『【一生】愛してるとか、【生涯】愛するとか言うじゃん? 俺がひねくれてるだけなんだろうけど、どうしてもアレ、納得できないんだよな』
『なんで? 私はすごく素敵だと思うけど。どうせ別れたりするんだからそんな大層な言葉使うなとか言いたいわけ?』
『違う違う、その逆だ。だってさ、一生とか生涯って、長い期間ではあるけどさ、限定的な言葉じゃん? 死後はどうすんのって話。生きている間は愛してるけど、死んだあとの心はわかりません、って言っているような気がしてさ』
『その考えはたしかにひねくれてる』

 まだ夜月(やづき)と付き合う前、高校一年の夏ごろ――つまりもう一年以上前のことになる。放課後の教室で、そんな会話をしたことを今になってふと思い出した。
 あの頃の私はまだ彼のことをよく知らずに、『変わった考えをするやつ』という風に見ていたような気がする。もし彼が『ひねくれているだけ』なんて自称しなければ、もしかしたら私はあの言葉を聞いて、夜月のことをロマンチストだなんて思ったかもしれない。

 実際付き合ってみると、私は彼のことをロマンチストだと思うことは多々あった。だけど、少なくともあの頃はまだ、ひねくれたやつだと思っていた。

 夜月が好んで抱きしめていた丸いビーズクッションを膝と一緒に抱えて、窓の外を見る。
 片方だけ開いた黄緑色のカーテン。窓越しに見る夜空は、ガラスに付着した水滴と分厚い雲のせいでなんの風情もない。
 星も、月も見えない。まるで私から隠れるように、その姿を見せてはくれない。

「おやすみ、桔梗(ききょう)

 ふいに、部屋の外からお母さんの悲しそうな声が聞こえてくる。その言葉のお陰で、今が夜の十時頃であることを知った。足音、全然気づかなかったな。

 部屋にある壁掛けの時計はもうしばらく見ていない。スマホの電源は、もう半月以上切ったまま。窓から見える空と家族の声だけが、私に時間を教えてくれる。全てが億劫だった。

 何もしたくない。何も考えたくない。

「……おやすみ」

 相手に声が届いているのかもわからないようなボソボソとした声で、私はお母さんに返事をした。足音は聞こえてこないから、たぶんまだ扉のすぐそばにいるのだろう。申し訳なくて、現実を見たくなくて、私は布団を手繰り寄せて頭にかぶった。

 両親に心配をかけてしまっている。
 そんな当たり前のことがわかっていても、私にはどうすることもできなかった。部屋から出るぐらいならまだいいけど、誰かと顔を合わせたくない。

 何も解決しないけど、ずっと一人でこうしていたい。閉じこもって、世界を認識したくない。
 ごめんなさい、ごめんなさい。
 今の私には、例えお母さんが私を心配してくれているのだとしても、それが脅迫のように聞こえてしまうんです。

「もう少しだけ、一人にさせてください」

 私は扉に向かって、先ほどよりも少しだけ大きい声でそう言った。
お母さんに向かって敬語を使うのは、決して拒絶しているわけではない。私なりの、最大限の懇願のつもりだった。許しを願っているつもりだった。

「大丈夫よ桔梗、私たちのことは気にしなくていいわ。今日も声を聞かせてくれてありがとう」

 薄情に感じてもおかしくない私の返事を聞いても、お母さんは気にした様子もなくそう言って、ひたひたと廊下を歩いて行った。次に家族が私に声を掛けてくるのは一時間後――お父さんがお母さんと同じように、『おやすみ』と挨拶をしにやってくるときだ。

 十二時間寝るときもある。二十四時間起きていることもある。
 そんな乱れた生活を送りながらも、この夜の時間だけは起きていようと思っていた。時計を見ないせいで一度か二度、親に挨拶しそびれてしまったことがあるけれど、これが私の今の外との唯一の接点だから。

