翌日、弾正台の庁舎はいつになく人の出入りが激しく、隣接する兵部省や通りを挟んで向かいにある刑部省の役人たちを驚かせていた。弾正台自体が名誉職になっている現状、ちょっとした異常事態である。
前任の尹の時代から弼を務める伴帯刀にとっては、公鷹が襲撃された事件は右から左に流せる案件ではなかった。
「橘大忠(だいじょう)に怪我はなかったのだな」
四十を超えて余計な肉が削ぎ落され、眼光いや増したと評判の帯刀が小柄な公鷹をじろりと眺めて息をつく。陽も暮れかけの酉の二刻、公鷹は呼び出され弾正台にいた。

 前の夜の心労――および生まれて初めての全力疾走により疲弊した公鷹は、駆け込んだ智也の屋敷で休むよう勧められ、昼まで眠ってしまっていた。起きた時には智也はすでに出仕しており、食欲もなく汁粥だけ食していたところ、昨夜戻らなかった千央がやってきた。千央は中務卿宮の屋敷を警固していた左兵衛督の郎党にしょっぴかれ、朝になってやっと身元の確認が取れたために帰されたのだという。ゆっくりしていくようにという智也の伝言に基づき、千央が食事を振る舞われている際に弾正台から召喚の文が届いたのだ。
急ぐどころかしっかり食事を終えてから公鷹と共に来た千央が、不満げな顔をする。
「伴のおっさんよ、むしろ最前面で斬り合いした俺を心配するのが筋じゃねえのか」
「おまえを案ずるような無駄な真似をするか。事実無傷ではないか」
千央の方を見もせずに訴えを一刀両断である。公鷹が作った勘文を文机の上に置いて、皺が深く刻まれた眉間を揉むと、公鷹へ目をやった。
「……弾正は閑職となって久しいが、全ての者が無為に禄を食みに来ているわけではない。尹宮さまからも必要であれば人を動かすように言われていたはずだ。何故少忠(しょうじょう)だけを伴い、現地へ向かったのだ」
それは、とまで言って、公鷹は口ごもった。

 何故かと言われれば、失望したくなかったからだ。
 弾正台の仕事は本来、他の省や職、あらゆる京官が律令に定められた規定を破っていないか調べ、非違があれば具体的にどのようなことを行っているかを書面に起こし、問題の京官の所属する官庁に改善もしくは処罰などの対応をするよう求めるものだ。
しかし各省庁は当然ながら、旧来よりの対応を優先し弾正台からの求めに応じないことが多い。その上、弾正台は調査はできても対象の官人を捕える権限も、処罰する権限もない。検非違使が力を持っている現状、弾正のほとんどは書状による義務的な注意喚起を行うに留まっている。
 もちろんそれは弾正台の者たちが望んだことではないが、現在その状態でできることをやり、年俸をもらって穏やかに過ごしている。
だからこそ、検非違使にも籍をおく自分が持ち込んだ、相手の規模も正体もわからない群盗相手の調査など受け入れてもらえないと思った。
「これは千央さんと僕の案件であり、他の方にご迷惑をかけられないと思ったからです」
帯刀の眉間の皺がいっそう深くなった。額に描かれた縁取りだけの地抜きの木瓜がぎゅっと縮むのが見える。
「おかしなことを言う。弾正大忠が調べていることが、他の弾正に迷惑になると? 源大疏はどう考えるか言ってみたまえ」
「は」
隅に控えていた源永峯は、目礼して前にわずかにいざり出ると、きっぱりと言った。
「妄言でございますな」
「うっ」
「大忠殿なりのお気遣いであることは承知しておりますが、(ともがら)としてあるまじき行動です。まして怪しき呼び出しにお一人で応じられるなど」
「俺いたんだけど。ねえ」
直球で怒られた公鷹が胸を押さえる横で、千央が自分を指して自己主張したが、例によって永峯はそちらを見もしなかった。眉間を揉みながら帯刀が唸る。
「いや実際、今回は少忠はよくやった。いい機会だから断っておくがな、大忠。出所不明の文を受け取りながら私に報告せず、少忠のみを伴い出向くなど言語道断だ。ここはそなたが以前いた刑部省ではない。以後単独行動は慎め」
語気が強まる。弾正台を実質的に動かしてきた帯刀にとって、所属する官吏が自身にすべて報告せず行動したことなど、過去なかったことだ。
殿上童に号泣されたという噂のある憤怒の表情に、びくっと肩を震わせた公鷹は平伏した。
「申し訳ありません! 己が部外者であるように考え行動しておりました。以後このような勝手な行動はいたしません」
「そうしろ。二度とこのような報告は聞きたくない」
溜息まじりの言葉が思いのほか柔らかく、本当に心配をかけていたのだと思い知る。
彼を失望させたこと、そして振り返って考えてみれば、同僚たちとの間に勝手に一線を引いた己の行動に恥じ入るばかりだった。刑部省にいた時なら、上官になにも報告せずに行動を起こすことなどなかっただろう。
申し訳ない気持ちと同時に、帯刀の思いやりが嬉しかった。
一方で、一向にありがたみを感じていない様子の千央のほうを向いた帯刀が唸る。
「少忠、他人事のような顔をしているな。おまえもだ。きちんと報告しろ」
「へいへい」
まったく堪えていない顔で千央が首肯する。その様子をじろりとひと睨みした帯刀は、公鷹と千央から、室内に控えていた二人の弾正たちに視線を投げて話を続けた。
「前置きが長かったが本題に入ろう。おまえの殺害を企てる時点で、相手にとって致命的な失敗か、あるいはおまえの調査が己が身に迫っていた可能性がある。殺害に失敗した以上、相手が都から逃走を図るかもしれん。手空きの者に手を回してもらった。報告を」
一礼した二人が相次いで報告を始める。
「東および西の市司(いちのつかさ)に協力を要請し、大量の米や塩、馬、馬具等の注文が入り次第連絡が参ります」
「九条少忠殿が斬った武士が四人、大忠殿の郎党が一人、左兵衛督の郎党が二人。待ち伏せしていた武士は十人とのことでしたので、残りは三人と思われます。足跡や松明等の痕跡を見るに、北へ逃走したと思われます」
二人のうちの片方が、普段口をきいたこともないもう一人の少忠、清原澄直(すみなお)だったことに公鷹は驚いていた。来年、帯刀と同じ四十二歳になる彼は従来どおりの仕事を黙々とこなす人で、こうした例外的な仕事をしたがるようには見えなかったからだ。
余程驚いた顔をしていたのか、清原は公鷹の顔を見てちょっと笑った。
「橘大忠殿。確かに私はやり方を変えるのが好きではない。他所からきた君と敢えて親しく交流しようとも思わなかった。今回の騒動が京官によるものでないなら興味もなかった。だが、我が子より若い君を殺されそうになって平然としていられんよ」
目尻に笑い皺を刻んだ彼にそう言われ、公鷹は深く頭を下げた。

