正が取り落とした刺刀を拾いあげたのは千央だった。そのまま袂の中へすとんと落とし、忌々しげに表情を歪める正を見下ろす。先ほどまでの気弱げな様子はなく、まるで感情が読めない面のような表情をしていた。
「やっぱおまえか、木下だの何だの殺したのは」
「待て待て待て九条。こやつが犯人だとわかっていて、縄も打たずに使庁へ連れてきたのか? おまえも共謀で追捕していいか?」
「いいわけねえだろ」
千央の後ろから顔を出した鈴木が眉間を揉みながら唸り声をあげる。自分の行動はどこから読まれていたのか――体力が尽きて膝をつきながら、正は考えを巡らせた。公鷹には気づかれていない、つまり公鷹は自分ともども泳がされていたのだ。
正と、対峙している鈴木と千央を見やり、和田清重は大きく息をついた。なんとかなったようだ。飼い犬に手を噛まれかけたのは気に入らないが、あとは検非違使に始末させるだけだ。
「助けてくれ! 殺される!!」
喉も裂けよとばかりの絶叫をあげる。そこらじゅうに衛士がいる使庁の中のこと、わらわらと衛士たちが集まってきた。
「なんだ、どうした?」
「昨夜捕まえた奴だろ」
「少尉殿、何かあったんですか?」
あっというまに房の前の廂が衛士でいっぱいになる。彼らに和田は言い募った。
「おい、この童も捕らえろ、伏屈(ふせかまり)だ! 俺が殺されてもいいのか?! こいつは木下為末だけじゃない、左京大夫の闇討ちもしたし、十人以上殺しているぞ!!」
何事かと集まってきた衛士たちの間に呆れたようなざわめきが広がった。
それはそうで、群盗の首魁として捕らえられている和田が、膝をついて荒い呼吸を繰り返すやせ細った正を人殺しだと言ったところで、信憑性は著しく低い。第一、伏屈、など聞いたことがない。
「聞いているのか、無能ども! そいつを生かしておくと後悔するぞ!!」
和田はなおも大声を張り上げているが、その様子は正気を失ったようにも見える。一瞬考えた鈴木は衛士たちに向かって苦笑を作って言った。
「面通しさせてたら喚き出したんだよ。騒がせて悪かったが問題ない。持ち場へ戻ってくれ」
実のところ、こうしたことは珍しくない。さればとばかり衛士たちが散っていく。大柄な衛士たちがいなくなって初めて、公鷹が立ち尽くしていることに鈴木は気づいた。
「来い、早く」
急かされた公鷹が房に入るのを待って、妻戸を閉めた鈴木は千央の胸倉を掴んだ。
「驚かせるにもほどがあるだろう。何の真似だ、これは」
「聞いたろ。こいつがこの和田の手下にして群盗の一味、左京大夫襲撃と木下為末の殺害を行った、木下為末の雑色の正だ」
鈴木は咄嗟に言葉が出てこなかった。しかも主である木下を殺したと?
「この恩知らずが、今まで飼ってやったというのに!」
房の壁にしがみつくようにしていた和田が、冷や汗にまみれた顔で怒声を張り上げた。面倒そうな顔になった千央が、和田自身の衣を引き裂いて作った猿轡を噛ませる。それから、青ざめている公鷹を振り返った。
「しっかりしろ。おまえも有識とはいえ検非違使の一員だろ」
はっと我に返った公鷹は、膝をついている正に駆けよって問いただした。
「正、どういうことなの?」
顔を上げた正は、先ほどよりも更に顔色をなくし、ひどい汗をかいている。しかし今までになかったほどはっきりとした口調で答えた。
「……こいつの言うとおりだよ。木下為末はおれが殺した。左京大夫の随身を殺したのもおれで……公鷹の襲撃の時もいた」
思わず息をのんだ。あの夜に正がいた? 思い返してみたが、正のような背丈の低い者はいなかったように思う。
「おれはこいつらに命令されて、都でたくさんの屋敷に押し込む手伝いをさせられた。どこの屋敷に盗むものがあるかは、木下が京識の権限で調べてた。手ごわい武士がいるって噂の屋敷では、おれがそいつを殺す役目だった」
「おまえが?!」
鈴木が信じがたいといった様子で聞き返したが、千央はそれ以前の確認をした。
「おい。これは自供か?」
「そうだ」
正が即答する。先ほどまでとは打って変わって、おどおどしていた彼は眦のつり上がった別の誰かになったようだった。その目が公鷹を捕え、ふと、気弱そうに緩んだ。
「……ごめん、公鷹。でも約束は守るから」
「約束……」
それが昨夜の証言についてのことなのだと、呟いてから思い出した。猿轡を噛まされた和田をちらりと見た正が、鈴木を見上げて語を継ぐ。
「こいつは木下為末と共謀して、おれの郷を焼いて、荘園の蔵のものを盗んだ盗人だ。任国で蔵から税の稲や薬材を盗んだり、木下に群盗を預けて街道沿いに荒らさせてた。おれは襲った郷の生き残りだから、連れていかれて盗みや人殺しの手伝いをさせられた」
「荘園の蔵の窃盗だと? 誰の荘園だ」
「和泉国にある白露荘園、畏れ多くも今上帝の姉君、春花門院さまご領有の荘園だ」
とんでもない情報を千央に補足されて、鈴木が息を呑んだ。皇族の荘園まで荒らしているとは信じ難い。なぜなら、荘園での窃盗は都での窃盗とは罰則が違うからだ。都で窃盗をしても軽ければ笞刑で済むが、荘園で窃盗をしたら殺人に並ぶ大犯で死罪となる。
「だとしたらこやつは流罪では生ぬるいだろう。首を刎ねて獄舎の門にかけてやるべきだ」
眉を吊り上げて息まく鈴木を宥めるように肩を叩き、千央が首を横に振った。
「獄門にしてやりたい気持ちはわかるけどよ、今のご時世で死罪は難しいぜ」
