公鷹が出仕してまもなく、それを見送った千央は眠たい目をこすりながら、正を寝かせた房へ戻った。簀子縁でぐったりと横たわる正は、しっかりと呼吸している。徹夜で吐かせ続けた千央も消耗しているが、正直、こんなにも痩せ衰えた体の正が持ちこたえるとは思っていなかった。
「たいしたもんだぜ」
ごちたその時、透渡殿を通って西の対から智也がやってくるのが見えた。深夜に外出を繰り返した堯毅を屋敷まで送って寝かせてきたのだ。
合流した二人はまず、一通り現在の状況を整理した。
「群盗は捕縛、首謀者と思しき和田清重も捕らえた。残存勢力はありそうか?」
「使ってた武士団が何度か目減りしてんだ、あるならもう投入してんだろ。木下為末と繋がってたんなら、奴の殺害も和田が犯人じゃねえのかね」
尻に火がついたと知って先手を打った可能性は大いにありうる。なにしろ左京大夫や公鷹を暗殺し、京識と検非違使を機能不全に陥れようとするほど豪胆な群盗たちだ。
 問題は、和田にとって重要な駒であるはずの佐伯伊之の死だ。これは和田や木下にとっても計算外の出来事であったらしく、手下の武士団の者たちに聞き込みをさせていたようだ。
ろくすっぽ出仕していない上に、まったく関わりのない役職の千央には理由がまったく見当もつかない。
「最初にも言ったが、人事考査の内容で知る限り、楽しいこと以外に興味がない質だ。遊び友達はいただろうが、その付き合いの範囲でそんなに恨まれそうではないからな」
「そうなると、あの童がどこまで知ってるかだよなあ」
千央が顎で指し示す先を、智也は眉間にしわを寄せて見やった。正を起こして食事を摂らせ、証言をとるよう堯毅から言付かっている。ため息をついて千央との話を切り上げると、正の傍らに腰を下ろした。
正は簀子縁に置かれた畳の上で、荒い呼吸を繰り返していた。体に合っていない大きな直垂、括袴も脛巾も暗色で、どう見ても夜闇に紛れるためのものだ。肩に手をかけてから、驚かさないよう声をかける。
「正といったな。何か食べられそうか?」
落ちくぼんだ目が開き、視点がさまよった後に智也で焦点を結ぶ。警戒の結果か一瞬体を縮こまらせたが、すぐに脱力した。
「……き、公鷹、は」
「彼は出仕している。誰かに毒を飲まされたことは覚えているかな。君の主だった木下為末殿のこと、その他、君が知っていることをまとめて、検非違使に知らせなければならない」
手を貸して助け起こすと、正は体を震わせながら従った。
百瀬が運んできた粥の椀を受け取り、智也が少しずつ飲ませる。その横に腰を下ろした千央も、百瀬に水飯をもらってかっこんだ。茄子の漬物をつまんで食事を終える。時間をかけて粥を飲み終えた正の顔色はいくぶん良くなった。女房に器を預けて下げてもらうと、智也は元通り正を横たえた。
「……為末さま……のことは……」
言いよどみ、目が泳いでいる。正が知っていることを喋りやすくなるよう、智也は昨夜のことを端的に伝えることにした。
「まず、和田清重は昨夜、都を騒がす群盗の首魁として追捕された。彼の武士団もだ。木下為末が和田清重と親しくしていたこと、左兵衛佐だった佐伯伊之の紹介で京識の職を得たこともわかっている。木下為末が和田清重と知り合ったのはいつだ?」
唇をきつく噛んだ正は、やがてぽつりぽつりと話し始めた。
 八年前、すでに和田清重と木下為末は行動を共にしていた。そもそも和田清重に拾われた彼は、雑色として粗雑な扱いを受けてきた。和田が大和や和泉、伊賀国で介や掾を務めて蓄財し、どうやってか都で官位を得たため一年前に都へ連れて来られ、木下為末の雑色とされたという。
「二人が何か罪を犯すところは見たか?」
正は苦しそうに表情を歪めた。強く噛んだ勢いで荒れた唇が破け、血が流れる。
「……八年前、おれの郷は為末さま……為末に、焼かれた」
「焼かれた? 焼き討ちに遭ったのか?」
こくりと頷く正の瞳は、かわいて虚ろだった。

 その夜は荘園内で一斉に稲刈りが行われ、税として納める稲を倉に納められたお祝いで宴が行われた。誰もが笑顔で、今年の稲の出来や、新しい稲の育て方を導入した田堵(たと)を褒め、喜んでいた。
そんな郷が、郷人が、見るまに炎に包まれた。
人々がまだ酒に興じていた夜半、郷のあちこちの家から火の手が上がり、空が真っ赤に焼けていった。太刀や弓を持った男たちがどこからともなく現れ、時折弓を射て郷人を追い立てる。
堀と塀に囲われ安全だったはずの田堵の屋敷も、何故か内側から門が明けられ男たちが雪崩れこんできた。門番を殺して門を開いた者には見覚えがあった。

