アーケードの入り口に立って目を瞑る。まず正面に八歩、右に三歩、また正面に五歩、左に六歩、最後に半回転して後ろに——。
「どこ見て歩いてんだ!」
強い衝撃と同時に、罵声が飛んでくる。尻もちをつきながら慌てて目を開くと、作業着を着た中年男性がすごい剣幕で唾を飛ばしていた。僕は平謝りをしてなんとか事なきを得る。男性はぶつくさと呟きながら、顔を赤くして去っていった。
何をしてるんだ僕は。思わずそう苦笑してしまう。横にあった喫茶店のガラスには、子供騙しのような噂に文字通り踊らされた滑稽な男の姿が映っていた。なんとも情けない姿だ。
*
「先輩は時の魔女って知ってます?」
中野愛依の発する特徴的な甘ったるい声は、壁に油の染み付いた小汚い中華料理屋には全く溶け込めていなかった。そもそも店の中は男性客ばかりだ。向かいの席のグループは、馬鹿みたいな大きさの餃子の大食いチャレンジをしている。
「何? ゲームかなんかのキャラ?」
僕は至って標準サイズの天津飯を口に運びながらそう訊き返す。餡は醤油だ。
「違いますよー。同じゼミの子が話してたんです。この商店街には時の魔女の店があるって」
「そういう名前の店ってこと? 最近できたの?」
大学に通い始めてから三年間この商店街を利用しているが、そのような名前の店は聞いたことがない。
「違います! 魔女です魔女。本物の魔女がいるんですよ!」
中野は少しだけこの店に似つかわしくなった大きい声を出した。
「なるほどね」
「やっとわかってくれました?」
「中野は疲れてるんだ。今夜はゆっくり寝た方がいいよ」
冗談めかすように僕は、大袈裟に心配する素振りをする。小一時間前に受けた試験の準備で、頭をやられてしまったのだろう。
「だから違いますって! 本当にいるんですよ。魔女が」
中野は少し紅潮させた頬を膨らませるように抗議した。
「で? その魔女は何をしてくれるわけ?」
このまま否定していても埒が明かないので僕はそう訊ねる。
「時間を戻してくれるんです。時間を巻き戻して、後悔してることをやり直させてくれる」
澄まし顔でそう言った中野に、僕は思わず噴き出してしまう。
「なんで笑ってるんですか」と中野は不満げだ。
「だって時の魔女で時間を戻すって、安直すぎるでしょ。テンプレど真ん中って感じ」
「いいんですよ。みんなそれだけ後悔してるんです。だからこういう噂が生まれるんでしょ? 噂の根源って人の願いだから」
確信をついたような口ぶりだ。
「その言い方だと中野も信じてないみたいだけど?」
「愛依はいると思ってますよ、魔女。人が願ったからこそ、魔女という存在が生まれたんです」
それもまたやはり確信をついているのかもしれない。そういう考え方は嫌いじゃなかった。もちろん魔女などいるわけもないのだが。
「それに薫先輩にだってあるでしょ? やり直したいこととか」
その一言に、心臓が一瞬ドキリと鳴る。
店の外で喚き散らす蝉の声が聞こえた。こんな小さい店に防音という概念はないらしい。
「先輩?」
フリーズしていた僕の顔の前で、中野が「おーい」と手を振った。毎度のことだが、彼女の動作はなんというか、洗練されているなと思う。
「あ、いやほら。クリアしたみたい」と僕は大食いチャレンジをしていたグループの机を指差す。
「ちゃんと聞いててくださいよ! 愛依の話」
「ごめん」
「で! 魔女の店の行き方なんですけどね——」
中野の声をぼんやりと聞きながら、僕は考える。
——やり直したいこと。ある。ずっとずっと、後悔していることが。
*
「先輩みたいな人が案外試しちゃったりするんですよね。こっそりと」
別れ際に中野はそう言っていた。
「やらないよ。絶対」
そう断言して僕は、駅に入って行く中野を見届ける。
やった。僕はやった。中野を見送ってすぐ、わざわざ商店街に戻って来てやった。「何歩歩いたらどうとか、ゲームの裏技みたいじゃん」なんてことを言っていたのに、その裏技をやった。
情けない話だ。あり得るわけがない、魔女なんて。そんな馬鹿げた話に縋って。何がしたいんだ僕は。逃げるように商店街から離れながらそう自問する。
過去は変わらない。取り返しはつかない。もうどうしようもないのだ。わかっている。何度も、何度も後悔してそうわかったはずだ。それなのに僕は……。本当にどうしようもない。蝉が鳴いている。ずっと、ずっと鳴いている。少しも休むことなく、あの日からずっと。
「目を瞑って歩きながら、自分が戻りたい時のことを考えるんですよ」
後悔の渦に巻かれながら帰り道を進んでいると、ふと中野がそんなようなことを言っていたと思い出す。気もそぞろで話を聞いていたからか、すっかり忘れてしまっていたのだ。
さっき試した手順は間違っていた? だとすれば、もしかしたら……。
馬鹿か僕は。魔女なんているわけがないと、今そう思ったばかりじゃないか。多少手順が違っていたから何だと言うんだ。どちらにせよ結果は変わらない。いい加減わかれよ。いつまで僕は——。
