「まじかよ」
前に付き合っていた女房が、やたら愛読していた物語の冒頭をやっと思い出した。
「『すぐれて時めき給うありけり』だっけか」
そんな感じだ。眉目秀麗、衣も上等で縫い目がきれいな直衣を身につけた若い貴族。こんな品のいい衣を身につけているんだからさぞかし金持ちで、きれいな嫁さんもいるんだろう――けれど。
「まあ、死んでちゃあな」
宿酔《ふつかよい》気味の頭を振って、九条(くじょう)千央(ちひろ)は生欠伸をかみころした。


場所は右京六条。端午の節句も近い四月二十九日、夜半を過ぎても知人と飲んでいた。明けて三十日、どこかから太鼓の音が聞こえるなあなんて笑っていたら、御所の開門を知らせる開諸門鼓(かいしょもんこ)だった。
これから帰って風呂入って髭あたって食事して出勤?
無理に決まっている。よく偉い貴族がやってるように、帰って物忌みと言い張って寝ようか考えたが、それすら面倒くさい。
とりあえず上司の屋敷に転がりこもうと思って、朝焼けに染まる西堀川小路を北に向かって歩き出したら、左の垣の下に血が溜まっている。
見なかったことにして通り過ぎようか、などと考えて顔を上げた瞬間、みすぼらしい板塀の破れ目から見える鬼灯の花の海に沈むようにして、若い男が倒れているのが見えた。
「それで切懸(きりかけ)の横板を剥いで敷地に入り込んで、確認したら死体だったと」
「そうだよ」
検非違使(けびいし)少尉(しょうじょう)かつ右衛門(うえもん)少尉である鈴木尚季(なおすえ)は、出勤するなり放免(ほうめん)たちから殺人事件の被疑者を捕縛したと報告を受けた。しかし捕縛された九条と名乗る本人は、死体を発見しただけだと主張している。
これがそこらの下級貴族や武士なら、とりあえず脅すか拷問でもして話を聞くところだが、どうもそうではないらしいと思っていた。
「振り返ったら周りに人だかりができていて、駆けつけてきた放免にとっ捕まったと」
「そうだよ!」
「いや、それ捕まったやつが言う定番の言い訳だが、あんたは畏れ多くも宮様の帳内(ちょうない)で、しかも弾正台(だんじょうだい)に所属していて、どっちかというと取り締まるほうだというわけだ」
「そうだよ!!」
自棄を起こしているらしい彼を見るに、まあ本当だろうなと思う。弾正少忠(しょうじょう)は身分を偽ろうとしてとっさに出るような職名ではない。嘘をつくならもっと潰しの利く名乗りをするだろう。念のため彼の上司という者を呼んではいる。
だいぶ酒臭いが証言も口調もしっかりしている以上、酔っての戯言でも嘘でもあるまい。
しかし、開諸門鼓まで飲み歩くような不真面目な男が、仮にも親王の護衛を務める帳内というのはどうにも信じ難い。
ふと、目の前の男が顔をあげて、しかめ面で唸った。
「水くれねえか」
それもそうか。寅の四刻ごろに捕縛され、卯の三刻の今まで拘禁されていれば喉も乾くだろう。少尉は妻戸を開けて人を探し、幸い近くにいた武官を呼びつけた。
「おい、水を一杯持ってきてくれ」
「少尉殿、武士の死体があると通報が」
「何? 殺しの多い日だな、放免を向かわせろ」
水を申し付けた時だけ後ろを向いた少尉は、報告を受け手早く指示を済ませるとすぐに千央へ顔を戻した。
「……しかし、あそこら辺は誰が住んでるかもわかったもんじゃないだろう。弾正少忠殿が通う女でもいるのか?」
口調から、本気でそう思っているわけではないらしいと千央は思った。

 そう、あいにくと自分は弾正少忠という役職にある。検非違使と弾正台、複雑、というか厄介な関係性だ。放って帰ってあらぬ疑いをかけられても面倒だ――と思ってやむなく検非違使の到着を待ったところ、その放免にすぐさま検非違使の使庁へ連行されたというわけだった。

