梅雨になる前くらいのこの時期は、夕暮れの散歩が楽しい。
 週に三日の出社、裏を返せば週に二日はリモートワークだ。定時に仕事を終えれば、そのすぐ後に自由時間が待っている。今までと働き方が随分変わってしまったけれど、転職が決まるまでは、この時間を大切にして乗り切ろう。

 多摩川土手までの道をふらふらと歩く。道すがら、白い花が咲いていた。

「ん、なんだろ。この花」

 暮れなずむ空に、白い花が映えている。初夏とも言うような緑のむせ返るような匂いが心地良い。
 大通りから細道へ入ると、今度はふわりと甘く爽やかな香りが緑の中に混ざった。

「あれ、灯氏」

 後ろから声をかけられ振り向けば、有里氏が笑っている。

「こんばんは。ハルカ先生のところに伺うところだったの」
「そうだったのか。そう言えば、なんか言ってたな」
「雑だなぁ」
「そのくらいの方が上手くいくから」

 お互いの知らない客が来るときには、一週間前までには伝える。それ以外であれば、気軽にどうぞ。
 私たちの共同生活は、そのくらいラフなルールばかりだ。

「いい香りがするね。何の花だろ」
「これは花橘の香りかな」
「花橘。灯氏詳しい」

 任せろ。少し前にハマった漫画は、平安ものだ。

「古今和歌集にもあるからね。有里氏も知ってるんじゃないかな」

 そうヒントを言えば、彼女もはっとした顔をする。さすが漫画編集部の人間。流行った漫画は抑えてるね。

「五月待つ 花橘の 香をかげば、ですね」
「そうそう。昔の人の 袖の香ぞする」

 ふくふくと笑う。耳を立てれば、鳥の声が聞こえる。

「あ。もう時鳥(ホトトギス)の季節になってたのかぁ」

 仕事をしていると、こうした季節の移ろいに気が付かない。

「なんか、日本人って季節に敏感だった筈なのにねぇ」
「有里氏もそう思う?」
「思うよぉ。でっかいビルのワンフロアに押し込められて、窓も開けずに全館空調。バカみたい」

 ううん! と両手をあげて伸びをしながらそう言う有里氏は、それから一つ笑った。

「灯氏はもう戻る?」
「ううん。これから散歩の本番。春香と打ち合わせが終わったら、ゆっくりしてってよ」
「ありがと。でも今日は、会社に戻らないとなんだよね。また今度ゆっくりさせて」
「りょ」

 仕事に邁進する彼女が、なんだかまぶしく見える。同世代の彼女があんなに仕事を頑張っているのに、なんてうざったいことを一瞬考えたけど、彼女は彼女できっといろいろとあるのだろう。誰もがアンハッピーで、誰もがハッピーなのだ。

 有里氏と花と古今和歌集の話をしたからか。
 それとも最初に目に付いた白い花を思い出したからか。
 今夜はアレを作ろう。
 そんなことをふと思いついた。

「ただいいまー。よかった。有里氏まだいた」

 居間から顔を出した有里氏が、猫を二匹引き連れて玄関にやってくる。

「会社に戻る必要なくなったので、のんびりしてた」
「それは良かった。夕飯どうする? 食べてく?」
「ピザ頼もうと思っとるんやけど、どうかな」

 今度は奥から声だけが聞こえた。リリが足に絡みつくので、引きずりながら中に入る。ミヤは有里氏が抱っこした。

「何か買おてきちゃった?」
「ううん。これは副菜で作りたいものがあったから。良かったら有里氏も少し持って帰って」
「いいの? サンキュ」

 手にしていたエコバッグを置くと、何故かリリも足から離れた。あの中に何か良いものが入っていると思っていたのだろうか。残念、何もないのだよ。

「……春香よ」
「おっと、気付いちゃったかね、灯クン」
「気付かないでか」

 キッチンに、袋に入った梅がごろんと置かれているのだ。

「もしや……有里氏は」

 私の言葉に、彼女はこくりと頷いた。

「ハルカ先生が、梅仕事を手伝ったらネームが早く上がりそうだっていうから」

 それは単に、春香が梅仕事をやりたかっただけだろう。しかも、一人でやると飽きるから、仲間を増やそうとしたのだ。去年は私がそれで付き合わされた。

「灯も……やるよね」
「上目遣いで言わなくても。今年は三人でやろ」

 去年、実は私も二人でやって途中で飽きたのだ。いや、去年は量を間違えたのだと思う。調子に乗って大量に梅を買い込んできた春香を思い出す。
 今年の量を見て、これならまだ……なんて思ってしまった。