 こうやって殻に閉じこもっていれば、最低限の関りだけで生きていける。
 再び静かになり、しとしとと降る雨音だけが鼓膜を震わせる。

「……なんでいなくなっちゃったの」

 静かすぎるからなのか、小さな声も自分の体に響いているような感じで、大きく聞こえてしまう。
 付き合って一年の記念日を迎える目前のことだった――夜月が交通事故で亡くなったのは。その知らせを受け取ったときのことを思い出すと、今でも胃液がこみあげてくる。

 その時の感情がフラッシュバックして、頭が真っ白になりそうになる。

「……私はどうしたらいいの」

 ビーズクッションで涙をぬぐいながら、嗚咽交じりに気持ちを吐露する。
 もう学校も二週間以上行っていないし、ご飯は食べるのもギリギリだし、心配してくれた友達とも連絡を取ることを止めたし、肌はボロボロだし、精神は不安定だし。

「……ばか」

 もういっそのこと、死んでしまいたいとさえ思った。夜月のいなくなった世界で、生きていける気がしないし、生きたいとも思わなかった。
 自分も死ねば、夜空に浮かぶ月の近くに行けるのではないかと、真剣に考えていた。

 付き合うきっかけを作ってくれたのは夜月のほうだったのに、彼からの愛情に甘えて、私は冷たく接するようなこともあったのに、いつの間にか気持ちは私のほうが大きくなっていたような気がする。
 失ってから大切なものに気付くなんて……当たり前のようにわかっていたつもりだったけど、全然私はわかっていなかった。

「……私もばかだなぁ」

 恋人としての関係が終わる――そういう想像ならいくらでもした。私から彼を嫌いになることはないと断言できるが、優しい夜月が私に愛想をつかしてしまい、別れを切り出されたり、私以外の可愛い女子が夜月にアタックしたらどうしようとか、そういうことなら考えたことがある。でも、そんな私の不安は、いつも夜月が吹き飛ばしてくれた。

 だけどこんなお別れの仕方なんて、全く考えてなかったよ……。

「……ばか」

 もう一度、私を置いて行ってしまった最愛の人に悪態をつく。こういうところも治したいと思っていたのに、意識をしないとすぐに嫌な言葉が出てきてしまう。

「――ばかとは酷いじゃないか」

 ふいに、夜月のそんな声が聞こえた気がした。
 聞こえてくることはありえない、何度も聞いてきた夜月の声が。

「――ふ、ふふ、私、そこまで追いつめられてるんだ」

 とうとう私は、夜月を求めるあまり、幻聴まで聞こえてしまうようになったみたいだ。夢で声を聞くことはあるけど、起きている時間に聞くのは初めてだなぁ。

 こんな風になってしまっただなんて夜月が知ったら、きっと笑われてしまうに違いない。
 やっぱり桔梗は俺のこと、大好きなんじゃないか――って。

「おーい、無視すんな。そして布団から出てこい」

 また幻聴が聞こえてくる。今度は先ほどよりもはっきりと。
 ぼんやりとした意識が、強制的にクリアになっていく。

「……や、づき?」

 そんなはずはない――そう思いながらも、私は被った布団をめくって、視界を広げる。
 にわかには信じがたい光景が、私の目に移った。暗闇に慣れた私の目は、しっかりとその姿をとらえていた。
 足をクロスさせ、腕を組んで、困ったように笑いながらこちらを見ている、私の恋人を。

「な、なん――え、嘘」

 いま私の心が何を感じているのか、自分でもよくわからない。
 死んだはずの人が目の前にいる恐怖なのか、いきなり部屋に人が現れた不可解さへの驚きか、恋人に再会できた喜びか、混乱してしまってさっぱりわからなかった。