「知り合いのとこで飲みすぎて朝になっただけだって。土御門大路の北の、弾正大忠(だいじょう)の屋敷へ向かうとこだった」
今日も使庁は多忙を極めているようで、先ほどからひっきりなしに放免を引き連れた火長(かちょう)が走り回っている。捕縛され土間に座らされている男たちが喚き散らすのが聞こえた。
「ふざけんな! 俺らなんか捕まえてる暇があったら、夜討ち野郎を捕まえろよ!」
「そうだそうだ! 何人死んでると思ってんだ!!」
「黙れ盗人風情が! お前らにさっき負傷させられた奴に言ってみろ!」
どちらも相当頭に血がのぼっているようだ。
青息吐息の舎人が持ってきてくれた椀に一杯の水をあおり息をついた千央に、少尉は意地の悪い笑みを見せた。
「では、死体について弾正少忠殿の所見を伺いたい」
 千央は眉間にしわを寄せ、椀をぐいと突き出した。
見るからにいいとこの貴族が殺された経緯になど、正直一分の興味も持てはしなかったが、「弾正少忠九条千央は発見した死体もろくに見ていない」などと検非違使に揶揄されるのは業腹だ。自分はともかく弾正台の長の評判にかかわる。
「左から右へ首を掻き切られてた。んで、直衣が相当血を吸っていたが乾いていなかった。殺害はせいぜい俺が見つける四半刻前ってとこだ」
「ついでに犯人を見てくれているとありがたいんだが」
「生憎見てねえんだよなあ。で、あのお坊ちゃんはどこのお貴族様なんだよ。まさかまだ不明とは言わねえよな?」
椀を受け取った少尉の眉尻がぎゅっと跳ね上がった。

 今上帝のおわす内裏と官庁をぐるりと囲む築地塀に囲まれた区画を大内裏と呼ぶが、その出入口の門は十二ある。その門と周辺の警備を担うのが衛門府(えもんふ)であるが、一方で都の治安を守る検非違使は衛門府に所属する者が兼帯している場合が多い。大内裏の警備との兼帯者で大部分が構成された検非違使は常に忙殺され、都で事件が起きても必ずしも解決できるとは限らない。なんなら調査すら行われない場合もある。
だが、そもそも都の監察と治安維持を預かっていた弾正台から職掌を奪ったようなもので、そこを当てこすられると複雑な立場だ。

ため息をついてから少尉は千央の質問に答えた。
「別当殿がご存じだった。左兵衛(さひょうえの)(すけ)の佐伯伊之(これゆき)殿、秋の除目で左近少将になられるはずだったと聞いている。あんな場所で亡くなられるなど、信じられん」
「左近少将だあ、あの小僧が? あー顔だろ。どっかの婿か!」
「口を慎んでもらえんか。あと顔はあんた、人のこと言えんだろ。唐人の孫かなんかか?」
いたって普通、なんなら凄みすらない、男として可もなく不可もない三十路相応の顔面をしている少尉が渋い顔をしてみせ、千央もぐっと眉間にしわを寄せることになった。
「……五代か六代前が胡人だ」
少尉が目を丸くする。

 胡人といえば、唐の西方にある国の住人だ。以前使節団を見かけたことがあるが、大柄な者が多く、背丈は六尺ほどもある者も少なくなかった。実際、千央も六尺に三寸ばかり足りない程度で、この都においては背が高いほうに分類される。

「道理でな。女官たちが騒ぎそうな顔をしてる」
都で見目よい顔立ちといえば、色白細面の顔に切れ長の瞳というやつだ。しかし胡人を祖先にもつ千央は、掘りの深い顔立ちとはっきりした目鼻立ち。左目の下の黒子が特徴的で、貴族的とは言えないが如実に異国情緒を漂わせる、人目を惹く整った顔だった。
そして、都で役職を持つものなら当然あるはずのものが、千央にはない。
「で。九条家所縁の者なら、なんで紋がないんだ」
これも想定内の質問だった。そう問う少尉の額には、黄みがかった赤い染料で三つ鈴紋が描かれている。

