「どうしてそんなに楽しそうなの?」

 目の前をどこか上機嫌で歩く逢野に僕は問いかける。

「だってわたし海なんて初めて見たし」

「それだけでこの状況を楽しめるのがすごいよ」

「匂坂が言ったんじゃん。行く方向なんて決まってないんだから今日はここを楽しめばいいんだよ」

 逢野はそう言ってまたゆっくりと前へ進み出した。一歩、一歩と足を踏み入れる度に、パキパキと小枝の折れる音が聞こえる。ここは控えめに言っても森という感じだ。鬱蒼(うっそう)と立ち並ぶ木々。よくわからない虫の音。傾斜はないから山ではない。だとすればここは森だ。海の近くに森があるというのは珍しいのだろうか。僕たちがレジャーでここに来ていたのであれば、一度で海と森両方楽しめて上々といったところだろうが、生憎これはレジャーではない。もっとも、ここが本当にレジャースポットとして最適ならば、あの見るからに寂れた町並みにはなり得ないだろうが。

 こんな寂れた町じゃ、見知らぬ顔が歩いていたらすぐに怪しまれそうだ。バスを降りてすぐ僕たちはその結論に至った。まして年端(としは)も行かぬ子供が二人。交通手段を失っている状態で不審に思われたら一発でアウトだ。

 そうして僕たちは人気(ひとけ)のなさそうな森の方へ抜けて来たわけだが、陽の落ちた森というのは想像以上に危ない場所だと今、僕たちは痛感している。街灯などはあるわけもなく、少し歩くだけでも一苦労だ。それでも今夜僕たちはここで夜を明かさなくてはならない。数時間ほど前に明けない夜にも楽しみ方があるとは言ったが、この状況では話が別だ。流石に野生の熊や猪に遭遇なんてことにはならないと思いたい。とはいえこの様子ではそれを何とも信じ切れない自分がいる。ならばせめて少しでも安全そうなところに行こうと、こうして歩いているわけだ。しかしそれも、もしかしたら逆効果なのではと思いかけたその時だ。不安的中。前を歩いていた逢野が声を上げて崩れ落ちる。慌てて駆け寄ると、どうやら地面の窪みに足を引っ掛けて挫いたようだった。小枝で擦りむいた脚から血が流れている。僕が「歩ける?」と訊いて手を差し出すと、逢野は大したことはないと言うように笑って「うん」と手を掴んだが、言葉とは裏腹に立つのも一苦労といった様子だった。見かねた僕が「無理しなくていいよ」と伝えると、逢野は「ごめん……」とへたり込むように座り込んだ。

 歩けないとなるとどうしたらいいのか。今夜はここでやり過ごすとして、明日には何とかなっているという話でもない。まず血をなんとかしないと。この町にこの時間も開いているコンビニがあるとも思えない。とりあえずありものでどうにかするしかないだろう。どれを使えばいい。包帯なんて当然持って来ていない。どうすれば……。想定外の事態に思考が破裂しているのがありありとわかった。客観視できているだけまだマシか。とにかく落ち着いて、今できることをやるしかない。そうわかっているのに、焦り切った思考は追いついてくれなかった。まずい。こんな時に他のトラブルが重なったら大変なことになるだろう。落ち着け、落ち着け、と心の中で唱える。僕が焦ってどうするんだと。しかし、現実は僕の心を待ってはくれないようだった。不安的中。トラブルは重なりやすいなんてどこかで読んだことがあったかもしれない。残念なことにそれは真実なようだ。座り込む僕たちを突然照らしたこのライトがあまりにもその仮説を支持していた。

 恐る恐る光の元に視線を向けると、懐中電灯を持った若い女性がこちらを覗き込んでいる。二十代くらいだろうか。僕らが言うのもなんだが、その華奢な身体はこの場所に似つかわしいとは言い難い。そうして互いに視線がぶつかると、先に口を開いたのは彼女の方だった。

