彩に聞いたところ、学校ではちょうど衣替えの期間に入っているようなので、私はクリーニングに出してからクローゼットに仕舞っておいた冬の制服に身を包んだ。
制服を着るという動作がすごく久しぶりに感じる。夏休みに比べたら、学校に行っていない期間はまだ短いぐらいなのに、なぜか気分としてはそれよりもずっと懐かしい感じがした。
冬服だから……ってのもあるんだろうけどね。それに、なんだか制服が重たく感じるし……動いてなさすぎて、やっぱり筋肉が落ちちゃってるんだろうな。この前ファミレスに行った時も、足が疲れちゃったし。
「うんうん、似合ってる」
姿見の前で全身をチェックしている私に、夜月が腕組みをしながら感想を口にする。
「ありがと。夜月は冬服に着替えられたりするの?」
幽霊ってどうなんだろう。幻覚だったとしたら、私のイメージ次第のような気もするけど……私は夜月に夏服のイメージを持っちゃってるからなぁ。
いちおう目を閉じて夜月の冬服姿をイメージしてみたけれど、目を開いてみたら彼は夏服姿のままだった。ダメだったらしい。
久しぶりの学校――だけど、両親は不登校になりかけだった私が学校に行く準備をしていても、それが当然、当たり前の風景であるかのように接してくれた。朝食にはバタートーストと牛乳、昨日無理やりハンバーグを詰め込んだのが良かったのか、いつにもまして食欲があった。
朝起きて、あまりにも顔がひどかったら校則違反ではあるけれど化粧で誤魔化すつもりだった。でも、それもする必要はなさそう。血色も、パッと見ただけではわからないだろう。というか、最近お風呂場以外でも鏡をよく見るようになったせいで、制服に身を包んだ今の自分の顔色が、普段と比べて悪いのかどうかよくわからない。
お母さんに『私の顔色普通?』と聞いてみたところ、『万全ではないけど、たぶん誰も気づかない』とのことだった。誰にも気づかないであろう顔色に気付くことができるのは、親の成せる技ということなのだろう。
そして、もう一つ。今の私に元気があるのは理由がある。
正しくは、元気を出さなければいけない理由――だけど。
「おはよー! やっぱりきーちゃん、冬服似合うねぇ」
顔を合わせた瞬間、彩が元気いっぱいの声で挨拶をしてきてくれた。
「おはよう彩。そういう彩は夏服が似合うよね」
「もうすぐ私の季節が去ってしまうよ……」
「まぁ冬服の彩には冬服の彩の良さがあるから」
「えへへ、そうかなぁ~、そうだといいなぁ~」
そんな風に私たちが会話をしているのは、私の家の前である。
今朝早くに、『私、赤石彩さん、今、きーちゃんの家に向かっているの』とホラーを意識した文面が送られてきたのだ。慌てて『遠回りでしょ! 来なくていいよ!』と送ったのだけど、『私、赤石彩さん、もうバスに乗っちゃった』と返事が来てしまった。
バス代を出そうとしたけど、それすらも断られる始末。
夜月は遠巻きに「いい友達を持ったなぁ」と保護者のようなことを言いながら私たちのことを見ていた。どうやら、昨日私が言った『あまり話しかけないで』という理由で距離をとっているらしい。それはそれで気になるんだけど。
「それはそうときーちゃん。学校に行くからには現実を見ないといけないんだけど」
バス停に向かって歩きながら、彩が声を掛けてくる。
「うん、夜月は私の後ろの席だったし、どうしても見ちゃうと思う。でも、目を逸らすつもりはないよ」
「あ、いや、それはもちろんなんだけど、来週から中間テストだよ」
「…………うそ、もうそんな時期だっけ?」
まったくそんなこと考えていなかったんだけど。
来週? たぶん月曜日から試験が始まるから、ちょうど七日? 七日で、私が休んでいた期間の授業内容を独学で勉強して、テストに臨めと……? あぁ、まったく予想しなかった形で現実の波が押し寄せてきている。
考えたくないな……。