そう自戒してまた歩き始める。そうだ、もう諦めるんだ。もうどうしようもないんだ。くだらない噂に縋って、無様に踊らされて。頭がやられてしまっているのは僕の方じゃないか。
そうわかっている。わかっているはずなのに、どうしてもあの蝉の声が、僕を責め立てるようなあの叫びが、耳の底にこびりついて離れない。
気づくと僕の足はまた引き寄せられるように、あの商店街へ戻り始めていた。
*
あの夏のあれこれが終わって、僕は祖父母の家に引き取られることになった。なんてことはない、僕の生活は既に破綻していたんだ。あんなことになる前から、ずっと。気づいていないフリをしていただけだった。そのことを認めてしまえば、本当に全てが壊れてしまうと思ったから。
しかし、ある意味では僕の願いは叶ったのだろう。僕はあの事件をきっかけに、見つけてもらった。祖父母の住む田舎で普通に中学校を卒業して、普通に高校を卒業して、今はこうして東京に出てきて大学に通っている。僕があの夏に何をしたかなんて、知っている人は一人もいない。事件直後は何かと周りも騒がしかったけど、次第にそれも風化していった。みんな自分の人生を生きるので精一杯なのだ。他人が起こした事件なんて、たった数ヶ月間の話題の種でしかないのだろう。逢野昭の名前は、もうインターネットの片隅にしか存在しない。誰も覚えていないのだ。逢野昭がどんな人生を送り、何を思い、どうしてあんな結末を迎えたのか。誰も知らない。
だけど、僕の耳にはあの日から蝉の号哭がずっと鳴り響いている。絶対に忘れさせないぞと。絶対に逃さないぞと。どこにいても。何をしていても。あの声は必ず僕を見つけ出す。忘れられるはずがなかった。忘れていいはずがなかった。
僕は逢野昭を利用して、普通を手に入れたのだから。
導かれるようにアーケードの入り口へと到達した。僕はもう一度目を瞑る。正面に八歩、右に三歩、正面に五歩、左に六歩、最後に半回転して後ろに七歩。僕の願いは。もう一度あの夏に——。
「——逢野昭がいた夏に」
*
「面白かったよ」
魔女はそう言うと、芝居がかった態度で手を鳴らした。
「こんな話が面白かったんだとしたら、随分と悪趣味だ」
「そんなことないよ。愉快な話だった」
気づいた時には、あの夏の全てを魔女に話していた。話すと言うよりも、魔女と一緒に追体験したと言った方が正しいかもしれない。言葉にしたことが、脳内で再生されているようなそんな感覚があったのだ。これも魔女の力なのか。かつての自分の頭の中を覗いているかような気分の悪さは、どうにも消化しきれない。何にせよ、僕はもう魔女という存在を認めざるを得ないだろう。
「退屈は魔女をも殺すってね。君のおかげで私の寿命が少し延びたよ」
「魔女に寿命なんてものがあるの?」
「そりゃあるよ。例えば退屈なゲームだったら途中で放り出してやめちゃうでしょ? それと一緒」
魔女は正鵠を射たというような表情を浮かべる。
「その言い方だとむしろ寿命なんてないように聞こえるけど。いつ死ぬかは自分で決められるみたいだ」
それに僕はどんなに面白くないゲームでも、一度始めてしまったら結末を知らないと気が済まないタイプだ。
「気分次第だよ。魔女の全ては魔女の気まぐれで決まるの。その方が魔女っぽいでしょ?」
得意げな顔を作った魔女がこちらを見る。魔女っぽいと言うならば、最初に言った通り目の前の魔女の外見に、僕の想像する魔女っぽさは全くない。
「まあ、とにかく、魔女の一生には必要なんだよ。退屈凌ぎが。君の人生とか、この本みたいなね」
そうケタケタと喉を鳴らしながら笑みを浮かべた魔女の手には、どこから取り出したのか一冊の本が挟まれていた。『ペンギンの飛び方』。あの夏の始まりの本だ。逸る心臓の鼓動に呼応するように、どこからともなく鳴り響く蝉の声が耳を通り抜けた。
「僕の人生も、その本も、退屈凌ぎには見合わないと思うな」
動悸を落ち着かせるように、ゆっくりと息を吐く。
「どうして?」
「その本がなんで呼ばれてるか、君なら知ってるだろう?」
僕の問いかけに魔女は、手に持ったその本に視線を落とし、徒らにペラペラとページ巡ると、一拍を置いて答えた。
「世界中を落胆させた本」
その声は何故だかとても冷ややかに聞こえた。草木が枯れ果てた凍土のように冷えついた言葉。自分で投げかけた問いだと言うのに、凍てついた刃のように突き刺さった。そうだ。この本はかつて、世界中を失意の底に沈めたのだ。
