無遠慮にその沈黙を破ったのは、色々な意味で現状に飽きた千央だった。
「もうお互い、言いたいこと言いきった感じか? いやまあ、公鷹が言われっぱなしになってるだけだけどな」
「千央さん……」
文字どおり途方に暮れた顔をした公鷹が振り返る。あまりに何もかも顔に出ていて、だから千央は強張った表情の正に笑いかけた。
「俺はな、一度立ち会った相手のことは忘れねえんだ」
何の話が始まったのか、という顔で鈴木が瞬きする。警戒を解かない正は表情を変えない。
「おまえが北辺の路地から出てきた時、毒盛られて公鷹の屋敷まで逃げてきた時な。あの時は、あの夜の続きをやりに来たのかと思ったぜ」
 四日前の夜、五条堀川の闇の中。
 公鷹を襲った者たちが逃げだし、それを追っていった千央は、不意に追跡を遮られた。
低い位置から放たれた斬撃の鋭さは、経験したことがないほどのものだった。生かして捕らえようとすれば怪我しかねない腕前。だからあの時は取り逃がした。
「おまえは追手を邪魔するために五条で待機してて、公鷹の襲撃に参加してねえ。嘘だよな」
その瞬間、凍ったようだった正の表情に焦燥が走った。もちろん、そんなことで手心を加えてやるような千央ではない。

正のひどくかわいた、情動を感じない目に千央は覚えがあった。
誰も信じない目だ。裏切られ、傷つけられ、あらゆる希望を剥ぎとられ、すべてを奪われた者の目。何も信じず、期待せず、望まない。
こんな目をした者は、誰をも近づけず隙も見せない。
だから突き崩してやらなければならない。

「あんだろ、まだ。続きを言ってやれよ。毎日理由もなく、退屈しのぎに殴られ蹴られて、無理やり盗みや殺しをさせられて、そんだけじゃねえんだろ」
正が弾かれたように顔をあげた。先刻までの諦念と恥辱にまみれたものではなく、怒りと焦りに満ちた表情。だから千央は続けた。
「おまえがあの末成りを殺したのも、京識に潜りこんでた木下を殺したのも、奴らから公鷹を守るためで」
「やめろ!!」
千央の言葉を打ち消そうとあげた大声は、しかし、無駄だった。呆然と振り返った公鷹が、驚愕の表情のまま正に掴みかかる。
「どういうこと?! 僕……僕のために?」
「嘘だ、でたらめ言ってんだ!!」
力任せに振り払おうとしたが、公鷹は正の直垂を掴んで離さなかった。千央が容赦なく解説を加える。
「ちょっと考えりゃわかるだろ。おまえが襲われる前は誰だった?」
「……左京大夫……!」
身の内から血の気が引く音を、公鷹ははっきり聞いた。
そうだった、検非違使があんなに動きが鈍かったのは何故だったか。

 蛮勇で左京大夫や、検非違使に籍をおく自分を襲ったわけではなかった。京識をまとめる二人のうちの一人、左京大夫が正体不明の賊に襲われたとあれば貴族たちは震えあがる。
事実、騎射が終わった後も、上流貴族たちの出仕や外出のために検非違使が駆り出され、人手が足りず、まともな捜査ができていなかった。

群盗たちは身辺を嗅ぎ回られたくない。しかし検非違使に手を出せば尻に火がつくのは明らかだ。だから都の、特に検非違使たちを警固に使えるような上流貴族を怯えさせるために、生贄が欲しかったのだ。
検非違使に職権を奪われ、賊に何かされても捜査する権限すらない京識。
そして同様に、検非違使に席はあっても追捕権を持たない弾正台に所属する、部外者で、身を守る力もない自分。
左京大夫の次が自分だったのは、嗅ぎ回ったからではなかった。最初から決まっていた。
だから。

もう、正は公鷹の手を振りほどこうとしなかった。震えながら顔を背けている。その様子こそ、千央の言葉が間違っていない何よりの裏付けだった。
「殺されるって……正のことじゃなかったんだね。僕のことだったから、言えないって言ったんだね。だからこんな、この場で、和田を殺そうと」
正は唇を結んで何も言わなかった。自分を守るためだったと知った公鷹がどんな気持ちになるか、見当がついていたから黙っていたのだ。その代わりに敵意むき出しの眼光を千央に向けたが、当の本人は唇の端を吊り上げて笑ってみせただけだった。
「まあ悪いとは思ってんだぜ。けど黙っといたら公鷹がかわいそうだろ。そいつは俺の上官なんでな」
「……くそ……!」
公鷹の顔が見られなくて、正は目を瞑って吐き捨てた。

 あんなに皆が苦しんで死んで、誰も気づいてくれなくて、目の前には家族を殺した奴らしかいなくて。
 奴らに首に縄をつけられ、殴られ、蹴られながら、奴らと同じ人殺しになるしかなくて。

