弾正台の尹という役職に就くことになった尭毅の率直な感想は、「余計な仕事を増やしてくれた」であった。俸禄と権威だけがあるような名誉職ではあるが、自分には施薬院の別当という責務があり、だからといって弾正台の勤めを全くせず放っておくわけにはいかない。
この人事は後ろ盾である大納言・三条(さんじょう)実仲(さねなか)によるものだ。
健康な人間であれば兼務も大した問題ではなかったかもしれないが、自分は決して健康とはいえない。
浮世離れした容貌だとか、神がかった色合いだとか、あるいは白子だとか、人は自分のことをさまざまに表現するが、自分にとってはそんなこと知ったことではない。外見がどうあれ、それよりも切実なのは生まれついての生きづらさだった。

白皙の肌は余人に比して陽光に非常に弱く、陽の当たった肌は激しく痛み赤く腫れ、日中に外に出れば目が眩む。経典や文書の文字は鼻先すれすれまで紙を近づけねば見えない。当然足元も見えないので、勝手知ったる己が住まいでもなければ、人に手を引いてもらわないと転倒しかねない。
そんな病の身で勤め先が増えるなど、正気の沙汰ではないではないか。
家司になってから尭毅のそんな事情を知った智也は、以後可能な限り傍に侍るようにしていた。
「大納言殿なりに、尭毅様の御為になるとお考えなのですよ。もちろん尭毅様が恙なくお務めになってより高き地位に上られることが、最終的には大納言殿のためとなる、わけですが」
「そうでしょう?」
ふふ、と笑うこの親王は一見とても穏やかだが、政を牛耳る貴族たちに政治の玩具のように使われていることを自覚しているし、十分に腹もたてていた。それ以上に優先すべきことを己で定めているだけだ。
「私としてはやっと人々の役に立てる機会を得たのですから、施薬院の任に全力を注ぎたいところなのですが」
「畏れながら、私は弾正台もまた、都の人々の生活のためとなるお役目と考えます」
智也は進言すべきだと思ったことは躊躇わない。そうした彼の気質を尭毅も尊重していた。
「わかっていますよ。だからこうして、式部大丞殿の屋敷に向かっているのですし」
宮中には典薬寮があるが、これはあくまで五位以上の位があるものだけが治療を受けられるという、上層の貴族たちのためのもの。位の低い貴族は対象外であり、時には市中の、身元や経歴の怪しい医師(くすし)の治療を受けざるを得ない場合もあった。
式部大丞である佐伯連之も典薬寮の医師の治療は受けられない。だからこそ、施薬院の別当であり医師でもある尭毅の訪問には価値がある。

 弾正台での話し合いから五日経ち、式部大丞・佐伯連之の屋敷へ向かう牛車の中で、尭毅と智也は顔を突き合わせていた。五月五日の今日は、大内裏の武徳殿で左近衛府による騎射(うまゆみ)の本番、真手結(まてつがい)が行われている。もののふの武を披露するまたとない行事であり、それだけに宮中ばかりか都のうちも、広範囲にわたって警備が強化されていた。
佐伯の屋敷は左京四条の高倉小路沿いにある。屋敷は四坊二町の区画の約四分の一を占めていたが、敷地の広さより庭に趣向を凝らしているのだろう。東門から入ると、中門の向こうに美しい緑が広がっているのが見えた。
侍廊の前に出ている家人たちといい、中門の前に控えている雑色たちといい、今にも倒れそうなほどに緊張しているのがよくわかる。まあ、親王の訪問とあっては無理もない。屋敷に唐廂車が来るのも初めてのことだろう。
気の毒には思ったが、千央はせいぜいいかめしい表情を作って言い放った。
「弾正尹宮様とその家司、式部大輔菅原殿が到着致した。式部大丞佐伯殿にお取次ぎを願いたい」
「お待ち申し上げておりました。どうぞ門を通り、寝殿正面へ車をお寄せください」
家人の責任者らしき男が応え、車宿の前にいた雑色が震えながら深々と一礼する。
 通常、訪問客は車宿に車を停め、簀子を通って家の主がいる対屋か寝殿へ向かう。しかし身分の高い賓客に限り、寝殿の前へ牛車を乗り付けることが許されていた。
千央がどう応えたものか牛車を見上げると、前簾の裾から差し出された檜扇が簾を持ち上げた。智也が顔を出して告げる。
「いや、大丞殿のお気遣いはありがたいが、こちらの車宿に停めていただきたい」
智也は佐伯連之の上役であることもあり、屋敷の者の中には彼の顏や声を見知っている者もいた。だからこそ、続いて牛車から聞こえた穏やかな声に身をこわばらせた。
「あくまで私は僧のつもりですし、今日は式部大丞殿の診察のために参ったのです」
僧のつもり。すなわち、常日頃から僧形であるという親王・尭毅の言葉だろうと十分に伝わる。賓客自身にそう言われてしまっては無理強いもできない。
牛が離され、榻を踏んで尭毅が姿を現すと、水を打ったような静けさが広がった。親王を直視するなど許されないため、全員がその場で平伏したが、帽子をすっぽりと被っていてもその肌の際立った白さや銀の髪はちらりちらりと視界に入る。
千央の手を借りて尭毅が牛車を降り、続いて智也が降りると、尭毅の手を引く役を代わった。千央は薬草や薬道具を収めた櫃を手に後に続く。

