息が嗄れる。見つけてもらいやすいよう大路を走ってきたものの、追い付かれては意味がない。さっき越えた橋は西洞院川にかかるものだろう。とすると、今入ったこの小路は町小路だろうか。追手の視野に入らないよう六条大路から北上したが、あまり逃げ惑うと夏清や千央に見つけてもらえなくなるかもしれない。

 文の指示どおり、戌の一刻に左京七条二坊八町に足を運ぶと、猪熊小路と六条大路の交わる角にちらりと網代車が見えた。関係ない人物の車かもしれないが、念のため追って角を南に曲がると、北三門の小さな屋敷へ入っていく。従者はおらず、牛を牽く牛飼童だけのようだ。門は開け放たれたままで、中には小造りの屋敷が見てとれる。

既に辺りは闇の帳が下り、夏清の持つ松明がないと不安なほどだった。相手に逃げられることを恐れる一方、これがただの悪戯や、公鷹の留守に橘の一族を狙った罠である可能性も考えると、迂闊に屋敷の郎党を動かすことも躊躇われる。その結果、公鷹は夏清と千央の三人で指定の場所に向かったのだ。

 広廂の辺りに揺れる灯明が見え、庭に踏み入った瞬間に、対屋の陰や庭の木陰から男たちが姿を現した。正確に何人いたかまでは把握できない。いずれも黒っぽい頭巾をかぶり、顔や額の紋がわからないようにしている。頼りない月明かりの下、そのうちの数人が弓に矢を番えるのが見えた。
矢。そうか、こちらの手元に松明があるから、向こうからはよく見える。
咄嗟のことで、矢が自分と夏清めがけて放たれるのを呆然と眺めて――千央が狩衣の裾を掴んで力任せに引きずってくれたことで救われた。矢が横手にあった木の幹や地面に突き立つ。
次いでものも言わずに太刀を抜き放った男たちが殺到してくるのが見えた。
「若、お逃げください!」
ぱちん、と目の前で何かが破裂したように感じて、頭がはっきりする。松明を押し付けながらの夏清の言葉に、一も二もなく公鷹は従った。
勉学であればある程度できる自信があったが、太刀だの矢だのといったことにはまるで縁がない。それどころか、二十丈だって走ったことがないのだ。
庭を突っ切り門を飛び出したところで、横あいから刃が突き出される。身をすくめかけたが、滑るように間に身を割り込ませた千央が抜いた太刀が、耳障りな音をたてて刃の軌道を逸らしてくれた。
「行け! こいつらを片づけたら追う!」
言うと同時に千央は太刀を跳ね上げ、がらあきになった男の胴を薙ぎ払った。苦鳴をあげて崩おれる体を蹴って距離をとり、低い笑い声をあげて公鷹との間に立ちはだかる。
「俺の上官を斬らせるわけにはいかねえな」
自信に満ちた声を背に、笑いそうになる膝を奮い立たせて公鷹は走った。
千央がどういう出自であるかを全く知らないが、彼が信頼できること、尭毅の帳内の筆頭を務めるほど腕がたつことは知っていた。とはいえ、知っているのと実際に目にするのとでは全然違う―――なるほど、智也が堯毅の護衛を任せるわけだ。

 それからどのくらいの時間が経ったのか、まるでわからない。松明を目印にして夏清や千央以外の者に見つかれば太刀打ちできないから、松明は捨てた。暗がりに身を潜めて疲れきった体を休めている。もう一歩だって歩けないほど疲れきっていたが、追手が来たらまた走らなければならない……走れるだろうか。

 なんとか頭を落ち着かせる。何故こうなったのか。間違いなく、今調べていることが誰かにとって都合が悪いからだ。身分と名前を明かして割と派手に聞き込みをしていたから、自分を尾行すれば屋敷の場所も簡単にわかっただろう。
しかし、自分は仮にも検非違使に籍を置いている。都合が悪いとして、そんなに気軽に口を塞ごうと思えるものか?

