弾正台での用事を済ませた千央と公鷹は、その足で左京九条へと向かった。施薬院がある九条三坊の同じ区画、施薬院の蔵や薬草園がある十町の隣が堯毅の屋敷である。つましく暮らしたいという堯毅の意向とは正反対に、後ろ盾である大納言・三条実仲が一町まるごと使って整えた。
せめてと堯毅が願った通り、広大な庭の一画に薬草園を備えている。そこだけが彼の意向に沿ったものだ。ここで育てた薬草も施薬院での治療に使っており、最近になってやっと量産できる状態へもっていけている。屋敷もなんとか堯毅が目指す運用へ、ゆっくりと近づいていた。

 西門から入った千央と公鷹は待っていた帳内に堯毅のもとへ案内された。普段は体力が続く限り都の民の治療に専念している彼だが、今日は日暮れ前に切り上げたらしい。寝殿で待っていた堯毅は智也の手を借りて立ち上がると、二人に近づいて全身を検めた。
「千央、公鷹、どちらも怪我はありませんね?」
「もちろんです。お気遣いいただき恐縮です」
弾正台で他者に見せていた仏頂面をよそへやり、千央が嬉しそうに頭を垂れる。公鷹の手をとった堯毅は、肘に擦り傷を見つけると帳内に軟膏を取ってくるよう命じた。
「経緯は帯刀からの報告で聞いています。私も考えが足りませんでしたね。危険に晒してしまいすみません」
「いえ、そんな!」
「大きな怪我がなくてよかった。危ないところだったな」
ほっとした表情の智也が、大きな掌で公鷹の肩をぽんと叩く。
 昨夜、夏清に連れられた公鷹が屋敷の門にいた武士に通され転がりこんでくると、腕に覚えがある智也は押っ取り刀で飛び出してきた。公鷹と夏清を寝殿へ案内させると自らは西門に陣取り、追手があればと備えてくれたのだ。
「本当に、ありがとうございます。命拾いをしました」
「あまり驚かせないでくれ」
からからと笑う智也にじっとりとした視線を投げつけ、千央が呻く。
「公鷹を助けたら検非違使の少尉には手がかりを殺したとか言われるし、割に合わねえ」
これが世間話なら『そんなことはない』と言えるが、生憎と実際に手がかりなので気休めも口にできなかった。何の話だと聞かないあたり、堯毅と智也にも帯刀から報告が行っているとみえる。拗ねた様子の千央に思わず笑った智也が、なだめるように声をかけた。
「だが、よく公鷹を守ってくれた。なんだかんだ言って、相手側の全員が出張ってきたわけでもないだろう。手がかりはまだあるはずだ、気を落とすな」
「落としてねえ」
千央がそっぽを向いたところで、廂から若い帳内が入ってきた。
「宮さま、ご用命の軟膏です」
「ああ、ありがとう。ほら公鷹、肘を」
 帳内が持ってきた軟膏を堯毅が手ずから塗ろうとしたので、公鷹は重ねて辞退した。昨夜だけでとんでもない迷惑をかけているのに、この上塗ってもらうことになっては本当に顔向けできない。軟膏の入った蛤の薬入れを渡され、握りしめて恵まれたわが身をかみしめていると、
「その手がかりですが……」
文机から綴じられた紙束を取り上げた堯毅が首を傾げた。
「面通しというのは少なくとも検非違使が把握している、怪しい武士団と接触した者たちを集め、斬り死にした者を見せて話を聞いたそうですね。聴取をした者たちの一覧をもらっていますけれど、公鷹も見ますか?」
「はい、拝見します」
自分も話を聞きたいと思っていたので、公鷹は首肯して受け取った。最後まで目を通したところで、思わず口をついて疑問符が出る。
「あれ」
「どうした?」
横から千央が書簡を覗き込んできた。知らない名前の羅列を見て、すぐに興味を失ったように元の姿勢に戻る。意外な公鷹の反応に、堯毅と智也も注視していた。
顔を上げると全員が自分を見ていて、一瞬びくっとした公鷹は躊躇いつつも口を開いた。
「あの……単なる記載漏れかもしれませんが、右京識の木下為末殿のお名前がありません。彼の雑色から、京識の者たちから話を聞き出そうとしている武士たちがいると聞きましたから、木下殿も会っているか、誰かが吊し上げられているのを見ていたはずです」
一同顔を見合わせた。思い出したといった顔で千央がああ、と声をあげる。
「それ、おまえがこないだ言ってたやつか。正とかいう雑色」
「はい、よく話すので……」
「すげえな。そんな内情聞けるほど仲良かったのかよ」
仕事として情報収集をするのが初めての公鷹からすると、千央の言葉は意外だった。内情、というほど大層なことだろうか。

