新入社員も入ってきた四月。あちらこちらの桜が咲き誇る四月。いつもなら浮かれるこの時期に、私は浮かれることができなかった。
「と、遠い……」
今まではリモートワークが殆どで、それでも出社する必要があるときには家から地下鉄直通一本30分で通えていた職場だった。それが今や週に三度の出社、しかも2回の乗り換え必須で、通勤時間が1時間になったのだ。
「通勤時間なんて時間の無駄。この時間も給与に換算してくれるならともかく……!」
M&Aによって会社の社名は変わり、社屋が変わり、勤怠時間が変わり給与体系に福利厚生が変わり……これはもはや強制転職である。
裁量である程度勤務時間が自由だった部分も変更。これはいよいよ『本当の』転職をせねばなるまい。そう通勤時間に思う日々なのであった。
「あれ、灯さん?」
乗り換えの品川駅で声をかけられ振り向けば、初瀬麻衣が手を振っている。ロングヘアを後ろで無造作に一つにまとめた彼女は、ゆるりとしたエスニック風の服で私の隣にするりと並ぶ。
「珍しい。出社の日? でも地下鉄一本ですよねぇ」
「それがいろいろあって、社屋が移転して、しかも出社が三日になったのよ」
「うへぇ。そんなん、速攻転職対象じゃないですか。よかったら夕飯食べていきません?」
彼女の提案に、気分転換したかった私は同意を示す。LINEで春香に連絡すれば、彼女も来ると言う。
「春香もよき?」
「よきーっ!」
港南口のチェーンの居酒屋に入り、場所を春香に告げる。先にビールとシャンディガフを飲み始め、つまみを適当に頼んだ。
「ハツセも仕事帰り?」
「ですです。今日は日勤だったのでこの時間っ」
ハツセはコールセンターで働いている。春香とは高校時代の同級生らしい。その割に関西弁じゃないね、と聞いたことがあるが、高校の時だけお父さまの転勤で大阪に行っていたとか。なるほど。高校卒業のタイミングでこちらに戻ってきて、彼女は専門学校に通った。
私とは歴史同人誌サークル同士のつながりで知り合って、あとから春香が同級生だと知ったのだ。私たち三人はそれぞれの話を共通にしながら、お互いのことを見ず知らずの人と認識していた時期がある、というわけ。そう考えると少し面白い。
「シフト制も大変だよね」
「そうなんですけどねぇ。やっと契約社員になって数年でしょ。今更転職も、と思ってて」
さっきは私に転職案件だ、なんて言っていたのに。でも彼女の気持ちは良くわかる。
「私たち、ずーっと冷遇されてるからねえ」
枝豆を口に放り投げながら、ビールを流し込む。シャンディガフを飲むハツセは、唐揚げを頬張った。
私の会社の話をしたり、彼女の仕事の話をしたり、とあっという間に一杯目のそれらはなくなり、同じものをお代わりする。
「私は専門だし……、灯さんは短大でしょ。四大でも厳しかったあの時代、いっそ『就活するのもやめればいいよ』って国から言われたかったわぁ」
まったくその通り。ほとんど席を用意されていなかったあの時代に、どれだけの同年代が涙を流し、苦しんだことか。そして正社員の席を減らして用意された非正規雇用の席。私たちはその席すら取り合わないといけなくなっていた。
「あ、そうだ聞いてくださいよ。私今婚活にハマっててぇ」
「婚活? 結婚したいの?」
「結婚して子どもを作るなんて無理な収入だったけど、私も44ですし、最後に一年だけ頑張ってみようかと思って」
自分一人の食い扶持を守るために、私たちはどうにか生きてきた。私はもう47だし、そもそも子どもが欲しいと言う気持ちは35の時に消え去ってしまったので、結婚に対する意欲もない。でも、出産を最後ワンチャンと考えるには44というのは、生々しい数字なのかもしれない。
「アプリとか? 職場は女性ばっかりって言ってたよね」
「結婚相談所ですよ! あ、ハルちゃん久しぶり!」
片手を挙げる彼女の視線の先を見れば、少し遠くから小さく手を振り返す春香が見えた。相変わらずの白シャツにデニム。それにグレーのカーディガンだ。
