運命は変えられる。今、僕は桐枝さんと出会って、確かに僕は過去を変えた。ほんの少しだけかもしれない。リスが大事に抱え込む木の実くらいの、ごく僅かな変化かもしれない。世界中で僕と桐枝さんしか気に留めないであろう微細な違い。それでも確かに運命は変わった。逢野昭を連れてあの町に行くと約束したのだ。
逢野昭に付き纏って離れない最悪の運命にだって、抗う方法はある。その高揚感が折れかけていた僕を鼓舞した。幾度となく繰り返される夏に削り細らされていた心も、今ならイッカクの牙のように研ぎ澄まされていたのだと思うことができるだろう。強靭な運命にも穴は必ずある。ないなら僕がこじ開ければいい。ずっと後悔し続けた結末を変えるために、僕はこの夏にいるのだ。だから立ち向かおう。真正面に立って、最悪の運命を変えるために。
そう意気込んで僕は、もう何度目かもわからない八月一日を迎えた。だけど今までとは確実に違う。ここにはもう運命を変えられると知っている僕がいるのだから。
——そうして、もちろんまた失敗した。
何も特別なことなんてなかった。またいつものように、逢野が父親を刺してお終い。何度も見た、当然の結末だ。
何を浮かれていたのだろうか。自分で言っていたじゃないか。どれだけ奇跡的な出会いだって、結局全てが無に帰るのだと。その言葉通り、何も変わらなかった。一瞬の奇跡に浮かされて、勘違いを重ねた果てに、またすぐ奈落に突き落とされた。夏に酔っていたいなんて言っていた、あの夏から何も変わっていない。僕は未だにあのときと同じ間違いを繰り返し続けていた。
それでも僕はまた戻る。奇跡も約束も全部、泡のように無に帰るとしても戻らなくてはならない。これが義務や使命だったらどれだけよかっただろうか。それなら僕はまだ、その使命を呪いながらも受け入れることができる。でも現実は違う。これは僕の身勝手で、我儘で、エゴでしかない。僕が呪っていいものなんてどこにもあるはずがなかった。
そうやって無間の夏に戻り続ける僕を、魔女は痛々しそうな目で見つめる。それでも僕は「もう一回」と縋りつき、魔女もまたそれに応えた。何度も何度も同じことを繰り返す。逢野が、姉が、母が、桐枝さんが、磯崎が、逢野の父親が、世界中の全員が全てを忘れて巻き戻り、僕と魔女だけが全てを覚えている。僕と魔女だけが、この幾千の失敗を忘れられずに、また何度も繰り返さなくてはならない。誰も知らない世界で、僕らだけが。
あつち死に。耳にタコができるくらい受けた、古典の授業で聞いた言葉。身悶えてのた打ち回りながら死ぬこと。熱に浮かされた僕の行き着く先が、そこにあるような気がした。
*
その夏、僕は正面から逢野の家に乗り込んでいた。どれだけ手を尽くしても変えられないのなら、もうあれこれ考えるのをやめたかったのだ。
「誰だお前?」
土足で上がり込んだ部屋の中で、酩酊した逢野の父親がそう僕を睨んだ。逢野は僕の服の袖を掴んで震えている。
改めて向き合ってみると、僕が知っていた昔の彼とは全く違う。無精髭に燻んだ肌。でこぼこに伸びた爪で掴むひしゃげた缶ビール。ボサボサに伸び散らかった髪で隠れた、死んだような目。今の僕も同じような目をしてるのだろうか。
「友達です」
そんな小綺麗な言葉も、僕は桐枝さんのような芯を持った目で言うことはできない。
友達。だから助けたい。だから何度も、何度も……。
逢野の父親は呂律の回らない舌で何かを喚いている。だから僕は彼を無視して自分の主張を続けた。
「助けに来ました」
誰を? そう心の中で自問する。逢野を? この父親を? それとも……。
それ以上考える間も無く、顔面に強い衝撃が走った。身体がグラリと持ち上がって床に倒れ込む。そのまま休む暇もなく彼の足が僕を襲った。断続的にその足が蹴り落とされる。口の中が鉄の味で塗り潰されて、思い出したのはいつかの公園だった。
僕の力は酒に溺れた中年にすら敵わないのだなと思い知らされる。このまま終わってしまいたい。降り止まぬ暴力の嵐のなか、ふとそんなことを考えてしまう。このままこいつに殺されて、そうしたら楽になれるのだろうか。悪魔のような囁きが耳の底を打った。もうこのまま、終わってしまおうと。
しかし、先に終わったのは僕の人生ではなく、僕に降りかかる暴力だった。「終わった」ではなく、「終わらされた」の方が正しいのかもしれない。