仏の教えが伝来して以来、歴代の帝が深く仏教に帰依してきた現在、都において死罪は行われなくなって久しい。一番重い刑を選んでも遠流だ。
鈴木は正の直垂を掴んでぐいと顔を寄せた。
「他に言っていないことはあるか。今更隠し立てしようとはするなよ」
鈴木の殺気立った視線を真正面から受け止めた正が、相変わらずの無表情で答える。
「こいつが知らないこともある。佐伯伊之はおれが殺した」
「正?!」
まさかの言葉を聞いた公鷹が悲鳴のような声をあげた。足元では目を白黒させていた和田が、弾かれたように身を起こして激しく呻き始める。猿轡のせいでよくわからないが、相当怒っているようだ。手足さえ自由なら正を絞め殺しかねない勢いだった。
和田の反応など無視の構えの正が、半ば鈴木に吊り上げられながら話を続ける。
「おれはこいつの知り合いの男に預けられて、言われたことができないと死ぬような目に遭わされながら、いろんなことを仕込まれた」
 「伏屈」は主に情報収集や噂の流布、時には闇に紛れた暗殺など、主にとって物事を有利に動かす者たちを指す言葉だという。刀や矢、馬の扱い、夜闇に紛れ目的の場所に忍び込む術、山中で生き抜く術、怪しまれず話を聞き出し、流言をなす術。
師となった伏屈によって再び和田の元に戻されると、何度か群盗と共に盗みや暗殺をさせられた後、都へ連れて来られた。
雑色として和田から木下為末に預けられ、都で最初の押し込みの夜。屯所に木下と共に現れたのが佐伯伊之だった。
「……おまえ、今何を言ったのかわかってるか。左兵衛佐が、盗人と共に夜討ちをやったって言ってるのか?」
「一度や二度じゃない」
今度こそ鈴木が絶句した。権大納言にとってとんでもない醜聞――聞いただけで命の危険がある案件だ。これはもう自分の権限を越えている。手を放すと、正はひとつ咳をして緩やかに首を振った。
「あいつはおれが嫌いだった。和田の屋敷で刀を持ったあいつに何度も追い回された。盗むのも殺すのも、殺されかけるのももうたくさんだ。我慢ならなかったんだ」
だから殺した。そう話を締めた正が、続けざまに数度咳をする。
はっと我に返った公鷹は、正と鈴木の間に体を割り込ませて訴えた。
「少尉殿、正は過日附子を盛られ、昨日やっとだいたいの毒を吐き切ったところなんです。もう休ませてやってください」
「附子だと? どうしてまだ生きてる?」
鈴木でなくとも、普通附子を盛られたと聞けば死ぬものだと思うだろう。無理からぬところだったが、盛られた当の本人が解説をした。
「附子は採れた場所で効能が変わる。飲まされてすぐ甘草を摂ったし、その後は公鷹の屋敷でやたら適切に処置されたから」
「ついでに言うと、盛ったのは多分そこの和田だぜ。そうだろ?」
横から突然千央が口を挟み、暴れて体力を使い果たしたらしい和田がびくりと体を震わせた。千央は屯所から逃げた武士を追って和田の屋敷に踏み込んだ時、門前で争った跡や水ものを零した痕跡があったのが気になっていた。
 今にして思えば、検非違使が武士団を嗅ぎまわっていると気づいた和田が、自分との繋がりを立証されないよう、正の口を塞ごうとしたのだろう。
こくりと首肯する正を見下ろし、眉間を揉んだ鈴木はややあって公鷹を見やった。
「大志。和田の罪状にこの雑色の殺害未遂と荘園での横領を加える」
「はい、相当する量刑を勘申します」
「それと、この童を捕えろ」
鈴木のその言葉を予想していなかったわけではないだろう。事実公鷹は驚くことなく、うつむいて唇をかみしめた。ひと呼吸おいて顔をあげる。
「少尉殿」
「大志、酌量すべきことが大いにあるのはわかる。だが罪を犯さなかったことにはならん」
検非違使として、少尉という役職にあって、鈴木はそうあるべきだと思っている。事情があったから罪に問われない、となったら、この世は無法に晒される。
とはいえ、今明かされた正の事情は、公鷹にとって納得できるものではなかった。
「それなら、意にそまないことを強いられた弱者はどうしたらいいんですか? 郷を丸ごと焼かれて、それを画策した和田と木下に連れ去られて」
「おい、公鷹」
黙っていた千央が肩に手をかけたが、それを振り払って公鷹は声を張り上げた。
「正はただ、故郷で生きていただけです。いきなり焼き討ちされて、盗みや殺しをさせられて、恨んで当たり前じゃないですか! 正は悪くないじゃないですか! こんなの――」
言い募ろうとした公鷹は、不意に正にどんと肩を突かれてたたらを踏んだ。驚いて見返すと、正ははっきりと怒りを滲ませた表情をしていた。
「おれが悪くないなんて、どの口が言ってるんだ」
「正」
「おれは佐伯伊之も、木下為末も殺した。おれが殺したんだ」
公鷹が何か言おうとするのを遮って正は声を荒げた。
「焼き討ちから逃げてやっと役人に拾われたのに、何があったかちゃんと言えなかった。みんなが目の前で殺されたのに、なんでか知らないけど木下が役人と一緒にいて、怖くて、何が起こってるのかわかんなくて怖くて、誰にも一言も言えなかった」
 怒りと、何かわからない別の感情で手が、足が、全身が震える。そんな己を自覚しながら、正は吐き捨てる。公鷹だって自分が何をしたかわかっているはずだ。改めて自分の口から聞けば、きっと傷つくとわかっている――けれど、もうどうしようもない。