「あ、ハイボールお願いします。あと厚焼き玉子」
テーブルの上の厚焼き玉子が、あと一切れしかないのを素早く確認したらしい。
私の隣に座った春香は、熱いお手拭きにため息を吐く。いやわかる。熱いお手拭きって良いよね。
「そんで、何の話してたん」
「ハツセが婚活始めたって」
「へぇ」
届いたハイボールに、手元のグラスをかしゃりとあわせ、何にだかわからないけれど乾杯する。とりあえず「お疲れ様」かな。
「マイ、高校の時は早く結婚したいって言うてたもんな」
「あの頃は、世の中がこんなに氷河期を切り捨てるなんて、思っていなかったからね」
それでも結婚してる同年代はもちろんいる。ただ、圧倒的に未婚が多い。
「お見合いとかしとるん?」
同級生というのは、ぐいぐいいくものだ。大人になって知り合った関係だと、少し躊躇するようなことも、気にせずに口にする。
「してるけど、まぁ……。私もそうなんだろうけど、この年まで売れ残ってるメンバーって感じ」
ハツセは確かに休日は同人誌のために漫画を描いて、日を過ごすタイプだけど、特段おかしな人間ではない。──私が同類だからというわけではないが。首を傾げれば、ハツセは楽しそうに笑った。
「話が通じない人とか普通にいるんですよね」
「意味がわからない」
私の言葉に、春香も頷く。
「例えば、静岡の人と面接──お見合いしたんですけど」
「待って。お見合いのこと、面接っていうの?」
「そうなんですよ。まぁ条件のすりあわせなので、恋愛というより就活みたいなものだし」
そんなに割り切ったものなのか。
「静岡の人はわざわざ東京に来たん?」
お見合いのシステムとして、申し込まれた側が受けると、場所や日時の提案を優先できる権利があるそうだ。なるほど。
「こっちまで来てくれるなんて、良い人じゃないの。話が通じないって?」
「私契約社員なので、完全に安定とは言えないじゃないですか。なので、お見合いの条件に『結婚後は相手に働いて貰いたい、専業主婦になって貰いたい、どちらでも』という項目で、どちらでも、の人を選んでるです」
なるほど。条件で決めるというのは、お見合いらしくてわかりやすい。
「それで、お会いしたときに確認したんです。特に静岡に行くことになるなら、絶対一度辞めることになるし、そうなると静岡でこの年齢ですぐに職に就けるかもわからないし」
「それはそうやねぇ」
ハツセは、思い出してイライラしたのか、残っていたシャンディガフを一気に飲みきった。三杯目はハイボールに移行することにしたらしい。追加のオーダーに、私は梅酒のロックと刺身の盛り合わせを頼んだ。
「だから、『奥さんには働いていて欲しいですか? どちらでも、と書いてありましたが』って聞いたのよ。確認、大事」
「うん。確認は大事だね。ハツセ偉い」
「そしたらなんて言ったと思います?」
ダン! とテーブルに拳をたたきつけるものだから、お皿が微妙に揺れた。
「困惑した顔をして『そりゃ働いていて欲しいですよ』って言うのよ。だから、そっちに行くなら、って話をしたの」
「でも、どちらでも良いって言っておきながら、働いていて欲しいですよってのはおかしいよね」
春香も一緒に頷く。でしょ! とハツセは勢いづいた。
「静岡で仕事は見つけるんですよね、と言うから、すぐに見つかるとは限らないじゃないですか、そういうときは収入ゼロになりますけど、それでも良いですか。って続けたら、その返事が」
佳境で梅酒と刺身の盛り合わせが届いた。大盛り上がりの中にしれっと商品を置いていくのって、店員さんのスキルだよね。尊敬するわ。
「でも、仕事すればいいじゃないですかっていうのよ。だから、すぐに見つかるとは限らないから、ってもう一度言ったら、収入ゼロは困りますからねぇ、って」
なんじゃそりゃ。
「それなら、地元の人で働き続けたい人とだけ会えばいいのに」
「ですよね! 私もそう思います。でもそれ以上に怖いのは、この話、ずっとループして30分同じこと話してたんです」