『ペンギンの飛び方』は海外の小さな文芸誌の片隅に掲載されていた連載作だった。特別な期待をかけられてプッシュされるような大作ではない。数合わせのような、インスタントに消費されるような話だった。しかし、そんな日陰の物語として連載を重ねていくうちにこの本は、気づけば世界中の注目を集める舞台に引きずり上げられることになる。原因はわからない。その独特の世界観が人々を惹きつけたのか。直向きに大空へ挑戦するエイビスの姿が世界中の心を共振させたのか。何にせよ『ペンギンの飛び方』の名前は、当時としてはあり得ない速度で世界中へ広がっていった。人から人への伝播。奇跡的な速度で広がっていくそれは、まるで流行病のようだったと。勝手に翻訳した海賊版が、世界中の路上で売られている光景が当たり前のように見られた言うのだから俄には信じ難い。現代のようにインターネットなどまだ普及していなかった時代だ。そんな時代に、小さな文芸誌の一冊の物語の内容が、世界中に共有されていたということは、本当にあり得ないことなのだろう。物語の続きを予想してああだこうだと考察に興じる姿は、現代の僕たちがやっていることと何ら遜色がない。『ペンギンの飛び方』はそんな奇跡のムーブメントを巻き起こし、世界中から惜しみない期待をかけられる一冊となったのだ。あの日までは。
『ペンギンの飛び方』を取り巻く熱狂が最高潮に達する中、遂にその最終篇は発表された。世界中を失望の渦へと叩き落とし、一夜にして駄作の烙印を押される原因となった、突拍子もない物語の結末だ。
ペンギンが飛べるはずないと散々馬鹿にされ続けたエイビスは物語終盤、遂に人力飛行機で大空へ羽撃き、誰も辿り着けなかった北の谷の向こうへと降り立った。問題となったのはこの先。谷の奥にある森の地面には大きな穴が空いていた。中に入って通れるくらい大きな穴。エイビスがその穴を進んでいくと、そこには街があった。街と言っても、それはエイビスが暮らしていた鳥の町とは全く性質の異なるものだ。高層ビルが立ち並び、宙を自動車が闊歩する、SFのような世界。そんな光景が地下に広がっていたのだ。
その地下の街では、遥か昔に宇宙へと移住したと言われていた人間が暮らしていた。正確には、かつて人間が宇宙への大移動を行った際、地球に残ることを選んだ者たちの末裔が。地上で暮らせなくなった彼らは地下に籠ることを選んだ。そうして長い年月をかけて地下で繁栄を重ねてきた彼らだったが、代が替わるにつれて、彼らは宇宙への渇望を抱き始める。先祖が地球を選んだことなんて、彼らにとってはいい迷惑でしかなかったということだ。彼らはかつて行われていた宇宙船の研究を引っ張り出し、現在の技術で再現できないか模索し始めた。さながら、人力飛行機を見つけて改造を繰り返したエイビスのように。
それからまた長い年月が経ち、ようやく試作機が完成した頃、ちょうど地下に迷い込んで来たのがエイビスだった。人間たちはエイビスを捉えて、実験動物として宇宙に打ち上げようと企む。自分たちがいつか宇宙へ旅立つための礎にしようと。
しかし、エイビスはその話を聞いて、自らその試作機に乗りたいと申し出る。その航海の先には死が待っていると理解した上でだ。そうしてエイビスはたった一羽で宇宙へと打ち上げられた。片道分の燃料しか積んでいない宇宙船で。空へと打ち上がる最中、彼は満足げな顔を浮かべてこう言ったのだ。
「これが俺の飛び方だ」
以上が、『ペンギンの飛び方』の顛末だ。頭が痛くなって来ただろうか? それまでの物語で形成してきた喋る動物たちが作り出す独特な世界観をぶち壊すように、突如登場する人間の姿。やっとの思いで完成させた人力飛行機で飛び立った先に現れるSF的宇宙船。こうした突拍子もない支離滅裂な展開で、積み重ねてきたものを全て台無しにしてしまった駄作。それが『ペンギンの飛び方』に与えられた結論なのだ。
「世界中の期待を裏切った物語じゃ、魔女の退屈は凌げないだろう?」
僕の人生だって同じだ。ずっと裏切ってきた。母も、逢野も。そんな僕の物語が魔女を満たせるわけがない。そんな意を込めながら僕は魔女を一瞥して、自嘲気味に笑顔を作った。
「でも匂坂くんはこの本が駄作だなんて思ってないでしょ?」
魔女は全てを見透かしているとでも言うような口振りで、こちらを見つめている。それは僕の目を見ているというよりも、僕の中身を見通しているような不気味があった。
ああ、そうだ。僕はエイビスの最期に惹かれてしまった。誰にも理解されなかった彼が、誰も想像の付かなかった方法で飛ぶ。これほど素晴らしい結末はないだろうと、そう思ってしまったのだ。父に渡されたあの時から、この本はどうしようもなく僕を惹きつけて止まない。だからこの本は、僕の本棚の一番初めに収められていたのだ。
僕はずっとエイビスのようになりたかった。
「私も同じだよ。誰が何と言おうと面白いんだよ、君たちの物語は」
魔女はまた得意げな顔でそう言ったかと思うと、今度は何かを考え込むように手を顎に当てる仕草をとった。三文芝居のような白々しさだ。
「でも、そうだね。確かに君の物語はまだ、未完成だ。そういう意味では、君の物語まだ面白くない」
あまりにも早すぎる前言撤回に思わず、「一体どっちなんだ」と口をついて出る。それを気にする素振りもなく魔女は飄々とした顔で言い放った。
