「あ、無理かも」

 朝。玄関を空けようとして、足が動かなくなってしまった。
 その場にずるずるとしゃがみ込む。

 なんだ? どうしたんだ?
 私が玄関で動けなくなったからか、ミヤとリリが近付いてきた。にゃぁにゃぁと声をかけてくれる。

「ありがとね」

 手は動く。二匹を撫でることはできる。
 なのに、立ち上がって玄関を出ようとすると、足が動かないのだ。

「なんで……」

 自分の体が自分の思うとおりに動かない。

「なんでぇ」

 目の前の視界がぼやける。私の左足と背中に、猫のぬくもりを感じる。それが余計につらい。

「灯!」

 猫がやたらと鳴いているから起きてきたのか。

「ごめん。ごめん、春香。起こしちゃったね。ごめん」
「ええから! なんで泣いとるん。何があった」
「わか……わかんない。足が前に進まないの」
「進まない?」

 私の横に、春香がしゃがみ込む。背中をさすってくれた。誰かに背中をさすられるだなんて、大人になって初めてかもしれない。

「どうしよう。会社行けないよ。今日出社の日なのに」
「休も」
「え」
「体調不良で休めばええ。な。私がリビングまで引っ張ってあげるから」

 ほら、靴ぬいで。春香はそう続ける。
 のたのたとした動きで靴を脱ぐ。ずず、と鼻水を啜れば、そこをミヤが舐めようとする。

「汚いから」

 手を入れれば、手のひらを舐めてくれた。

「はい、万歳して」

 大人しく両手を挙げれば、立ち上がった春香が手首を掴んで引っ張ってくれた。私はまるでそりに乗っているみたいにずるずると移動し、リビングのクッションに体を預ける。

「スマホは鞄の中?」
「そう……」
「あけるからね」

 頷くとすぐに春香が鞄の中からスマホを出してくれた。それを手渡される。

「連絡、できる? あかんかったら、私が電話してあげる」

 逡巡しているうちに、スマホがもう一度春香の手に戻っていった。

「ええよ。私がかけるから」

 リビングに貼り付けてある、私の名刺を見ながら春香が電話をかける。部署直通の電話で、春香が私の不調を告げる声が聞こえた。
 そのまま、私は寝落ちてしまったらしい。



 目が覚めたら、毛布が掛けられていた。

「春香……?」
「あ、起きた?」

 春香の部屋のドアが開いていて、私が小さい声を出しただけで気付いてくれた。

「毛布、春香がかけてくれたんだよね。ありがと」
「ええって。朝淹れた珈琲、甘くして飲むとええよ」

 ゆっくりと起き上がり、一度椅子に座る。春香が自分の分と二つ、珈琲をテーブルに出してくれた。

「何があったか、聞いてもええ?」
「うん……。と言っても、私もよくわかってないんだよね」

 朝、いつも通りに珈琲とトーストで朝食を済ませ、会社に行こうとしたこと。
 靴を履いてドアに向かって足を踏み出そうとしたら、二歩目が動かなかったこと。
 春香は私が、考えながら訥々と話している間、ゆっくりと頷き黙って聞いてくれていた。

「リビングに春香が引っ張ってきてくれなかったら、私ずっとあそこにいたかもしれない」

 そう告げれば、春香は少しだけ言いよどんだあと、私を真っ直ぐに見る。

「灯。仕事、辞めな」

 瞬時に、頭に血が上った。
 そんなの、そんなのできるなら、とっくにしてる。
 でも、食べていかないといけない。

 私は実家は東京で近いけど、家に帰っても部屋も居場所もない。
 実家が太くて、部屋も居場所もある春香とは違うんだ。
 食い扶持を稼がないといけないんだよ。

 口にしたいけど、口にしたら全てがだめになってしまうことが、頭の中を巡る。
 言ってはいけないことだって、わかってる。
 わかってるから。
 どう言えば、良いのか。
 立ち上がり、でも、何も言えずに何度も口をぱくぱくと、池の鯉みたいに開いたり閉じたりを、逡巡しながら続けてしまう。

