そうして僕はまた戻った。失敗した。次はもう少し時間を伸ばして一週間前に戻った。失敗した。それならば二週間。失敗した。三週間。失敗した。一ヶ月あればなんとか。失敗した。逢野を遠くへ連れ出して、物理的に距離を離せば。失敗した。周囲の大人の力を借りれば。失敗した。逢野を閉じ込めて、今度こそ二人が出会さないように。失敗した。戻って、失敗して、戻って、失敗して。何度も戻って、何度も失敗した。
八月一日の七時二八分三六秒。何度も戻っても、時計の針がその時刻を指す度に逢野は父親を殺した。どれだけ遠ざけようと、あの男は引き寄せられるかのように逢野の元へやってきてその腹に包丁を収める。何度やっても一緒。毎回あの光景に帰結する。何十、何百——何度繰り返しても、その運命は僕たちを掴んで放そうとはしなかった。
*
風を叩くような、なんの前進も、なんの達成もない夏。そんな地獄のような夏を何度越えて来たか、指折り数えるのも止めたときだ。それが起こったのは。
「桐枝さん……?」
気が狂うくらいに繰り返した夏のある日、確かに僕はその人を見つけた。——羽並桐枝。あの夏、僕たちを受け入れてくれた、たった一人のその人を。理由はわからない。この世界の光を全て集めたような、あの海の町にいた桐枝さんが、何故僕たちの暮らすこの町の公園にいるのか。七年前の夏にはもう二度と会うことはないと思っていた。そしてこの夏にもう一度会いに行きたいと思った。その人が今確かに僕の目の前にいる。決して交わるはずのなかった何かが、その瞬間並びあったような気がした。
*
「それで、なんで私の名前を知ってたのかな?」
自販機で購入した缶コーヒーを僕の方へ投げると、桐枝さんはそう言った。問い詰めるわけではなく、興味深いといった様子で語りかける姿は、七年前見た羽並桐枝そのものだ。
「未来から来たから」
幾度となく繰り返される虚無の夏に、僕はもう完全に気が狂ってしまったのかもしれない。どうせまだ戻るんだから何をしてもいいだろう。そんなどうしようもない自棄が、口をついて出た結果がこの一言だった。思わず声を出してしまったような奇跡の出会いだって、冷静になって考えてみれば結局全てが無に帰るのだ。ここでの会話も、想いも、シャボンのようにすぐ跡形もなく消える。誰も何も覚えていない世界で残るのはたった二人。魔女と気が狂った僕だけだ。
「すごいね。サインとか貰おうかな」
「信じるんですか?」
信じるわけがない。急に名前を呼びかけて来る初対面の不気味な人間と、こうして話しているだけでも相当な懐の深さだというのに、僕は更に正気とは思えない言葉を積み重ねている。桐枝さんからしたら、この時点で関わり合いにならないようにと立ち去ったっておかしくない。というよりも、それが当たり前だ。だから信じるわけがないし、僕もそれをわかっていながら、真面目ぶった態度で訊き返す。そうやって冗談というものは成立していくのだから。
しかし桐枝さんは、想定のレールから遠く外れたところにある答えを、小指一本で軽々と持ち運んで来た。
「信じる……とか、信じないとかじゃないよ。君がそう言ったんだから、だったらそうなんだよ。私にそれを否定するだけの材料はないでしょ?」
人が良すぎる。そう形容せざるを得ない。それ以外に何と言えるのだろう。あまりにも相手に都合が良すぎる考え方だ。
「いつか騙されますよ」
「つまり今は騙されてないってことだ」
あのカトレアのような、得意げな笑顔がそこにはあった。そうだった。この人はこういう人だった。何も知らないようで、何もかもを知っていて、全てを温かく包み込む、底抜けのいい人。そんな羽並桐枝に、あの夏僕たちは、多少なりとも救われたのだ。
「やっぱりあなたには勝てないみたいですね」
この白旗は、空を揺蕩う綿飴のように、軽々しく振ることができる。それは魔女に抱いて来た感情と、どこか近しいものがあるのかもしれない。
「私の旦那ね、三回り以上歳上なの」