「だから私が、時の魔女がいるの。これから面白くなるんだ、君の物語は。私はそれが見たいんだよ」
そうして魔女はまた思案顔を作る。先程と同じで、考え込むような素振りとは裏腹に、魔女がこれから放つ言葉は既に決まりきっているように感じられた。そうして魔女はやはり用意していたように、するすると言葉を紡ぐ。
「匂坂くんはさ、神様が創った物語と人間が作った物語、どっちが面白いと思う?」
その不思議な質問は、何故だか溶け込むように僕の頭に入ってきた。魔女の声が身体中に染み渡っていくような感覚。魔女がそこに込めた意図を、僕は過不足なく理解することができた。これは信条の話だ。
だったら、僕の答えは一つしかない。
*
「それで君は七年前に戻ってどうするの? 今度は本当に翼生やして世界の果てまで逃げちゃう?」
本題に入ろうとでも言うかのように、魔女は腕を伸ばして僕を指差した。
「できるの?」と素朴な疑問をぶつける、
「無理。空は私の領分じゃないから」
自分で提案しておいて、あまりにも呆気ない口振りだ。
「魔女は箒で飛んでるイメージだけど」
むしろそのイメージが一番強い。
「あんなの嘘だよ。魔女なんでほとんど普通の女の子と変わらないんだ。ただちょっと魔法が使えるだけ」
普通はその魔法で空を飛ぶのではないだろうか。魔女の普通とはなんだという話だが。
「まあそういうわけで、私がしてあげられるのは時計の針を過去に戻すことだけなんだよ。そこから先は全部君次第だ」
「だったら僕のやることは一つだ。逢野が父親を殺すのを止める。逃げる必要なんかない。逃げなくていいようにするんだ」
それしかないだろう。逃げたって何も解決しない。あの夏に嫌というほど思い知らされたことだ。だから僕は逢野の父親を守る。逢野を傷つけた最低な父親を。世界で一番大切な人を守るために、世界で一番大切な人から、世界で一番憎んだ男を守るのだ。
「ふぅん。いいね。賢明な判断だ」
「本当にやり直せるのか? あの夏を」
僕はもう一度確認するように魔女に問う。
「もちろん。任せてよ。空は飛べないけど時間は戻せるよ」
「代償は? 残りの寿命の半分とか? それとも魂?」
こういう話には大体そんな落とし穴がついて回るものだろう。うまい話には裏があるというやつだ。もっとも、僕はどんな代償だって支払うつもりだが。
「ないよそんなの。悪魔じゃないんだから」
魔女は「当たり前でしょ」とでも言いたげに息を吐いた。
「同じようなものだと思うけど」
「違うよ。私は魔女。人間の味方だよ」
その飄々とした態度の裏に、どこか真剣な顔が覗かれたような気がした。人間の味方。それだと敵がいるみたいだ。
「あ、でも一つだけ。私は君の時計の針を過去には戻せるけど、未来には進められない。それでもいい?」
魔女が思い出したという様子で付け加える。
未来にタイムリープさせることはできないということだろうか。
「そんなの、なんの問題もない。僕はあの夏に戻れればそれでいい。初めから未来になんて興味もないんだ。未来には後悔なんて抱きようがないんだから」
「ちょっと違うな。つまり、君は過去に戻って目的を果たしたとしても、またここに戻ってくることはできないってこと」
魔女は「わかった?」とでも言うように視線を向ける。なるほど。過去に戻ったらそのまま人生をやり直し続けなければならない。それは少し予想外だった。思った以上に魔女の魔法というものは制約だらけのようだ。だが、僕の答えは変わらない。
「いいよ。今の人生に未練なんてない」
「そ。抜け殻みたいだね、君は」
抜け殻。確かにそうなのかもしれない。僕はあの日、全てをあの夏に置いてきてしまった。皮肉な話だ。逢野を利用して手に入れた〝普通〟だったのに、逢野がいなければ僕にとってそれは〝普通〟でもなんでもなかったのだから。
「きっと僕は時計の針を戻しに来たんじゃなくて、あの夏で止まったままの針を動かしに来たんだ」
「いいね。じゃあ交渉成立だ」
「交渉なんてされた覚えはないけど。僕から差し出したものなんて一つもない」
「そんなことないよ。きっと君なら、面白いものを見せてくれるから。何度も言ってるでしょ。退屈なんだって」
やっぱり悪趣味だ。だが、なんだっていい。あの夏をやり直せるなら、なんだって。
「それじゃあ、そろそろお別れかな。まあ、せいぜい楽しませてよ。匂坂くんには期待してるんだから」
「そうだね。君の言う通り、少なくとも今の話よりは面白くなるだろうから安心しなよ」
そうだ。今度こそ僕は、逢野を——。
「目が覚めたらそこは逢野昭が逢野喜八を殺す二日前だ。君は二日間で運命を変える。いい?」
魔女は僕の目を真っ直ぐ見つめていた。僕は力強く頷く。
そうして、魔女は僕の顔の前に手を伸ばした。意識が手に吸い込まれてくような感覚に陥る。魔女は相変わらず飄々とした笑みを浮かべていた。
「いってらっしゃい、匂坂くん」