「……ホラーやん」
ぞっとした。
「と、遠い……」
今まではリモートワークが殆どで、それでも出社する必要があるときには家から地下鉄直通一本30分で通えていた職場だった。それが今や週に三度の出社、しかも2回の乗り換え必須で、通勤時間が1時間になったのだ。
「通勤時間なんて時間の無駄。この時間も給与に換算してくれるならともかく……!」
M&Aによって会社の社名は変わり、社屋が変わり、勤怠時間が変わり給与体系に福利厚生が変わり……これはもはや強制転職である。
裁量である程度勤務時間が自由だった部分も変更。これはいよいよ『本当の』転職をせねばなるまい。そう通勤時間に思う日々なのであった。
「あれ、灯さん?」
乗り換えの品川駅で声をかけられ振り向けば、初瀬麻衣が手を振っている。ロングヘアを後ろで無造作に一つにまとめた彼女は、ゆるりとしたエスニック風の服で私の隣にするりと並ぶ。
「珍しい。出社の日? でも地下鉄一本ですよねぇ」
「それがいろいろあって、社屋が移転して、しかも出社が三日になったのよ」
「うへぇ。そんなん、速攻転職対象じゃないですか。よかったら夕飯食べていきません?」
彼女の提案に、気分転換したかった私は同意を示す。LINEで春香に連絡すれば、彼女も来ると言う。
「春香もよき?」
「よきーっ!」
港南口のチェーンの居酒屋に入り、場所を春香に告げる。先にビールとシャンディガフを飲み始め、つまみを適当に頼んだ。
「ハツセも仕事帰り?」
「ですです。今日は日勤だったのでこの時間っ」
ハツセはコールセンターで働いている。春香とは高校時代の同級生らしい。その割に関西弁じゃないね、と聞いたことがあるが、高校の時だけお父さまの転勤で大阪に行っていたとか。なるほど。高校卒業のタイミングでこちらに戻ってきて、彼女は専門学校に通った。
私とは歴史同人誌サークル同士のつながりで知り合って、あとから春香が同級生だと知ったのだ。私たち三人はそれぞれの話を共通にしながら、お互いのことを見ず知らずの人と認識していた時期がある、というわけ。そう考えると少し面白い。
「シフト制も大変だよね」
「そうなんですけどねぇ。やっと契約社員になって数年でしょ。今更転職も、と思ってて」
さっきは私に転職案件だ、なんて言っていたのに。でも彼女の気持ちは良くわかる。
「私たち、ずーっと冷遇されてるからねえ」
枝豆を口に放り投げながら、ビールを流し込む。シャンディガフを飲むハツセは、唐揚げを頬張った。
私の会社の話をしたり、彼女の仕事の話をしたり、とあっという間に一杯目のそれらはなくなり、同じものをお代わりする。
「私は専門だし……、灯さんは短大でしょ。四大でも厳しかったあの時代、いっそ『就活するのもやめればいいよ』って国から言われたかったわぁ」
まったくその通り。ほとんど席を用意されていなかったあの時代に、どれだけの同年代が涙を流し、苦しんだことか。そして正社員の席を減らして用意された非正規雇用の席。私たちはその席すら取り合わないといけなくなっていた。
「あ、そうだ聞いてくださいよ。私今婚活にハマっててぇ」
「婚活? 結婚したいの?」
「結婚して子どもを作るなんて無理な収入だったけど、私も44ですし、最後に一年だけ頑張ってみようかと思って」
自分一人の食い扶持を守るために、私たちはどうにか生きてきた。私はもう47だし、そもそも子どもが欲しいと言う気持ちは35の時に消え去ってしまったので、結婚に対する意欲もない。でも、出産を最後ワンチャンと考えるには44というのは、生々しい数字なのかもしれない。
「アプリとか? 職場は女性ばっかりって言ってたよね」
「結婚相談所ですよ! あ、ハルちゃん久しぶり!」
片手を挙げる彼女の視線の先を見れば、少し遠くから小さく手を振り返す春香が見えた。相変わらずの白シャツにデニム。それにグレーのカーディガンだ。
「あ、ハイボールお願いします。あと厚焼き玉子」