僕の掲げた綿飴をペロリと飲み込むように、桐枝さんは突然口を開いた。予想外の——あるいは、あの夏に疑問に思っていたような——単語に、僕は声にならないような困惑の声を唇から漏らしてしまう。一回りというのは、一般的に考えて一二年ということだろうか。だとしたらその三倍で、三六から四七年の間。果てしなく想像のつかない数字に、何か聞き違いをしたのだろうかと首を傾げる。
「彼が六九歳のときに結婚したんだ。籍は入れられなかったんだけどね」
桐枝さんはそんな僕の疑念を掃き散らすように続けた。その数字どころか、「旦那」という存在自体がまず、僕にとっては想像外の場所から降って湧いて来たような言葉だったが、ただ同時に、あの夏に置いて来た謎が、パズルのピースのようにはまっていくような感覚もあった。あの時感じた不自然の答え合わせが、今始まったような気がしたのだ。
「いろんな人に反対されたよ。両親も妹も、友達にも、彼と前の奥さんとの娘さんたちも怒ってた。四〇歳以上離れてるのに恋愛感情なんて生まれるわけない。騙してるんでしょって」
「恋愛……」
思わず反復したその言葉に、なんとなく魔女の言葉が脳裏をよぎる。「恋って自分のためにするものでしょ?」。身勝手で、我儘で、エゴイスティックな利己主義の結晶。だとしたら、そこに年齢なんて——。
「すごい悔しかった。私の気持ちまで否定されてるみたいで。心の底の底から、想いが噴き上がってくるくらい好きなのに。これ以上の感情なんてこの世界のどこにもないくらい恋してるのに。こんなに、こんなに愛してるのに、なんでそれをそんな無遠慮に掃き捨てられるんだって。私のことなんて何も知らないくせに、どうしてそんな簡単に否定してしまえるんだって。私の大切な感情ごと、ぐちゃぐちゃ壊されたような気分だった」
それは濡れた綿飴のように穏やかな声だったが、その裏側には打ち震えるくらいの、未だ消えぬ激情が秘められてような気がした。頭の中でいつかの出目金が泳ぎ回る。わかるなんて言いたくはなかった。桐枝さんの悔しいという気持ちと、僕が何度も夢に見ていた、あの夏の警察署で抱いた感情を同一視するつもりなんて露ほどもない。僕と桐枝さんは別の人間で、それぞれ別の思いがあるなんて当たり前の話。ただそれでも、あの出目金は、今でも不恰好に僕の頭を叩き泳いでいるのだ。
「そしたらね、彼が『可哀想だね』って言ったの」
「可哀想……? 桐枝さんが?」
「違うよ。私たちの感情を否定した、あの人たちのこと。あの人たちはこんな燃えるような恋を、溺れるほどの愛を知らないんだって。それを知らないから、自分達の経験がこの世界でたった一つの正解だと思ってるあの人たちは、この澄み渡るような感情を信じられない。それは可哀想なことなんだって、彼は私に言った」
可哀想。それは温かく包み込むような言葉でもあるし、ともすれば陰湿な棘を持ったようにも聞こえる言葉だ。だけど桐枝さん——あるいは、その〝彼〟——が放ったその言葉には、不思議とそのどちらをも感じることはなかった。
諦め。他者への期待をやめるような、そんな諦念の気持ち。しかし、それは決して後ろ向きな感情ではない。諦めるからこそ、自由になれることだってある。なんとなくそう思う。
「これまでの人生とか、環境とか、柵とか、そんなのどうでもいいから、自分たち以外の全てがどうでもいいから、ただの一人の桐枝と、ただの一人の自分。それでいいから一緒にいたいって、そう言ってくれた。それが私たちの始まり」
「……素敵ですね」
それは本心だった。羨ましい。ただただそう思った。この夏に縛られたままの僕の目には、桐枝さんたちはどこまでも自由に映っていたのだ。
「結局、私を置いて死んじゃったんだけどね。今日は彼の娘さんの家に行ってたの。彼女、私を見てなんて言ったと思う?」
「やっぱりね」
数秒考え込んだ後思いついた言葉を、僕は迷わず口にした。もしかしたらとても失礼なことを言ったのかもしれない。だけど、なんとなく、差し障りはないような気がした。
