろす。しかし、こんなのは束の間の安心でしかない。彼らは明らかに何かを探している様子だった。もしかしたらただのパトロールだったのかもしれない。僕たちとはなんの関係もない何かを探していたということもある。だけど、多分そうじゃない。彼らが探していたのは僕か逢野か。そう覚悟しておいた方がいいだろう。
来てしまったんだ。僕たちはここまで来てしまった。もう終わりがすぐそこまで近づいている。
「逃げよう」
息を整えて僕はそう言った。一刻も早くこの町から離れた方がいい。それは逢野に投げかけた言葉というより、自分の頭を整理するために放った言葉だったのかもしれない。とにかくここから逃げるんだ。今はそのことだけを考えようと。
そうして僕は逢野の手を引いて、森林の中を降って行く。正面の階段から出て行ったらさっきの警官と鉢合わせてしまうかもしれない。身体中の傷が痛む。しかし、そんなことを気にしている場合ではななかった。このまま「破滅」に取り込まれるわけにはいかない。
そうして無我夢中で進もうとしていると、突然逢野が僕の手を引っ張った。振り返ると逢野がとても切実な表情で僕を見ている。それは何かすごく大切なことを、伝えようとしているかのような顔だった。逢野は重々しそうに口をもごもごと動かしている。
なんとなくだ。本当にただなんとなく。なんの根拠もないけれどそう思ってしまった。もし今ここで逢野の言葉を受け取ってしまったら、きっと全てが終わってしまうんじゃないかと。だから僕は何か決心をしたように口を開こうとした逢野を制止して、「今はとにかく急ごう」と目を逸らした。その選択が正しかったのかはわからない。逢野は一瞬とても辛そうな顔をした後、何か言葉を呑み込むようにゆっくり頷いた。
*
すれ違う人全員が、僕らを疑っている。そんな風に錯覚してしまう。錯覚ではなく、こんなボロボロの格好をした僕を本当に怪しんでいるのかもしれないが。
そんな風に辺りを警戒しながら僕たちは、早足で駅へと向かっていた。どうやら何十人もの警官に包囲されている、なんてことにはなっていないらしい。となると、やはり捜索対象は逢野ではなく僕なのかもしれないなと思う。そうであるならば、この町を出てしまえばとりあえずはなんとかなるはずだ。電車に乗って、この町をでて、北へ。僕たちは北へ行くのだ。こんなところで終わるわけにはいかない。
そうして駅が目視できるところまで到達する。一筋の光明が見えた。大丈夫だ。なんとかなる。まだ、僕らの物語は終わらない。北への道はまだ続いているのだ。
それこそが錯覚だった。
前方に警官が二人。コンコースに差し掛かろうとしたその時だった。ヒョロ長い男と小太りの男が一人ずつ。神社で見かけた二人とは別の警官だ。視線がぶつかる。大丈夫だ。まだ誤魔化せる。そう思って目を逸らそうとすると、一人が僕らの方へ小走りで駆け寄ろうと——。
「走れ!」
脊髄から抜け落ちるように言葉が出ていた。その声に怯んだのか、警官は後ろに身を逸らしている。気づくと僕は逢野の手を引いて走り出していた。身体が軋む。繊維という繊維がが引き千切られているかのように、重く鋭い痛みが身体中を駆け巡る。だめだ。気にするな。止まるな。絶対に——。背後から警官が追ってくる音が聞こえる。僕は背負っていたリュックサックを下ろして、無我夢中で後ろへ投げつけた。小太りの警官がそれをキャッチして、一瞬足を止めるのが視線の端に映る。僕はまた前を向いて走り出す。改札を飛び越えて、もう駅の中だ。後少し、後少しだ。走る。足がもつれる。呼吸が苦しい。それでも走る。ヒョロ長い警官が追ってくる。階段を落ちるように駆け降りて、ホームに電車が来ているのを確認する。