七時二八分三六秒。僕を蹴りつけていた彼の身体には、いつものように包丁が突き立てられていた。彼が大きな叫び声を上げて地面をのたうち回る。逢野は肩で息をしながら震えていた。もう何度も見た光景だ。そんな逢野にかける言葉を、僕はいつだって持ち合わせてはいない。
気づけば僕はそこから逃げ出していた。ボロボロの身体を無理やり動かして走っている。外は土砂降りの雨が空と地面を繋いでいた。天気は変えられる。最初にこの夏に戻ってきた時は晴れていた。それが何の因果か雨に変わった。過去は変えられる。天候すらも変えられる。それなのに……、それなのに、何度やっても逢野が父親を殺す運命だけが変わらない。
僕のせいだ。今、逢野が父親を殺したのは僕を守るためだった。僕のせいで逢野が父親を殺した。僕は何をしているんだ。無駄だった。僕がやってきたこと全部。全部、全部無駄だった。雨と蝉が世界を打ちつける音だけが響いている。
「神様は意地悪なんだ」
魔女の声だ。どこからともなく現れた魔女が、僕に傘を差し出した。
「濡れたい」と僕は拒絶する。
すると魔女は自分がさしていた傘も畳んで、二本の傘を地面に突き刺した。アスファルトが砕け散る音がする。
「刺しちゃった」
茫然と眺めていた僕に魔女がそう目を細める。
「どこに?」と意味のない言葉が口をついて出た。
「神様の掌」
魔女は今までに見たことのないような真剣な顔つきをしていた。
「神様は意地悪なんだよ」
「意地悪?」
「例えば全てがトントン拍子にうまくいくような、ハッピーエンドのお話があったとして、神様はそれをご都合主義の夢物語だって断罪するの。リアリティがないって」
それはこれまで何度も聞いて来た、あの飄々とした魔女の声ではなかった。どこか切実で、心に迫ってくるようなそんな感覚があった。
「だけど反対に、全てがボタンの掛け違いみたいにすれ違っていく、バッドエンドのお話があったとするでしょ。それを見て神様は言うの、リアリティに溢れたお話だって」
魔女の目はどこか遠くを見ているような気がした。
「おかしいでしょ? 全てがいい方向へ進む可能性と全てが悪い方向に進む可能性は、どっちだって同じ確率なはずなのに。それなのに片方はリアリティのない駄作。もう片方はリアリティのある名作になるの」
魔女が僕の答えを窺うようにこちらを見た。
それは人生の話なのだろうか。だとすれば人間の一生は悲劇だ。
「だから、時の魔女なんてものをやってるのか?」
運命に抗わせるために。バッドエンドがハッピーエンドに変わる瞬間を見るために。だとすれば、きっとそんな魔女の一生だって……。
「そうだよ。だから諦めないよね? 私は何回だって巻き戻してあげる。どこまででも付き合うよ。何十年、何百年、何千年、何億年——だって。だから匂坂くんも諦めないよね?」
いつもと変わらない平坦な声なはずのに、どうしてからそれは縋るような想いを感じさせた。ずっとケタケタと笑っていた魔女が初めて見せた姿。その声を聞いて僕はわかってしまった。きっとこの魔女の期待に応えられた人間は今まで一人もいなかったのだろう。これまで何人もの人間がこうして過去に戻って、そして一度も運命を変えられなかった。そんな失敗を魔女はずっと見続けて来たのだ。いつだったか、魔女の掌の上で踊らされてるのではないかと疑ったことを思い出す。だけど違った。魔女もずっと抗っていたのだ。このどうしようもない運命に。僕なんかよりも遥かに長い時間をかけて。それでも何も変わらなかった。だったら、僕が過去に戻り続けた先にある結末だってきっと……。
多分僕はもう随分前からそのことに気がついていたのだと思う。だけど認めたくなかった。それを認めてしまえば、本当に終わってしまうから。僕は逃げていたのだ。過去に戻ることで、変えられない現実から逃げていた。もう終わりにしよう。逃げ続けた先には何もない。そんなことずっと前からわかっていたのだから。
「わたしが死ねばよかったんだ」
いつかの逢野の言葉が頭の中に蘇る。世界中の悲しみを集めたような顔で、逢野は俯いていた。もう二度とあんな顔をさせたくはない。だから、もう終わりにしよう。
僕は魔女の問いに一言だけ返した。
「次が最後だ。三年前に戻してくれ」