最後に聞こえたその声は、何故だかとても悲しそうに聞こえた。
「どこ見て歩いてんだ!」
強い衝撃と同時に、罵声が飛んでくる。尻もちをつきながら慌てて目を開くと、作業着を着た中年男性がすごい剣幕で唾を飛ばしていた。僕は平謝りをしてなんとか事なきを得る。男性はぶつくさと呟きながら、顔を赤くして去っていった。
何をしてるんだ僕は。思わずそう苦笑してしまう。横にあった喫茶店のガラスには、子供騙しのような噂に文字通り踊らされた滑稽な男の姿が映っていた。なんとも情けない姿だ。
*
「先輩は時の魔女って知ってます?」
中野愛依の発する特徴的な甘ったるい声は、壁に油の染み付いた小汚い中華料理屋には全く溶け込めていなかった。そもそも店の中は男性客ばかりだ。向かいの席のグループは、馬鹿みたいな大きさの餃子の大食いチャレンジをしている。
「何? ゲームかなんかのキャラ?」
僕は至って標準サイズの天津飯を口に運びながらそう訊き返す。餡は醤油だ。
「違いますよー。同じゼミの子が話してたんです。この商店街には時の魔女の店があるって」
「そういう名前の店ってこと? 最近できたの?」
大学に通い始めてから三年間この商店街を利用しているが、そのような名前の店は聞いたことがない。
「違います! 魔女です魔女。本物の魔女がいるんですよ!」
中野は少しだけこの店に似つかわしくなった大きい声を出した。
「なるほどね」
「やっとわかってくれました?」
「中野は疲れてるんだ。今夜はゆっくり寝た方がいいよ」
冗談めかすように僕は、大袈裟に心配する素振りをする。小一時間前に受けた試験の準備で、頭をやられてしまったのだろう。
「だから違いますって! 本当にいるんですよ。魔女が」
中野は少し紅潮させた頬を膨らませるように抗議した。
「で? その魔女は何をしてくれるわけ?」
このまま否定していても埒が明かないので僕はそう訊ねる。
「時間を戻してくれるんです。時間を巻き戻して、後悔してることをやり直させてくれる」
澄まし顔でそう言った中野に、僕は思わず噴き出してしまう。
「なんで笑ってるんですか」と中野は不満げだ。
「だって時の魔女で時間を戻すって、安直すぎるでしょ。テンプレど真ん中って感じ」
「いいんですよ。みんなそれだけ後悔してるんです。だからこういう噂が生まれるんでしょ? 噂の根源って人の願いだから」
確信をついたような口ぶりだ。
「その言い方だと中野も信じてないみたいだけど?」
「愛依はいると思ってますよ、魔女。人が願ったからこそ、魔女という存在が生まれたんです」
それもまたやはり確信をついているのかもしれない。そういう考え方は嫌いじゃなかった。もちろん魔女などいるわけもないのだが。
「それに薫先輩にだってあるでしょ? やり直したいこととか」
その一言に、心臓が一瞬ドキリと鳴る。
店の外で喚き散らす蝉の声が聞こえた。こんな小さい店に防音という概念はないらしい。
「先輩?」
フリーズしていた僕の顔の前で、中野が「おーい」と手を振った。毎度のことだが、彼女の動作はなんというか、洗練されているなと思う。
「あ、いやほら。クリアしたみたい」と僕は大食いチャレンジをしていたグループの机を指差す。
「ちゃんと聞いててくださいよ! 愛依の話」
「ごめん」
「で! 魔女の店の行き方なんですけどね——」
中野の声をぼんやりと聞きながら、僕は考える。
——やり直したいこと。ある。ずっとずっと、後悔していることが。
*
「先輩みたいな人が案外試しちゃったりするんですよね。こっそりと」
別れ際に中野はそう言っていた。
「やらないよ。絶対」
そう断言して僕は、駅に入って行く中野を見届ける。
やった。僕はやった。中野を見送ってすぐ、わざわざ商店街に戻って来てやった。「何歩歩いたらどうとか、ゲームの裏技みたいじゃん」なんてことを言っていたのに、その裏技をやった。
情けない話だ。あり得るわけがない、魔女なんて。そんな馬鹿げた話に縋って。何がしたいんだ僕は。逃げるように商店街から離れながらそう自問する。
過去は変わらない。取り返しはつかない。もうどうしようもないのだ。わかっている。何度も、何度も後悔してそうわかったはずだ。それなのに僕は……。本当にどうしようもない。蝉が鳴いている。ずっと、ずっと鳴いている。少しも休むことなく、あの日からずっと。
「目を瞑って歩きながら、自分が戻りたい時のことを考えるんですよ」
後悔の渦に巻かれながら帰り道を進んでいると、ふと中野がそんなようなことを言っていたと思い出す。気もそぞろで話を聞いていたからか、すっかり忘れてしまっていたのだ。
さっき試した手順は間違っていた? だとすれば、もしかしたら……。
馬鹿か僕は。魔女なんているわけがないと、今そう思ったばかりじゃないか。多少手順が違っていたから何だと言うんだ。どちらにせよ結果は変わらない。いい加減わかれよ。いつまで僕は——。
