自室に入った途端、糢嘉は制服も脱がずにそのままベッドの上に寝転がった。
 なんだかとても疲れた一日だった。しかしこれは心が晴れやかになる悪くない疲れだ。
 糢嘉がトレーナーとスウェットパンツに着替えようとして体を起こそうとしたら、スマートフォンが鳴った。
 画面を確認すると弥宵からのラインだった。
 そこには先程、公衆の面前で不意打ちにキスをされた画像が添付されていた。
 弥宵と別れてからまだ十分も経過していない。
 確かに糢嘉は弥宵に直接、自分もその画像が欲しいと言った。それは認めるが、そのあまりの早すぎる行動力に糢嘉は唖然としてしまったのだ。
 改めて見るとなんて恥ずかしくてアホっぽい画像なんだと、糢嘉は画面を直視できずに数秒間見るのが限界だった。
 それでも喜びの感情のほうがはるかに勝っており、糢嘉は即座に永久保存した。

 夕食後、入浴を済ませた初露が濡れた髪をタオルで拭きながら糢嘉の部屋に顔を出した。
「糢嘉、お風呂あがったよ。次に入る?」
 最初、初露は耀葉に声をかけたのだが、耀葉は誰かと楽しそうに電話中で、手だけで「シッ! シッ! あっちに行け!」という仕草をされた。
 そんな耀葉の態度に少しばかり腹を立てた初露はわざと大きな声で「彼女と電話でもしているのお~」と茶化したら「うるさいな! 友達だよ!」と怒鳴られた。
「初露はどうしてそんなに弥宵のことを嫌うんだ?」
 弥宵の前では恥ずかしい気持ちが上回ってしまったのと、まだ慣れていないということもあり『弥宵』と下の名前で呼べなかったのだが、弥宵のいない初露の前ではごく自然に呼ぶことができた。
 初露は何も答えずに、ただ険しい表情を糢嘉へと向けて何やら真剣に考え込んでいる。
「初露、いつもありがとな」
 こんなふうに糢嘉が初露にかしこまってお礼を言うのは初めてのことだった。
 ちゃんと言葉に出して伝えたことはなかったが、糢嘉は常に初露と耀葉に感謝する気持ちを忘れない。
 糢嘉は弥宵の前では素直になれないが、初露と耀葉の前では嘘のように人柄が変わる。
 それはやはり、兄としての自尊心を失いたくはないのと、狭量な人間にはなりたくないという理由があったりもするからだ。
 それだけ糢嘉は弥宵には心を許しているのだが、弥宵と同じく大切な存在である初露が弥宵のことを悪く言うのはあまりにも胸が痛む。
 弥宵に心を開いてほしいとまではいかないが、弥宵と初露がこのままずっと険悪な関係が続くのだと思うと、糢嘉としては非常につらいのだ。
 キャンプ場での馴れ初めを弥宵から一部始終聞いた糢嘉は、驚きと疑念で複雑な心境になった。
 喫茶店にいた、帝、冬嗣、芽羽、琴寧の四人とは初対面ではなく、十歳の頃に出会っていたのだ。
 しかし初露はそれを糢嘉に隠して教えようとはしなかった。
 確かに学童保育のメンバーと関わっていなければ、糢嘉には違った未来が待っていたのかもしれない。糢嘉の視力も低下しなかったかもしれない。
 糢嘉とは違い、社交的な初露には友達がたくさんいる。
 昔の糢嘉もどちらかと言えば社交的だった。
 初露は優しすぎるのだ。
 それゆえに、糢嘉の心と体に傷を残し、糢嘉の性格を卑屈的に変えた学童保育のメンバーが許せなかったのだ。
 糢嘉の眠った記憶を無理に掘り起こす必要はないのだと、ひどく身勝手なことをしていると重々承知していたが、初露は糢嘉の思い出を改変してしまったのだ。
「弥宵を家に入れても良いけど、わたしが家にいないときにしてね」
 吐き捨てるようにそう言うと、初露は糢嘉の部屋から出ていった。
 淡々とした口調ではあったが、初露からは弥宵に対しての不快感がそこまでなく、どこか物腰柔らかくも感じられた。
 そう簡単に気持ちを切り替えるのは難しく、おそらくは葛藤しているのだろう。
 糢嘉はキャンプ場で購入した地球儀の水晶玉キーホルダーを手に取り、それをぼんやりと眺めた。
 部屋の電気の真下でかざしてみると、瞳がかすんでしまうほどにキラキラと透明に光りかがやいて美しい。
 就寝前、夜空に流れ星が降りそそぐ。
 それぞれ同年代の少年少女たちが、まだ完全に癒えない傷と共に悩みを抱えながら、今宵も夢想へと旅立っていくのを金色に光る満月が温かく静かに見守っていた。