「行って!」
僕はそう叫んで逢野の持っていた鞄をひったくると、電車の方へ背中を押した。逢野の身体は戸惑いながら電車の中へと押し入れられる。ヒョロ長い警官が階段を駆け降りて来ている。僕はその警官の顔に目掛けて鞄を叩きつけた。警官が階段を踏み外して落下してくる。僕も前のめりになって前方へと倒れ込んだ。
ホームにいる疎な人影が騒つく声と、電車の発車ブザーが耳を刺激する。僕は四足になりながら、逢野の待つ電車の方へと手を伸ばした。そうして逢野の手を掴む。後ろでは起き上がって来た警官が、その長い手で僕を捕まえようともがいていた。逢野が僕の手を引っ張って電車の中へ引き入れようとする。そうして警官の手が僕の服の裾に届きかけたその刹那、電車の扉が機械的に閉まった。逢野に引っ張られた僕は前回りするように一回転して、反対側のドアへと頭をぶつけてしまう。視線の先ではヒョロ長い警官が倒れ込んでいるのが見えた。間一髪というやつだ。僕は思わず大きな声を上げて笑ってしまう。車両に乗っていた何人かが、怪訝な顔をして僕らの方を見ていた。乗客の視線を放置して、僕は逢野の方へチョキチョキとピースサインを作る。
「……ばか」
そう言った逢野の顔もどこか笑っていた。
一先ず、窮地は脱した。呼吸を整えながらそのことを喜ぶ。だが、このまま逃げられるわけがない。今頃、次の駅の交番にでも連絡が行っているはずだ。このまま到着すれば、そいつらが乗り込んでくるだろう。そうなったらもう逃げ場はない。どうすればいい。恐らく、あいつらの目的は僕なはずだ。逢野の事件についてではなく、公園での件で僕らを探しているのだろう。だったら次の駅で僕が囮になって、その間に逢野を逃す。それしかない。仮に逢野のことがバレているのだとしたら、それはもうどうしようもないのだ。今は少しでも可能性の高い方法を取ればいい。そう決意をして僕は逢野の方を向く。
「次の駅で僕が出るから、逢野は——」
困惑で言葉を失ってしまう。逢野の顔を見た瞬間、疑問符が頭の中を駆け巡ったのだ。
——逢野は笑っていた。この数日間で一番というくらい、楽しそうに満面の笑みを浮かべている。
「ねぇ、覚えてる?」
戸惑う僕をよそに、逢野はそう問いかけた。
「何を?」
僕は焦るように訊き返す。こんなことをしてる場合じゃないというのに、逢野は有無を言わさずといった様子で話し続ける。
「かくれんぼ。この前も言ったでしょ。匂坂はせっかく隠れてもすぐに出て来ちゃうの」
「え?」と声が漏れた。
乗客たちは別の車両に避難したようで、僕たちだけが取り残されている。
「金メダルもそう。わたしは本気で銀が一番良いと思ってるんだよ。注目を全部金が集めてくれるから」
逢野が何を言いたいのか全くわからず、僕は困惑しきりといった表情で狼狽える。
「あの海の光もね、わたしはやっぱりちょっと怖かった。隠れる場所なんてどこにもないって言われてるみたいで。だけど匂坂はすごいキラキラした目であの光を見てた」
なんだ。何が言いたいんだ。逢野は僕に何を伝えようとしているんだ。
その僕の表情が何よりも疑問を投げかけていたのかもしれない。逢野は大きく息を吸うと、答え合わせとでも言うように重々しい目つきで、深々とした視線をこちらを見た。
「だからさ、わたしと匂坂は違うんだよ」
線を引かれたような気がした。違う。その一言で、今僕と逢野の間に線が引かれた。たった数十センチしか離れていない。高い壁があるわけでもない。ただ地面に一本線を引いただけ。それだけで、僕と逢野の距離が凄まじい速度で離れていっているような、そんな感覚があった。