そんな思いと呼応するように、桐枝さんはこちらを一瞥して、「正解」とくすぐったそうな笑みを浮かべる。
「食事も気を遣ってたし、運動とかも。彼と一緒に、できることはなんだってやったよ。でもあの人たちはそんなこと知りもしない。私がここから遠く離れたあの家で、一人でどれだけ泣いたかも、何も知らない。それでいいんだ。共感してもらいたいなんて思わない。代弁者になろうとも思わない。私の感情は私だけのものだから。燃えるような恋をして、溺れるほど愛し合った。誰がなんと言おうと、それが事実だから。どれだけ信じられなくても、全く共感できなくても、現実は変わらない。変わるわけがない。私たちだけが知ってる、オルゴールの宝箱にでもしまって置きたいような、私たちだけの大切な感情が、確かにそこにあったんだもん」
強く芯の通った目をしている。しなやかで、伸びやかな、しかし決して折れることのない意志を持った目。どこまでも澄み渡った、綺麗な目だ。
「未来人になら、少しは知っててもらっても構わないけどね」
そうおどけた桐枝さんには、やはりどこまでも美しい、カトレアの笑顔が咲き誇っている。
*
「彼がいなくなってさ、本当はもう全部どうでもいいなんて思ったりもしてたんだ。別に死のうとか思ってたわけじゃないよ? でも抜け殻みたいに、何も考えられなくなってた。だから君に会えてよかった。君に話せてスッキリした。誰にも言いたくないけど、誰かに言いたいことだったから。ありがとう未来人くん」
「……匂坂です」
もう別れ際だというのに、ここで初めて自分の名前を伝えたことに気づく。
「そっか。匂坂くんね。じゃあさ、いつかウチに来てよ。海がすごく綺麗な町だから」
桐枝さんは僕の名前を呼んで、そう言ってくれた。僕はもちろん二つ返事で頷く。
「僕も、桐枝さんに会ってほしい人がいるんです」
やっぱり僕には、もう一度あの海を一緒に見たい人がいるから。
「いいね。まだまだ生きていく楽しみができたよ。ありがとう」
そうして蝉の音と共振する様に手を振った桐枝さんに、僕はとても重要な一言を付け加えた。
「僕、生モノが食べられないので、その時はよろしくお願いします」
八月一日の七時二八分三六秒。何度も戻っても、時計の針がその時刻を指す度に逢野は父親を殺した。どれだけ遠ざけようと、あの男は引き寄せられるかのように逢野の元へやってきてその腹に包丁を収める。何度やっても一緒。毎回あの光景に帰結する。何十、何百——何度繰り返しても、その運命は僕たちを掴んで放そうとはしなかった。
*
風を叩くような、なんの前進も、なんの達成もない夏。そんな地獄のような夏を何度越えて来たか、指折り数えるのも止めたときだ。それが起こったのは。
「桐枝さん……?」
気が狂うくらいに繰り返した夏のある日、確かに僕はその人を見つけた。——羽並桐枝。あの夏、僕たちを受け入れてくれた、たった一人のその人を。理由はわからない。この世界の光を全て集めたような、あの海の町にいた桐枝さんが、何故僕たちの暮らすこの町の公園にいるのか。七年前の夏にはもう二度と会うことはないと思っていた。そしてこの夏にもう一度会いに行きたいと思った。その人が今確かに僕の目の前にいる。決して交わるはずのなかった何かが、その瞬間並びあったような気がした。
*
「それで、なんで私の名前を知ってたのかな?」
自販機で購入した缶コーヒーを僕の方へ投げると、桐枝さんはそう言った。問い詰めるわけではなく、興味深いといった様子で語りかける姿は、七年前見た羽並桐枝そのものだ。
「未来から来たから」
幾度となく繰り返される虚無の夏に、僕はもう完全に気が狂ってしまったのかもしれない。どうせまだ戻るんだから何をしてもいいだろう。そんなどうしようもない自棄が、口をついて出た結果がこの一言だった。思わず声を出してしまったような奇跡の出会いだって、冷静になって考えてみれば結局全てが無に帰るのだ。ここでの会話も、想いも、シャボンのようにすぐ跡形もなく消える。誰も何も覚えていない世界で残るのはたった二人。魔女と気が狂った僕だけだ。
