息が続かない。喉がひりついて声が出ない。もっと早く足を動かして、なんとかして追手から逃げなくては。そう思うのに、もう足に力が入らない。今までこんなに死力を尽くして走ったことはなかった。
都を東西に貫く大路のうちの一つ、六条大路をずいぶん東へ来た気がする。天の半ばを過ぎた上弦の月がよく見えた。輝きは望月には遠く及ばぬものの、開けた場所であれば見通しは悪くない。だから。
「いたぞ、あそこだ!」
銅鑼声が西から聞こえてきた。見つかってしまったらしい。公鷹は荒ぶる呼吸のまま、再び走り出した。その瞬間に後ろを振り返ると、見るからに荒っぽい生業――それこそ物盗りや殺人を行いそうな、無精ひげを顎いっぱいに生やした男が抜き身の太刀を持って走ってくる。このまま見通しのいい場所を逃げるのは無理だ。
どうして僕が。言葉にならない想いをかみしめて、公鷹は昨日からのことを思い返した。


 かつて夜討ちや強盗の被害に遭った屋敷や、賊の疑いをかけられた武士団などから聴取したいことがある、と検非違使少尉の鈴木尚季に具申したところ、一緒に聞き込みに行くよう放免(ほうめん)に口添えをしてくれた。聞き込みを始めて二日、五月九日になるとさまざまなことがわかってきた。

 まず、少しばかり不穏なのが、佐伯伊之が死んだ日に七条の西堀川で死んでいた二人の武士を知っているかもしれない、という者が現れたことだ。風体からしてまっとうな感じがしない、右京の寂れた小路あたりでたむろっていそうな男だったという。
二人の武士の死体は既に葬送地である鳥辺野(とりべの)へ送られており、勘文に控えてあった特徴が、その怪しい風体の男の話と一致したということらしい。別に肉親というわけでもなく、一緒に酒を飲んだことがある程度だそうで、「そうか」と言って男は帰っていったという。
「なんだよそれ。そいつを追っかけなくてよかったのか? それこそ都を騒がす賊の身内とかだったらどうすんだ」
千央はそう言ったが、半笑いであるところを見ると、彼自身そう思ってはいないようだ。
「僕に言われても……それに、武士は二人とも、ほとんど身包(みぐる)み剥がされていたんです」
「そりゃな、多少汚れてたって(きぬ)剥いで持ってくだろうよ。もし太刀でもありゃ、多少(なまくら)でもいただきだ」
「賊みたいなこと言わないでくださいよ」
しかしそれだけ、都に住まう民でも困窮しているということではある。千央や公鷹のように俸禄が出ていてさえその言葉に納得するほど、都の貧富の差は激しいのだ。日常着るための衣さえ入手が楽ではない貧民が多い右京では、死体が身包み剥がれるのは日常茶飯事。
いずれにせよ、身元が分かりそうなものは何一つ残っていなかったので、こればかりは手の打ちようがない。