「……ごめん。今の言い方は悪かった」

 春香が先に謝る。
 違う、そうじゃない。
 春香に謝って欲しいんじゃない。
 私を思ってのことだって言うのもわかっているんだから。

 なのに、変わらず私は何も言えずに、小さく口元を震えさせている。
 春香はため息ではなく、深呼吸の浅い──震えるような息の吐き方をしてから、私を真っ直ぐに見た。

「灯が転職活動を頑張ってきとるのは、よくわかっとる」
「……うん」
「仕事辞めないで、そのまま転職したほうがええのもわかっとる。でも、無理してまで続けることやない」
「うん……」

 だめだ。泣きそう。鼻水をずずっと啜ると、無言でティッシュの箱をこちら側に押し出してくれる。

「でも、灯は今コップの水が溢れちゃったんや。溢れたら、もう水を注いだらあかんやろう?」

 四月に会社の状況が変わって、いろんなことが変化した。
 会社の理念すら。
 そして、理念が変わったと言うことは、それに基づいてやってきたことも全て、変わると言うことだ。

「私ね」
「うん」

 今度は、春香が「うん」と頷く。

「半年あれば、慣れると思ったの。新しい環境にも、新しい理念にも、新しい仕事にも」
「うん」
「でも、違った。今までの会社の理念とはまったく違う、共感もできないものになったし、だから私がやってることも、全部納得できないし、それに」
「それに?」

 春香の声は、いつもと同じ声なのに。
 まるで、やわらかなパンのような、ふっくらと焼き上がったばかりのそれのような、私を受け止めてくれるような響きがあった。

「今までやってきたことを全部……新しくきた上司に否定されて……別に……別にそれが、私を否定するっていうことじゃないのは、わかってるの。ただ」

 そこで私はピタリと言葉を止めた。
 あぁ……そうか。

「悔しかった」

 真っ直ぐに、春香を見て。
 はっきりと口にした途端、私の中で、全てが腑に落ちた。

 私は、悔しかったのだ。

「灯が悔しかったのは、しんどいのは、今まで自分がやってきた仕事に、矜持を持ってたからや」

 その言葉に、胸が、喉が、熱くなる。
 小さく小さく、何度も息を、つばを、飲み込む。
 視界に映る春香の輪郭が、震える。

「──ありがとう」

 鼻水が口の中に入って、しょっぱいと感じた。
 春香は笑って、顔を洗ってこいと私を椅子から引っ張り上げる。思わず、笑ってしまった。
 きっとそれは、泣き笑いだ。
 顔を洗うと、冷静になる。さっきまでのふわふわとした視界はクリアになり、ようやく起きたような、そんな気持ちがした。

「珈琲、苦い方がええ?」
「甘いの。まだ残ってるから平気」
「ん」

 春香は自分の分だけ注ぎ足し、私たちはまた、向かい合って座った。

「収入のことやけど」
「うん」
「家賃やったら、数ヶ月くらい私が払える。まぁ、もちろんあとで取り立てるけどな」

 最後は笑いながら言った。

「ありがとう。でも、きっと仕事も選ばなければ」
「灯。それは違う」
「え」
「仕事を選ばなければ、職に就けるなんてのは、間違っとる。選ばないと、ブラックな会社、ブラックな仕事があることを、私たちは知っとるやろう」

 そうだ。
 あの頃。学校を卒業して、正規の職なんて奇跡の巡り合わせしかなかった、あの頃。
 私たちは大人に「仕事なんて選ばなければ」と言われていた。そう。私たちを拒んでいた大人が、その口で言っていたのだ。
 そうしてやっとありついた仕事は、どこだってブラックだった。