魔女の顔が強張る。それは失望なのか、絶望なのか、きっと魔女はずっとこんなことを繰り返して来たのだろうなと思う。
物語の幕が閉じようとしていた。
逢野昭に付き纏って離れない最悪の運命にだって、抗う方法はある。その高揚感が折れかけていた僕を鼓舞した。幾度となく繰り返される夏に削り細らされていた心も、今ならイッカクの牙のように研ぎ澄まされていたのだと思うことができるだろう。強靭な運命にも穴は必ずある。ないなら僕がこじ開ければいい。ずっと後悔し続けた結末を変えるために、僕はこの夏にいるのだ。だから立ち向かおう。真正面に立って、最悪の運命を変えるために。
そう意気込んで僕は、もう何度目かもわからない八月一日を迎えた。だけど今までとは確実に違う。ここにはもう運命を変えられると知っている僕がいるのだから。
——そうして、もちろんまた失敗した。
何も特別なことなんてなかった。またいつものように、逢野が父親を刺してお終い。何度も見た、当然の結末だ。
何を浮かれていたのだろうか。自分で言っていたじゃないか。どれだけ奇跡的な出会いだって、結局全てが無に帰るのだと。その言葉通り、何も変わらなかった。一瞬の奇跡に浮かされて、勘違いを重ねた果てに、またすぐ奈落に突き落とされた。夏に酔っていたいなんて言っていた、あの夏から何も変わっていない。僕は未だにあのときと同じ間違いを繰り返し続けていた。
それでも僕はまた戻る。奇跡も約束も全部、泡のように無に帰るとしても戻らなくてはならない。これが義務や使命だったらどれだけよかっただろうか。それなら僕はまだ、その使命を呪いながらも受け入れることができる。でも現実は違う。これは僕の身勝手で、我儘で、エゴでしかない。僕が呪っていいものなんてどこにもあるはずがなかった。
そうやって無間の夏に戻り続ける僕を、魔女は痛々しそうな目で見つめる。それでも僕は「もう一回」と縋りつき、魔女もまたそれに応えた。何度も何度も同じことを繰り返す。逢野が、姉が、母が、桐枝さんが、磯崎が、逢野の父親が、世界中の全員が全てを忘れて巻き戻り、僕と魔女だけが全てを覚えている。僕と魔女だけが、この幾千の失敗を忘れられずに、また何度も繰り返さなくてはならない。誰も知らない世界で、僕らだけが。
あつち死に。耳にタコができるくらい受けた、古典の授業で聞いた言葉。身悶えてのた打ち回りながら死ぬこと。熱に浮かされた僕の行き着く先が、そこにあるような気がした。
*
その夏、僕は正面から逢野の家に乗り込んでいた。どれだけ手を尽くしても変えられないのなら、もうあれこれ考えるのをやめたかったのだ。
「誰だお前?」
土足で上がり込んだ部屋の中で、酩酊した逢野の父親がそう僕を睨んだ。逢野は僕の服の袖を掴んで震えている。
改めて向き合ってみると、僕が知っていた昔の彼とは全く違う。無精髭に燻んだ肌。でこぼこに伸びた爪で掴むひしゃげた缶ビール。ボサボサに伸び散らかった髪で隠れた、死んだような目。今の僕も同じような目をしてるのだろうか。
「友達です」
そんな小綺麗な言葉も、僕は桐枝さんのような芯を持った目で言うことはできない。
友達。だから助けたい。だから何度も、何度も……。
逢野の父親は呂律の回らない舌で何かを喚いている。だから僕は彼を無視して自分の主張を続けた。
「助けに来ました」
誰を? そう心の中で自問する。逢野を? この父親を? それとも……。
それ以上考える間も無く、顔面に強い衝撃が走った。身体がグラリと持ち上がって床に倒れ込む。そのまま休む暇もなく彼の足が僕を襲った。断続的にその足が蹴り落とされる。口の中が鉄の味で塗り潰されて、思い出したのはいつかの公園だった。
僕の力は酒に溺れた中年にすら敵わないのだなと思い知らされる。このまま終わってしまいたい。降り止まぬ暴力の嵐のなか、ふとそんなことを考えてしまう。このままこいつに殺されて、そうしたら楽になれるのだろうか。悪魔のような囁きが耳の底を打った。もうこのまま、終わってしまおうと。
しかし、先に終わったのは僕の人生ではなく、僕に降りかかる暴力だった。「終わった」ではなく、「終わらされた」の方が正しいのかもしれない。