「先生、採点甘くしてくれないかなぁ」
叶わぬ願いと知りながらも、駄々をこねるように言葉を漏らす。
名前を書いたら加点してくれるみたいな、小学校の制度を取り入れてはくれないかなぁ。ダメだろうなぁ。
「きーちゃん特別扱い嫌いでしょ」
「それはそうなんだけどさ」
彩の言う通りである。特別扱いはされたくない。
あんな願望を口にしてしまったけれど、私はもしそんな風に先生に依怙贔屓をされたら、きっと『みんなと同じようにしてください』と伝えただろう。
あ、だとしたらみんなプラス四十点してくれたらいいんじゃないかな。
そうすれば私も不平等を感じることなく赤点を回避できるし。
――なんて妄想はここまでにしておくとして。
「なんとかみんなに追いつけるように頑張らないと……」
「私も協力するから大丈夫――って言っても、私も休んでた時期があるから独学の部分もあるんだけどね」
彩はそう言って照れたようにはにかんだ。男子相手でも女子相手でも変わらない彼女の表情の変化が、私にはまぶしい。どちらかというと、私は仏頂面だから。
人の視線も気になっていたけど、それよりも試験のことが気になりだしてしまったなぁ。
せっかく学校に戻ってきたのに、赤点が原因で留年なんてしたら本当に笑えないんだけど。先生たちは私の状況を知っているだろうから、あまり厳しいことを言ってこないだろうけど。
そんな風にテストの心配をし始めたものの、それは通学路での話。校門をくぐってからは、嫌でも周囲の視線が目についた。想像よりも、人が私に向ける視線は少ない。それでも、二度見する人はいたし、私を見てからこそこそと何かを話している人も見かけた。
まぁ、そうなるよね。
当事者になったからこの気持ちもわかるけど、もしクラスメイトにカップルがいて、その片方が亡くなってしまったとしたら、私も目を向けちゃうと思う。その視線を相手がどう思うかなんて考えずに、『大丈夫なのかな?』なんて思いながら目を向けてしまう。
やっかいなのが、人によってその対応が正解なのか不正解なのか、相手をよく知る人物じゃないと判断がつかない点だ。
私はそんな風に見られるのが嫌だけど、いっぱい心配してほしいという人も絶対にいると思う。だから、仕方のないことと割り切るしかないのだ。
「見たいものだけ見ればいいんだよ」
いつか私に言ってくれた言葉を、夜月が隣で口にする。私は夜月がいるほうに視線を向けないまま、小さく頷いて、彩に目を向けた。ジッと見つめた。穴が空きそうなぐらい、じっと彩の鼻の先を見つめた。
「な、何かついてる?」
びっくりした様子の彩が、自らの鼻を指でこすりながら聞いてくる。
「ううん、見てるだけ」
「そっちのほうが怖いんだけど! むしろ何かついててほしかったんだけど!」
それはそう。
別に私は女の子を恋愛対象としているわけじゃないけど、彩のようにコロコロと表情が変わって、可愛い人は好きだ。見ていて癒される。
そんなやりとりをしながら上靴に履き替えて、階段を上る。教室の前の廊下には駄弁っているクラスメイトたちがいて、その中には宮下の姿もあった。彼は登校してきた私を見つけると、喋っていた男子と言葉を交わしてからこちらに走ってくる。
「おはよう白百合、彩」
片手を上げて、宮下が私たちに挨拶をしてきた。朝からさわやかな男子だ。彼が朝眠そうにしていたりだるそうにしていたりする姿を、私はいままで見たことがない。
夜月はよく『昨日漫画読んでたんだけど、気付いたら三時だった』なんて言ってあくびをしたりしていたなぁ。性格的にはわりと共通点のある二人だけど、こういうところは違いがあるんだよね。
「おはよう宮下」
「おはよー亮くん。どうしたのそんなに急いで走ってきて、もしかしてナンパですか?」
「クラスメイトに声を掛けることをナンパとは言わないだろ……そうじゃなくて、白百合に頼みがあってな」