 海の彼方にある大国・唐からさまざまな文化が流入し、唐風文化として大いにもてはやされてきたが、その一つが花鈿(かでん)だ。本来女性の化粧だったが、今や貴族たちが己の家門を象徴するためにする目印となっている。自分の紋は額だけでなく、日常身につける衣や持ち歩く小物、牛車などにも入れるのが貴族の特権となっていた。
この染料は高価で、誰でも手に入れられるわけではない。また、花鈿に使われる染料は何種類かあるが、特に緑礬(ろうは)は発色がよく人気で常に品薄だ。従って花鈿の濃淡がその家門の権勢を物語る。当然ながら、生活するので精一杯の庶民は花鈿などしていなかった。
鈴木尚季は武門の家柄らしく、鈴という器物を紋にしたものだが、宮中で大多数を占める藤原氏の紋は木瓜や藤の花など美しい花が主だ。次に多い源氏は三ツ星か桔梗。藤原氏の傍流である九条の姓をもつなら藤の花の紋があるはず、と思われているのはわかっていたが、説明するのが面倒で言い淀む。

 と、人の往来の激しい房の外で誰かが足を止めた。衣をさばく音からすると座ったのだろう。二人が振り返るのと同時に、張りのある声がかかる。
(たちばなの)公鷹(きみたか)、参上いたしました」
「入ってくれ」
少尉の声に応じ、妻戸を開けて一人の少年が室内へ入ってきた。
いかにも出仕して間もないといった、深緑の袍にまだ着られているような感すらある人の好さそうな容貌。額に簡略化された結び桔梗の紋がある彼は、少尉に会釈をすると、明るい鳶色の瞳をしかめ面の千央に向けた。
「事情は伺っています。大変でしたね、千央さん」
「本当だよ。朝飯も食いっぱぐれてんだぜ。なんか持ってきてねえの?」
公鷹と名乗ったにこりと笑った笑顔には愛嬌があったが、出てきたのは表情とはほど遠い適切な指摘だった。
「食事なさりたいならもっと早く帰ってください。それ以前に、なんで僕の屋敷に朝帰りなさろうとしたんですか?」
それは俺も知りたい、という顔で少尉も振り返ったが、千央が悪びれもせず天井を仰ぐ。
「あーあれだよ、ほら、なんか方角が悪かったから方違えでお前の屋敷にな」
「昨日の朝はそんなお話しなかったように思いますが。それに、出仕を控えてそんなにお酒を召されて、挙句遅刻はちょっと」
「おお? おめえ結構な口をきくようになったじゃねえか」
「僕、お酒の匂いに弱いんでちょっと失礼しますね」
袍の胸ぐらを鷲掴みにして引き寄せられた公鷹が、檜扇を開いて千央との間に立てた。若干顔色が悪くなっているところを見ると、彼は本当に酒の匂いに弱いのだろうと思われる。千央より二寸ばかり小さいが、声を荒らげる千央に怯える様子がない。
一方の千央はおよそ大内裏にはふさわしくない梅の重ねの狩衣姿、かろうじて頭に烏帽子が乗っている程度だ。
一応さっき聞いたことを確認しておこうと思って、少尉はまだ話が通じそうな公鷹に声をかけた。
「橘大志(さかん)、彼の話によると、君は彼の上役ということだが」
まだ胸ぐらを掴んで引きずられたまま、公鷹はまたにっこりと笑ってみせた。
「はい、少尉殿。僕は検非違使において大志を、弾正台では大忠を兼任しておりますので、千央さんは僕の部下です」
「へえ……」
確か公鷹は、昨年から出仕を始めたばかりの十代だったはずだ。弾正少忠はどう見ても二十代半ば。役職と年齢の逆転自体は珍しくもないが、襟首を掴まれていながらわずかも動じない上司と遠慮なく文句を垂れ流す部下、両者の心情が全くわからない。
もう帰ってもらおう、と少尉は思った。