四日ぶりのあの森は、やはりどこか不気味な雰囲気を醸し出していた。風はほとんど無く、生温い空気だけが肌にまとわりついて来る。左手に持った懐中電灯で地面を照らしながらゆっくり、ゆっくり歩く。汗が頬を撫でる感覚がはっきりとわかった。逢野と繋がった右手にも、滲んだ汗がその存在を主張している。夏の夜に包まれているような気分だった。
「足、治ったなら、海見に行きなよ」
餃子の皮ピザパーティーの後、桐枝さんがこれまた名案を思いついたという感じでそう言った。「この町も昔は知る人ぞ知る観光スポットだったんだよ」と鼻息を荒くして。昔が「知る人ぞ知る」なら今はどうなってしまうんだと思いながらも、実際この数日間、逢野は海をもっとちゃんと見てみたいと言う話を何度もしていたので、ここで拒否するのもなんだか気が引けた。まあ海を見にいくだけならと僕も了承し、そこまでは良かったのだ。
「どうせなら一番いい場所を教えてあげる」
出発間際に桐枝さんが放った一言で、状況が一変する。桐枝さんの話によると、この森を海に向かって抜けた先に最高のローケーションがあるらしい。僕は「海なんてどこでも一緒でしょう?」と異議を唱えるが、桐枝さんは「わかってないなぁ」という顔で、人差し指を立て、横に振った。それを聞いた逢野も、その最高の景色を見たいと言って聞かず、僕はまたこの森へ赴く羽目になったのだ。
「今度は転ばないようにちゃんと手繋いで行きなよ」
ご丁寧に最後にそう付け加えた桐枝さんは、全てが筋書き通りと言ったような笑みを浮かべていた。
「最高の景色ってどんなのだろうね」
逢野の声は、明らかに期待でいっぱいという感じだった。
「さあ? 僕はどこから見ても同じだと思うけど。そもそも昼の方が見晴らし良さそうだし」
「全部が見えないからこそ、本当に大切なものを集中して見られるんだよ。わかんないけど」と逢野はなんだか深いことを言う。
「そうかな」
「そうだよ。それか神様がいるのかも。蛇神様だっけ? 桐枝さんが言ってた」
この町には蛇の水神の信仰があるらしいと言うことは、僕も桐枝さんから聞いていた。昔は蛇神への感謝を示す祭りもやっていたらしい。
「神様なんて本当にいたら、この町はこんなに寂れてないと思うけどね」
「とにかく! 桐枝さんが言うんだから夜がいいんだよ!」
絶大な信頼だ。まあ、あの全部思惑通りとでも言いたげな顔を見る限り、実際その通りなのかもしれない。
そうして僕たちは、また小枝を踏み分けて進んでいく。依然、生温い空気は僕たちを掴んで離さない。心なしか、足を引っ張られているような感覚に陥る。それを振り払うようにまた足を一歩踏み出す。小枝の割れる音を聴きながら、無我夢中で進んで行った。両手が塞がっているので、頬を伝う汗は拭えない。気づくと四方八方を取り囲んでいた木がどんどん少なくなっていき、懐中電灯で照らした地面の少し先に、砂浜が広がっているのが見えた。もう少しで海が見えそうだ。その瞬間、逢野が「待って!」と声を上げた。僕は何かあったのかと、思わず右手を強く握る。
「せっかくだから、海の目の前に着くまで下向いて行こうよ」
名案を思いついたと言わんばかりの顔で逢野が言う。桐枝さんが乗り移ったみたいだ。
「危ないよ」と僕は至極当然の意見を発する。
「大丈夫だよ。後少しでしょ」と逢野は譲らない。
仕方なく僕は「わかったよ」と同意して下を向く。そしてまたゆっくり、ゆっくりと一歩ずつ進んでいく。砂浜に僕らの足跡がくっきりと刻まれる。なんとなく、僕は高崎に降り立った時のことを思い出していた。ここに来るまで、逢野は海を見たことがないと言っていた。逢野の目にはこの砂浜が、あの時の僕のように、誰も足を踏み入れていないまっさらな雪原に見えているのだろうか。右手から伝わってくる鼓動は、その仮説を肯定しているように思えた。僕は逢野の瞳に映る世界を想像する。一歩、一歩と。真っ白な世界に足跡を刻んで。未だ見ぬ海へと近づいていく。後少しだ。後少しで辿り着く。すぐ近くにある。どこよりも遠かった場所が、こんなに近くに。
ああ、やっぱり逢野の目に映る世界は綺麗だ。その目はどんなフィルターよりも美しく世界を透過する。何よりも綺麗に。きっと逢野は誰よりも綺麗にこの世界を見ることができる。