 話が途切れた時、にわかに東面の廂が騒がしくなった。誰かの訪問のようだ。それがあまり好意的でない人物であろうことは、弾正たちの尖った声でなんとなく伝わる。帯刀が眉を跳ね上げて、廂側に控える弾正に問いかけた。
「あれは何の騒ぎだ。これ以上の騒動は御免だぞ」
「確認してまいります」
そう答えた彼が立ち上がるより早く、騒動の塊が外から近づいてきた。「外で少々お待ちください」だとか「困ります」だとか弾正たちが制止を試みている様子をみると、何者かは問答を振り切って来ているようだ。
公鷹と千央が顔を見合わせたところで、妻戸が開け放たれた。途端に帯刀が不機嫌そうな声を押し出す。
「これはこれは、検非違使が弾正台へ何の用であろうな」
入ってきたのは検非違使少尉(しょうじょう)・鈴木尚季と、その伴らしいもう一人の武官だった。千央もなんとも複雑な表情になったが、口に出しては何も言わない。一方、鈴木はいっそ機嫌よさそうに一同を見回した。
「おお、これは伴殿、それに弾正台お歴々の皆さま方。お集まりのところ恐れ入るが、今日は殺害未遂事件のお調べで参上した」
殺害未遂。つまり公鷹が襲撃されたことを、事件として取り扱うということだ。
「あー、橘大志(だいさかん)。勘文を作るので同道願いたい」
弾正台まで来てわざわざ公鷹の検非違使での役職を口にするあたり、鈴木少尉もなかなかに性格が悪い。その一言で、素直にも清原が「そういえばこいつ検非違使にも席があるんだった」と言いたげな渋面になった。他の弾正たちも概ね似通った心情であろう。
もちろんお構いなしで鈴木は公鷹を連れて行こうとしたが、思いっきり他人事の顔をして見ていた千央が口をはさんだ。
「それ別にどこでもできんだろ。ここでできねえ理由があんのか?」
「おまえに説明せねばならない理由はない。立て、橘」
遠慮もなく「余計な口を」という顔をした武官――恐らくは公鷹と同輩の大志であろう――が公鷹の腕をとって立たせようとしたが、突然、轟くような怒声が発せられた。
「控えよ。この弾正弼の前で、私の許可なく弾正大忠を連行すると申すか」
ぎょっとした表情で、声に弾かれるように武官が公鷹から手を離す。
位階でいえば伴帯刀は正五位下、この場で最も発言力があるかに見える検非違使少尉の鈴木尚季は正七位上で、話にならない。それでも都の安全を預かる検非違使の権限は年々付与され続け、今や治安維持と捜査権に関しては他の官庁の及ぶところではない。
それをよくわかっている鈴木は、床に膝をついて帯刀に向かって会釈をしてみせたが、口調は一向に恐れ入っていなかった。
「これは意外です。伴殿は手下(てか)を襲った下手人を追捕するおつもりがないので? 橘の身の安全を図るためには、詳細な聴取に基づいた調査が必要です」
「そんなことはわかっている。だがな、追捕できぬだけで、我ら弾正とて都のうちの治安維持、調査と取り締まりを行うことは権限のうちだ。当然、橘の襲撃事件についても調査を行う。――この言葉の意味はわかるな?」
む、と鈴木が眉を寄せた。

追捕する権限がない弾正たちが襲撃犯を探す。かつてないことだが、それは最悪の場合は下手人と思しき者を斬る、とも受けとれる。そうなればもちろん弾正台が糾弾されるのは免れまい。だが、一方で身内を襲われたがためとあれば擁護する声も上がるだろう。
その場合、先に下手人を捕えられなかった検非違使の面子はつぶれる。

 しかし、昨今は目立つ動きもなく、権限を奪われるままだった弾正台の弼がどうしたことだろう。今更権限に執着でも生じたのか?
あるいは、昨年新たに尹となったという噂の親王の影響だろうか。

息をついて、鈴木は眉間を揉んだ。ここでわざわざ弾正台を刺激する必要はない。最終的に公鷹がここへ戻って来て話すのなら、どこで言おうと同じことだ。
「では、こちらで話をさせていただこう」
そう言うと、帯刀の眉間の皺がいくぶん浅くなった。