「すごいね。サインとか貰おうかな」
「信じるんですか?」
信じるわけがない。急に名前を呼びかけて来る初対面の不気味な人間と、こうして話しているだけでも相当な懐の深さだというのに、僕は更に正気とは思えない言葉を積み重ねている。桐枝さんからしたら、この時点で関わり合いにならないようにと立ち去ったっておかしくない。というよりも、それが当たり前だ。だから信じるわけがないし、僕もそれをわかっていながら、真面目ぶった態度で訊き返す。そうやって冗談というものは成立していくのだから。
しかし桐枝さんは、想定のレールから遠く外れたところにある答えを、小指一本で軽々と持ち運んで来た。
「信じる……とか、信じないとかじゃないよ。君がそう言ったんだから、だったらそうなんだよ。私にそれを否定するだけの材料はないでしょ?」
人が良すぎる。そう形容せざるを得ない。それ以外に何と言えるのだろう。あまりにも相手に都合が良すぎる考え方だ。
「いつか騙されますよ」
「つまり今は騙されてないってことだ」
あのカトレアのような、得意げな笑顔がそこにはあった。そうだった。この人はこういう人だった。何も知らないようで、何もかもを知っていて、全てを温かく包み込む、底抜けのいい人。そんな羽並桐枝に、あの夏僕たちは、多少なりとも救われたのだ。
「やっぱりあなたには勝てないみたいですね」
この白旗は、空を揺蕩う綿飴のように、軽々しく振ることができる。それは魔女に抱いて来た感情と、どこか近しいものがあるのかもしれない。
「私の旦那ね、三回り以上歳上なの」
僕の掲げた綿飴をペロリと飲み込むように、桐枝さんは突然口を開いた。予想外の——あるいは、あの夏に疑問に思っていたような——単語に、僕は声にならないような困惑の声を唇から漏らしてしまう。一回りというのは、一般的に考えて一二年ということだろうか。だとしたらその三倍で、三六から四七年の間。果てしなく想像のつかない数字に、何か聞き違いをしたのだろうかと首を傾げる。
「彼が六九歳のときに結婚したんだ。籍は入れられなかったんだけどね」
桐枝さんはそんな僕の疑念を掃き散らすように続けた。その数字どころか、「旦那」という存在自体がまず、僕にとっては想像外の場所から降って湧いて来たような言葉だったが、ただ同時に、あの夏に置いて来た謎が、パズルのピースのようにはまっていくような感覚もあった。あの時感じた不自然の答え合わせが、今始まったような気がしたのだ。
「いろんな人に反対されたよ。両親も妹も、友達にも、彼と前の奥さんとの娘さんたちも怒ってた。四〇歳以上離れてるのに恋愛感情なんて生まれるわけない。騙してるんでしょって」
「恋愛……」
思わず反復したその言葉に、なんとなく魔女の言葉が脳裏をよぎる。「恋って自分のためにするものでしょ?」。身勝手で、我儘で、エゴイスティックな利己主義の結晶。だとしたら、そこに年齢なんて——。
「すごい悔しかった。私の気持ちまで否定されてるみたいで。心の底の底から、想いが噴き上がってくるくらい好きなのに。これ以上の感情なんてこの世界のどこにもないくらい恋してるのに。こんなに、こんなに愛してるのに、なんでそれをそんな無遠慮に掃き捨てられるんだって。私のことなんて何も知らないくせに、どうしてそんな簡単に否定してしまえるんだって。私の大切な感情ごと、ぐちゃぐちゃ壊されたような気分だった」
それは濡れた綿飴のように穏やかな声だったが、その裏側には打ち震えるくらいの、未だ消えぬ激情が秘められてような気がした。頭の中でいつかの出目金が泳ぎ回る。わかるなんて言いたくはなかった。桐枝さんの悔しいという気持ちと、僕が何度も夢に見ていた、あの夏の警察署で抱いた感情を同一視するつもりなんて露ほどもない。僕と桐枝さんは別の人間で、それぞれ別の思いがあるなんて当たり前の話。ただそれでも、あの出目金は、今でも不恰好に僕の頭を叩き泳いでいるのだ。