 そしてかつて賊の疑いをかけられたことがある、という武士団をいくつか訪うと、相当に人相風体の怪しい者たちに絡まれたという話があちこちから出た。左兵衛佐が死んだ日にどこにいた、右京で男を殺したんじゃないか、というようなことを聞かれたという。
東西の市の辺りにたむろっていた無頼の者たちに至っては、空き地に引きずりこまれて同様の問をされ、適当にあしらうと暴行されていた。絡んできた者たちはいずれも額の紋がないか、消した痕跡があったという。つまり身元の予想も立てられない。
「あれか、智也が言ってた左兵衛の郎党か?」
瓶子(へいし)から手酌で酒を杯に注ぎながら千央が首を傾げたが、公鷹は首を振った。
「彼らなら怪しい風体なわけがないと思いますよ。むしろ正が言っていた、京識を嗅ぎまわっているという怪しい武士団のほうがしっくりきます」
あの二人の武士の死について京識から話を聞き出せなかったのか、京識によるものではないという確信を得たのか。どちらかの理由で、今度は都にいる無頼の者たちの尋問を始めたのだろう。
「あー、なるほどな。つまり、身内が殺されたことに気が付いて、犯人が同類かと思って手当たり次第に探してる、後ろ暗あいところがある奴らがいるわけだ」
機嫌良さそうに酒をあおる千央にため息をついて、公鷹は自分の膳から箸をとると、焼き鯛の身をほぐして口に運んだ。考えることが多いあまり、夕食の膳の横に勘文の束をおいての行儀の悪い食事になっている。
千央は「暑いし酒だけでいい」と言ったらしいが、さすがに酒だけ出すわけにもいかなかったと見えて、気を利かせた百瀬が水飯(すいはん)と香の物、汁物、唐菓子を整えて出している。椀をあおった千央がぱっと嬉しそうな顔になった。
「おお、この汁物美味いな! さすがに受領の息子はいいもん食ってるぜ」
鰹魚煎汁(かつおいろり)ですね。別邸からいろいろ送ってくれるんです。僕の稼ぎでもらっているわけではないので、忸怩たるものはありますけど」
公鷹に十分な蓄財をしてくれたのも、別邸を残してくれたのも、気立てのよい郎党や女房たちを残してくれたのも父祖だ。出仕し始めたばかりの公鷹には、まだ一族を養うだけの稼ぎがない。
唇をひき結んだ公鷹をちらりと見て、千央が朱塗りの杯を膳に置く。
「不満か知らねえが、身内や身内が残したものも才能の一つだぞ」
思わず、目を瞬いて彼を見た。そんな視線を面倒そうに顔をしかめてかわして、千央はひらひらと手を振ってみせる。
「なんだよ、俺がんなこと言ったらおかしいか? けどそういうもんだ。誰でも持ってるわけじゃねえ。おまえを形作ったものは、斜に構えねえで自分のものとして活用しろよ」
 公鷹は箸を置いた。目の前の品のよい朱塗りの膳や杯、椀、盛られた食品を、快適に設えられた室内を見やる。才能の一つ、と考えたことはなかった。そういう考え方もあるのか。
祖父や父から与えられた、生まれた時から身の回りにあるさまざまなもの。
そういえば、どんなものも正しく使うことが大切だ、と父は言った。であれば、確かに千央の言うことには一理ある。
顔をあげると、汁物を完食した千央がうまそうに杯を傾けている。
「おまえなら悪用はしねえだろ?」
「ありがとうございます」
少し背負っていたものが軽くなったような心地がして、自然と礼を言っていた。楽しそうに千央が笑みをこぼす――と同時に、ふと思い出したように言った。
「そういや、おまえの屋敷の前でその、正? それか知らんが、なんか(わっぱ)が棒立ちしてたぜ」
思わず公鷹は立ち上がった。
「いつですか?!」
「さっき俺が来た時」
「なんで連れてきてくれないんですか!!」
思わず強めに訴えると、彼もなんとも難しい表情を浮かべた。
「いや……なんか挙動不審だったし、屋敷見てびびってんのかと思って声かけたんだけどよ。近づいたらすげえ驚いた顔して、脱兎」
ありそうなことだ。こう言うとなんだが、千央は明るいところで見れば異国情緒の強い美丈夫だが、暗い中で出会ったら大柄なだけになかなか怖い。自分相手でもびくびくしている正であれば、かわいそうに、鬼が出たと思ったことだろう。
がっくりと肩を落としていると、蔀戸の向こうから百瀬が控えめな声をかけてきた。
「若、文が届いております」
「文? 誰から?」
「それが、わかりません。先ほど網代車で来た女童(めのわらわ)が置いてゆきました」
百瀬が困惑しているようだが、千央も一瞬囃したてようとした表情をひっこめて、公鷹と顔を見合わせた。

女童が文使いにきたとあれば、普通はどこかの姫からの艶めいた手紙と考えるものだ。しかし更に普通で言えば、そもそも女性から先に文が来ることはない。想う姫へ男性のほうから文を送り、もし文の内容が気に入れば、気が向いた時に姫から返事が来るものだ。
女性からの文であれば、届けば男はほぼ例外なく返事を書くものだから、使いの女童が返事を待たずに帰るのはおかしい。

 遠慮がちに入室してきた百瀬が手にしている文には、折り枝として藤紫色の花を咲かせた山菅(やますげ)が添えられている。一見したところ雅な文だが、胡散臭そうに文を見やった千央は、しかめっ面をぐっと近づけてきた。
「一応聞いとくが、どこぞの姫に文でも出したか?」
「僕にそんな甲斐性があるとでも?」
百瀬から文を受け取り、花に結ばれた文を開きながら、公鷹はお返しにぶすっとした顔をしてみせた。正直、今は女性どころではない。
 藤色の料紙(りょうし)からかすかに香が香る。なよやげな女文字でしたためられていたのは恋心を匂わせる歌ではなく、用件だけを伝えるそっけない文章だった。
「――左兵衛佐殿の殺害についてお伝えしたきことあり。明日戌の一刻、東市の北、八町北三門へ来られたし。だそうです」
「いっそ清々しいぐらいの見え透いた罠だな。本当に万が一、女かもしれないって期待をさせるあたり、女慣れしてない奴向けで完璧だ」
「そんな勘違いする人いますかね」
少なくとも、今現在そちらの方面の情動に乏しい公鷹には効果的ではなかったようだ。
だが二人の武士の死に関わる情報、もしくは佐伯伊之の死についてか。いずれかに関わるものが、公鷹を釣りあげようとしている。
「戌の一刻か。ちょうど陽が落ちる頃合いじゃねえか。弾正を十人ばかし連れて行こうぜ」
「いえ。逃げられるかもしれません」
この手がかりを逃がすわけにはいかない。返答を聞いて、千央が獰猛な笑みを浮かべた。
さて、釣り上げられるのはどちらになるか。