通されてみると、屋敷は大貴族にありがちな東西の対がある大規模な寝殿造りではなく、寝殿と北の対、東の対があるだけの小ぢんまりとした作りだった。東中門から渡殿に入ると、小づくりながら綺麗に整えられた庭が見える。女房の先導で短い渡殿を通り抜け、寝殿の庇に入ると全ての半蔀が下ろされており、陽も高くなりつつある午の一刻だというのに薄暗かった。
「お気遣いをいただいたようですね」
千央に手を引かれて歩きながら尭毅がそう独り言ちると、廂の向こうからかすかなざわめきが聞こえてきた。女房たちが思わず声をあげたのだろう。
足元が危なくないように明かりが灯されている中を進み、寝殿に近づくにつれ、男が喚くような声が聞こえてきた。およそ、病みついた主がいる屋敷から聞こえていい怒声ではない。
「先客がいるだと?」
意外な成り行きに、思わず智也は呟いた。

 今回の尭毅の訪問は一昨日、自分から見舞いとして申し入れた際に佐伯に伝えてある。仮にも親王の訪問を控えて、他の客を呼ぶことがあるだろうか。それが尭毅にとっての目上、例えば今上帝や春宮、兄宮たちであればない話でもないが、一介の役人である式部大丞にそんな訪問があろうとは思えない。
つまり、佐伯にとって予定外の訪問客が来ているのだ。

二人を先導する梅の花鈿の女房が、申し訳なさそうに二人へ向き直って項垂れる。
「まことに申し訳ございません。先ほど急に、弔問の方がお見えになられまして」
「とはいえ、病を得た方の前で声を荒げるなど……」
珍しく気分を害したような尭毅の声色にふと笑みをこぼして、先行する智也は考えた。
つまりその和田という人物は、佐伯とは事前の約束や知らせもなしに訪問が許されるような間柄ということなのだろうが、急に訪うわ怒声をあげるわ、随分と自儘な人物のようだ。歩を進める間にも、声は詰問でもしているような調子で続いていた。
「伊之殿が家を出ていたことも知らなかった、と仰るのか!」
「……あれも通う姫のいる身。あれこれと咎めだては……」
「和田様、どうぞお声を静めてくださいませ。大殿のお体に障りまする」
女房がたしなめる声も間近になり、一行が寝殿に入る。