「そしたらね、彼が『可哀想だね』って言ったの」
「可哀想……? 桐枝さんが?」
「違うよ。私たちの感情を否定した、あの人たちのこと。あの人たちはこんな燃えるような恋を、溺れるほどの愛を知らないんだって。それを知らないから、自分達の経験がこの世界でたった一つの正解だと思ってるあの人たちは、この澄み渡るような感情を信じられない。それは可哀想なことなんだって、彼は私に言った」
可哀想。それは温かく包み込むような言葉でもあるし、ともすれば陰湿な棘を持ったようにも聞こえる言葉だ。だけど桐枝さん——あるいは、その〝彼〟——が放ったその言葉には、不思議とそのどちらをも感じることはなかった。
諦め。他者への期待をやめるような、そんな諦念の気持ち。しかし、それは決して後ろ向きな感情ではない。諦めるからこそ、自由になれることだってある。なんとなくそう思う。
「これまでの人生とか、環境とか、柵とか、そんなのどうでもいいから、自分たち以外の全てがどうでもいいから、ただの一人の桐枝と、ただの一人の自分。それでいいから一緒にいたいって、そう言ってくれた。それが私たちの始まり」
「……素敵ですね」
それは本心だった。羨ましい。ただただそう思った。この夏に縛られたままの僕の目には、桐枝さんたちはどこまでも自由に映っていたのだ。
「結局、私を置いて死んじゃったんだけどね。今日は彼の娘さんの家に行ってたの。彼女、私を見てなんて言ったと思う?」
「やっぱりね」
数秒考え込んだ後思いついた言葉を、僕は迷わず口にした。もしかしたらとても失礼なことを言ったのかもしれない。だけど、なんとなく、差し障りはないような気がした。
そんな思いと呼応するように、桐枝さんはこちらを一瞥して、「正解」とくすぐったそうな笑みを浮かべる。
「食事も気を遣ってたし、運動とかも。彼と一緒に、できることはなんだってやったよ。でもあの人たちはそんなこと知りもしない。私がここから遠く離れたあの家で、一人でどれだけ泣いたかも、何も知らない。それでいいんだ。共感してもらいたいなんて思わない。代弁者になろうとも思わない。私の感情は私だけのものだから。燃えるような恋をして、溺れるほど愛し合った。誰がなんと言おうと、それが事実だから。どれだけ信じられなくても、全く共感できなくても、現実は変わらない。変わるわけがない。私たちだけが知ってる、オルゴールの宝箱にでもしまって置きたいような、私たちだけの大切な感情が、確かにそこにあったんだもん」
強く芯の通った目をしている。しなやかで、伸びやかな、しかし決して折れることのない意志を持った目。どこまでも澄み渡った、綺麗な目だ。
「未来人になら、少しは知っててもらっても構わないけどね」
そうおどけた桐枝さんには、やはりどこまでも美しい、カトレアの笑顔が咲き誇っている。
*
「彼がいなくなってさ、本当はもう全部どうでもいいなんて思ったりもしてたんだ。別に死のうとか思ってたわけじゃないよ? でも抜け殻みたいに、何も考えられなくなってた。だから君に会えてよかった。君に話せてスッキリした。誰にも言いたくないけど、誰かに言いたいことだったから。ありがとう未来人くん」
「……匂坂です」
もう別れ際だというのに、ここで初めて自分の名前を伝えたことに気づく。
「そっか。匂坂くんね。じゃあさ、いつかウチに来てよ。海がすごく綺麗な町だから」
桐枝さんは僕の名前を呼んで、そう言ってくれた。僕はもちろん二つ返事で頷く。
「僕も、桐枝さんに会ってほしい人がいるんです」
やっぱり僕には、もう一度あの海を一緒に見たい人がいるから。
「いいね。まだまだ生きていく楽しみができたよ。ありがとう」
そうして蝉の音と共振する様に手を振った桐枝さんに、僕はとても重要な一言を付け加えた。
「僕、生モノが食べられないので、その時はよろしくお願いします」