毎晩、郷が燃え上がる夢を見る。
父、母、そして妹。郷で毎日顔を合わせていた人々が惨たらしく死んでいく。

熱風に炙られて髪がちりつき、顔も手も足も、熱くて痛くて。
あんなに水も飲んだのに、喉も焼けついていく。
それなのに涙だけは尽きることなく流れた。
笑い声をあげながら男たちが村を後にする。

堀から這い出て、闇夜を紅く焦がす郷を見ていたら、役人が近隣の郷人とやってくるのが見えて、必死の想いですがりついて――けれどそれも無駄だった。
無駄だったのだ。

この世の何をも信じない。信じれば裏切られ、得れば失うのだから。
だから、公鷹にすがりついてはいけない。こいつらを頼ってはいけない。

「いつかこいつらに殺されるんだって、そればっかり考えてた。太刀を持たされた時も、知らない屋敷から物を盗んでこいって言われた時も、怖くて、いやだって言えなかった」
ひび割れ裏返った叫びを、聞くに堪えないだろう醜い事実を、公鷹が聞いている。
親愛を寄せてくれたあの目が、武士たちや、為末や、今まで信じた人々のように、きっと蔑みに満ちる。
それを見たくない。
だから目を伏せて続けた。
「おれ、いやな奴なんだ。ずるくて汚くて、ほんとのこと何も言えなくて、人を殺して、それを黙って公鷹と話せるような奴なんだ。最低な奴なんだ」
「……正……」
言葉の接ぎ穂を失ったらしい公鷹が、泣き出す寸前のような吐息を吐き出す。
ひと時、房の中にどうしようもない沈黙が満ちた。