何も考えなくなった日々がずっと続いたある時、唐突に公鷹は現れた。
怪我を案じ、生活を想い、不当な扱いを憤ってくれる彼に呆然として、すぐに受け入れられなかった。もうそんなものは与えられないと思っていた。
裕福な貴族の子。余るほどに「持つ」者。貴族だからこその気まぐれだと思ったが、そうしないうちに公鷹が本気で気遣っているのだとわかった。
生活は何も変わらなかったけれど、郷で幼い友たちといた頃の幻に紛れこんでいるようで、石のように強張った胸がいくらか柔らかさを取り戻して。

ずっと、胸に家族の形をした穴が空いていた。思い出せばつらくて、何もできなかった自分が苦しくて、もう何も感じなくなっていた。
だのに、公鷹殺害の計画を告げられた瞬間、穴は傷となって血を噴き、激しい痛みが甦った。

もう耐えられない。
あんなことをもう一度繰り返されるぐらいなら。

そう、だから今度こそ、己の意志で手を血に染めた。その事実に変わりはない。
「……わかっただろ。おれも、あいつらと同じだから」
己の言葉が胸を抉る。その途端、直垂をぐいと掴んだ公鷹が吠えた。
「同じじゃないよ!」
「同じだろ。それともおれが公鷹を守ったら、あいつらと違うっていうのか?」
「そんな都合のいいこと言いたいんじゃない」
誰が見ても良家の坊ちゃんという風情が特徴の公鷹だったが、今この時の目の据わりように正は思わず反駁の口をつぐんだ。
「あいつらが人を殺して、それを語る時、今の正みたいに泣くなんて僕は思わない」
「泣いてなんか――」
反駁しかけた正の頬を、公鷹がぐいと掌で撫でる。その掌に、濡れた跡が広がった。
怒りと一緒に沸き上がり、頭を沸騰させていたものが涙だったのか。そんな、童みたいに。
その瞬間、ぐらりと世界が回り、目の前が暗くなった。先ほどから胸の辺りにわだかまっていた気持ちの悪い塊が喉を駆けあがってくる。
「う!」
「正!」
嘔吐いた正の肩を公鷹が抱えようとしたが、それより早く痩せた体は崩折れ、血を吐いた。
「おっと。まだ毒が抜けきってなかったか」
千央が倒れ込んだ正の体を持ち上げ、腹をぐいと圧迫する。途端に正は再び血の塊を吐き、鈴木が怒声を張り上げた。
「ここで吐かせるな! 待て、今医師を……」
言いながら妻戸を開けると、目と鼻の先に墨染めの衣に五條の袈裟をまとう小柄な僧が立っていた。見たことがないほどの肌の白さ。帽子の下できらめく銀の髪。そして夢見るような瞳、これは秘色(ひそく)色といったか。言うまでもなく、堯毅に遭遇するのが初めての鈴木は咄嗟に言葉が出なくなった。
急に鈴木の動きが止まったことを訝しんだ千央が顔を上げ、目を剥く。
「堯毅さま! このような場所に足を運ばれたのですか?!」
その驚きの声で我に返り、鈴木はすぐさま堯毅の視界を遮らない位置に退がって身を折った。「このような場所」で悪かったな、という軽口も出ない。
咳き込み血を吐く正の傍らに膝をついて、堯毅は顔色に続いて脈をとり、様子を見た。その後ろから入ってきた智也が、顔をしかめて千央を見やる。
「おまえたち、少しは声を抑えたらどうだ。筒抜けに過ぎるから人払いをしておいたぞ」
「やったぜ、うちの家司は気が利くなあ」
甚だ不真面目な千央の反応はさておき、倒れた正の傍らで心配そうにしている公鷹に、堯毅は困ったように眉尻を下げた。医師として症状を偽ることはできない。
「毒というものはどんなものであれ、対処が難しいものなのです。すぐ楽にすることはできませんし、健やかだった頃に戻すこともできません」
「堯毅さま」
「でも、できる限りのことはしましょう」
ほっと息をつく公鷹に、正が震える手を差し伸べた。すぐさま公鷹が手を取って握り返す。それで幾分頭がはっきりしたらしい正は、堯毅を見上げて震える声を絞りだした。
「おれと、知り合いだとわかったら……公鷹の立場は悪くなるか?」
堯毅が応えるより早く、横から顔を出した千央が即答する。
「あーそりゃああるな。木下為末はともかく、なにしろ佐伯伊之の殺害犯だ。佐伯伊之はあれでも義理の親父は権中納言だしな」
「佐伯伊之は夜討ちにも行ってたんですよ?!」
「そんな醜聞はなかったことになるし、醜聞を知ってるこいつを権中納言は手の者を使って殺すだろうさ。おまえが親しいとわかれば、もちろんとばっちりがある。家のもんだってどうなるか」
公鷹が胸を突かれたように言葉を詰まらせた。
自分一人のことなら気にならない。しかし家人にも累が及ぶとなると即断はできない。そして、家人たちと自分の板挟みになる公鷹を正は見ていられなかった。
「おれを殺してくれ」
「正!」
「公鷹の、立場を……悪くしたくない。心配してくれておれ……うれしかった、から」
むしろ正にとっては、死ぬほうが気が楽ですらあった。
人の命を奪ったことを命で償うのなら、それは正しい結果のはずだ。その上で公鷹に迷惑をかけず、役に立てるのなら、自分の死にもきっと意味がある。
そして、両親や妹、村の皆がいる、どこか遠いところへ行けるのかもしれない。
「役に立って死にたい。その代わり、あいつを絶対……」
喘鳴をもらしながら和田へと視線を投げる。その願いを否定したいけれど言葉が出ない公鷹に代わり、堯毅が請け合った。
「約束します。私の名にかけて、和田清重は必ず流罪にしましょう」
ほっとした顔になった正が、糸が切れたように意識を失う。それを見届けた智也は公鷹に声をかけた。
「公鷹。そろそろ職務に戻れ」
「智也さま……」
筒抜けと言った以上、ここでの話は智也も聞いていたのだろう。正の生い立ちはもちろん、所業も。顔を上げられない公鷹を見やり、息をついた智也は未だ妻戸の傍らで控えている鈴木に水を向けた。
「検非違使少尉、鈴木尚季殿だったな。申し訳ないが、うちの大忠にすべきことを指導してもらえまいか」
唐突に話を振られ、真意を図りかねて顔を上げる。話に聞いていた以上に大柄な左衛門佐をしげしげと眺めて、出てきた感想は「菅原家でこれは浮くな」だった。学者の家系だというかの家で、こんな見るからに武辺者が出るものなのだな。そこまで考えて、頼まれていることに気が付いた。
「私が、でしょうか」
「そちらでは上官に当たられるとのことなので」
そういうことならやぶさかではない。軽く頭を下げてから、鈴木は公鷹に顔を向けた。
「大志。今この使庁で、大志以上にそやつの身の上を知る者はいない」
「はい……」
「私は大志の有職としての才に信を置いている。酌量の余地があると思うなら、大志にはできることがあるのではないか?」
意気消沈していた公鷹は、かけられた鈴木の言葉を咀嚼するのに時間がかかった。考えて、ややあって、ぱっと顔をあげる。
「智也さま、鈴木さま、ありがとうございます。すぐに取り掛かります!」
「彼は私が預かります。頑張ってきなさい」
「よろしくお願いします。正、無理しないでね」
堯毅の激励に嬉しそうに笑った公鷹は、正を気遣う言葉を残して立ち上がり、房を出た。廂を駆けて行く足音が遠ざかる。一方で、渡殿のほうからざわめきが近づいてくることに智也は気が付いた。
「堯毅さま、別当殿がお見えのようです」
それはまずい、と思った鈴木は智也に会釈した。このままここの部外者の中にいたら、別当に何を言われるかわかったものではない。
「私も調査がありますので、これにて御前を失礼させていただきます」
「ああ、付き合わせて悪かった。ありがとう」
いえ、と応えた鈴木が房を出、廂に手をついて辞去する。妻戸を閉じて立ち上がると、ちょうど向かいから藤原実貞がせかせかと歩いてくるところだった。
「少尉、尹宮さまはどちらにいらっしゃる」
「こちらの房です。お呼びしに行こうと思っておりました」
そう答えたが、もう別当は堯毅に言いたいことを頭の中で整理し始めていたようで、鈴木の言葉には何の応えもなかった。かえって好都合だ、するりと視界を抜けて離れる。