「仕事を選ぶ権利は、私たち氷河期世代にやって、ある」

 春香の言葉は、不安と焦りの中の私でも、素直に受け入れることができる。だって、私も春香も、同じように苦しんできたから。

「私は運良く、こうして食っていけてるけど」
「運良く、じゃないでしょ」

 たくさん努力してきたのを知ってる。

「確かに、きっかけは同人誌の即売会(イベント)で編集さんから声をかけられたからだろうけど。でも、そこまでも、そこからも、春香が頑張ってたから、今の春香がある」
「なんや、灯を励ますはずが、私が励まされとるやん」

 二人で顔を見合わせて、ふくりと笑う。

「私は、この仕事やりたくてやっとる。春香はどう?」
「仕事は生きてくために、食べてくためだけに、お金を稼ぐ方法。私は趣味で同人誌作って、読書やアニメ見て、その時間の方が、大事だもん」
「それやったら、生きるために働くんやったら──生きるために、休んでもええんやないかな」

 私の手を取って、笑う。

「なぁ。一緒に暮らしてるんやから、少しは頼ってくれてもええんや」
「春香……」
「私やって同じや。いつ、連載がなくなるかもわからん。きっと、そうなったら灯と同じようになる」
「そのときは、私が助けるよ」

 春香がゆったりと、笑みを浮かべた。

「そうやろ? 頼ったり頼られたり。それが友達や」

 リリが足下を何度かすり抜けていく。
 ミヤが視界の端で、気持ちよさそうに眠っている。

「とりあえず、私が風邪引いたら、桃缶買うてきてな」
「春香、ここ数年風邪なんて引いてないけどね」

 顔を見合わせて、くたりと笑い合った。

      *

 栗ご飯が食べたくなることがある。
 春香が「今夜は私が作ってあげよう」なんて大仰に言うから、栗ご飯が食べたいとねだってみた。

 そういえば、特に決め事はしていなかったけれど、食事はお互いバランス良く作り合っている。そんなことを改めて感じた。
 ルールをきっちり決めていない。それでも女同士だと、それなりに上手くやれているから、不思議なものだ。

「買い物行ってくるわ」

 灯は猫と遊ぶ係、と言われて留守番を言いつけられた。
 窓の外は晴天で、そう言えば昔は体育の日って十月十日だったなぁ、なんて思い出す。

 私の通っていた学校はその日が文化祭で、友達と校内を走り回っていた。
 楽しかったなぁ、なんて妙な郷愁に駆られた。だからといって、あの頃に戻りたいわけではない。ただ、それでも、その先の未来が必ず明るく輝いていると思えてた自分は、今とはまた違う幸せに溢れていた。

「私って、何になりたかったんだっけ」

 リリを撫でながら、ふと呟く。
 でも、よく思い出せない。私は何になりたかったのか。
 猫を撫でると、時間が飛ぶ。

「ただいまーっ」

 春香の声で、一時間ちょっとが過ぎていたことに気付いた。 

「帰り道、アトリの鳴き声がしたわ」
「アトリ?」
「キョッキョキョってなくやつ」
「ああ」

 赤茶色の羽根を持った渡り鳥だ。前に二人で散歩をしてるときに、あの鳥はなんだと調べたのを思い出す。

「もう秋だねぇ」
「日本の秋は、幸せがいっぱいや」

 大きく膨らんだエコバッグを見せながら、片足でミヤを撫でる。少し迷惑そうな顔をしているミヤは、すぐに場所を移動してしまった。

「甘栗のお菓子あるやろ」
「うん。あの剥いちゃってるやつ」
「それそれ。あれを半分に切って炊飯器に入れるだけで、栗ご飯ができるらしい」
「うそお」
「やってみるわ」

 それで美味しく完成するなら、最高だ。

「あとな、秋刀魚。今年は安くなるってテレビで言うとったけど、あれは嘘や。全然安くない。でも脂乗って美味しそうやから、買おてきたわ」

 それからそれから、と次々と袋から出しては、私に見せてくれる。
 いつもはそんなことしないのに。
 また、泣きそうになる。

「春香。私は今日泣き虫野郎だわ」
「野郎ではないな」
「そうだった。泣き虫……なんて言うの?」
「泣き虫、やあかんの」
「それでいいか」

 泣きながら、笑った。