母屋では身なりの整った男が、板間に敷かれた畳に座した顔色の悪い高齢の男に膝詰めにならんばかりの距離で声を張りあげていた。
「そうは申せ、栄進を控えた御子息をあたら…死なせてしまわれるとは!」
困ったような顔をしていた高齢の男が、尭毅と智也に気づいて目を丸くする。
転がるように畳を下りて平伏する様に驚いたらしい手前の男が、不審げな顔で振り返った。彼もまた大きく目を見開く。高齢の男――屋敷の主である佐伯連之が板張りの床に這いつくばるようにして嗄れた声を絞り出した。
「弾正尹宮尭毅さま。我があばら屋へお運びくださり恐悦至極にございます」
一拍おいて、男も弾かれたように平伏する。
佐伯連之はかろうじて起きてはいるようだが、青ざめた顔、落ちくぼんだ目といい、間違っても客の応対ができるような状態ではない。それらが詳細には見えなくとも、ふらつく様子や声の調子から状況を悟った尭毅が慌てたように一歩前へ進み出た。
「佐伯殿、すぐに床を延べてください」
先導してきた女房がその言葉を受けて、少々ほっとしたような表情を見せた。客人たちに畳を薦めると急いで床の準備のために他の女房たちに指示を出し始める。
智也は平伏した男に声をかけることにした。
「私は尹宮さまの家司で、式部大輔の菅原智也という。その方は?」
「左衛門少尉、和田清重と申します。大丞殿には以前より仕事を頂き、長らく親しく交わらせていただいております。本日は弔問のためまかり越しました。尹宮さま、式部大輔さまにお目にかかれて幸甚でございます」
察するに文官で武士の伝手がない佐伯のために、必要に応じて警固などの武士を都合してきたのだろう。都で官職を得たい武家は、特に武士団を抱えているならば、下級貴族の護衛などをして信用を得、職を推挙してもらうのが常だ。彼もその結果、佐伯の推挙で衛門府に仕官がかなったと考えられた。
「本日は佐伯殿に事前にご訪問をお伝えし、尹宮さまと佐伯殿に時間を割いていただいている。日を改めてはもらえまいか」
「は、ただちに。これにて御前を失礼いたします」
先程はおよそ弔問という風情ではなかったが、まるで人が変わったように落ち着いた声になった和田とやらは、床に額を擦りつけんばかりに深く一礼すると立ち上がり寝殿を立ち去っていった。女房たちも困惑気味の顔を見合わせている。