そう自戒してまた歩き始める。そうだ、もう諦めるんだ。もうどうしようもないんだ。くだらない噂に縋って、無様に踊らされて。頭がやられてしまっているのは僕の方じゃないか。
そうわかっている。わかっているはずなのに、どうしてもあの蝉の声が、僕を責め立てるようなあの叫びが、耳の底にこびりついて離れない。
気づくと僕の足はまた引き寄せられるように、あの商店街へ戻り始めていた。
*
あの夏のあれこれが終わって、僕は祖父母の家に引き取られることになった。なんてことはない、僕の生活は既に破綻していたんだ。あんなことになる前から、ずっと。気づいていないフリをしていただけだった。そのことを認めてしまえば、本当に全てが壊れてしまうと思ったから。
しかし、ある意味では僕の願いは叶ったのだろう。僕はあの事件をきっかけに、見つけてもらった。祖父母の住む田舎で普通に中学校を卒業して、普通に高校を卒業して、今はこうして東京に出てきて大学に通っている。僕があの夏に何をしたかなんて、知っている人は一人もいない。事件直後は何かと周りも騒がしかったけど、次第にそれも風化していった。みんな自分の人生を生きるので精一杯なのだ。他人が起こした事件なんて、たった数ヶ月間の話題の種でしかないのだろう。逢野昭の名前は、もうインターネットの片隅にしか存在しない。誰も覚えていないのだ。逢野昭がどんな人生を送り、何を思い、どうしてあんな結末を迎えたのか。誰も知らない。
だけど、僕の耳にはあの日から蝉の号哭がずっと鳴り響いている。絶対に忘れさせないぞと。絶対に逃さないぞと。どこにいても。何をしていても。あの声は必ず僕を見つけ出す。忘れられるはずがなかった。忘れていいはずがなかった。
僕は逢野昭を利用して、普通を手に入れたのだから。
導かれるようにアーケードの入り口へと到達した。僕はもう一度目を瞑る。正面に八歩、右に三歩、正面に五歩、左に六歩、最後に半回転して後ろに七歩。僕の願いは。もう一度あの夏に——。
「——逢野昭がいた夏に」
*
「面白かったよ」
魔女はそう言うと、芝居がかった態度で手を鳴らした。
「こんな話が面白かったんだとしたら、随分と悪趣味だ」
「そんなことないよ。愉快な話だった」
気づいた時には、あの夏の全てを魔女に話していた。話すと言うよりも、魔女と一緒に追体験したと言った方が正しいかもしれない。言葉にしたことが、脳内で再生されているようなそんな感覚があったのだ。これも魔女の力なのか。かつての自分の頭の中を覗いているかような気分の悪さは、どうにも消化しきれない。何にせよ、僕はもう魔女という存在を認めざるを得ないだろう。
「退屈は魔女をも殺すってね。君のおかげで私の寿命が少し延びたよ」
「魔女に寿命なんてものがあるの?」
「そりゃあるよ。例えば退屈なゲームだったら途中で放り出してやめちゃうでしょ? それと一緒」
魔女は正鵠を射たというような表情を浮かべる。
「その言い方だとむしろ寿命なんてないように聞こえるけど。いつ死ぬかは自分で決められるみたいだ」
それに僕はどんなに面白くないゲームでも、一度始めてしまったら結末を知らないと気が済まないタイプだ。
「気分次第だよ。魔女の全ては魔女の気まぐれで決まるの。その方が魔女っぽいでしょ?」
得意げな顔を作った魔女がこちらを見る。魔女っぽいと言うならば、最初に言った通り目の前の魔女の外見に、僕の想像する魔女っぽさは全くない。
「まあ、とにかく、魔女の一生には必要なんだよ。退屈凌ぎが。君の人生とか、この本みたいなね」
そうケタケタと喉を鳴らしながら笑みを浮かべた魔女の手には、どこから取り出したのか一冊の本が挟まれていた。『ペンギンの飛び方』。あの夏の始まりの本だ。逸る心臓の鼓動に呼応するように、どこからともなく鳴り響く蝉の声が耳を通り抜けた。
「僕の人生も、その本も、退屈凌ぎには見合わないと思うな」
動悸を落ち着かせるように、ゆっくりと息を吐く。
「どうして?」
「その本がなんで呼ばれてるか、君なら知ってるだろう?」
僕の問いかけに魔女は、手に持ったその本に視線を落とし、徒らにペラペラとページ巡ると、一拍を置いて答えた。
「世界中を落胆させた本」
その声は何故だかとても冷ややかに聞こえた。草木が枯れ果てた凍土のように冷えついた言葉。自分で投げかけた問いだと言うのに、凍てついた刃のように突き刺さった。そうだ。この本はかつて、世界中を失意の底に沈めたのだ。