彩に向けて嘆息したあと、彼は首を少し傾けながらこちらを見る。
「え? 私?」
「そうそう。夜月の、花瓶の水の入れ替え。いままで俺がやってたけど、白百合にやってもらいたくってさ」
「――あ、もしかして、私が来るまで待っててくれたの?」
彼のことだ。『俺はめんどくさいから人に押し付ける』なんて理由ではないだろう。そんなこと塵ほども思っていないということは、今までの付き合いで理解している。
宮下は私の言葉に頷いて、ニカっと笑った。
「やっぱり俺より、白百合に変えてもらったほうがあいつも喜ぶでしょ」
「そうかな……でもまぁ、うん、私にやらせて」
やっぱりそういう理由か――そう思いながら宮下に言う。
ちらっと夜月がいるほうに視線を向けてみると、彼は腕を組んで「まぁ、桔梗かなぁ」と真剣に悩んでいた。悩んでいるということは、宮下が変えてくれていたのも同じぐらい嬉しかったということなのだろう。
別に夜月の親友である宮下になら負けても悔しくはなかっただろうけれど、自分が選ばれたようで、ちょっと嬉しかった。なんだかマウントを取るみたいだったから、その感情は表に出さないようにしておく。
「それとさ、学校を休んでいた白百合に、俺はとても苦しいことを伝えなきゃならない。それはもう、伝えるのが心苦しくて胸が張り裂けそうなほどだ」
宮下は眉を寄せ、苦悶の表情を浮かべながら言ってくる。
最近見ていた宮下の苦い表情と比べると、実に演技臭い表情筋の動きをしていた。意図的に作っているような感じ。
なんかわざとらしいなぁ。すごくしょうもないようなことを言いそう。
「中間テストのことはもう彩に聞いたけど……あと他に何かあるかな?」
私がそう口にすると、宮下はぴしりと体を硬直させた。
そしてぴくぴくと口の端を動かしながら、制服のズボンで手の汗を拭っている。
「…………そ、それのことです。白百合は休んでたから中間テストのこと忘れてるかと思ってました。すみません」
あっ……もしかしてやっちゃった?
「なんかごめん。彩が今朝教えてくれたの」
「きーちゃん、こういうとき謝ると逆に追い打ちになるんだよ! もっと謝ろう!」
「赤石攻撃的すぎるだろ!」
「ごめんね宮下」
「だーかーらー! わかってるなら謝るなって!」
教室に入る前から、私たちは四人で笑いあった。彩と宮下にとっては三人だけど、私と夜月にとっては四人の空間である。
楽しかった。
人の視線なんて気にならないぐらい、友達との話に夢中になっていた。
夜月は少し遠巻きではあるけれど、私が視線を向けると手を振ってくれるし、授業の合間も、昼休みも、放課後も、彩とか宮下がどんどん話しかけてくれていて、他の人をみる暇がなかった。
もちろん、クラスメイトの中には、私に声を掛けてくれる人もいた。心配してくれる人もいた。だけど、そこまで気にならなかった。
まさに、案ずるより産むがやすし。
私はようやく、日常に戻ることができたのである。
付き合っていたころよりもずっと、夜月と過ごす時間は増えてきている。まるで同棲でもしているみたいな感じだった。
幽霊であろうと、幻覚であろうと、私が普通ではなかろうと、別にいいじゃないか。
夜月は死んでしまった。だけど、夜月は私のすぐそばにいる。声を掛ければ、すぐに返事をしてくれる。スマートフォン越しじゃなくて、直に私に『おやすみ』や『おはよう』の言葉を伝えてくれるし、私からも伝えられる。
これを幸せと言わず、なんと呼べばいいのだろう。
でも、世界はそれを許してはくれなかった。
この異常な日常を、許容してはくれなかった。
学校から帰ってくるときは、宮下とは学校近くの駅まで、彩とは最寄り駅まで一緒だった。それからは夜月と二人の時間。彼は私だけに聞こえるのをいいことにバスの中でも平気で喋りかけてくる。だけど私は夜月に対して普通に返答するわけにはいかないので、心の声で会話をした。