 これがもし見知らぬ誰かだったのなら、私は悲鳴を上げて叫んだり、声も出せずに体を強張らせてしまったり、布団にもぐって『夢よ醒めろ』と唱えたかもしれない。

 でも、そうはならなかった。会いたいと、強く願った人だったから。
 夜月は私の困惑した姿を見て「当然の反応だな」と楽しそうに笑う。

 今彼が浮かべているような、目じりにしわが寄って、くしゃりと歪む笑顔が好きだ。猫みたいで、おじいちゃんみたいで、優しい笑顔がとても好きだ。

 彼は白のカッターシャツにグレーのズボン、つまり高校の夏服を身に着けていて、部屋の中であるのにも関わらず、ローファーを履いていた。そしてよくよく見ると、彼の体は少しだけ透けていて、その背後がうっすらと確認できる。

「……幽霊、なの?」

 だとしたら、私はどうすべきなのだろう。もしかしたら、お線香も上げに行っていない私を怒りにきたのだろうか。それとも、自分が死んだことでこんなに落ち込んでいる私を見て、ご満悦なのだろうか。
 そんな考えをする私をよそに、夜月は淡々と「さぁ、どうだろうな」と口にする。

「夢かもしれないし、桔梗が見ている幻覚かもしれないし、幽霊かもしれない。ただ一つ言えるのは、俺は間違いなく死んでいるってことだ。そこは間違えるなよ、ぬか喜びさせたくはないからな」
「……そう、なんだ」

 言葉が上手く出てこない、状況が飲み込めない。お化け屋敷やホラー映画は得意なほうだったし、見ることができるなら幽霊と会ってみたいと思っていた私だけど、実際目の当たりにすると、呆然とするほかなかった。
 現実味が無さ過ぎて、当たり前の対応ができなくなっていた。

「ごめん、ちょっと頭が追いつかない」

 呆然としたまま、私はぼやくようにそう言った。

「そうだよな、いきなりこんなこと言われても困るか。じゃあ俺が桔梗の頭を押してやろう」

 私は返事をすることでいっぱいいっぱいだと言うのに、夜月はじゃれ合うかのうように私の隣に寄ってきて、本当に後頭部をぐいぐいと押してきた。私の頭が、ビーズクッションに押し付けられる。

「物理的な話じゃな――え? なに? 触れるの? 透けてるのに?」
「さぁ? 俺にもよくわからん。でもたぶんアレじゃないか? 幻視があるように、えっと――触られるように感じるやつ。名前ついてたっけ?」
「幻触?」
「そうそれそれ。たぶんそれ、聞いたことないけど、たぶんそれだ」
「適当すぎでしょ……そんなの、テレビでも聞いたことないよ」

 私がそう言うと、夜月は「俺にもよくわかんねぇんだもん」と笑いながら話す。笑い事ではないけど、笑いながら。
 私はなんだか夜月の姿を見るのが辛くて、そしてやっぱり、自分の頭がおかしくなったのかと思って、再びビーズクッションに顔を伏せた。

 次に顔を上げたら、そこにもう夜月はいないかもしれない。だけど、会話が途切れてから一分ほど経ったあと、再び顔を上げてみると、夜月はまだそこにいた。そして、「ごめんな」と眉をハの字に曲げて言う。

「一人にさせちまって。まさかこんなに桔梗が俺のことを好きすぎるとは思ってなかったぜ。すっかり痩せてるじゃないか」
「……別に、ダイエットしようと思っただけだし」
「そうなの? 桔梗、ダイエットする必要ないだろ。不健康じゃない?」
「うるさい、デリカシーがない、ばか」
「あははっ、それでこそ桔梗だ。桔梗がへこんでいるのを見ると、なんつーか俺もモヤモヤするからさ」

 なにが『それでこそ』だ。まるで私の口が普段から悪いみたいじゃないか。まぁ、その通りなんだけど。親しい間柄こそ、そんな風に雑になってしまうことは。

 そんな風に話していると、少しだけ心臓の鼓動が落ち着いてきた。もう、幻覚でもいいや、私の頭がおかしくなったのなら、それでもいいやと思えてきた。

「……夜月は、なんで出てきたの」
「さぁ」

 夜月は肩を竦めながら、とぼけた調子でそう言った。幽霊なら未練がありそうだけど、幻覚なら私の願望みたいなものだもんね。
 次に何を聞けばいいのだろうと悩む私の横に、夜月は腰を下ろした。最初、彼を私の家に呼んだ時、なぜかベッドに座れることをすごく喜んでいたことを思い出した。夜月いわく、距離が近づいた気がするとのことだった。