「わたしはずっと見つかっちゃうのが怖かった。今だけじゃない。昔から、ずっと。だけどさ、きっと匂坂は違うんだよ。匂坂はむしろ……」
その続きを逢野は言わなかった。だけど、わかった。この数秒間で僕はわかってしまった。逢野が言わんとすることが。違うと否定したかった。そんなことないと言いたかった。だけど、誰よりも僕が自分でわかってしまっていた。気づいてしまっていた。理解してしまっていた。
ああ、そうか……。僕は……僕はずっと、
——見つけてもらいたかったんだ。
僕はずっと光を求めていた。誰かに気づいて欲しかった。僕はここにいるんだと。ずっと叫んでいた。息を吸って、心臓を打ち鳴らして、生きているのだと。
いつのまにか窓から見える景色が、駅のホームへ変わっているのがわかった。電車はみるみる減速していく。ホームの端っこに数名の警官の姿が見える。
「だから、ここまでありがとう、コウくん」
逢野は笑っていた。電車が止まって身体が揺さぶられる。違う。やめてくれ。まだだ。まだ終われない。僕はまだ……。
ドアが開くのと同時に逢野がホームへと駆け出した。僕は逢野に手を伸ばす。届かない。その手は宙を掴むばかりで、どんどん逢野が遠くへと離れていく。どこかから警官の怒号が聞こえる。「捕まえろ!」と。僕も叫ぶ「やめてくれ!」と。反対車線からは電車が向かってくる音が聞こえた。その重苦しい存在を主張するかのような大きな音が打ち鳴っている。逢野はそんな声を全て放り投げて走っている。走って、走って、走って。もう僕の声が届かないくらい遠くへ。走って。
——逢野は向かい側のホームへ飛び込んだ。
宙を舞うように落ちていく。その長い髪がひらひらと揺れていた。真っ逆さまに落ちていく。それが最後だった——。
次に僕の目に映ったのは、猛スピードで走り抜ける電車の車体だった。
誰かの叫ぶ声が聞こえる。何人もの悲鳴と怒号。しかし僕の耳には、何事もなかったかのように鳴き続ける蝉の音だけが響いていた。
「どうしたの……それ」
傷だらけの僕を見て、消え入りそうな声で逢野が言う。
「ちょっと転んじゃった」と僕はできるだけ軽い調子になるよう努めて、笑顔を作る。
「そんなわけないじゃん……」
そう言った逢野の顔は涙でぐちゃぐちゃだった。
「大したことないって」
そう言って僕は、ここに来るまでにだいぶ軽快に動くようになった手をひらひらと動かした。
「わたしのせいだ……。全部、全部わたしの……」
逢野が肩を震わせる、
「埋めてあげようよ」
僕は森林の方へ向かうと、落ちていた石で土を掘り出した。肝心な時に逢野にかける言葉を知らない僕にできることは、きっとこんなことしかないから。
それを茫然と眺めていた逢野も、こちらに来て同じように地面を掘り出す。そうして二人で黙々と地面へ石を叩きつけた。何度も、何度も。
「わたしが死ねばよかったんだ」
不意に逢野がそう呟いた。その言葉は一体、何を指しているのだろうか。猫の代わりにということだろうか。それとも……。わからない。そしてそんな逢野にかける言葉もやはり僕は——。
だから僕は、地面を堀った。ひたすらに石を突き立てて。穴を掘る。こんなことになんの意味があるのかはわからない。きっと意味なんてないのだと思う。それでも穴を堀った。それが重大な意味を持った行為なのだとでも言うように。それがあの猫にしてあげられる最後の行為なのだとでも言うように。穴を掘っている。
*
でき上がった墓は酷く不恰好なものだった。浅い穴に木の枝を突き刺しただけ。それでも、これが僕たちにできる最善だった。