「駆け落ち?」

 そのニヤついた顔は、好奇心という言葉をあまりにも体現していた。



 *



「で! どっちから誘ったの?」

「僕です」

「出会ったのは?」

「幼稚園の頃です」

「好きになったのは?」

「小学生の頃です」

 僕がそう言うと桐枝(きりえ)さんは「いいねぇ」と満足そうに歯を見せた。この家に来てからこんな風に一問一答がずっと続いている。桐枝さんが締まりのない顔で質問をして、僕がそれに答える。もちろん嘘を交えて。いや、むしろ真実を交えてと言った方がいいだろうか。嘘を吐くときは、ほんの少しの真実を交えるといいと何かで読んだことがある。この場合で言えば「幼稚園の頃に出会った」のことだ。



「駆け落ち?」。あの森の中で桐枝さんに投げかけられた奇怪な問いに答えたのは、僕ではなく逢野だった。どこから出たんだというような大きな声で「はい!」と一言。こうして駆け落ちして来た中学生二人の誕生だ。僕はすぐに逢野は抗議の視線を送ったが、逢野は「仕方ないでしょ」とでも言うように舌を出した。逢野の返事を聞いた桐枝さんが大きな声で「面白いじゃん」と笑い出したからもう収拾はつかない。だから僕も観念して、この状況をやり過ごせるならそれでいいかと沈黙という名の肯定をすることにしたわけだが、桐枝さんの次の言葉はまた想定を超えるものであった。

「ウチに来なよ」

 想定外の提案に僕が「え?」と()頓狂(とんきょう)な声を出すと桐枝さんは、「怪我してるんでしょ?」と続けた。

 

 こうして今に至ると言うわけだ。桐枝さんの家はあの森から二○分くらいのところにあった。足を挫いた逢野に肩を貸しながら来たから、本当はもう少し近いのだろう。逢野は手当てを受けて、今は風呂に入っている。「レディーファーストってことで」とカトレアのような笑顔で得意げに笑う桐枝さんの勧めで。

 この人——羽並桐枝(はなみきりえ)と言うらしい——は控えめに言ってかなり怪しい。助けてもらってこんなことを思うのはかなり気が引けるが。二十代中盤くらいと推察できるその若さもこの町には似つかわしくないし、そんな人がこのそれなりに広い平家に、恐らくは一人で住んでいることも謎めいている。そして何故か苗字で呼ばれることを異様に嫌がるのだ。道中で僕がつい「羽並さん」と呼んでしまうと、「名前」としきりに釘を刺された。理由はわからない。しかし、微笑みを崩さない顔とは裏腹に、その言葉には有無を言わさぬ圧があった。そう考えると、この家に入る時も表札のようなものは見かけなかったことを思い出す。都会のアパートやマンションならいさ知らず、このなかなかに立派な外見をした田舎の家に、表札がないというのはやはり不自然だ。そして何よりこんなあからさまに怪しい僕たちを助けてくれたことが怪しい。単純にただの好奇心なのか、それとも……。正直、ここに来ていいのかどうかもかなり迷ったが、リスクとあの状況を天秤にかけてリスクを取らざるを得なかったのだ。何より当の逢野がなぜか乗り気だった。

 何にせよ、最初に「駆け落ち」と言ってしまった以上その嘘を吐き通すしかない。だから僕は、こうしてありもしない駆け落ち話を作り語っているわけだ。まあ、こういう嘘も僕の得意分野ではあるから問題ない。

「どうしたの?」

 黙り込んでいた僕を見て、桐枝さんがそう訊ねてくる。

「ちょっと昔のこと思い出して。懐かしいなって」

「あの子との輝かしい思い出ってことだ」

「そうですね」と僕はまた嘘を吐く。実際に僕が思い出していたのは、嘘八百を並べるこのシチュエーションの方だ。しかしその真意もまた告げる必要はない。今この場所に必要なのは上手に飾り付けられた嘘なのだから。桐枝さんは僕の答えにまた「いいねぇ」と満足そうに頷いていた。

「そんなことよりいいんですか?」と僕は訊く。

「何が?」

「見ず知らずの僕たちを家になんか上げて」

「いいんだよ面白そうだから」と桐枝さんはまたその真っ白な歯を見せた。

「好奇心は猫をも殺すって言いますよ?」

「大丈夫。私は動物占いペガサスだから」

 そういうことではないだろと心の中で異を唱える。そもそも動物占いに猫はいない。しかし、それに言及したところで得るものがないのは自明だろうから口には出さない。これではむしろ煙に巻かれたのは僕の方だ。