 抱きしめ合ったり、キスもしたりしたのに、それとはまた別の喜びがあるようだった。

「なんで出てきたのかは、俺にもそれはよくわからないんだ。でもさ、これが未練なのかわからないけど、桔梗にお願いしたいことがある」
「……一緒に死んでほしいとか?」

 真面目に私が聞いてみると、おでこをペチっと叩かれた。大して痛くはないけれど、反射的に額を抑えて夜月を睨む。夜月も私のことをムッとした表情で睨んでいた。

「だって、夜月は生き返ることはできないけど、私は死ぬことができるじゃん。そうしたら、また一緒にいられるよ?」

 私がそう言うと、夜月は不満げな表情を維持したまま口を開く。

「それをされて俺が喜ぶと思われてるのなら心外だな。え? もしかして俺って桔梗にそんな人間だって思われてたの? 悲しいんだけど」

 それはそう。よくよく考えてみれば、怒られて当然の発言だった。夜月は、絶対にそんなことを言わない。言ったとしたら、それはもう夜月ではない別のナニカだ。

「……ごめん。それで、お願いってなに?」

 謝って、話を逸らすために再度問いかけると、夜月は窓の外に目を向けながら口を開く。

「今日は雨だから――明日。明日も雨だったら、またその次の日でもいい。できれば、星や月の見える夜が良いからな。俺と一緒に、思い出の場所に行ってほしいんだ」
「……夜月が告白してきた場所?」
「そう、俺と桔梗が、付き合うことになった、あの公園だ」


 夏井ヶ浜はまゆう公園。
 福岡県北部にある芦屋町、その北端に位置する海の見える公園が、私たちの思い出の場所だった。

 夏にはヒガンバナ科の白いはまゆうの花が咲く、地元民ならだいたいの人が知っているデートスポットであり、恋人の聖地に認定されていて、海を見下ろせる場所には石造りのアーチに鐘が付いている。

 付き合うよりも前に、恋人の聖地に一緒に行くことになったから、『あぁ、告白されるんだな』とわかってしまったのも良い思い出。それに、あきらかに夜月は緊張していたし。

「なに笑ってるんだよ」
「ふふっ、いや、あの時の夜月バレバレだったなぁと思って。明らかに挙動不審だったし」
「そりゃこれから告白するってのに平常心でいられるほうがおかしい。むしろなんで桔梗はあんなに普段通りだったんだよ」
「私より緊張している人が近くにいたからじゃない?」
「……俺のせいかよ」

 あの公園には、告白されたあとも何度も行っている。
 放課後に行ったり、休みの日に行ったり、半年の記念日で行ったり。そして一年目の記念日も、どこかに遊びに行ったあと、はまゆう公園に行くつもりだった。

 つい先月も、二人ではまゆうの花を見に行ったばかりだというのに、なんだか遠い昔のことのように思えちゃうな。

「夜に行きたい、でも、桔梗を夜に一人で歩かせるのは危ないから却下」
「じゃあ無理じゃん」
「だから、なんとか斗真(とうま)さんにお願いして車出してもらえないかな?」

 夜月は「頼む」と言って、手を合わせ片目を瞑る。

 夜月の言う『斗真さん』とは、私のお父さんのことだ。
 夜月が交通事故で亡くなってからまともに会話ができていないけれど、たぶん頼めば二つ返事で了承してくれるだろう。そういう父親なのだ。

 私たちはお互いの家に遊びに行っていたりしたし、家族ぐるみで仲が良かった。

 親同士も連絡先を交換していたから、どちらかの家に泊まる時は親同士で何か連絡を取ったりしていたらしい。未成年ということを考えれば仕方のないことなのかもしれないけど、どんな話がされているのかわからないから、びくびくすることもあった。