そこまで考えて、公鷹は己の考えに失笑した。相手はもしかしたら、左京大夫すら殺そうとしていた相手かもしれないのだ。よく考えたら自分は刑部省から来た他所者であり、検非違使からすればおよそ仲間とは言えない立場にいる。自分が殺されたとしても、検非違使が「本腰入れて捜査しなければ」とはならないだろう。
つまり、口封じして捜査を妨害しようと思えば、成功するかもしれない。

 初めて、殺意を浴びせられた。
 思い返しても恐怖で足が、手が、全身が震える。
 人の殺害を企てるような相手に、自分が殺意を持たれていることが恐ろしい。

時折人の悲鳴と逃げ去る足音が聞こえるところを見ると、太刀を持った男たちはまだそこらにいるのだろう。そしてあの男たちも、無関係の都人を手にかけるほど無差別でもないらしい。今は自分を探して殺すのが優先だからか。
このままここで隠れていれば大丈夫だろうか。いや、むしろこの近辺には、ある程度上流の貴族の別邸や隠棲屋敷が多い。どこかの屋敷に行って事情を話して、せめて門前で待たせてもらったほうが安全だろうか。
そこまで考えて、やっと公鷹の頭が回り始めた。そうだ、智也の屋敷はここから東に一町、北に三町行った六条三坊八町にあるはずだ。なんとかして、そこまで行かなければ。
呼吸を整えて、月の光が届かない築地の陰からそっと出た途端、後ろから銅鑼声があがった。
「見つけたぞ、この野郎!」
振り返ると黒い頭巾をかぶった男が立っていた。右手には月光をぎらりと跳ね返す太刀。

ああ、しくじった。自分の身元を調べたのなら、家司殿の屋敷へ逃げるかもしれないと網を張っていて当然だ。暗い色の直垂と括り袴を身につけた男が自分へ手を伸ばす。
と、突然男がくぐもった声をあげてつんのめってきて、公鷹はその場に尻餅をついた。ぐらりと頭巾がずれて、赤黒いものを口から噴き出した男が膝をつく。よく見れば、その腹から血に濡れた切っ先が突き出ていて、男の後ろから千央が姿を現した。
「……ち、ちひろさ」
「ぼさっとすんな、智也の屋敷に駆けこめ!」
賊の背から腹へ突き出たのは千央の太刀だった。路に崩折れてぶるぶると震える男の手から太刀を奪い、轟くような叱咤を浴びせてくる。
はっと我に返った時、千央の後ろから夏清が駆け寄ってきた。
「若、お怪我は?!」
夏清に腕をとって助け起こされ、公鷹はなんとか立ち上がった。見れば、夏清も直垂のあちこちに血の染みをつけているようだ。
「僕、は大丈夫、だけど、夏清は…」
「ご心配には及びません。さあ!」
ぐいと手を引かれて勢いのままに走り出し、肩越しに振り返って公鷹は目を瞠った。
追手が二人、路の真ん中に立ちはだかる千央へ斬りかかろうとしている。どこかぎこちない動きなのは、彼らが手足に小さからぬ傷を負っているせいのようだ。
「若、お早く! 九条殿にとっては我々が近くにいるほうが難儀でしょうから!」
夏清に促されて、公鷹は前を向いた。足に力をこめて走る。

 これでわかった。自分が刺激した相手は、自分を殺してでも捜査を進めさせたくない。それも、こんなに執拗に追い回すほど後ろ暗いことをしでかしている。
絶対に明らかにしてやらなければならない。
「貴様ら! 先の中務卿宮(なかつかさきょうのみや)さまがおわす万華殿の南面で何の騒ぎか!」
誰何の声が聞こえてくる。検非違使か、それとも家司殿が言っていた左兵衛督の郎党か。
いずれにせよ、これで何とかなった、かもしれない。今まで経験したことがないほどの力走の連続で吐きそうだったが、堪えて、公鷹は足を動かした。