「せーので顔あげよう」
逸る気持ちを抑えられないのか、逢野の声は心なしか上ずって聞こえた。乗せられるように、僕の鼓動も速まる。脈打つ右手がどちらのものなのかわからなくなりそうだった。そしてその時が訪れる。
「せーの!」
海があった。広い、広い海。その中を何かがうねっている。光っているのだ。青白い光が海面を揺らいでいる。うねり輝いている。
「夜光虫だ……」と呼吸をするように自然と口から出る。
波に打たれながら、光が海を駆け巡る。海を飾り付けるように、光が集まったり、離れたり。
それは星空を映しているかのようだった。空に点々輝く星が海の中を揺らめいている。吸い込まれてしまいそうなくらい美しく。上下左右全ての境界線があやふやになって、僕らを包み込む。星が光って、海が光って。青白い光の中を僕らも漂う。その光はどこか温かくて心地よい。光の先には何があるのだろうか。手を伸ばす。光と手が引き合って、強く引き付けられる。この先には何が……。
「匂坂!」
その声で僕は現実へと引き戻される。逢野が後ろの森を指差していた。僕たちが通って来た道とは別の方向、川沿いの道だ。僕は逢野に従うようにそちらへ目を向ける。
その光景を僕は信じられなかった。目を疑うとは、きっとこの瞬間のために用意された言葉なのだと思う。
それは光だった。確かにそれは光っていた。黄色い光が点々と、森からこちらへ向かってくる。無数の光があっという間に僕らを覆う。蛍だ。森から向かって来た蛍が、砂浜を縦横無尽に飛び回っていた。
わけがわからない。ここはどこだ。足下では青白い光がうねり揺らぐ。空中は無数の黄色い光が占拠している。三六○度、光の世界。全てが光り輝いていた。どこを見渡しても、温かい光が僕らを照らしている。世界中の灯りをかき集めたかのような光が、僕らを照らし尽くしている。
「なんだこれ……」
理解を超越した現象に、思わず笑ってしまう。本当にわけがわからない。この世界のどこかに、この光景が存在していることが信じられなかった。それが今この場所だということも。しかし、この無数の輝きは否応なしに僕を照らしていた。ああ、やっぱり……、「綺麗だ……」と声が溢れる。右手に強い感触を感じて、その先へと目をやる。逢野も光を追うように目を動かしていた。
「綺麗だね」
僕はもう一度、今度ははっきりとそう口にする。
「うん……。すごい綺麗……。どこか別の世界みたい」
逢野が一層手を強く握りしめる。そして「でも……」と声を出す。
「すごい明るくて、すごい綺麗で、でも、ちょっと怖い」
「怖い? どうして?」と僕は訊き返す。
「こんなに明るいとすぐに見つかっちゃいそうだから」
逢野は少し決まりが悪そうに目を細めた。
見つかっちゃう。逢野は確かにそう言った。それは何にだろうか。今僕らは逃げている。逃げて、逃げてここまで来た。だけど、まだ追っ手はいない。僕たちはそれが見える前に逃げて来たのだ。こうしている間にもその時は近づいているのだろうか。わからない。わかりたくもなかった。
「コウくんはすごく楽しそう」
不意に出たその名前に、僕は目を見開いて逢野の方を向く。その視線で逢野は自分の放った言葉に気付いたらしく、すぐさま「匂坂!」と訂正をした。
「いいじゃん。懐かしいよ僕は」
いつ以来だろう、そう呼ばれたのは。
「意地悪」
逢野が顔を隠すように俯きながら短く抗議の声を上げる。しかし、その面映ゆいといった様子の表情も光がはっきりと映し出していた。
*
「やっぱりツいてるね、君たち」
家に戻ると、桐枝さんはいかにも面白そうに笑った。そして「夜光虫がいるのはわかってたんだ。昼間確認した時に赤潮になってたから。あれは予兆なの」と、やはり筋書き通りといったような様子で続ける。
「だけど蛍が海辺まで出てくるのは滅多にないよ。運命だね、運命」
桐枝さんはなぜか一番嬉しそうにしていた。
僕は自分の運がいいと感じたことはないが、逢野はどうだろうか。逢野も運がいい方だとはあまり思えない。だとすると、一生の運を今ここで使ってしまったのかもしれないなと思う。そう考えるとなかなか辛いものがあるが、それでもこの時間はそれに値するだけのものであったと言えるだろう。その証拠に、それから風呂に入って眠りにつくまで、あの光の幻影は僕を惹きつけてやまなかった。