「ところで君は? 動物占い」

 桐枝さんが興味津々と言った顔で訊く。この人はどんな些細なことでも最大限の興味を示せるのだろうか。

 僕は「こじか」と、不本意ながら真実を告げた。そろそろ嘘の割合が多くなってきたところだから仕方ない。

「可愛いじゃん」

 桐枝さんはやはりどこか上機嫌で目を細めた。



 *



 それから少しして戻って来た逢野と入れ替わるように、僕は浴室へと移動した。ぬるめのシャワーを浴びながら今の状況を整理する。羽並桐枝。彼女は一体何を考えているのだろうか。わからない。彼女の行動の意図はあまりにもはかりかねる。いっそ意図なんてないのだろうと思うことができれば楽だが、僕たちの置かれている状況はそれを許さないだろう。未知は恐れなくてはならない。

 そうやって桐枝さんのことを延々と考えている最中、突然「着替えとタオルここに置いておくね」と間伸びした声が聞こえたものだからドキりとする。これもまたどこかで聞いたような言葉だ。着替えというのは誰の服なのだろうか。先ほど出てきた逢野は少し大きめのスウェットを着ていた。恐らくは桐枝さんのものだろう。もし僕が今、浴室から出て、そこに男性用の服があればそこからあの人の素性が少しは掴めるだろうか。寝巻きじゃ判別はつかないだろうなと自己完結に至る。だめだ。やはり何もわからない。ここでどれだけ思考を巡らせても、全て水と一緒に流れて行くような気がした。



 *



 結局、浴室から出た僕を待っていたのは、逢野が着ていたスウェットの色違いのものだった。逢野が白で、僕が黒。部屋に戻ると第一声、「ペアルック。いいでしょ」と桐枝さんが得意げな顔で言う。ニタニタとオノマトペが見える気がするほどの、お手本のような笑顔だ。

 僕が風呂に入っている間に、あの質問攻めを逢野も体験したのだろうかと考える。だとすれば、僕の話との整合性はどれだけ取れているのか。「駆け落ち」以外の部分は大抵本当のことを言ったつもりだが。まあ多少の矛盾ならば「恥ずかしかったから嘘を吐きました」と「記憶違いでした」の二刀でなんとかしよう。僕はそう決意して身構えるが、結局桐枝さんからの指摘はなかった。代わりに桐枝さんは「どっちがいい?」とカップ麺を二つを持ち上げて僕に見せる。僕が面を食らって返答に窮していると、「ごめん。今、家にこれしかないんだよね。明日はなんか買ってくるから」と桐枝さんが追撃した。思わず僕は「明日?」と声に出す。一つ目の疑問も解決していないのに、二の太刀を入れられた気分だ。すると桐枝さんはきょとんとした顔で「明日食べるものなかったら困るでしょ?」と言い放った。

「えっと、それは今夜泊めてくれるってことですか?」

「当たり前じゃん。こんな時間に子供二人を放り出せるわけないでしょ。今夜っていうか、あきちゃんの怪我が治るまでは居てもらわないと困るよ」

 桐枝さんは当然のことのようにそう言った。三の太刀と四の太刀だ。あきちゃんというのは、逢野昭のことだろうか。

「なんでそこまでしてくれるんですか? 今日出会ったばかりの僕らに」

 想定外の連続に数秒フリーズした僕は、やっとの思いでそう声を振り絞る。わからなかった。この人が何を考えているのか。どれだけ考えても、僕の思考回路ではその答えに辿り着ける気がしなかった。そうして桐枝さんから返って来たのは、想定通りに想定外の答えだった。

「面白いから」

 ああ、もうギブアップだ。きっとどれだけ考えても僕はこの人のことがわからない。今、そう確かにわかった。

「で? どっちにする? 醤油味かカレー味」

 そうして僕は考えるのをやめた。



 *



 ちゃんとした部屋の中で布団を敷いて眠るのはいつぶりだろうか。思わずそんな気分になる。昨日の昼のことがもう遥か昔のように思えるくらい、この二日間で起きたことは濃密だった。ここ何年かの僕に起きた出来事を箇条書きで並べるとして、恐らく大半をこの二日の間に起きた出来事が占めるだろう。



