五月十三日の午の二刻、陽が一番高くなる刻限に千央は公鷹と共に検非違使庁へ赴いて
いた。木下為末の遺体の見分のためだったが、隣に座す自分より若い上官は見るからに気落ちしている。依然としてあの正という雑色が行方不明だからなのは明らかだ。
(まあ、ほぼほぼそいつも殺されてるよな)
その判断を口にしないぐらいの配慮はあった。誰だか知らないが、左京大夫、末席に近いとはいえ検非違使に所属する公鷹と続けて襲撃し、どちらも失敗しているのだ。もしそこで「腹いせに京識の下級役人でも殺す」となったのなら、それが童の雑色でも逃がすまい。

 木下為末が所在不明となったのは、公鷹が襲われた次の日だったと思われる。伴帯刀の指示で弾正が西の市司を訪ねた三日前、既に彼は右京識に顔を出していなかったという。
妙なのは、家族に話を聞きたいと申し入れたが断られたことだ。こうした場合、家族からの聴取は速やかに行われるから妙な話だ。弾正台だから断られたとか、そういう感じがしない。
木下為末の死亡を知らせてくれただけでなく、検非違使庁まで呼び出されているのは検非違使少尉の鈴木の手回しによるものだろう。
やがて、どかどかと遠慮のない足音が近づいてきた。妻戸を開けて入ってきたのは、最近すっかり見慣れた鈴木尚季である。
「待たせたな」
「いいけどよ、おまえから俺たちを呼ぶのは珍しいな」
千央には「まあな」とだけ応じた鈴木は、次いで公鷹へ声をかけた。
「物忌みしとけと言っといてあれだが、橘大志、死体は見慣れているか?」
咄嗟に声が出なかったらしい公鷹が、大きく喉を鳴らした。そもそも出仕し始めたばかりの彼が慣れているはずがない。弾正台に来る前は刑部省にいたのだから、死体を見ることもなかっただろう。
夏の初めの蒸し暑さに満ちた室内で、公鷹の顔が青ざめる。
「……慣れてはいませんが、見なければ仕事にならないと思います」
「それはそうだ。まあ、死体を作るほうが得意な奴が隣にいるんだ、気負わず来い」
「俺のほうが官位上なの忘れてねえ?」
敢えて軽口をたたいて立ち上がり、顔色のよくない上官を振り返る。
「それこそ俺のほうが慣れてる。上官殿は俺の後にしろ。行くぜ」
「……はい」
公鷹も立ち上がると逍遥として後に続いた。

 都で発見された事件性が疑われる死体は、普通は型通りの調べが終わると直ぐに鳥辺野へ送られる。検非違使といえど死の穢れに対する恐怖は強く、長いこと庁舎内に置くことを誰もが嫌がるからだ。まして雨が多く暑くなり始めのこの半月ばかりは、役人の遺体であってもいい顔はされていない。庁舎に入ってすぐの東面の土間で、遺体は茣蓙(ござ)をかけられて置かれていた。鈴木に目で了解をとった千央は、近づいて無造作に茣蓙をめくった。
 年の頃は四十を過ぎているように見える。腐敗が始まっていたが死因がわからないほどではなかった。身につけている白かったであろう狩衣は、しみついた血が乾いて褐色になっている。脛巾(はばき)をつけたままということは、外にいたか、建物の中にいても寛いではいなかったということだろう。
「首をひと薙ぎ。どう思う?」
鈴木が匂わせていることはよくわかる。千央はもう一度遺体に目を走らせて頷いた。
「佐伯伊之を殺ったのと同じ奴だろうな。廃屋にあったって?」
「そうだ。見つけたのは左京大夫殿の手下で、隣の家の住人が誰か死んでるって騒いでるのを聞きつけてのことだと聞いたな」
その隣の住人とやらは、家の周囲にあるわずかばかりの畑で採れたもので生活しているという貧民で、役人である木下為末との接点はない。
「こいつんとこの雑色は見つかってないのか?」
鈴木はいっそうげんなりした顔になって答えた。
「それどころか、こいつの家すら見つかってない」
家すら? どういうことだ、と千央が表情だけで問い返す。

京識は都の左京と右京を統括し、都に居住する者たちの戸籍管理や税の徴収、民の財産の売買や東西の市の管理運営などを担っている。花形とはいえない仕事だが、十分に堅実な役職だ。その京識に籍をおく者の家が見つからないとは?

死者の穢れを恐れて火長や放免たちが近づかないのを幸い、鈴木は声を低めて続けた。
「二日前におまえたちが、木下為末に話を聞きたいと言ってきただろう。右京識に話を通したら出勤していないという。じゃあ家に話を聞きに行こうというんで、届け出ていた右京梅小路沿いの住まいを訪ねたら、家がなかった」
届け出の区画は周囲の貧民が生活のために作っている畑だった。届け出がでたらめだったということだ。驚いたのは京識も同じで、すぐに調査が始まった。
 わかったのは、木下為末という男が何ひとつ実体のない届け出をして、少属として働いていたということだった。もちろん同様に届け出ていた妻子も影も形もない。こうなると連れ歩いているという雑色まで存在が怪しくなってきている、とまで語った鈴木へ、
「正は、ちゃんといました!」
唇を震わせていた公鷹が声をあげた。住まいから偽りということは、木下為末がまともに京識として働いていたか疑わしい。正の扱いひとつとっても高潔な人物とは思えなかったが、ここにきていよいよ不審になってきた。そんなことを考えながら、千央が落ち着かせようと宥めるような声をかける。
「わかってるよ、俺も見てんだから。それはそうと、おまえはこの木下ってのに会ったことあるのか?」
「いえ、それが……顔を合わせる機会はありませんでした」
そう答えた拍子に、遺体へ目をやってしまった公鷹の顔色が一気に白くなった。都には貧者の死者が転がっていることがあるが、公鷹自身が比較的余裕のある屋敷街に居するうえ、日常的には護衛を務める夏清が目にしないように気を遣っていたため、死体を直視したことはほとんどない。
「うっ」
血の気を失い変色し、痛々しい傷が露わになった遺体を直視してしまった公鷹は、朝に食したものを吐いてしまった。苦しそうに嘔吐(えず)く背中をさすってやると、申し訳なさそうな顔で千央を見上げてくる。次いで、鈴木に謝罪した。
「す、すみません」
「新任にはよくあることだ」
鈴木は公鷹を慰めるようにそう言うと、眉間に皺を寄せて千央に話を振った。
「まあそういうわけだ。身元を偽っていたらしく、いかにも怪しい」
木下為末が所在不明となってすぐ、京識は彼の身元を調べ始めた。都に生まれた民であれば生家はあるはずだから、徹底的に調査したが何も出てこなかった。都生まれではない、つまり都の外の生まれで、京識には何者かによる紹介で就いたと思われる、というわけだ。
しかしその紹介を誰がしたのか、という話になると、誰も一斉に口をつぐみ知らないという。
「これは厄介な相手が木下の後ろにいそうだ。手詰まりだな」
「手詰まりねえ。そいつはどうかな」
しげしげと木下の遺体の傷みつつある顔を眺めて千央は呟いた。かなり見づらくなってはいるが、見間違いようもない。
木下為末の顔の左半分には、豌豆瘡(わんずかさ)を患った痕跡と思われる、ひどい痘痕(あばた)が広がっていたのである。