「足、治ったなら、海見に行きなよ」
餃子の皮ピザパーティーの後、桐枝さんがこれまた名案を思いついたという感じでそう言った。「この町も昔は知る人ぞ知る観光スポットだったんだよ」と鼻息を荒くして。昔が「知る人ぞ知る」なら今はどうなってしまうんだと思いながらも、実際この数日間、逢野は海をもっとちゃんと見てみたいと言う話を何度もしていたので、ここで拒否するのもなんだか気が引けた。まあ海を見にいくだけならと僕も了承し、そこまでは良かったのだ。
「どうせなら一番いい場所を教えてあげる」
出発間際に桐枝さんが放った一言で、状況が一変する。桐枝さんの話によると、この森を海に向かって抜けた先に最高のローケーションがあるらしい。僕は「海なんてどこでも一緒でしょう?」と異議を唱えるが、桐枝さんは「わかってないなぁ」という顔で、人差し指を立て、横に振った。それを聞いた逢野も、その最高の景色を見たいと言って聞かず、僕はまたこの森へ赴く羽目になったのだ。
「今度は転ばないようにちゃんと手繋いで行きなよ」
ご丁寧に最後にそう付け加えた桐枝さんは、全てが筋書き通りと言ったような笑みを浮かべていた。
「最高の景色ってどんなのだろうね」
逢野の声は、明らかに期待でいっぱいという感じだった。
「さあ? 僕はどこから見ても同じだと思うけど。そもそも昼の方が見晴らし良さそうだし」
「全部が見えないからこそ、本当に大切なものを集中して見られるんだよ。わかんないけど」と逢野はなんだか深いことを言う。
「そうかな」
「そうだよ。それか神様がいるのかも。蛇神様だっけ? 桐枝さんが言ってた」
この町には蛇の水神の信仰があるらしいと言うことは、僕も桐枝さんから聞いていた。昔は蛇神への感謝を示す祭りもやっていたらしい。
「神様なんて本当にいたら、この町はこんなに寂れてないと思うけどね」
「とにかく! 桐枝さんが言うんだから夜がいいんだよ!」
絶大な信頼だ。まあ、あの全部思惑通りとでも言いたげな顔を見る限り、実際その通りなのかもしれない。
そうして僕たちは、また小枝を踏み分けて進んでいく。依然、生温い空気は僕たちを掴んで離さない。心なしか、足を引っ張られているような感覚に陥る。それを振り払うようにまた足を一歩踏み出す。小枝の割れる音を聴きながら、無我夢中で進んで行った。両手が塞がっているので、頬を伝う汗は拭えない。気づくと四方八方を取り囲んでいた木がどんどん少なくなっていき、懐中電灯で照らした地面の少し先に、砂浜が広がっているのが見えた。もう少しで海が見えそうだ。その瞬間、逢野が「待って!」と声を上げた。僕は何かあったのかと、思わず右手を強く握る。
「せっかくだから、海の目の前に着くまで下向いて行こうよ」
名案を思いついたと言わんばかりの顔で逢野が言う。桐枝さんが乗り移ったみたいだ。
「危ないよ」と僕は至極当然の意見を発する。
「大丈夫だよ。後少しでしょ」と逢野は譲らない。
仕方なく僕は「わかったよ」と同意して下を向く。そしてまたゆっくり、ゆっくりと一歩ずつ進んでいく。砂浜に僕らの足跡がくっきりと刻まれる。なんとなく、僕は高崎に降り立った時のことを思い出していた。ここに来るまで、逢野は海を見たことがないと言っていた。逢野の目にはこの砂浜が、あの時の僕のように、誰も足を踏み入れていないまっさらな雪原に見えているのだろうか。右手から伝わってくる鼓動は、その仮説を肯定しているように思えた。僕は逢野の瞳に映る世界を想像する。一歩、一歩と。真っ白な世界に足跡を刻んで。未だ見ぬ海へと近づいていく。後少しだ。後少しで辿り着く。すぐ近くにある。どこよりも遠かった場所が、こんなに近くに。
ああ、やっぱり逢野の目に映る世界は綺麗だ。その目はどんなフィルターよりも美しく世界を透過する。何よりも綺麗に。きっと逢野は誰よりも綺麗にこの世界を見ることができる。
「せーので顔あげよう」