 結局あの後、僕は醤油味のカップ麺を選んだ。逢野は既にシーフード味を選んでいたらしく、残ったカレー味は桐枝さんの胃の中へと渡る。僕が風呂に入っている間に、逢野と桐枝さんはすっかり打ち解けていたようで、食事中も楽しそうに談笑していた。

 カップ麺を食べ終えると、桐枝さんはまた当たり前のことのように「布団一枚でいいよね?」と言った。やはり本当は全て見抜いているのではないかと脳裏によぎる。思わず口を出かけたその疑義を飲み込んで僕が異を唱えようとすると、それを制するかのように逢野が大きく頷いた。それを見て桐枝さんも満足そうに頷く。そうして、「じゃあ私はこっちで寝るから」と襖を隔てた向かいの部屋に行き、今に至るわけだ。

 正直僕は、逢野が何を考えているのかもわからなかった。風呂上がりの僕と桐枝さんが話している時もずっと黙っていたが、恐らくは僕がいない間にここに泊まることを了解していたのだろう。逢野はそれを聞いた時どう思ったのか。わからない。僕が知っている逢野はここまで流れに身を任すような人間だっただろうか。違う、とは言い難い。元からそのような傾向は確かにあった。わりと誰とでも話せるし、誰にでも話しかけに行っていたような気もする。それこそ僕に折り紙の手裏剣をぶつけたあの時のように。

 しかし、ここまでであったかどうかにはやはり疑問が残るところだ。もっともここ数年、逢野とのコミュニケーションを放棄していた僕が何か言えることではないのかもしれないが。それに僕はついさっき考えることをやめた。僕の思考回路は疾うにキャパオーバーしているのだ。これ以上埒のあかないことを考えていても収穫はないだろう。今大切なのは、隣で眠る逢野も恐らくは久しぶりに布団での熟睡を得られているということ。それさえわかっていれば十分だろう。僕は自分をそう納得させて目を閉じた。



 *



 翌朝、一番最初に目を覚ましたのは僕だった。時計の針はちょうど十時を指している。僕は隣で寝ている逢野を起こさないように気をつけながら玄関へ向かい、郵便受けに新聞紙が四部挟まっているのを確認した。昨日この家に入って来た時には既に三部の存在を確認していたので、桐枝さんが新聞を契約していることはわかっていたが、この様子だと実際に読んでいるようには思えない。靴箱の上に何十部も乱雑に積み重ねられているのを見ても明らかだ。だとすれば何のために新聞を取っているのかはわからないが、何にせよ僕にとっては好都合だ。僕は昨日確認できなかった夕刊と、今朝届けられたであろう朝刊をその場でパラパラとめくり一息を吐く。どうやら、昨日から現在にかけても逢野の事件は発覚していないようだった。

 しかし、やはりずっとこのままというわけにはいかないだろう。二部の新聞紙を郵便受けに戻しながら僕はそう考える。桐枝さんが新聞を読んでいないにしても、ニュース番組やインターネットを見れば情報は伝わって来てしまう。桐枝さんは逢野の怪我が治るまでここに居てもらわないと困ると言ってくれていたが、その間に事件が発覚した場合はどうすればいいだろうか。交通手段の少ないこの町じゃ、すぐに逃げるといったことも難しい。やはりこのままここに居続けるのは危険だ。とはいえ、逢野が動けるようになるまでは身動きも取れない。そうなると、結局今できることは一日でも事件の発覚が遅れることを祈ることだけだった。

 そんなことを考えながら歯を磨いていると、すぐに逢野が起きて来た。やはりまだ足は痛むのか、壁に手をつきながら歩いている。逢野が大きな欠伸をしながら間の抜けた声で「おはよ」と言ったので僕も「おはよう」と返す。「よく眠れた?」と僕が訊くと逢野は小さく頷いた。  