「とりあえず、先に副菜作ってからで良い?」
「もちろんや。というより、ピザ食べてからやね」
「では、その副菜作りは私も手伝うよ」
「ありがと。じゃぁ春香はピザのオーダーよろしく。適当でいいから」

 春香が店屋物のチラシ入れからピザを出し、選び始めたのを横目に、キッチンに移動した。
 大きな鍋にお湯を沸かし、豆腐屋で買ってきた『おから』をそこに入れる。

「へぇ。卯の花(おから)って湯がくんだねぇ」
「そうそう。こうすると、臭みが取れるんだって。前にお豆腐屋のおばさんが教えてくれた」

 商店街では、ちょこちょことそうした情報を教えて貰える。春香の梅仕事も、そうして商店街で仕入れてきた情報らしい。行く場所や行く時間によって、入ってくる情報がいろいろで面白い。

「来るとき、白い花が咲いてたでしょ」
「うん。すごいきれいだった。あれ、何の花?」
「あれが卯の花なの」

 熱湯の中に入れたおからがひと煮立ちしたところで、ザルに布巾を置いて湯切り。軽く水分を残して絞る。

「花は知ってるのに、名前を知らなかったわ」
「なになに、どの花やって?」

 注文が終わったらしい春香が、キッチンにやってきた。

「ほら、おかっぱの小学生がいるお家の角曲がった辺りの、白い花」

 春香は脳内で再生しているらしく、しばらくして「ああ」と声を上げる。

「へぇ。あの花が卯の花なんや」
「卯の花に似てるから、おからを卯の花って言うんだってさ。さて漫画家のハルカ先生。卯の花は正式には?」

 隣にいる有里氏にはにんじんの千切りをお願いする。トントントンと心地よい音が聞こえてきた。

「正解がでなかったので、春香はこの塩抜きアサリを殻から外す仕事に任命します」

 すでに塩抜きまでしてくれているアサリが売っているなんて、親切な魚屋だと思う。

「全然やるけど、正解が知りたい」
「はい。正解は『ウツギの花』でっす」

 開け放った窓から、風が入ってくる。生ぬるい風だ。エアコンを入れるほど暑くはないので、この風を享受する。
 その風と同じタイミングで、鼻歌が聞こえてきた。もちろんすぐ隣からだ。

「春香、その曲」
「歌詞はうろ覚えやけど」

 任せろ。その曲は、今やってるソシャゲの推しが、子どもの頃お婆ちゃんに歌って貰った、という設定があったから覚えてるんだ。

   卯の花の 匂う垣根に
   時鳥 早も来鳴きて
   忍音もらす 夏は来ぬ

「良い歌詞だねぇ」

 有里氏がしみじみと言う。昔の……唱歌というのかな。こういうのって、日本語がきれいで心地が良い。カラオケとかで歌うようなものじゃないから、なかなか人と共有はできないけど、こういう時に、皆でふいに共有できるのは悪くない。

 にんじんときくらげを千切りにしたところで、大きめの鍋にサラダ油を敷いてアサリの剥き身、にんじん、きくらげに卯の花を入れる。
 炒めるのは有里氏に任せた。

「しっかり炒めてね。途中でこれを入れて」

 出汁に調味料を混ぜたものを手渡す。少し炒めたタイミングで

「今入れて。そうそう。それで、さらさらになったら完成!」

なんて、まるで家庭科の先生のように言う。味噌造りの時と逆だ。

「なぁ。このタコ使ってええ?」
「いいけど。何か作るん?」
「今日、夏至やろ」

 そう言われて気付く。夏至だった。まぁ祝日にならないから、あまり気にしないんだけどね。

「灯、今手があいとるなら、大根おろして」

 おっと。面倒な仕事がやってきたぞ。
 茹でタコをそぎ切りにしている春香を見て、何を作るのか思い出した。初めて同居したときから、夏至の頃になると、春香はいつもこれを作ってくれるのだ。