「……たぶん、大丈夫だけど」

 ずっと話していなかったから、かなり気まずい。その上『夜月に頼まれた』なんて言ってしまえば、私は公園よりも先に病院に連れていかれることになってしまうかもしれない。
 そしてそのことに関しては、夜月も同意見だったようで、

「もちろん、斗真さんや明子さん、他の誰にも俺のことは言わないほうがいいぞ。頭がおかしくなったって思われても仕方がないからな。桔梗さえ言わなければ、誰にもバレやしない」

 苦笑いを浮かべながら、そう言った。

「実際、頭がおかしくなったのかもしれないしね――でも、他の人にも見えるかもしれないんじゃないの?」

 その疑問に、夜月はノータイムで首を横に振る。

「感覚的にわかるんだ。俺の姿は桔梗にしか見ることができないし、俺は桔梗の傍を離れられない」

 私の傍を離れられないって――え?

「お風呂とトイレ覗いだら許さないから」
「そう言われると覗きたく――いてっ! 冗談だって!」

 ケラケラと笑い始める夜月の頭をひっぱたく。顔を歪めて頭を押さえているが知ったことか。デリカシーのない夜月が悪い。

 でも――ふふっ。
 たとえこの夜月が幽霊でも、幻覚だったとしても、ここまで自分が元気になっていることがなんだか面白くて、私も笑ってしまった。


 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆


 両親が寝静まったあと、私は夜月に『絶対一階には降りてこないで』と釘をさしてから、シャワーを浴びた。どうやら家の中ぐらいの距離なら離れても平気らしい。

 もしかしたら覗きにくるかもしれない――そう思って何度か手で体を隠しながら浴室の扉を開いたりしてみたけど、夜月はちゃんと私のお願いを聞き入れてくれたようだ。壁を貫通できるようだから、律儀に扉からやってくるとは限らないけど。

 とりあえずガリガリにやせ細った体を夜月に晒すことなく、シャワーは無事に終わった。
 それからキッチンにある冷蔵庫を開けると、棚の一段をまるまる使ってトレーが置かれている。そこには一人分の夕食が綺麗に並べてあった。

 私の分の夕食を、両親はこうして準備してくれている。今日の晩御飯はカレーと牛乳、ポテトサラダ、それからすりおろしたリンゴと、ゼリー飲料だった。

 料理の数はあるけれど、普段通りの私と比べると食べる量は三分の一ぐらいだろうか。それに加えて一日三食から二食に変わってしまったし、体重が減るのも仕方がないことだと思う。

 だけど、これでも少しずつ増えてきたのだ。最初のうちは食べたものをほとんど吐き出してしまっていたし。お母さんたちが準備してくれた夕食を、残すこともなくなってきた。

 まぁ、ちょっと多く感じるぐらいに調整してくれてるんだろうけど。
 冷蔵庫からトレーを取り出して、別々の器に入ったカレーとご飯をそれぞれレンジで温める。そして再びそれをトレーに乗せて、足音を殺しながら自室に持って行った。

「少なっ! え? マジでこれだけ?」

 部屋に入り、小さな丸テーブルにトレーを乗せると、夜月は目を大きく見開いて私の夕食をのぞきこみ、そんなことを言う。普段の私を知っている夜月なら、こういう反応になるのも仕方がないか。

「でも女子でこれぐらいしか食べない子っているよ?」
「桔梗って結構食べるじゃん」
「まぁそうだけど……今の私、エネルギー全然使ってないから」

 デリカシーがないなぁと思いつつも、夜月の言う通りなので反論はしない。
 いただきますと小さく声に出してから、食事を口に運んでいく。

「さすがに食べられないよね」

 私が食事をする様子をジッと見つめている夜月に聞いてみる。たぶんその体では食べられないだろうなと思っているけど、咀嚼音しか聞こえてこないこの状況が居心地が悪くて、何でもいいから話題を振ってみたのだ。