他の郷よりも余裕がある郷には時折、他所から逃げてきた流人が現れることがあった。何日か前にも二人の流人が保護され、田堵の家で面倒を見てもらっていた。その二人だ。

 武装し血にまみれた男たちは、郷の人々を田堵の屋敷の傍に追い込んだ。田堵の一族も屋敷から連れ出され、郷人たちと一所に集められる。
群盗だ、と誰かが怯え騒ぐのが聞こえた。
そして、人々そのものに火が放たれた。
逃げたくても、周りにはぐるりと太刀や弓矢を構えた男たちがいる。身が焼ける苦痛に耐えきれなくなった郷人が走りだせば、すぐさま斬りつけられた。
悲鳴と怒号、炎が渦をまく。
母が子をかばい、父が母をかばい、抗うものは刀や矢の餌食になって炎に舐められた。
そうして、包囲する男たちが残虐な笑いをあげる中、人々は命尽きていった。

自分がその一員にならずに済んだのは、母が咄嗟に屋敷の中にあった蔵に押し込んでくれたからだ。塗籠を含めて屋敷のすべては家探しされたが、自分がいた倉は塗籠の床下にあり、盗人が一見しただけでは見つからなかった。
人々が屋敷の傍に集められてから蔵を出た自分は、裏側から屋敷の床下に潜りこみ、表側へと這いずっていって、惨たらしいさまを目の当たりにした。
妹を抱えこんだ母が炎に包まれるのも、父が刀を持った男にひどく殴られ、蹴られ、火をつけられ絶叫するのも見た。
屋敷に入り込んだ流人の片方が群盗たちを指揮していること、炎に照らされた顔の左側一面に、疱瘡によるものらしい痘痕があることを必死に覚えた。

やがて、村人たちが動かなくなると、群盗たちが屋敷に火を放つ。屋敷の裏側からも火をつけるために男たちが回り込む前に、必死で床下を這いずった。燃え落ちる塀を越え、堀に身を沈めて息を殺す。男たちが近づくたびに精一杯息を吸ってから、頭まで沈みこんだ。
見つからないよう、気づかれないよう、息を堪えて、堪え続けて――。

 正が語ったのは智也はもちろん、千央も顔を強張らせるほどの虐殺だった。廂に控えていた百瀬は顔面蒼白、倒れていないのが不思議なほどだ。
手が止まっていたことに気がついて、諸成(ぐみ)を口の中に放り込み、千央は嚙みつぶした。甘酸っぱさが好きな水菓子だが、今はあまり味を感じない。飲み下して声をあげた。
「為末がな……生き残ったのはおまえだけか」
こくりと正が首肯する。
「堀に飛び込んで、死んだふりしてたら……朝、役人が来た」
郷ひとつ焼けるほどの火勢なら、付近の郷から通報があって郡司が来たのだろう。当時八歳だったという正は役人の名前を覚えていなかったが、そのまま郡衙に保護された。
 しかし、何故かそこに木下為末が現れ、虐殺の犯人を目の前にして正は恐怖で口もきけなくなってしまった。次いで木下と親し気な和田清重が現れ、気が付いたら和田に引き取られることになっていたのだという。
「その頃は……為末さまは木下でなく、大木という姓で」
そこまで話して、正は荒い呼吸を整えることに時を費やした。考えてみれば無理もない。朝から息を切らせながら身の上を話すこと一時、少し休ませる必要がある。
一通りの話を聞くままに書きつけていた智也は、腹の底から深く息を吐いた。千央を振り返るとさしもの彼もみごとな渋面で、互いに同じ感想であることがわかった。
「姓を変えていたのか……さすがに聞き流せる話ではないぞ。訴状を作るべきではないのか」
「ったってよ、どこの話かわからねえんじゃ」
「和泉国」
二人の会話に割り込んできたのは、まだ息が荒い正だった。
「和泉国の貴人の荘園、で、日根郡……や、八田部(ごう)
「矢田部……郷司(ごうし)の名も矢田部か?!」
振り返った千央が重ねて問いかけたが、正は疲れのためか、目を閉じ眠りに落ちていた。
智也と千央は顔を見合わせた。しばらく寝かせるしかない。苦笑した智也が畳の縁を掴み、正を乗せたまま簀子から廂へ、次いで塗籠へと引き入れた。