予定外の訪問者を見送った智也が肩を貸して起き上がらせると、連之は咳で不調法を働かぬよう、袖で口元を覆いながら謝辞を述べた。
「おお、大輔さま。此度はなんとお礼を申し上げればよいのか」
「お気になさいますな。差し出がましいかとは存じましたが、不調にお悩みと伺っておりました故、尭毅さまに診察をお願いいたしました」
話を振られた尭毅が、勧められた畳に座してにこりと微笑む。
「半蔀を閉めておいていただきありがとうございます。陽に当たると私の肌がひどく焼けることをご存知だったのですね」
既に身を起こしておくことも困難らしく、体を震わせながら連之が首肯する。
「このように陽の高い時分には外出すら障りがおありだと……また、御目にもよろしくないと伺っております。かような老骨のために、畏れ多いことです」
「気遣っていただいて嬉しく思います」
連之の言葉は正しく、尭毅は陽が高い時間に外出することはほとんどない。出歩くのは日暮れからが主で、建物の中でも渡殿はもちろん廂であろうと帽子を外すことはなかった。それは必要以上に人目を引かないためでもある。
 女房達によって慌ただしく床が設えられると、やっとのことで連之は体を横たえた。千央に導かれ傍らに座した尭毅が、改めて礼と弔辞を述べる。
「此度の御不幸でさぞお心を痛められ、お気落としのことでしょう」
「お耳に入っておりましたか。恐懼の極みでございます」
「脈から診させていただきます」
連之の腕をとり、尭毅は診察を始めた。連之は痩せてはいるが持病があるという風情ではない。しかし脈拍は浅く、早い。胸や腹に異常はないが、時折咳が出る。
「夜は眠れておられますか?」
「あまり……眠りが浅く、ちょっとした物音で目を覚ましてしまいまして」
「食事はいかがです?」
施薬院で行っているように、脈を診ながら尭毅がひとつひとつ問診を重ねていく。事前に聞き込んでいた状態と大きな差はない。やはり気鬱が原因であろうと思われた。加えて、少しばかり体調を崩しているようだ。
尭毅が必要な薬剤と薬湯の調合を記し、その紙を受け取った千央が別の帳内が持ってきた長櫃を開けて必要な薬を取り出し始めた。それを背に、尭毅は穏やかに連之に笑いかける。
「おおよそわかったと思います。薬湯の処方をお伝えしたいのですが」
「女房頭の菱野にお願いいたします。尹宮さま御手ずからの処方など、身に余ること……」
千央から処方を受け取った四十ほどに見える年かさの女房――おそらく菱野であろう――が紙と薬材を押し戴くようにして受け取り、母屋を下がっていった。薬剤の擦り方なども書いてあるので、薬の知識がない者でも薬湯自体は作れるだろう。
「どうぞそのようなことは仰らず。常日頃から、智也がお世話になっておりますから」
脈をとるほど近づいても、やはり尭毅の目には相手の顔かたちが見えない。ただ、白髪がちらほら混じる髪をきれいにきっちりとまとめた様子や、荷葉を基にしたと思われる薫物の上品さは印象に残った。
「すばらしい薫物のご趣味ですね。伊之殿もこのような才をお持ちであったのなら、姫君が恋に落ちられたのも道理です」
「もったいなきお言葉。しかしあれは、何事も根気が続かず……」
乾いた笑い声をもらして、連之は力なく首を振った。
「我が子の行状は、既にお聞き及びのことと存じます。なんとも遊び好きの困った子でございました……とはいえ、幼い頃は体が弱くよく熱を出しまして。静養を兼ねて三歳からは尾張の別邸へ送り出しました」
「尾張の。しかし、佐伯殿は式部省でのお勤め一筋だったと思いますが」
それは同じく式部省での勤めが長い智也だから知っていた。さまざまな省庁を経て出世する者もいるが、連之は智也が入省した頃から既に式部省にいたのだ。
「尾張には祖父の建てた屋敷がありまして、私も幼い時分はそちらで育ちましたので」
「そうでしたか。では伊之殿はずっとそちらでお育ちに?」
「はい。時間をかけた静養がよかったのか、十二になる頃にはすっかり健やかに育ちましたので、都へ呼び寄せて元服させた次第でございます」
智也の問いに、連之が懐かしそうに眼を細めたが、そうしてやっと育った子を失った悲しみは癒しがたいものがあろう。智也はふと、気になったことを聞いておくことにした。
「先ほどおられた和田殿でしたか。彼とは長い付き合いでいらっしゃるのでしょうか」
「ご賢察恐れ入ります。妻の遠縁にあたる尾張国の豪族でして、伊之を尾張まで送ってくれたのも彼です。なにぶん当家は本家筋から離れておりまして、武士の伝手がございませんでした。武士団を抱えており、ちょうど仕事を探していると妻から紹介され、以降は我が家で武士が必要な際は和田殿に頼んでおりました」
なるほど、遠縁であればあの振る舞いもわからないではない。しかし穏やかな気質の連之は気にしていないようだが、妻の遠縁に許される行動範囲を逸脱しているように思える。とはいえ、智也は想いを口にせずにおいた。
「そうでしたか……」
「しかし、長らく京官をされていたのであれば、あまりご子息とお逢いになる時間も取れなかったことでしょうね」
「こればかりは宮勤めの悲しさ、と申しましょうか。元服までに二、三度訪いましたが、体調が思わしくなく、一度会ったきりでございましたから……あるいは私を困らせたくて、あのようなことをしていたのかもしれませぬ」
それはあるかもしれない、と尭毅は考える。貴族のほとんどはまともに仕事をしない。大人になれば否応なくわかることだ。それなのに己の親だけが真面目に仕事をし、ろくに自分の顔を見にも来なかったと思えば、少なからず子も思うところはあろう。
「立派になられたご子息とこれからという時に、お気の毒なことです」
「尾張へはあれの母親も一緒に行かせましたが、道中で事故があり世を去ったそうで。私は肉親の縁が薄いのかもしれませんな」
「……南無大師遍照金剛……」
数珠を握り、尭毅は数度念仏を唱えた。この世の不条理に嘆く人を見ると、僧を志したものとして胸が痛む。
「現世は生老病死の苦しみに満ち、さまざまな妄念や猜疑のもととなる男女、親子の恩愛もまた、仏の教えにおいては断ち切るべきものです。生きる上では離別は避けられぬもの……ですが」
涙ぐみ合掌している連之の様子は痛々しい。もちろん、ただ教えについて語るだけが、僧が為すべきことではないということは尭毅も承知していた。
「悲しみもまた人の情というものです。お嘆き、お察しいたします」
「……畏れ多いことでございます……」
言葉尻が嗚咽で消える。しばしの間、母屋を連之のすすり泣きが漂った。