行きもそうだったけど、バスの中では人が多くなったりするので、夜月は人に貫通され放題で大変そうだった。別にそれで痛かったり気持ち悪かったりするわけじゃないみたいだけど、うっとうしいとのこと。
まぁ、自分の顔面の中を知らない人が通り過ぎたりしたら嫌だよね。女子高生が夜月の体を貫通したときは、ちょっとムッとしてしまった。
学校から帰ってきて、家族で食事をし、お風呂に入り、自室に入る。いつもならば家族でもう少しテレビを見ながら団欒の時間を過ごしたりするのだけど、今日はいつもより夜月と話せていなかったから、すぐに二階に上がってきた。
「亮はいいやつだよな」
私がベッドに腰掛けたタイミングで、夜月がそんな風に切り出してくる。
「宮下ね。男子があまり寄ってこなかったのって、もしかしたら宮下が何かしてくれたのかも。うちのクラスって、そういうデリカシーが無い人多いじゃん?」
「あー、亮はそういうことやりそう。しかもあいつ、そういうのひけらかさないからなぁ。こっちから探りを入れないとわからないぐらいだ」
「夜月も似たようなもんでしょ? そういうの隠したりするじゃん」
私が鈍感なのが悪いのだけど、あとあとになって夜月の優しさを人づてに教えてもらうことがある。そうやって第三者から教えてもらっているだけでも両の手では数えきれないほどなのだ。実際は、その何倍も似たようなことをやっているのだろう。
「別に、見返り求めてやってるわけじゃないからな。俺も亮も」
夜月は今日も、窓の傍に立って夜空を見つめている。
その姿は私から見れば、あまりにも絵になる姿ではあるのだけど、どうせ調子に乗るので言ってやらない。第一、そういうことを面と向かって言うのは、恥ずかしいし。間接的にならまだしも。
「というか、昨日からなんでずっと立ったままなの? 疲れないわけ? こっちに座ればいいのに」
自分のすぐ隣、ベッドをぽんぽんと叩いた。
私は悲しんでますよ――そう訴えかけるような表情を意識して、不満を夜月に伝える。だがしかし、彼は冷たく突き放すような態度をとった。
「全く疲れないかな。それに、そんなにいつまでも俺がくっついていたら、桔梗が俺離れできないだろ。こうして桔梗の前に現れてきてる時点で、俺が言うなって話だけどさ」
「なによ『俺離れ』って……なに、もしかして消えちゃうの?」
私が問うと、夜月は肩を竦めて苦笑する。肯定も否定もしていないけど、その反応は明らかに肯定よりのものに見えた。
つまりそれは、夜月が消えるということ。
「なんで!? ずっとここにいればいいじゃん! 自分でコントロールできるなら、ずっと幽霊のままでもいいじゃん! 未練がまだあるなら、それは残しておこうよ! 急いで叶えなくてもいいじゃん! 消える意味なんてないよ!」
声で縋りつくように、声でしがみつくように、私は夜月に消えないでほしいと訴えた。
でもやっぱり、心のどこかで私はわかっていた。夜月は私の想いに応えてはくれないということを。この幸せな日常は、いつか終わってしまうんだということを。
「最初に桔梗に伝えただろ。俺はもう死んでるんだ。ここにいることは普通じゃない」
「それは……わかってるけど、別に今すぐってわけじゃないんでしょ? ねぇ、まだ私、心の準備、できてないよ? まだ大丈夫なんだよね?」
夜月が半透明の姿で私の前に現れてから、時間はいっぱいあったというのに、お別れの言葉を言ったりはしていない。だって、私には彼がいつ消えてしまうかわからないのだ。
お別れの言葉を言ったら、それをきっかけに夜月が消えてしまうかもしれない。
というか私にはまだ、夜月が消えてしまうということを想像するのが難しいのだ。
彼が交通事故で死んでしまったときのように、想像できないのだ。彼がいなくなるということを、実際にそうなってしまうまで、想像できないのだ。