 昼過ぎに公鷹が屋敷に戻ると正は眠っていた。智也による勘文は一通り出来上がり、和田と木下の所業も概ね明らかになっている。その内容は、目を通した公鷹も言葉を失うものだった。
「つまり木下為末が商人の荷や、貴族の購入品や贈答品の荷運びの予定とか日時といった、京識のお役目で知ったことを和田さまにお伝えして、それを次の押し込み先として武士団に伝えていた……」
「まさに獅子身中の虫だな」
普段温厚な智也だが、今はめったに見ないほど険しい表情をしていた。
 京識は都において税の徴収や屋地の売買、訴状の調査と証明などの管理も担っている。逆にいえばいつ、どこに米や絹織物などの貴重品があるか、どこの家が裕福なのか、どこが土地を買うための財を用意しているかなどを知っているということだ。群盗の押し込み先がやたら適切だったからくりが、これだったのだ。

 否、貴族の屋敷のみならず、最終的に大内裏に押し込むつもりだったのではないだろうか? 以前にも宿直の者たちの手抜かりで、大内裏に賊の侵入を許したことがあった。和田自身も衛門府に所属しているが、宿直による見回りの時間や警固が手薄な場所などの情報を得るためだった疑いがある。
内裏すら標的だったのか。もしや、今上帝のおわす内裏にも?

その不遜さに寒気を覚えた公鷹が唖然としていると、智也はもの思わしげに唸るような声をあげた。
「検非違使のほうはどうだ。大きな怪我をしていない賊はもう拷問にかけているだろう?」
「はい。屯所で捕縛された賊のうち二人が、都での夜討ちや強盗の内容を自白し始めています。あと、被害を受けた家の者を呼んで、賊の面通しを行っています。ただ、賊の誰一人として、和田清重が首魁であるとは言いません」
 着々と群盗たちの証拠固めは進んでいるが、首魁を押さえられなければ意味がない。和田清重も決して認めないだろう。今のところ物証がないので、共犯者ないし手下による供述が必要だが、このまま自白が得られなければ解き放ちになるかもしれない。
智也の勘文を開いて再び目を走らせ、公鷹は呟いた。
「正は、和泉国にあった貴人の……どなたか皇族の方の荘園の出なのですね」
それも保司(ほうし)の子だった。保司はいわば在地の豪族である郷司の一族で、矢田部郷の中でも田地の開発を担っていた、田堵と呼ばれる有力者だ。正が八歳の時点で群や郷の名前を知っていたということは字を読めたということで、おそらく跡継ぎとして教育されていたと思われる。

二人で難しい顔をしていると、百瀬が千央の再来訪を告げた。まもなく百瀬の案内で、彼が透渡殿をやってくるのが見えてくる。てっきりまだ屋敷の中にいると思っていた公鷹は、素直すぎる感想を口にした。
「千央さん、出仕していたんですね」
「出仕じゃねえよ悪かったな、心底意外そうな言い方するんじゃねえよ。追捕使(ついぶし)やったことがある知り合いんとこに行ってきたんだよ」
追捕使は都の外、地方における軍事を司る職である。かつては南街道における海賊対策の臨時職だったが、今やあちこちの街道沿いに出没する凶賊を取り締まる重要な役職となっていた。彼らは追捕が必要な罪人相手に、訴状を取り扱う検非違使と連携している。
「千央さんて本当に顔が広いですね」
「俺の取り柄だかんな。で、知り合いの任国は和泉国じゃなかったから、八年前に和泉国を担当した奴に使いを立てて聞いてもらってる」
「そうか、よくやった。事の次第は堯毅さまにお知らせして、和泉にある荘園がどなたのものかお調べいただいている。今できることはそのぐらいか」
智也が鷹揚に頷いて言った。しばしの沈黙の後で、千央が首を傾げて口を開く。
「木下と和田が荘園の郷焼いたって話、あの童が証言しねえと訴えられねえよな。証言させられると思うか?」
「それって僕に聞いてるんですよね……」
気分が落ち込むのを公鷹は感じていた。