手を合わせて目を瞑る。昨日出会ったばかりの猫だ。商店街でたまたま見つけて、ここまで案内してくれて、ただそれだけ。それだけなのに、どうしてかすごく長い時間を一緒に過ごした誰かとの別れのように、心に穴が空く感覚があった。目を瞑って作り出した暗闇はその穴を表しているかのようで、何故だか今だけは、喧しく鳴り響く蝉の声がそれを埋めてくれるような気がした。
それから僕たちは放心したようにその墓をぼんやりと見つめて、どれくらいが経っただろうか。何十分、あるいは何時間。時間の間隔があやふやになっていたその時だ。蝉の喧騒に紛れて、何か人の話し声がすることに気づいた。僕は逢野の手を引いて木の影に隠れる。すると、拝殿の方で人影が二つ蠢いているのが目に入った。その二人は何やら話をしながら、辺りをキョロキョロと見回している。僕たちは鳴り響く心臓の拍動を抑えるように身を縮める。蝉の音に鼓動を隠すように。
——そこには制服を着た警官が二人いたのだ。
とうとう来てしまった。「破滅」がすぐそこに居る。恐れ続けたそれがもうすぐそこに。彼らは何かを探している。それはなんだ? 逢野か? 僕か? どっちにしろ見つかったら終わりだ。蝉の声をかき消すくらい鼓動が速まって早まっていくのがはっきりとわかった。逢野も息を呑んでじっと縮まっている。
来るな。こっちに来るな。そう何度も願う。そうだここは神社だ。頼むから、願いを聞いてくれ。来るな。そのまま階段を降りろ。このまま何事もなく。終われ。終わってくれ。
その願いが届いたのかどうか、彼らがこちらへ向かってくることはなく、そのまま石段を降りて行った。僕たちはとりあえず胸を撫で下ろす。しかし、こんなのは束の間の安心でしかない。彼らは明らかに何かを探している様子だった。もしかしたらただのパトロールだったのかもしれない。僕たちとはなんの関係もない何かを探していたということもある。だけど、多分そうじゃない。彼らが探していたのは僕か逢野か。そう覚悟しておいた方がいいだろう。
来てしまったんだ。僕たちはここまで来てしまった。もう終わりがすぐそこまで近づいている。
「逃げよう」
息を整えて僕はそう言った。一刻も早くこの町から離れた方がいい。それは逢野に投げかけた言葉というより、自分の頭を整理するために放った言葉だったのかもしれない。とにかくここから逃げるんだ。今はそのことだけを考えようと。
そうして僕は逢野の手を引いて、森林の中を降って行く。正面の階段から出て行ったらさっきの警官と鉢合わせてしまうかもしれない。身体中の傷が痛む。しかし、そんなことを気にしている場合ではななかった。このまま「破滅」に取り込まれるわけにはいかない。
そうして無我夢中で進もうとしていると、突然逢野が僕の手を引っ張った。振り返ると逢野がとても切実な表情で僕を見ている。それは何かすごく大切なことを、伝えようとしているかのような顔だった。逢野は重々しそうに口をもごもごと動かしている。
なんとなくだ。本当にただなんとなく。なんの根拠もないけれどそう思ってしまった。もし今ここで逢野の言葉を受け取ってしまったら、きっと全てが終わってしまうんじゃないかと。だから僕は何か決心をしたように口を開こうとした逢野を制止して、「今はとにかく急ごう」と目を逸らした。その選択が正しかったのかはわからない。逢野は一瞬とても辛そうな顔をした後、何か言葉を呑み込むようにゆっくり頷いた。
*
すれ違う人全員が、僕らを疑っている。そんな風に錯覚してしまう。錯覚ではなく、こんなボロボロの格好をした僕を本当に怪しんでいるのかもしれないが。