「いますぐに消えるってわけじゃないさ。だけど桔梗、この状況に慣れたらだめだぜ。何度も言うけど、普通じゃないんだ」
「それは、わかってるけど――そう! お願いはどうなったの? ほら、私に叶えてほしいことがあるんじゃないの? まだあるんでしょ?」
夜月からこれまでにお願いされたこと。
思い出の場所――はまゆう公園に行きたい。
友人たちの状況を知りたい。
自分の遺影を見たい。
親友の顔を見たい。
学校に行って、クラスメイトたちの様子を見たい。
次で、六つ目だ。夜月のお願いは残り何個あるんだろう。
私に残された猶予は、お別れまでの猶予はあとどれぐらいあるんだろう。
そう考える私に、夜月は――
「次が最後のお願いだ、桔梗」
無慈悲にも、そう言った。
「新しく恋をしてくれ。俺の憂いを消し去って、幽世へ行かせてくれ」
いつものように笑顔でもなく、悲しい表情でもなく、なんの感情も見えないような表情で、夜月は言った。子供を叱るかのような口調で、そう言った。
その時私の中で沸き上がった感情は、うまく言葉にはできないものだった。
新しく、恋をしてくれ……? 夜月のことは忘れろってことを言ってるの? 幽世って、あの世ってことよね? 成仏させてくれってこと? 私が恋をすることが、成仏に繋がるって言うの!?
「ふざけないで! そんなことできるわけないじゃない!」
最初に表面に現れた感情は怒りだった。
なんで夜月に私の想いを決められないといけないのか。冗談じゃない。
誰も気になるような人がいない状況で、きちんと愛する人が頭に思い浮かぶ状況で、目の前に見えてしまっているこの状況で、新しい恋なんてできるはずがないじゃない!
「亮がいるじゃないか。あいつはいい男だぜ」
「――っ、それで最近、あなた宮下のことをずっと褒めてたの? 私が意識を向けるように? ……最低っ」
「いーや、俺があいつを褒めてるのは本心だぜ。亮は桔梗にとって、俺の次にいい男だ。そして一番だった俺がいなくなったんだ。あとはわかるだろ?」
「ばかじゃないの!」
私は声を荒げながらベットから立ち上がり、夜月に詰め寄った。そして、射殺すように睨みつけながら、夜月の胸倉を――
「……うそ」
つかむことが、できなかった。少し前までは触れられていた夜月の体は、まるで煙のように私の手を包み込んでしまう。
夜月の胸元から視線を上にあげ、顔を見る。
夜月は眉根を下げ、少し泣きそうな顔をしているように見えた。
「そろそろ、俺離れが必要な時間なんだ、桔梗。できなかったお別れを、今やり直してるんだよ。伝えたい言葉があるなら、今のうちだ」
「なんで、いつからなの……? いつから触れられなくなっちゃったの?」
そう言いながら夜月の体に縋ろうとするけど、私の手は彼の体をとらえることができない。ただただ、私がもがくように手を動かしているだけだ。
「さぁ、どうだろうな。……なぁ桔梗、俺はもういつ消えてもおかしくないんだ。桔梗が俺の願いを叶えようと、叶えまいと消えるんだと思う――いや、それは違うな。たぶん学校に行った時点で、俺の心残りは全て無くなっていたんだろう。最後のこのお願いは、俺に対するサービスみたいなもんだと思ってくれ。いつまでも桔梗を俺に縛り付けたままだと、気分良く成仏できないからな」
夜月はそう言って柔らかい笑みを浮かべる。全く笑えない。彼が笑顔になるほど、私の負の感情は大きくなっていく。
「なによそれ……」
「ほらよく見てみな」
夜月がそう言って手を広げるので、マジマジと彼の体を隅々まで見てみる。
「足が……」
「足先が消えているだけじゃないぜ。身体の薄さも、増してきちまってる。たぶん少しずつの変化だから桔梗にはわからなかったんだろ。はまゆう公園に行った時点から、もう変化は起きていたんだぜ。俺は感覚的に、わかっていたけどな」