しかし言われてみれば、あの情報は言うなれば京識の内情である。正自身、「他所の人に話しちゃいけない」と言われていると言っていた。
うっかり自分にもらしたのか? 否、そうではないはずだ。木下為末に日常的にひどい扱いをされている正が、怒られるとわかっていてうっかりするとは思えない。
では、自分を信頼して? そうかもしれない。自分が検非違使と弾正台に所属していることは話してあった。何か、自分にできることを期待されていたのだろうか。

「……手当てどころか、ろくに食事も貰えていないということだったので。僕の屋敷で食事を食べていくようにと言ってありました」
「ああ、それはいいんじゃねえの。そういう境遇なら飯とか嬉しいと思うわ」
千央が真顔で言った。
先に千央が情報を集めていた佐伯連之のような人物は珍しい。貴族の中には時に、家人や女房、雑色たちにひどくつらく当たる人がいる。京識の下級役人であれば生活も豊かとはいえないだろうし、日常の憤懣をぶつけられていたのであれば、食事を振る舞ってもらえるだけでも気持ちと空腹が楽になるだろう。
そうでしょうか、と目を伏せた公鷹の肩を、堯毅が労わるように撫でた。
「では、木下殿ですか。彼に話を聞いたほうがいいでしょうね」
「はい、明日の朝一番に京識へ……いやええと」
思わず先走りそうになった公鷹は、今日の教訓をすぐに思い出した。
「まず伴殿にご報告して、それから検非違使の鈴木殿にご相談して、木下殿のところへお話を聞きに行って参ります」
「そうだな、そうしてもらえるか。いや実は先ほど、伴殿からたいそうご機嫌斜めの文が届いておりまして。検非違使に随分と釘を刺されたようです」
きちんと行動を改めた公鷹に笑顔を向けた智也は、言葉の後半を堯毅に向かって続けた。あの状況で帯刀が相当気分を害したのは明白なので、なんとも言いようがない公鷹は口をつぐむしかない。
話を振られた堯毅は常のごとく笑っていたが、美しい青灰の瞳は少しも笑っていなかった。
「検非違使の立場では当然でしょうが、公鷹は気にしなくていいですから、引き続き調査を続けてください」
「……いいのでしょうか」
「当然でしょう。意地で言っているわけではありませんよ。京官の非違がないか取り締まるのが弾正台の職務です。都を騒がせているこの事件に京官が関わっていないか調査するのは当然のことです。期待していますよ」
きっぱりとした返答に、公鷹は半分ほっとして半分驚いていた。自分の職務への理解が正しかったことを確認できた一方で、堯毅は尹宮という立場を厭っていると思っていたので意外だったのだ。
それを公鷹の表情から読みとったらしい堯毅は、今度こそにこりと笑ってみせた。
「望んで就いた役職ではありませんが、己の役目を放棄するつもりはありませんよ。どうせやる仕事なら、成果も挙げなければつまらないでしょう?」
その言葉に智也がふ、と笑みをこぼす。式部大輔と左衛門佐の掛け持ちをしている彼は多忙だが、堯毅の家司となって五年、彼の教育も担っていたと聞く。こうした人格形成の一端は、智也の尽力によるところも大きいのだろう。
公鷹よりも前から堯毅に仕えているという千央は、当然のように笑顔で頭を垂れた。
「もちろんです。徹底的に調べあげて白黒はっきりさせましょう」
「ぼ、僕も。尽力します!」
公鷹もまた、平伏した。
自分にできることがあること、期待されていることが嬉しかった。

 しかし。
 翌日、予定通り弾正台、次いで検非違使と踏むべき手順を踏み、京識へ赴いた公鷹は、思いがけない事態に直面する。
右京識少属・木下為末は忽然と姿を消していたのだ。
そして二日後、彼は右京の八条大路沿いにある四坊十三町のあばら屋で、遺体となって発見された。

正の行方は杳として知れなかった。