「無理だろうな。というか、物に触れない。布団にもぐろうとしたけど無理だった」
「何しようとしてるのよ……でもベッドには座れるんだよね?」
「おう、よくわかんねぇ」

 私は今地べたに座っていて、正面にいる夜月はベッドの上に座っている。
 幽霊にも色々ルールとかがあったりするのかな。というか、自然に話しちゃってるけど、私夜月を受け入れるの早すぎじゃないかな? 心が崩れてしまいそうだったから、どんなものにでも縋りたかったのかなぁ。

 たとえ幽霊でも幻覚でも。

「じゃあ寝っ転がるのは?」

 何ができて何ができないのかが気になったから、試しに聞いてみた。ベッドに座れるのなら、それもできるんじゃないかと思ったけど――、

「んー、足が付いてないとダメっぽい。こうして寝っ転がることはできるけどな」

 夜月はそう言って、床に足をつけたまま上半身だけベッドに倒れこむ。
 幽霊といえばぷかぷかと宙を漂っているイメージが強いんだけどな。むしろ地面に足がついていけないといけないなんて、どんな幽霊よ。やっぱり私の幻覚だったりするのかも。

 とりあえず、夜月と一緒のベッドで寝ることができないということはわかった。
 まぁ別に、何がなんでも夜月と一緒に寝たいわけじゃなかったから、いいんだけど。

 その後、色々夜月に聞いてみたけど、どうにも要領を得ないふわふわとした答えが多くて、やはり彼も今の自分の状態がよくわかっていないということがわかった。

「やっぱり……変な感じだなぁ。死んだはずの夜月が私の目の前にいるって、やっぱり普通じゃないもん」

 おそらくお母さんがすりおろしてくれたであろうリンゴをスプーンで口に運びながら、私は言う。ちょっと茶色くなってしまっているけど、これは時間通り食べない私が招いたことだし、味の違いはわからないから気にならない。

「まぁちょっと元気になったみたいでよかったよ。今にも死にそうだったし」
「別に、そんなことないもん」

 夜月がからかうように言ってきたので、私は反攻するようにぶっきらぼうな口調で答えた。本当のことを言えば死んでしまいたいと考えていたけれど、今ではその考えが頭の中から綺麗さっぱり消えてしまっている。

 夜月が死んだという事実は変わらないのに。幻覚なのか幽霊なのか知らないけれど、目の前に夜月がいるだけで、この世界がいいものだと感じられるのだから。
 それほどまでに、私にとって夜月は大きい存在だったのだろう。



 翌朝――と言っても、私は夜の間ずっと起きているから、朝晩の感覚がよくわからなくなってしまっている。月が見える夜には起きていたい――そう思いながら生活をしていると、自然とこんな感じになってしまった。

 まぁともかく翌朝。
 部屋にあるテレビで天気予報を確認すると、雨のち曇り。明日には晴れるとのことだった。

 じゃあ今日は無理だなぁ。別に雨が降っていようと曇りであろうとはまゆう公園に行けないわけじゃないけど、晴れていないと星も月も見えないだろうし。

「残念。今日はのんびりするか」

 私と一緒にテレビを確認した夜月は、特に残念そうな雰囲気も出さずにそう言った。そして、私の隣に腰掛ける。

「……ねぇ夜月。もしかしてずっといるの?」
「そのセリフはなかなかに傷つくな」
「いや、そういう意味じゃなくて――幽霊なら、消えたり現れたりするのかなって」
「わかんねぇ」

 どうやら夜月自身にもよくわかっていないらしい。わかっていないことが多いなぁ。
現在彼は私のベッドに腰掛けて足を組み、そこに肘を乗せて、手で顎を支えている。

 普通だ。普通の、よく見る夜月だ。ただし半透明。もし仮に透けていなかったとしたら、私は夜月のそっくりさんを疑わなければいけなかったかもしれない。もしくは、事故がなにかの間違いだったとか。

「桔梗はいつも何時ぐらいに寝てるの? あぁ、今の生活スタイルになってからの話だぞ?」
「んー……時計全然見てなくて、眠くなったら寝てたかも」
「よくそれでちゃんと昼夜逆転できてんな」