逸る気持ちを抑えられないのか、逢野の声は心なしか上ずって聞こえた。乗せられるように、僕の鼓動も速まる。脈打つ右手がどちらのものなのかわからなくなりそうだった。そしてその時が訪れる。
「せーの!」
海があった。広い、広い海。その中を何かがうねっている。光っているのだ。青白い光が海面を揺らいでいる。うねり輝いている。
「夜光虫だ……」と呼吸をするように自然と口から出る。
波に打たれながら、光が海を駆け巡る。海を飾り付けるように、光が集まったり、離れたり。
それは星空を映しているかのようだった。空に点々輝く星が海の中を揺らめいている。吸い込まれてしまいそうなくらい美しく。上下左右全ての境界線があやふやになって、僕らを包み込む。星が光って、海が光って。青白い光の中を僕らも漂う。その光はどこか温かくて心地よい。光の先には何があるのだろうか。手を伸ばす。光と手が引き合って、強く引き付けられる。この先には何が……。
「匂坂!」
その声で僕は現実へと引き戻される。逢野が後ろの森を指差していた。僕たちが通って来た道とは別の方向、川沿いの道だ。僕は逢野に従うようにそちらへ目を向ける。
その光景を僕は信じられなかった。目を疑うとは、きっとこの瞬間のために用意された言葉なのだと思う。
それは光だった。確かにそれは光っていた。黄色い光が点々と、森からこちらへ向かってくる。無数の光があっという間に僕らを覆う。蛍だ。森から向かって来た蛍が、砂浜を縦横無尽に飛び回っていた。
わけがわからない。ここはどこだ。足下では青白い光がうねり揺らぐ。空中は無数の黄色い光が占拠している。三六○度、光の世界。全てが光り輝いていた。どこを見渡しても、温かい光が僕らを照らしている。世界中の灯りをかき集めたかのような光が、僕らを照らし尽くしている。
「なんだこれ……」
理解を超越した現象に、思わず笑ってしまう。本当にわけがわからない。この世界のどこかに、この光景が存在していることが信じられなかった。それが今この場所だということも。しかし、この無数の輝きは否応なしに僕を照らしていた。ああ、やっぱり……、「綺麗だ……」と声が溢れる。右手に強い感触を感じて、その先へと目をやる。逢野も光を追うように目を動かしていた。
「綺麗だね」
僕はもう一度、今度ははっきりとそう口にする。
「うん……。すごい綺麗……。どこか別の世界みたい」
逢野が一層手を強く握りしめる。そして「でも……」と声を出す。
「すごい明るくて、すごい綺麗で、でも、ちょっと怖い」
「怖い? どうして?」と僕は訊き返す。
「こんなに明るいとすぐに見つかっちゃいそうだから」
逢野は少し決まりが悪そうに目を細めた。
見つかっちゃう。逢野は確かにそう言った。それは何にだろうか。今僕らは逃げている。逃げて、逃げてここまで来た。だけど、まだ追っ手はいない。僕たちはそれが見える前に逃げて来たのだ。こうしている間にもその時は近づいているのだろうか。わからない。わかりたくもなかった。
「コウくんはすごく楽しそう」
不意に出たその名前に、僕は目を見開いて逢野の方を向く。その視線で逢野は自分の放った言葉に気付いたらしく、すぐさま「匂坂!」と訂正をした。
「いいじゃん。懐かしいよ僕は」
いつ以来だろう、そう呼ばれたのは。
「意地悪」
逢野が顔を隠すように俯きながら短く抗議の声を上げる。しかし、その面映ゆいといった様子の表情も光がはっきりと映し出していた。
*
「やっぱりツいてるね、君たち」
家に戻ると、桐枝さんはいかにも面白そうに笑った。そして「夜光虫がいるのはわかってたんだ。昼間確認した時に赤潮になってたから。あれは予兆なの」と、やはり筋書き通りといったような様子で続ける。
「だけど蛍が海辺まで出てくるのは滅多にないよ。運命だね、運命」
桐枝さんはなぜか一番嬉しそうにしていた。
僕は自分の運がいいと感じたことはないが、逢野はどうだろうか。逢野も運がいい方だとはあまり思えない。だとすると、一生の運を今ここで使ってしまったのかもしれないなと思う。そう考えるとなかなか辛いものがあるが、それでもこの時間はそれに値するだけのものであったと言えるだろう。その証拠に、それから風呂に入って眠りにつくまで、あの光の幻影は僕を惹きつけてやまなかった。