『ペンギンの飛び方』は海外の小さな文芸誌の片隅に掲載されていた連載作だった。特別な期待をかけられてプッシュされるような大作ではない。数合わせのような、インスタントに消費されるような話だった。しかし、そんな日陰の物語として連載を重ねていくうちにこの本は、気づけば世界中の注目を集める舞台に引きずり上げられることになる。原因はわからない。その独特の世界観が人々を惹きつけたのか。直向きに大空へ挑戦するエイビスの姿が世界中の心を共振させたのか。何にせよ『ペンギンの飛び方』の名前は、当時としてはあり得ない速度で世界中へ広がっていった。人から人への伝播。奇跡的な速度で広がっていくそれは、まるで流行病のようだったと。勝手に翻訳した海賊版が、世界中の路上で売られている光景が当たり前のように見られた言うのだから俄には信じ難い。現代のようにインターネットなどまだ普及していなかった時代だ。そんな時代に、小さな文芸誌の一冊の物語の内容が、世界中に共有されていたということは、本当にあり得ないことなのだろう。物語の続きを予想してああだこうだと考察に興じる姿は、現代の僕たちがやっていることと何ら遜色がない。『ペンギンの飛び方』はそんな奇跡のムーブメントを巻き起こし、世界中から惜しみない期待をかけられる一冊となったのだ。あの日までは。
『ペンギンの飛び方』を取り巻く熱狂が最高潮に達する中、遂にその最終篇は発表された。世界中を失望の渦へと叩き落とし、一夜にして駄作の烙印を押される原因となった、突拍子もない物語の結末だ。
ペンギンが飛べるはずないと散々馬鹿にされ続けたエイビスは物語終盤、遂に人力飛行機で大空へ羽撃き、誰も辿り着けなかった北の谷の向こうへと降り立った。問題となったのはこの先。谷の奥にある森の地面には大きな穴が空いていた。中に入って通れるくらい大きな穴。エイビスがその穴を進んでいくと、そこには街があった。街と言っても、それはエイビスが暮らしていた鳥の町とは全く性質の異なるものだ。高層ビルが立ち並び、宙を自動車が闊歩する、SFのような世界。そんな光景が地下に広がっていたのだ。
その地下の街では、遥か昔に宇宙へと移住したと言われていた人間が暮らしていた。正確には、かつて人間が宇宙への大移動を行った際、地球に残ることを選んだ者たちの末裔が。地上で暮らせなくなった彼らは地下に籠ることを選んだ。そうして長い年月をかけて地下で繁栄を重ねてきた彼らだったが、代が替わるにつれて、彼らは宇宙への渇望を抱き始める。先祖が地球を選んだことなんて、彼らにとってはいい迷惑でしかなかったということだ。彼らはかつて行われていた宇宙船の研究を引っ張り出し、現在の技術で再現できないか模索し始めた。さながら、人力飛行機を見つけて改造を繰り返したエイビスのように。
それからまた長い年月が経ち、ようやく試作機が完成した頃、ちょうど地下に迷い込んで来たのがエイビスだった。人間たちはエイビスを捉えて、実験動物として宇宙に打ち上げようと企む。自分たちがいつか宇宙へ旅立つための礎にしようと。
しかし、エイビスはその話を聞いて、自らその試作機に乗りたいと申し出る。その航海の先には死が待っていると理解した上でだ。そうしてエイビスはたった一羽で宇宙へと打ち上げられた。片道分の燃料しか積んでいない宇宙船で。空へと打ち上がる最中、彼は満足げな顔を浮かべてこう言ったのだ。
「これが俺の飛び方だ」
以上が、『ペンギンの飛び方』の顛末だ。頭が痛くなって来ただろうか? それまでの物語で形成してきた喋る動物たちが作り出す独特な世界観をぶち壊すように、突如登場する人間の姿。やっとの思いで完成させた人力飛行機で飛び立った先に現れるSF的宇宙船。こうした突拍子もない支離滅裂な展開で、積み重ねてきたものを全て台無しにしてしまった駄作。それが『ペンギンの飛び方』に与えられた結論なのだ。
「世界中の期待を裏切った物語じゃ、魔女の退屈は凌げないだろう?」
僕の人生だって同じだ。ずっと裏切ってきた。母も、逢野も。そんな僕の物語が魔女を満たせるわけがない。そんな意を込めながら僕は魔女を一瞥して、自嘲気味に笑顔を作った。
「でも匂坂くんはこの本が駄作だなんて思ってないでしょ?」
魔女は全てを見透かしているとでも言うような口振りで、こちらを見つめている。それは僕の目を見ているというよりも、僕の中身を見通しているような不気味があった。
ああ、そうだ。僕はエイビスの最期に惹かれてしまった。誰にも理解されなかった彼が、誰も想像の付かなかった方法で飛ぶ。これほど素晴らしい結末はないだろうと、そう思ってしまったのだ。父に渡されたあの時から、この本はどうしようもなく僕を惹きつけて止まない。だからこの本は、僕の本棚の一番初めに収められていたのだ。
僕はずっとエイビスのようになりたかった。
「私も同じだよ。誰が何と言おうと面白いんだよ、君たちの物語は」
魔女はまた得意げな顔でそう言ったかと思うと、今度は何かを考え込むように手を顎に当てる仕草をとった。三文芝居のような白々しさだ。
「でも、そうだね。確かに君の物語はまだ、未完成だ。そういう意味では、君の物語まだ面白くない」
あまりにも早すぎる前言撤回に思わず、「一体どっちなんだ」と口をついて出る。それを気にする素振りもなく魔女は飄々とした顔で言い放った。