 和田の房に入ってきた藤原実貞は、和田に目もくれず素直にも不満そうな顔をしてみせた。
「尹宮さま、こちらでしたか。前もそうでしたが、もう少し早く先触れを送っていただくことはできんもんですか」
憤然とした口調からするに、親王の訪問にあたって出迎えないわけにもいかないのに、急に来るから仕事に障ると言いたいようだ。別当にしてみれば小刻みの訪問は迷惑であろう。
身を起こした堯毅はいつもの笑顔を向けた。
「これは別当殿、すみませんね。ところでこの房の隣をお借りできますか。先日お話した証人がこのとおりの状態で、手当が必要なのです」
「ああ、証人……」
そう言って初めて足元を見た別当は、正の下の血だまりを見て目を剥いた。どうやら正が死んでいると勘違いしたようだ。
「これはしたり。尹宮さま、こちらへ。穢れが」
「生きていますから。隣の房で簡単な手当てを済ませたら、施薬院へ連れて行きます」
「は……この下人を」
別当は思わずそう言ってから、咳払いをしてすぐに後を付け加えた。
「もちろんお望みのままに」
和田が猿轡を噛まされていることには気づいたが、それを堯毅が命じたのなら理由を聞かねばならず、事と次第によっては面倒な問答になる。犯人と思しき者が死んでいるわけでもないので、別当は見なかったことにした。

ここで猿轡を外されでもしたら、和田によって正が殺人を犯していることが明かされ、施薬院どころか獄舎へ放り込まれることは明白だ。衛生環境劣悪な獄舎に入れられれば、今の正では助からない。だから智也も堯毅も口をつぐみ、愛想笑いを浮かべてこの場をやり過ごしたのだった。