たかが「モカ」と呼ばれただけ。だけど糢嘉の場合〝たかが〟ではおさまらない。
 気分を害した糢嘉は孤立化を主張する。
「悪いけど、俺、一人で学校に行く」
 その主張に弥宵は反発し、二人一組を希望する。
「僕と一緒に行こうよ」
「永倉、今から痴漢騒動の件で立ち会うんだろ? 俺、学校遅刻したくない」
「そうなの? 寝坊して遅刻するわけじゃないし、先生が納得するようなちゃんとした理由のある遅刻だよ? 一限サボれてラッキー。とか思ったりしないの?」
「べつに……」
 学校に遅刻して悪目立ちすることが、糢嘉にはそんなたいした問題ではなくなってきていた。
 それよりも弥宵と一緒に登校することのほうがはるかに目立ってしまうだろうなと、糢嘉はその光景を想像しただけでも身震いしてしまう。
 糢嘉は優等生というわけではない。むしろ弥宵のほうが優等生であり、今のサボる発言で糢嘉の持つ弥宵のイメージ像がヒビ割れた。
「モカ、改札口の所で待ってて」
「なんで俺が永倉なんかを待ってなくちゃいけないんだよ」
 糢嘉は再び「モカ」と呼ばれたことに不機嫌になり、その感情を隠そうとはしない。
「あのさ、俺のことをモカって呼ぶのやめてくんない?」
「なんで?」
「なんでもだよ」
(永倉は空気の読めない奴なのか?)
 と、糢嘉はうなだれた。
 ここまであからさまに嫌悪感丸出しな態度で示しているのだから、普通ならこれ以上深入りしてこないのが利口な対応というものだ。
 だがしかし、弥宵からしてみたら利口な対応など最初から選択外らしい。
「はっきりとした理由がないなら拒まないでよ」
 理由ならある。
 でもそれは糢嘉の秘めた過去を弥宵に話す必要がないだけのことだ。
 ここは密室ではない。ただ単に朝のよくある通勤ラッシュの混雑で快適に歩けないだけだ。逃げようと思えば逃げられる。それでも、まるでバリケードを張られているかのように逃げる場所が見当たらない。
 通せんぼする弥宵の威圧感に糢嘉は観念してしまったのか、重苦しく口を開く。
「モカコーヒーって、あだ名をつけられたことがあって……それで……」
 糢嘉はほんの一部分の過去を明かした。
 これでなんとか引き下がってほしいと、引き下がってくれるだろうという糢嘉の読みを弥宵は清々しく裏切る。
「僕、コーヒー好きだよ。だからモカって呼びたい」
「俺の名前のことを永倉が勝手に決めんなよ!」
 いつまでも許可のくれない糢嘉に嫌気が差したのか、弥宵が、
「面倒くさいね」
 と軽くため息を吐いた後、語尾を徐々に沈めながら言った。
 これに糢嘉はますます怒りを剥き出しにする。
「面倒くさくて悪かったな!」
「モカのことじゃなくて、この後、痴漢についての事情とか色んなことを話すのが面倒くさい」
「じゃあ助けなければよかったじゃん! 正直者がバカをみる世の中だよ!」
「モカ、ひどい言い方をするね」
 最悪だ……。売り言葉に買い言葉とはいえ、こんなひどい言い方をするつもりなんてなかった。
 糢嘉は己の軽率さに心痛するも弥宵に軽くあしらわれてしまう。
「だけど僕のほうがもっとひどいよ」
 弥宵が糢嘉の手を取って強引に走り出す。
 糢嘉の気持ちを完全に無視した弥宵のはた迷惑な行動に、糢嘉の平穏に過ごしたいという一日の計画表が崩れだした。
「ちょっ……ッ⁉ 永倉⁉ 離せよ!」
「一限サボろう? というか午前中サボろう? 今日はもう学校サボろう? モカにコーヒー奢ってあげる」
 酸味のたっぷり含まれた苦いコーヒーをすすめるその顔は、甘味のたっぷり含まれた砂糖水よりも朗らかだ。
 糢嘉はこんなふうに笑えない。笑えなくなってしまった。
 掴まれた手を振りほどけないのは、身長が違えば体力にも差がでるものなのだと糢嘉は力の差のせいにする。
 そう、これは嘘だ。
 振りほどこうと思えば、離そうと思えば、糢嘉は弥宵から遠ざかることができるのに、あえてそうしない。
 駅員が弥宵を呼んでいるが、弥宵はそれを無視して走る足を止めようとはしない。
 一瞬のチャンスというものは一瞬のうちに見失う可能性がある。
 そうならないためにも、そうならないためには、あらゆるものを最下位にして糢嘉一人だけに絞り込み、糢嘉一人だけに集中して、糢嘉一人だけを最高位に置く。
 弥宵と糢嘉が改札口を出て向かった先は学校とは逆方向だ。
 糢嘉の目の前を走る弥宵の爽やかになびく黒髪を糢嘉は目で追いかける。どこまでも追いかける。
 景色が変わり、吹く風も変わり、心境が変わっても、弥宵だけは変わらずに糢嘉の手を離さないでいてくれる。

 俺、過去にこんなふうに走った覚えがある。
 僕と、過去にこんなふうに走ったんだよ。

 糢嘉。モカ。モカ……。

 頼むから、
 お願いだから、

 そんな心地いい声で、
 そんな悲痛な表情で、

 俺を呼ぶな。
 僕を見ないで。