そんな風に辺りを警戒しながら僕たちは、早足で駅へと向かっていた。どうやら何十人もの警官に包囲されている、なんてことにはなっていないらしい。となると、やはり捜索対象は逢野ではなく僕なのかもしれないなと思う。そうであるならば、この町を出てしまえばとりあえずはなんとかなるはずだ。電車に乗って、この町をでて、北へ。僕たちは北へ行くのだ。こんなところで終わるわけにはいかない。
そうして駅が目視できるところまで到達する。一筋の光明が見えた。大丈夫だ。なんとかなる。まだ、僕らの物語は終わらない。北への道はまだ続いているのだ。
それこそが錯覚だった。
前方に警官が二人。コンコースに差し掛かろうとしたその時だった。ヒョロ長い男と小太りの男が一人ずつ。神社で見かけた二人とは別の警官だ。視線がぶつかる。大丈夫だ。まだ誤魔化せる。そう思って目を逸らそうとすると、一人が僕らの方へ小走りで駆け寄ろうと——。
「走れ!」
脊髄から抜け落ちるように言葉が出ていた。その声に怯んだのか、警官は後ろに身を逸らしている。気づくと僕は逢野の手を引いて走り出していた。身体が軋む。繊維という繊維がが引き千切られているかのように、重く鋭い痛みが身体中を駆け巡る。だめだ。気にするな。止まるな。絶対に——。背後から警官が追ってくる音が聞こえる。僕は背負っていたリュックサックを下ろして、無我夢中で後ろへ投げつけた。小太りの警官がそれをキャッチして、一瞬足を止めるのが視線の端に映る。僕はまた前を向いて走り出す。改札を飛び越えて、もう駅の中だ。後少し、後少しだ。走る。足がもつれる。呼吸が苦しい。それでも走る。ヒョロ長い警官が追ってくる。階段を落ちるように駆け降りて、ホームに電車が来ているのを確認する。
「行って!」
僕はそう叫んで逢野の持っていた鞄をひったくると、電車の方へ背中を押した。逢野の身体は戸惑いながら電車の中へと押し入れられる。ヒョロ長い警官が階段を駆け降りて来ている。僕はその警官の顔に目掛けて鞄を叩きつけた。警官が階段を踏み外して落下してくる。僕も前のめりになって前方へと倒れ込んだ。
ホームにいる疎な人影が騒つく声と、電車の発車ブザーが耳を刺激する。僕は四足になりながら、逢野の待つ電車の方へと手を伸ばした。そうして逢野の手を掴む。後ろでは起き上がって来た警官が、その長い手で僕を捕まえようともがいていた。逢野が僕の手を引っ張って電車の中へ引き入れようとする。そうして警官の手が僕の服の裾に届きかけたその刹那、電車の扉が機械的に閉まった。逢野に引っ張られた僕は前回りするように一回転して、反対側のドアへと頭をぶつけてしまう。視線の先ではヒョロ長い警官が倒れ込んでいるのが見えた。間一髪というやつだ。僕は思わず大きな声を上げて笑ってしまう。車両に乗っていた何人かが、怪訝な顔をして僕らの方を見ていた。乗客の視線を放置して、僕は逢野の方へチョキチョキとピースサインを作る。
「……ばか」
そう言った逢野の顔もどこか笑っていた。
一先ず、窮地は脱した。呼吸を整えながらそのことを喜ぶ。だが、このまま逃げられるわけがない。今頃、次の駅の交番にでも連絡が行っているはずだ。このまま到着すれば、そいつらが乗り込んでくるだろう。そうなったらもう逃げ場はない。どうすればいい。恐らく、あいつらの目的は僕なはずだ。逢野の事件についてではなく、公園での件で僕らを探しているのだろう。だったら次の駅で僕が囮になって、その間に逢野を逃す。それしかない。仮に逢野のことがバレているのだとしたら、それはもうどうしようもないのだ。今は少しでも可能性の高い方法を取ればいい。そう決意をして僕は逢野の方を向く。
「次の駅で僕が出るから、逢野は——」