 正が日根郡の郡衙に保護された以上、問い合わせて記録を辿ってもらえれば、正のいた郷が焼失したことは立証できる。当事者の正が証言すれば木下の罪状を、ひいてはつるんでいた和田を告発できるわけだ。正の郷を焼いてどんな利があったのかはわからないが、正にとっては何の関わりもない理由でそんな目に遭ったのだ。
「正の様子を見てきます」
公鷹は立ち上がって、寝殿の西に位置する塗籠へ歩み入った。三方を壁に囲まれたここは、普段は物置として使っている区画だが、日中でも日差しが遮られるため眠りやすく、守る上でも都合がいい。
正は苦しそうな顔でうなされているようだった。額に脂汗を浮かべ、何か苦しげに呻いている。耳を寄せてみてやっと聞き取れた。以前会った時よりもさらにやつれて、解毒で体力を費やしたせいか目の下には隈ができている。
「……いや、だ……こ、ろさ……いで……」
胸が痛んで、思わず唇をかみしめた。こんなにうなされるほどに、日常的に死の恐怖を刻みこまれているのだ。それも八年も前から。
かすれた声が気の毒で、公鷹はそっと正を揺さぶった。何度か試みると、半ば跳ね上がるようにして正は身を起こし、塗籠の奥側の壁に張りついた。しばらくしてやっと公鷹を認識したらしい。目を瞠って口を開いた。
「きみ、たか」
「うん、僕だよ。もう大丈夫だよ」
そう声をかけると、正は全身の力を抜いた。ぜえ、と正の喉が音をたてる。毒を抜く間によほど汗をかいたらしく、だいぶ大きい麻の湯帷子をまとっていた。家人の誰かのものを着せたのだろう。
「正、水は? お腹は空いてない?」
正は力なく首を振ったが、水指(みずさし)から椀に水を注いで渡すと一息に飲み干した。椀を置くと震える両手で顔を覆い、長い長い吐息をつく。何から言ったらいいのか考えたが、こんなに怯えさせたことを謝ることから始めるしか思いつかなかった。
「知ってることは話してくれたんだよね。ごめんね、怖い想いさせて」
顔を覆ったまま、正がこくりと頷く。
「あいつらを罪に問うには、検非違使庁で正に証言してもらわないといけないんだけど……」
しばらく、正は何も言わなかった。やがて手を湯帷子で拭って、涙のたまった目をまっすぐ公鷹へ向けると、震える声を絞り出した。
「……こわい、んだ……」
「え?」
「……怖いんだ。つ、捕まらないためならなんでもしてきた人だから……殺されるんじゃないかって思ったら……怖くて、言えない」
予想どおりの答えだった。そもそも彼らの支配下にあり、日常的に暴行を受けていた正が、和田の前でまともに証言できるとは思い難い。ひとまず別の話をしようと公鷹は決めた。
「じゃあ、その話はおいといてさ、正。もしよかったらなんだけど、うちに来ない?」
一拍おいて、正がぽかんとした顔で公鷹を見返した。
「……え?」
言うだろうな、と思っていた千央は、干した(なつめ)を口に放り込んだ。戻ってきた時に百瀬に水菓子を頼んであったのだ。公鷹の屋敷は特に水菓子の取り揃えが良く、美味いものが口にできる。寝殿で智也と目線を合わせたまま、公鷹の話を聞く。
「うちはさ、主の僕が大した役職に就いてないけど、祖父も父も受領だったから蓄財はしてるんだよ。自前の領地と別邸もある。正にうちで働いてもらうことはできるよ」
――かといって。智也がそうも思ったのは、こんな童とはいえ、軽々しく引き受けることが難しい現状にあったからだ。公鷹は出仕を始めたばかりの若輩だ。他所の、それも罪人と思われる者の雑色を使うとあっては、今後の出世の障りになるかもしれない。
ことによったら、あの童も片棒を担いでいるかもしれないのだ。そうなれば身分を考えると、まどろっこしい手続きはなしで童だけ斬られて終わる可能性もある。いわゆる上流の貴族は、下人のことを日々使う食器ほどにも思っていない。
心底驚いた顔で公鷹を見やっていた正は、やがて、ぽろぽろと涙をこぼした。顔をくしゃくしゃにしてしばらくの間嗚咽を漏らす。
「……おれ、みたいな下人のこと……そんなに、考えてくれて」
「下人とか貴族とかじゃなくて……前にも言ったけど、僕は正と友達になりたいから。うちに来てくれないかなって、思ってるんだけど」
 公鷹自身、今の状況で正を迎え入れることに障害が多いことは理解していた。ただ、友達になりたいのは本当であり、正が安心できる環境を用意したいと心から思っている。その結果、知っていることを正が話してくれたら、何よりも正自身のためになるはずだ。もし彼が何か罪を犯すことを強要されていたのなら、酌量を求めるためには自供こそ必要だから。
今までとは違った様子で涙を流す正は、しかし、どこか諦念を漂わせる笑みを見せた。
「……あ、りがとう。そ、そう、思ってくれてるだけで、おれにはもったいない、よ……」
壁にもたれたまま顔を覆い、正は吐息のような声をこぼして身を縮めた。それきり、何を言っても何も答えず、小さく体を丸めて動かなかった。
まるで公鷹の前から、世界から、消え去ろうとしているようだった。