 そぎ切りにしたタコを、春香は調味液に漬ける。大根おろしは少し時間がかかるので、キュウリを切るのまでは春香にお願いしよう。
 有里氏は「結構……重労働」なんて呟きながら、卯の花を炒め続けている。

「灯氏、これでどうかな」
「完璧! 素晴らしい! マーベラス!」
「嘘くさい褒め言葉をありがとう」
「いやいや、本当に。そっち側に置いて粗熱落としておこ」
「はぁい」

 ご機嫌な返事を貰ってしまった。
 私はといえば、大根をおろし終えたので水分を切る。それを春香が作った調味液にタコとキュウリと共に混ぜ合わせる。

「あ! 針生姜作りわすれたわ」
「じゃじゃんっ! 作り置き針生姜!」

 春香の言葉に、冷蔵庫にラップしてしまってあった針生姜を取り出す。

「出来る女やんか。いつの間に」
「実は……今日の昼休み、イライラしてたので……」
「怖っ!」

 間髪入れずに有里氏が突っ込む。まあイライラを包丁に込める女は怖いわな。
 和えたタコをお皿に盛り付けていると、玄関ベルが鳴った。

「あ、私がでまーす」

 財布を持った有里氏が玄関に向かう。

「有里さん……ネットで決済済みなんやけど」

 春香はそれを見て小声で突っ込むけど、早く言ってあげてよ。
 玄関では何やら笑い声がする。きっと、払います貰ってますなんて会話が生じたのだろう。

「ちょうど良いね。できたての卯の花も少し食べよう」

 私が器に盛り、それを春香が運ぶ。それと共に、ピザの良い匂いもやってきた。
 にゃぁにゃぁと猫達も盛り上がりを見せるが、君達の餌ではないのだよ。
 カリカリを出してやれば、不服な顔を見せるけれどそれを食べる。そんな二匹が愛おしくて仕方がない。

「さーっ、食べよう食べよう」
「ピザパやピザパ」
「ピザって一人暮らしだと食べないから、良いわぁ」

 全員が揃ったところで、夕飯をスタートした。

   *

 水洗いした完熟梅のなり口を、爪楊枝で一つずつ取っていくという地道な作業を食後に一時間。全て取り終えたら、ビニール袋に塩と梅を交互に入れて空気を抜く。二重にした袋を冷蔵庫に入れて、六月の梅仕事は終了となる。この次の作業は梅雨明け後だ。

 去年、二人でやったときには三時間以上かかったので、今年は早い。やはりマンパワーは力。
 三人でぼんやりとベランダから川の方を見ていれば、川辺にほわりとしたかすかな光が見えた。

「あら、もう花火をしてる子がいるんだ」

 私の視線の先を、二人が何度か辿り、確認する。

「線香花火かな?」

 有里氏は少しだけしかめっ面をする。じっくり見ようと目をこらして、そんな顔になっているらしい。

「蛍みたいやねぇ」

 そういえば、とスマホを取り出す。

「何調べてるん?」
「さっきの曲」
「さっきの? あぁ、卯の花の、ってやつやな」
「そう。あれの何番かに、蛍がでてたなぁって」

   橘の 薫る軒端(のきば)
   窓近く 蛍飛びかい
   おこたり(いさ)むる 夏は来ぬ

 二人は私の手元をのぞき込む。

「意味はなんか良くわからへんけど、きれいやね」
「有里氏、文系でしょ。わからない?」
「そういう灯氏は、推しのネタでしょ」

 誰もわからない。
 それでも、この言葉の響きが美しいと感じる。
 そんな気持ちの余裕を、大切にできる日々を過ごしたい。なんて、考えてしまった。