 たしかに。『ちゃんと昼夜逆転』という言葉には違和感を覚えるところだけど、夜の時間に起きていたい私としては正しい言葉のような気もする。

 ちなみに、今の時間は午前の七時をすぎたところ。食事を終えてから食器を洗い、歯磨きをしてからはずっと夜月と話をしていた。

 お互いに交通事故があったあの日から時間は止まっているようなものなので、話す話題は主に現在の私の生活についてのものだった。どんなものを食べたのかとか、掃除はしてるのかとか、家族がいる時間に喉が渇いたらどうするんだとか、些細なことまで。

「明日寝坊しないように、時計は見ておかないとな」

「……うん、そうする」

 朝の六時頃に起きてくる両親と、もう朝の挨拶は交わした。
 もうすぐしたらお父さんが『いってきます』の挨拶をしにやってきて、その三十分後ぐらいに、お母さんが朝食を部屋の前まで持ってきてくれる。完全なる引きこもり生活だ。

 ちなみに、毎日なのかは知らないけど、お母さんは私が寝ている間に部屋に入ってきているらしい。たまにテーブルに、おやつと飲み物が置かれていることがある。

 たぶん、全く顔を見なかったら不安なのだろう。私も別に、面と向かって話す気分じゃないから一人にしてほしいだけだったし、寝ている間に見られている分にはあまり気にしない。それでお母さんたちが安心してくれるのなら安いものだ。

 まぁ夜月とこうして話せるようになった今では、どちらかというと一人になりたい気持ちより、元の生活に戻るきっかけがないという感じではあるけど。
 そんなことを考えていると――、

「桔梗、行ってくるね」
「あっ――うん、いってらっしゃい……」

 お父さんの挨拶に、またいつも通りの返事をしてしまった。はまゆう公園に行きたいということを伝えなきゃいけない。そう頭ではわかっているのに、うまく口が動かなくて、結局私は遠ざかっていく足音を聞くことしかできなかった。

 扉に向かってため息を吐く私の肩を、夜月がポンと叩く。

「ま、今日の夜でも明日の朝でも明日の夜でもいいんだ。チャンスはいくらでもあるさ」
「……うん、ごめん」
「桔梗が謝ることなんてどこにもないだろ。むしろ俺のために頑張ってくれてありがとな」

 そう言って、夜月は私の肩に乗せていた手を今度は頭に乗せる。なんだか子供扱いされているような気がして、ちょっとムッとしてしまった。

「ちゃんと言うから、感謝してよね」
「もちろん。さっきも言ったけど、すでに感謝してるんだぜ?」

 そう言って夜月は私の顔をのぞきこむように頭を移動させ、くしゃりと皺を作って笑ったのだった。
 その後、今度はお母さんが朝食を部屋の前に運んできてくれたので、いつも通りお礼を言って、お母さんが一階に降りて少ししてから、扉を開けてトレーを部屋に運び入れた。

 前回と同じように、夜月に見守られながら食事をした。

「お父さんが仕事から帰ってくるのが七時過ぎだから、夕方六時ぐらいに起きるとして――八時間で、十時ぐらいに寝たらちょうどいい感じかな?」
「おう、それでいいと思うぜ。ゆくゆくはちゃんと朝起きて夜寝たほうがいいと思うけどな」
「うっ……それはわかってるけど、でもみんなが寝てるときに寝てたら、シャワーとが難しいじゃん」
「あぁ、それもそうか。こんかいはまゆう公園に行くのをきっかけに、話せるようになればいいな」
「……うん」

 夜月の言うように、これはいいきっかけになると思う。
 お父さんが私を公園に連れていくと聞けば、ほぼ確実にお母さんも一緒に来るだろうし、夜月もいるから公園では一人にしてほしいけど、車の中では会話もあると思う。

 ちゃんとこれまでのことを謝って、お礼も言わないとなぁ。