テーブルの上の厚焼き玉子が、あと一切れしかないのを素早く確認したらしい。
私の隣に座った春香は、熱いお手拭きにため息を吐く。いやわかる。熱いお手拭きって良いよね。
「そんで、何の話してたん」
「ハツセが婚活始めたって」
「へぇ」
届いたハイボールに、手元のグラスをかしゃりとあわせ、何にだかわからないけれど乾杯する。とりあえず「お疲れ様」かな。
「マイ、高校の時は早く結婚したいって言うてたもんな」
「あの頃は、世の中がこんなに氷河期を切り捨てるなんて、思っていなかったからね」
それでも結婚してる同年代はもちろんいる。ただ、圧倒的に未婚が多い。
「お見合いとかしとるん?」
同級生というのは、ぐいぐいいくものだ。大人になって知り合った関係だと、少し躊躇するようなことも、気にせずに口にする。
「してるけど、まぁ……。私もそうなんだろうけど、この年まで売れ残ってるメンバーって感じ」
ハツセは確かに休日は同人誌のために漫画を描いて、日を過ごすタイプだけど、特段おかしな人間ではない。──私が同類だからというわけではないが。首を傾げれば、ハツセは楽しそうに笑った。
「話が通じない人とか普通にいるんですよね」
「意味がわからない」
私の言葉に、春香も頷く。
「例えば、静岡の人と面接──お見合いしたんですけど」
「待って。お見合いのこと、面接っていうの?」
「そうなんですよ。まぁ条件のすりあわせなので、恋愛というより就活みたいなものだし」
そんなに割り切ったものなのか。
「静岡の人はわざわざ東京に来たん?」
お見合いのシステムとして、申し込まれた側が受けると、場所や日時の提案を優先できる権利があるそうだ。なるほど。
「こっちまで来てくれるなんて、良い人じゃないの。話が通じないって?」
「私契約社員なので、完全に安定とは言えないじゃないですか。なので、お見合いの条件に『結婚後は相手に働いて貰いたい、専業主婦になって貰いたい、どちらでも』という項目で、どちらでも、の人を選んでるです」
なるほど。条件で決めるというのは、お見合いらしくてわかりやすい。
「それで、お会いしたときに確認したんです。特に静岡に行くことになるなら、絶対一度辞めることになるし、そうなると静岡でこの年齢ですぐに職に就けるかもわからないし」
「それはそうやねぇ」
ハツセは、思い出してイライラしたのか、残っていたシャンディガフを一気に飲みきった。三杯目はハイボールに移行することにしたらしい。追加のオーダーに、私は梅酒のロックと刺身の盛り合わせを頼んだ。
「だから、『奥さんには働いていて欲しいですか? どちらでも、と書いてありましたが』って聞いたのよ。確認、大事」
「うん。確認は大事だね。ハツセ偉い」
「そしたらなんて言ったと思います?」
ダン! とテーブルに拳をたたきつけるものだから、お皿が微妙に揺れた。
「困惑した顔をして『そりゃ働いていて欲しいですよ』って言うのよ。だから、そっちに行くなら、って話をしたの」
「でも、どちらでも良いって言っておきながら、働いていて欲しいですよってのはおかしいよね」
春香も一緒に頷く。でしょ! とハツセは勢いづいた。
「静岡で仕事は見つけるんですよね、と言うから、すぐに見つかるとは限らないじゃないですか、そういうときは収入ゼロになりますけど、それでも良いですか。って続けたら、その返事が」
佳境で梅酒と刺身の盛り合わせが届いた。大盛り上がりの中にしれっと商品を置いていくのって、店員さんのスキルだよね。尊敬するわ。
「でも、仕事すればいいじゃないですかっていうのよ。だから、すぐに見つかるとは限らないから、ってもう一度言ったら、収入ゼロは困りますからねぇ、って」
なんじゃそりゃ。
「それなら、地元の人で働き続けたい人とだけ会えばいいのに」
「ですよね! 私もそう思います。でもそれ以上に怖いのは、この話、ずっとループして30分同じこと話してたんです」
「……ホラーやん」
ぞっとした。