「桐枝さんは?」と逢野が言う。

「まだ寝てるんじゃないかな。靴もあったし」

「そっか。じゃあわたしは二位だ」

 どこか誇らしげに言う逢野に、別に競ってないだろうと考えるが口にはせず、「おめでとう」と言った。

「銀は金より良いって書くからわたしの勝ちだね」

 どんな暴論だろう。そもそも良いではなく艮なんだから、むしろ縁起は悪そうだ。しかしそれも口にはしない。

「で、金の僕と銅の桐枝さんが同じってわけ?」

「そう。参加賞おめでとう」

 銅は酸化しやすいからということだろう。やはり暴論だ。しかし反論はしない。甘んじて受け入れよう。僕の人生なんて、参加賞が貰えるだけでラッキーだ。

 その後、同じく参加賞の桐枝さんが起きて来たのは、時計の長針が二周ほどしてからだった。



 *



 海苔を置く。ご飯を四分の一くらい乗せて、ボイル海老。玉子。ツナ。干し椎茸。準備は整った。そうして、巻き()を少しずつ巻いていく。完璧。エビツナ寿司の完成だ。



「手巻き寿司パーティーをしよう」

 昼過ぎに起きて来て、無事参加賞を受賞した桐枝さんが第一声、そう高らかに宣言した。妙案を思いついたというような顔で。そうして桐枝さんは、「とりあえずこれ食べといて」と戸棚にあったツナ缶を渡し、早々に家を出て行った。取り残された僕たちは、あまりの脈絡のなさに唖然としながらツナ缶を食し待つ。結局、桐枝さんが帰って来たのは夕方に差し掛かる頃だった。

 桐枝さんはどこで買って来たのか、海老、玉子、ツナ、椎茸、たらこ、いくら、とびこ、きゅうり、納豆……と様々なネタを机に並べる。恐らくそのほとんどが手巻き寿司の定番なのだろうが、寿司の王道ど真ん中の生モノが心なしか少ない気がするラインナップだった。それを見て僕は、「僕のこと桐枝さんに何か言った?」と隣に座る逢野に耳打ちする。すると逢野は、机の下で小さくピースの形を作りチョキチョキと動かした。桐枝さんも何かを察したのかしたり顔をしている。なるほど。随分用意周到なようだ。

「私にも聞かせてよ。火の重要性」

 格好の獲物を見つけたというような目で桐枝さんがこちらを見る。それを聞いた逢野が、「人間を人間たらしめるのが火なんだよね」と追い討ちをかけるので、僕は「勘弁してください」と俯いた。こうして第一回手巻き寿司パーティーは挙行、あるいは強行されたのだ。



 実際に自分で手巻き寿司を作ってみると、これがなかなか難しい。ご飯や具材を入れすぎると、不恰好な形になってしまう。逢野は何度作っても巻いている途中で海苔が破れてしまい、かなり苦戦しているようだった。ここで僕のささやかな特技を思い出してもらいたい。僕は数々のコンビニおにぎりと向き合って来た。海苔の扱いには、なかなかに長けているのだ。最適なご飯の量、具材とのバランス、全てが手に取るようにわかる。巻き簾を丁寧に丸めて、気づけばそこには完璧な手巻き寿司が完成していた。どうやら今日、僕のささやかな特技が一つ増えたようだ。思わず完成したそれを自慢するように見せると、逢野は「見た目より味だよ」と不恰好な手巻き寿司を満足そうに頬張った。案の定まだ海苔が破れて、きゅうりがポロリと溢れ落ちる。それを見て桐枝さんが「君たちは本当に面白いね」とまたその白い歯を見せるから、僕たちも釣られて笑ってしまう。

 食べて、笑って、笑って、また食べて、笑う。なんだかわからないけれど、とても懐かしい気がした。具体的な思い出があるわけじゃない。何か特別なことがあったわけでもない。だけどこうやってみんなでご飯を食べて、笑い合って、それがどうしようもなく懐かしく思えたのだ。