七時二八分三六秒。僕を蹴りつけていた彼の身体には、いつものように包丁が突き立てられていた。彼が大きな叫び声を上げて地面をのたうち回る。逢野は肩で息をしながら震えていた。もう何度も見た光景だ。そんな逢野にかける言葉を、僕はいつだって持ち合わせてはいない。
気づけば僕はそこから逃げ出していた。ボロボロの身体を無理やり動かして走っている。外は土砂降りの雨が空と地面を繋いでいた。天気は変えられる。最初にこの夏に戻ってきた時は晴れていた。それが何の因果か雨に変わった。過去は変えられる。天候すらも変えられる。それなのに……、それなのに、何度やっても逢野が父親を殺す運命だけが変わらない。
僕のせいだ。今、逢野が父親を殺したのは僕を守るためだった。僕のせいで逢野が父親を殺した。僕は何をしているんだ。無駄だった。僕がやってきたこと全部。全部、全部無駄だった。雨と蝉が世界を打ちつける音だけが響いている。
「神様は意地悪なんだ」
魔女の声だ。どこからともなく現れた魔女が、僕に傘を差し出した。
「濡れたい」と僕は拒絶する。
すると魔女は自分がさしていた傘も畳んで、二本の傘を地面に突き刺した。アスファルトが砕け散る音がする。
「刺しちゃった」
茫然と眺めていた僕に魔女がそう目を細める。
「どこに?」と意味のない言葉が口をついて出た。
「神様の掌」
魔女は今までに見たことのないような真剣な顔つきをしていた。
「神様は意地悪なんだよ」
「意地悪?」
「例えば全てがトントン拍子にうまくいくような、ハッピーエンドのお話があったとして、神様はそれをご都合主義の夢物語だって断罪するの。リアリティがないって」
それはこれまで何度も聞いて来た、あの飄々とした魔女の声ではなかった。どこか切実で、心に迫ってくるようなそんな感覚があった。
「だけど反対に、全てがボタンの掛け違いみたいにすれ違っていく、バッドエンドのお話があったとするでしょ。それを見て神様は言うの、リアリティに溢れたお話だって」
魔女の目はどこか遠くを見ているような気がした。
「おかしいでしょ? 全てがいい方向へ進む可能性と全てが悪い方向に進む可能性は、どっちだって同じ確率なはずなのに。それなのに片方はリアリティのない駄作。もう片方はリアリティのある名作になるの」
魔女が僕の答えを窺うようにこちらを見た。
それは人生の話なのだろうか。だとすれば人間の一生は悲劇だ。
「だから、時の魔女なんてものをやってるのか?」
運命に抗わせるために。バッドエンドがハッピーエンドに変わる瞬間を見るために。だとすれば、きっとそんな魔女の一生だって……。
「そうだよ。だから諦めないよね? 私は何回だって巻き戻してあげる。どこまででも付き合うよ。何十年、何百年、何千年、何億年——だって。だから匂坂くんも諦めないよね?」
いつもと変わらない平坦な声なはずのに、どうしてからそれは縋るような想いを感じさせた。ずっとケタケタと笑っていた魔女が初めて見せた姿。その声を聞いて僕はわかってしまった。きっとこの魔女の期待に応えられた人間は今まで一人もいなかったのだろう。これまで何人もの人間がこうして過去に戻って、そして一度も運命を変えられなかった。そんな失敗を魔女はずっと見続けて来たのだ。いつだったか、魔女の掌の上で踊らされてるのではないかと疑ったことを思い出す。だけど違った。魔女もずっと抗っていたのだ。このどうしようもない運命に。僕なんかよりも遥かに長い時間をかけて。それでも何も変わらなかった。だったら、僕が過去に戻り続けた先にある結末だってきっと……。
多分僕はもう随分前からそのことに気がついていたのだと思う。だけど認めたくなかった。それを認めてしまえば、本当に終わってしまうから。僕は逃げていたのだ。過去に戻ることで、変えられない現実から逃げていた。もう終わりにしよう。逃げ続けた先には何もない。そんなことずっと前からわかっていたのだから。
「わたしが死ねばよかったんだ」
いつかの逢野の言葉が頭の中に蘇る。世界中の悲しみを集めたような顔で、逢野は俯いていた。もう二度とあんな顔をさせたくはない。だから、もう終わりにしよう。
僕は魔女の問いに一言だけ返した。
「次が最後だ。三年前に戻してくれ」
魔女の顔が強張る。それは失望なのか、絶望なのか、きっと魔女はずっとこんなことを繰り返して来たのだろうなと思う。
物語の幕が閉じようとしていた。