困惑で言葉を失ってしまう。逢野の顔を見た瞬間、疑問符が頭の中を駆け巡ったのだ。
——逢野は笑っていた。この数日間で一番というくらい、楽しそうに満面の笑みを浮かべている。
「ねぇ、覚えてる?」
戸惑う僕をよそに、逢野はそう問いかけた。
「何を?」
僕は焦るように訊き返す。こんなことをしてる場合じゃないというのに、逢野は有無を言わさずといった様子で話し続ける。
「かくれんぼ。この前も言ったでしょ。匂坂はせっかく隠れてもすぐに出て来ちゃうの」
「え?」と声が漏れた。
乗客たちは別の車両に避難したようで、僕たちだけが取り残されている。
「金メダルもそう。わたしは本気で銀が一番良いと思ってるんだよ。注目を全部金が集めてくれるから」
逢野が何を言いたいのか全くわからず、僕は困惑しきりといった表情で狼狽える。
「あの海の光もね、わたしはやっぱりちょっと怖かった。隠れる場所なんてどこにもないって言われてるみたいで。だけど匂坂はすごいキラキラした目であの光を見てた」
なんだ。何が言いたいんだ。逢野は僕に何を伝えようとしているんだ。
その僕の表情が何よりも疑問を投げかけていたのかもしれない。逢野は大きく息を吸うと、答え合わせとでも言うように重々しい目つきで、深々とした視線をこちらを見た。
「だからさ、わたしと匂坂は違うんだよ」
線を引かれたような気がした。違う。その一言で、今僕と逢野の間に線が引かれた。たった数十センチしか離れていない。高い壁があるわけでもない。ただ地面に一本線を引いただけ。それだけで、僕と逢野の距離が凄まじい速度で離れていっているような、そんな感覚があった。
「わたしはずっと見つかっちゃうのが怖かった。今だけじゃない。昔から、ずっと。だけどさ、きっと匂坂は違うんだよ。匂坂はむしろ……」
その続きを逢野は言わなかった。だけど、わかった。この数秒間で僕はわかってしまった。逢野が言わんとすることが。違うと否定したかった。そんなことないと言いたかった。だけど、誰よりも僕が自分でわかってしまっていた。気づいてしまっていた。理解してしまっていた。
ああ、そうか……。僕は……僕はずっと、
——見つけてもらいたかったんだ。
僕はずっと光を求めていた。誰かに気づいて欲しかった。僕はここにいるんだと。ずっと叫んでいた。息を吸って、心臓を打ち鳴らして、生きているのだと。
いつのまにか窓から見える景色が、駅のホームへ変わっているのがわかった。電車はみるみる減速していく。ホームの端っこに数名の警官の姿が見える。
「だから、ここまでありがとう、コウくん」
逢野は笑っていた。電車が止まって身体が揺さぶられる。違う。やめてくれ。まだだ。まだ終われない。僕はまだ……。
ドアが開くのと同時に逢野がホームへと駆け出した。僕は逢野に手を伸ばす。届かない。その手は宙を掴むばかりで、どんどん逢野が遠くへと離れていく。どこかから警官の怒号が聞こえる。「捕まえろ!」と。僕も叫ぶ「やめてくれ!」と。反対車線からは電車が向かってくる音が聞こえた。その重苦しい存在を主張するかのような大きな音が打ち鳴っている。逢野はそんな声を全て放り投げて走っている。走って、走って、走って。もう僕の声が届かないくらい遠くへ。走って。
——逢野は向かい側のホームへ飛び込んだ。
宙を舞うように落ちていく。その長い髪がひらひらと揺れていた。真っ逆さまに落ちていく。それが最後だった——。
次に僕の目に映ったのは、猛スピードで走り抜ける電車の車体だった。
誰かの叫ぶ声が聞こえる。何人もの悲鳴と怒号。しかし僕の耳には、何事もなかったかのように鳴き続ける蝉の音だけが響いていた。