よく観察しないとわからないレベルの変化だった。でも足先はたしかに消えてしまっているし、体も以前より薄くなっているような気がする。
いつの間にか目じりに溜まっていた涙をぬぐって、再度夜月の顔に目を向ける。
「夜月は、私が誰かと付き合って嬉しいの……? ねぇ、それって本当に私のこと、好きだったの? なんでそんなひどいことが言えるの?」
「好きだからこそだよ。俺は桔梗に、幸せになってほしいんだ」
「なんで私の幸せを夜月が決めるのよ! 他の人と付き合って、私が幸せになれるわけがないでしょ!」
ぎりぎりまで顔を近づけて怒鳴ると、廊下から「桔梗、電話してるの?」とお母さんの声が聞こえてきた。
しまった、うっかりしていた――両親にバレないようにするということをすっかり忘れてしまっていた。慌ててドアがあるほうに首だけ回して、叫ぶように言う。
「ごめんお母さん! もう電話切ったから!」
「あらそう? ちょっと声が大きかったから、次からは気を付けてね?」
「はーい」
返事をして、首をもとの位置に戻す。
夜月は唇に人差し指を当てて、『静かに』というジェスチャーをしていた。そのふざけた態度が、余計に私の神経を逆なでにする。
そんなテンションで話せるような内容じゃないだろう。もっと深刻な話だろう。
一瞬、お母さんに注意されたことも忘れてまた怒鳴りそうになってしまったが、そのタイミングで私のスマートフォンが震える。そちらには見向きもせず、夜月をキッと睨みつけていると、
「スマートフォン、通知が来てるぜ」
親指で指さしながら、夜月は言った。
「知ってる。いまはどうでもいい」
「いいから見てみな。俺の予想が正しけりゃ、あいつからだぜ」
なによその予想……夜月は二日間宮下と会っただけだったというのに、私に連絡してくるかどうかなんてわかるわけないじゃない。
夜月があまりにも自信満々な表情を浮かべて言うものだから、誰からの連絡なのか気になってしまった。相手が宮下であることを期待したわけではない。むしろその逆だ。
相手が宮下でなければ、夜月の言い分をはねのけることに繋がるかもしれない。
そう思って、私はベッド脇に置いていたスマートフォンを乱暴に掴んだ。
しかし私の願いは叶わず――メッセージを送ってきた相手は、宮下だった。別にメッセージを送った宮下が悪いわけじゃないのに、『なんでこのタイミングで送ってくるのよ』と思ってしまう。
「誰からだった?」
夜月の思い通りの展開になったのが気に食わなくて、返事はしないまま私はメッセージアプリを開いた。内容を確認してみると、『明日の放課後、二人で話したいことがある』と書かれている。
彩も一緒じゃなくて、二人で……?
「……まさか告白とかじゃ、ないよね。いくらなんでも」
彼氏が死んで苦しんでいる私に、彼はそんなことをしないだろう。弱みに付け込むようなことを、宮下はしないはずだ。
しかも私は、宮下にとって親友の彼女である。そして、宮下の幼馴染の親友だ。
もし万が一、宮下が私に告白しようものなら、彩は宮下に対して怒り狂うだろう。最低だと罵るだろう。
いや、でも本当にそうだろうか……? 宮下がいいやつであることは彩も重々承知しているだろうから、案外夜月のように宮下を私に勧めてくるのだろうか?
夜月が無言で私の傍に近寄ってきたので、私は呆然としたままスマホの画面を夜月に見せた。すると彼は、「なるほどな」と納得したように言葉を漏らす。
「とりあえず、話を聞いてみるだけ聞いてみたらいいんじゃないか。そしてたぶん告白じゃないぞ。俺の知る宮下は、もっと遠回りなやつだし」
「遠回りって――どういうことよ」
「さぁな。宮下に聞いてみたらわかるんじゃね」
夜月はそう言って肩を竦める。
その日は、布団に入ってもなかなか寝付くことができなかった。