「灯氏は、卵を溶きほぐして」

 言いながら、彼女は出汁を取ると言う。普段顆粒だしを手軽に使う私にとって、きちんと出汁をとるだなんて、丁寧な暮らしをしているようで、なんだかおかしい。

「あ、でも別に顆粒だしでいいんだけどね。竜也くんが昆布で出汁をとってたから」

 なるほど。竜也くんがやっていたなら、それに則るのは大切なことだ。

「そういえば、灯氏の推しが誰か聞いてなかったわ」
「私は港の料理人箱推し」
「灯氏、箱推し好きだもんね」

 港の料理人とは、春香が良いと言った美咲くん他数人の海つながりの料理人のグループだ。このゲームは山の料理人など、本人の特色によってグルーピングされている。箱推しというのは、そのグループ皆を好きで、グループのメンバーがお互いに楽しそうにやりとりしているのを大切にしたいと思う気持ちのこと。アイドルグループの誰かが好きなのではなく、そのグループ全員が好き、みたいな感情だ。

 しばらく水に浸してあった昆布に、有里氏が火にかける。確かに出汁をきちんととるのは大変だけど、こういうことをやりたくなってしまうのも、また真実ではある。
 ──たまにだから。

「なお、昆布出汁は沸騰させるのはNGね」
「ほぉん?」
「ぬめりが出るとダメ、って竜也くんが言ってた」
「それは守らないと」

 火から下げて冷ます。寒いので、少しの間ベランダに持って行くだけで、一気に温度が下がっていった。

「んで、マグカップか湯飲み茶碗ある?」
「マグならたくさんあるよ。ほら、ハルカ作品のキャラグッズのもあるし、この間までアニメやってたこれも」
「オタクの家、マグカップ困ることないんだったわ。せっかくだしハルカ先生のグッズで」

 去年前半まで連載していた作品のグッズ見本が我が家に届いたので、ありがたく使わせて貰っている。一応保管用は別にある。
 作業台にマグカップを並べていく。そこへ小口に切った絹ごし豆腐をそっと入れ込んだ。

「卵にこの出汁と、お塩にみりん、ほんの少しのお醤油を足したら、よく混ぜて」

 ステンレスでできた大きめの泡立て器でかき混ぜる。泡立たせない為に静かに混ぜるように指示されたので、ゆっくりと回すが、泡が少しだけ立ってしまった。

「有里氏! 泡が立ってしまったであります!」
「おっとぉ。しかし大丈夫。竜也くんからアドバイスはしっかり貰ってます」

 このゲーム、キャラクターと料理するターンがあるんだよね。

「お玉の底でそっと潰しておけばいいみたい。で、このザルを通して裏ごし」
「裏ごし! 難易度高そうな単語」
「それが今ならなんと」
「なんと?」
「ザルに通すだけ!」
「わぁ! それはお得~。……って、お得ちゃうわ!」

 うっかり大阪弁になってしまった。

「ザルに通すくらいやから、簡単でっしゃろ。裏ごし器を使うほどやない」
「うさんくさい関西弁だなぁ」

 私に合わせて、有里氏も関西弁を話す。ちなみに私は東京の出身だし、彼女は神奈川の出身だ。春香が大阪なんだよね。
 とぽとぽと裏ごしをした卵液を、マグカップへ注ぐ。
 マグの半分程度の高さになるように沸騰したお湯を入れた鍋へと、それを移していく。そして手拭いをかけた蓋をして、強火にした。

「強火三分、その後火をほそぉくして十二分。弱火が強いとスが立つから、気を付けろ、と竜也くんは言ってた」
「了解!」

 卵料理の恐ろしいところだ。少し油断しただけで、スが立ってしまう。ほう、と一息ついていれば、まだまだあるぞと言わんばかりに、小さな雪平鍋を手渡される。

「上にかける銀あんを作るから、休憩はしないように」
「銀あん?」
「色の付いてないあんのことだってさ。濃度があると光を反射する。それで雪が光るときみたいだから、そう呼ぶんだって。銀シャリの銀とおんなじ」

 銀シャリの銀ってそういう意味だったんだ。知らなかった。

「えのき茸を切って。秋なら銀杏を入れるとっぽいんだけど、今の時期なら百合根」
「先生、百合根なんておしゃなもの、我が家にはありません!」

 買ってきてもない。

「それもそうだよね。一般家庭に百合根なんてないわ」

 有里氏も頷きながら同意する。

「どうする? なしでいく?」
「山芋とかあったりしないかな」

 どうだっただろう。冷凍庫を漁ると、カットした山芋がジップ袋に入って出てきた。いつのだろうか。

「これどう?」
「若干冷凍焼けしてる気がしなくもないけど、使っちゃえば同じだね」

 霜がついた山芋を流水で洗いながら、さらに小さくダイス型に切る。それを、出汁と調味料で煮立たせておいた雪平鍋に入れた。一口大にカットしたえのきダメも追加して、水溶き片栗粉を流し込めば銀あんの完成、らしい。火を止めた雪平鍋にチューブのおろし生姜を加える。ここまでやって、おろし生姜はチューブなの、私たちらしくて悪くない。
 ピピピピ、とタイマーが鳴った。

「あっ! 灯氏、茶碗蒸し早く火からおろして」

 鍋の蓋を外すと、ぼわりと蒸気が立ち込める。蓋にかけてある手拭いが水分を含み、マグカップに水滴が落ちないというわけだ。なかなかにシステマチック。火傷をしないように、100均で買ったシリコンの鍋つかみを装着し、マグカップを取り出した。銀あんを上からかけると、まるで高級な食べ物のようだ。ハルカ先生のグッズのマグだけど。

「春香ーっ」

 キッチンから声をかけると、部屋からのそりと出てきた。

「春香よ、進捗は」
「そこそこっ」

 そう言いながらも、にんまりと笑い部屋から出てくる。

「んっ。なんかええ匂いが」

 どうやら春香の部屋に一緒にいたらしいリリとミヤも、足にまとわりつきながら出てきた。

「……これ私のキャラのマグやん」
「せっかくなので、春香アイテムでそろえてみました」
「せっかくってなんや」

 くたくたと笑いながら、足下の二匹をまとめて抱き上げる。二匹は大人しく抱かれ、リリはそのまま春香の肩によじ登っていく。
「これ、入れてあげて」

 私は棚の上からカリカリの袋を取り、春香に渡した。やわやわは……今日はなしなのだよ、リリ・ミヤよ。

「んで、これが空也蒸しって言うんだって。だよね、有里氏」
「そうなの。空也上人が考えたから、空也蒸しっていうって竜也くんが」
「竜也くんは物知りなんやな。空也上人ってあれやろ? 平安中期の坊さんで、浄土宗の一派ができるほどの先駆者とかいう」

 スプーンをくるりと回しながら、記憶を辿っているらしい。さすが漫画家。引き出しが多い。

「美味しいやんな」

 スプーンで掬ったそれを口に運ぶと、春香はほろりと表情を崩す。
 ぷるぷると震える茶碗蒸しの具材は豆腐だけ。それがまた胃に優しい。飲みすぎた翌日に、作ってみるのも悪くないかもしれない。朝から料亭のようなものを食べれば、二日酔いの朝も辛くはないだろう。まぁ、もうこの年になって酷い二日酔いというのも、年に数回くらいになったけれど。

「もっとお出汁を多くしたら、たぶん料亭っぽくなると思うよ」

 有里氏の発言に、考えていたことを当てられたかと思ってしまう。
 いや。きっと、彼女も同じようなことを以前考えたことが、あるのだろう。