 *



「こじかは人見知りなんだってさ」

 パーティーを終えて食器を洗っていると、横で洗い終えた食器を布巾で拭いている桐枝さんがそう言った。

「僕は占いを信じてないので」

「でも君も人見知りでしょ?」

「違います」と即答する。

「嘘だぁ」と桐枝さんは目を細めた。

「だからさ、君にとってあきちゃんは特別なんだなってわかるよ。あの子といる時の君はなんだろう、自然体って感じがする」

 どうやら僕が人見知りという前提で話は進んでいるようだ。

「あきちゃんのこと本当に大切に想ってるんだなって、一目でわかる感じ?」と桐枝さんは続ける。

 大切に。そう言われて、恐らく今、温かい湯船に浸かっているであろう逢野のことを考える。確かに僕にとって逢野は大切な存在だ。手裏剣をぶつけられたあの時からずっと。逢野は僕にいろいろな世界を見せてくれた。臆病な僕の手を引っ張って連れ出してくれるのはいつも逢野だった。それは逢野にしかできなかったことなのだと思う。逢野昭が逢野昭だからこそ僕を連れ出そうとしたんだろうし、逢野昭だからこそ僕はついて行こうと思ったのだ。逢野の目を通して僕は世界を見ていた。逢野の目にはこの景色はどう映っているのだろうか。逢野にはこの世界がどんなふうに見えているのだろうか。僕は逢野昭というフィルターを通して世界と関わっていた。だから僕にとって逢野は大切だ。大切な存在だと思っている。だけど、僕は逢野を大切にできていたのだろうか。きっと僕は逢野のことを大切に思っていた。だけど大切にはできていなかった。今僕らがここにいることが、その何よりの証左なのだろう。だとすれば、僕はこうして逢野と一緒にいる資格などないのかもしれない。だから桐枝さんが言っていることは、半分正解で、半分ハズレだ。

 結局僕は「そうですかね」と小さな声で言うことしかできなかった。

「そうだよ。大事な恋人、でしょ?」

 桐枝さんはこれぞ不敵といった表情でこちらを見ていた。本当にこの人は……。

「……あなたは、どこまでわかってるんですか」

 感情に押し出されるように、口をついて出た。言葉の通りだ。この人を前にすると、全てを見透かされてるような気分になってしまう。

「何もわからないよ。でも、わかることはわかる」

「難しいことを言いますね」

「君もそうでしょ?」と桐枝さんは揶揄うように笑った。

「僕は怖いんですよ。本心を知られてしまうのが。単純な言葉をそのまま吐いたらきっとそれが露わになってしまうから、難しい言葉で壁を作るんです。難解にすればするほどその壁は強固になるから」

 言った側から壁が崩れていくのを感じた。今、僕の壁は一枚一枚丁寧に剥がされている。

「でもあの子はそういうのをすり抜けちゃう」

 すり抜ける。それは逢野のことを見事に言い表していた。そうだ、逢野はすり抜ける。剥がすのでもなく、壊すのでもなく、飛び越えるのでもない。逢野はすり抜ける。どれだけ強固な壁を作っても、いつだって気付けば僕の目の前にいた。それが逢野昭だった。

「よくわかってますね。もしかしたら僕たちは気が合うのかもしれない」

「そう? それは嬉しいな。私も少しは君の壁の内側に入れたと思っていいのかな?」と桐枝さんが笑う。

「それはどうでしょう。あんまり信頼に速度を求めないで欲しいな」と僕も笑って返す。

「ほら。やっぱり人見知りのこじかだ」

「認めるしかないみたいですね」

 そうして僕たちは目を見合わせて笑い合った。

 やっぱりこの人のことはわからないなと思う。昨日の僕の考えは正しかった。この人のことはどれだけ考えてもわからないのだと。桐枝さんがどんな人生を送ってきて、どんな暮らしをしていて、そしてどんな理由で、どんな思いであの時あの森にいたのかはわからない。どうして苗字で呼ばれるのを嫌がるのかも、この家の至る所に残るつい最近まで居たであろう誰かの痕跡も、それとなく僕たちを遠ざけているあの奥の部屋に何があるのかも、全部わからない。だけど一つだけ。一つだけわかったかもしれないこと。きっとこの人は本当にただのいい人で、それでもしかしたら僕と同じで本当は臆病な人なのかもしれないと思った。それだけ。根拠なんて訊かれたらなんとなくとしか言えないくらいの、そんなあやふやな答えだけれど。それでもいいと思った。それだけわかっていれば十分なのだと。それだけわかっていれば、きっと僕はこの人のことを信じられる。

「だからさ、守ってあげなよ。これからも」

 そう言った桐枝さんの目はとても優しく見えた。だから僕はこう返す。

「守られてるのは僕の方ですよ。ずっと」



 *



 一夜明けて、次の日は第一回たこ焼きパーティーが開催された。その次の日はお好み焼きパーティ。更に次の日には第一回餃子の皮ピザパーティーが開かれ、そしてそれは結果的に逢野の快気祝いを兼ねることとなった。