「だから私が、時の魔女がいるの。これから面白くなるんだ、君の物語は。私はそれが見たいんだよ」
そうして魔女はまた思案顔を作る。先程と同じで、考え込むような素振りとは裏腹に、魔女がこれから放つ言葉は既に決まりきっているように感じられた。そうして魔女はやはり用意していたように、するすると言葉を紡ぐ。
「匂坂くんはさ、神様が創った物語と人間が作った物語、どっちが面白いと思う?」
その不思議な質問は、何故だか溶け込むように僕の頭に入ってきた。魔女の声が身体中に染み渡っていくような感覚。魔女がそこに込めた意図を、僕は過不足なく理解することができた。これは信条の話だ。
だったら、僕の答えは一つしかない。
*
「それで君は七年前に戻ってどうするの? 今度は本当に翼生やして世界の果てまで逃げちゃう?」
本題に入ろうとでも言うかのように、魔女は腕を伸ばして僕を指差した。
「できるの?」と素朴な疑問をぶつける、
「無理。空は私の領分じゃないから」
自分で提案しておいて、あまりにも呆気ない口振りだ。
「魔女は箒で飛んでるイメージだけど」
むしろそのイメージが一番強い。
「あんなの嘘だよ。魔女なんでほとんど普通の女の子と変わらないんだ。ただちょっと魔法が使えるだけ」
普通はその魔法で空を飛ぶのではないだろうか。魔女の普通とはなんだという話だが。
「まあそういうわけで、私がしてあげられるのは時計の針を過去に戻すことだけなんだよ。そこから先は全部君次第だ」
「だったら僕のやることは一つだ。逢野が父親を殺すのを止める。逃げる必要なんかない。逃げなくていいようにするんだ」
それしかないだろう。逃げたって何も解決しない。あの夏に嫌というほど思い知らされたことだ。だから僕は逢野の父親を守る。逢野を傷つけた最低な父親を。世界で一番大切な人を守るために、世界で一番大切な人から、世界で一番憎んだ男を守るのだ。
「ふぅん。いいね。賢明な判断だ」
「本当にやり直せるのか? あの夏を」
僕はもう一度確認するように魔女に問う。
「もちろん。任せてよ。空は飛べないけど時間は戻せるよ」
「代償は? 残りの寿命の半分とか? それとも魂?」
こういう話には大体そんな落とし穴がついて回るものだろう。うまい話には裏があるというやつだ。もっとも、僕はどんな代償だって支払うつもりだが。
「ないよそんなの。悪魔じゃないんだから」
魔女は「当たり前でしょ」とでも言いたげに息を吐いた。
「同じようなものだと思うけど」
「違うよ。私は魔女。人間の味方だよ」
その飄々とした態度の裏に、どこか真剣な顔が覗かれたような気がした。人間の味方。それだと敵がいるみたいだ。
「あ、でも一つだけ。私は君の時計の針を過去には戻せるけど、未来には進められない。それでもいい?」
魔女が思い出したという様子で付け加える。
未来にタイムリープさせることはできないということだろうか。
「そんなの、なんの問題もない。僕はあの夏に戻れればそれでいい。初めから未来になんて興味もないんだ。未来には後悔なんて抱きようがないんだから」
「ちょっと違うな。つまり、君は過去に戻って目的を果たしたとしても、またここに戻ってくることはできないってこと」
魔女は「わかった?」とでも言うように視線を向ける。なるほど。過去に戻ったらそのまま人生をやり直し続けなければならない。それは少し予想外だった。思った以上に魔女の魔法というものは制約だらけのようだ。だが、僕の答えは変わらない。
「いいよ。今の人生に未練なんてない」
「そ。抜け殻みたいだね、君は」
抜け殻。確かにそうなのかもしれない。僕はあの日、全てをあの夏に置いてきてしまった。皮肉な話だ。逢野を利用して手に入れた〝普通〟だったのに、逢野がいなければ僕にとってそれは〝普通〟でもなんでもなかったのだから。
「きっと僕は時計の針を戻しに来たんじゃなくて、あの夏で止まったままの針を動かしに来たんだ」
「いいね。じゃあ交渉成立だ」
「交渉なんてされた覚えはないけど。僕から差し出したものなんて一つもない」
「そんなことないよ。きっと君なら、面白いものを見せてくれるから。何度も言ってるでしょ。退屈なんだって」
やっぱり悪趣味だ。だが、なんだっていい。あの夏をやり直せるなら、なんだって。
「それじゃあ、そろそろお別れかな。まあ、せいぜい楽しませてよ。匂坂くんには期待してるんだから」
「そうだね。君の言う通り、少なくとも今の話よりは面白くなるだろうから安心しなよ」
そうだ。今度こそ僕は、逢野を——。
「目が覚めたらそこは逢野昭が逢野喜八を殺す二日前だ。君は二日間で運命を変える。いい?」
魔女は僕の目を真っ直ぐ見つめていた。僕は力強く頷く。
そうして、魔女は僕の顔の前に手を伸ばした。意識が手に吸い込まれてくような感覚に陥る。魔女は相変わらず飄々とした笑みを浮かべていた。
「いってらっしゃい、匂坂くん」
最後に聞こえたその声は、何故だかとても悲しそうに聞こえた。