「四月十六日、僕とモカはこの喫茶店で一緒にコーヒーを飲んだんだよ」
 たとえ糢嘉が覚えていなくても、この事実が消えることはない。
「それだけか?」
 糢嘉の口が重々しく開く。
「永倉と俺は、一緒にコーヒーを飲んだだけなのか?」
 糢嘉が最も気になっているのは、弥宵と喫茶店でコーヒーを一緒に飲んだ後の出来事だ。
「モカは何を知りたいの?」
 ああ、もうここまできたら誤魔化しきれないのかもしれない。
 そのすべてを見透かすような、偽りのない弥宵の綺麗な黒い瞳に糢嘉は心奪われる。それはまるで魂までも吸い取られてしまいそうなほどの危険で甘美なかがやきを放っている。
「……四月十六日、永倉は誰かとキスしたか……?」
 糢嘉としては言葉を濁して遠回しな言い方をしたつもりだった。
 けれども名前を伏せただけのそんな安っぽい確認の仕方は弥宵には通用しなかったみたいで、糢嘉は失敗したと顔を歪めた。
「とっ、とにかく、ここのコーヒー代は俺が払うから、今日、学校で永倉と一緒に昼飯も食ったし、これでちゃんと約束は果たしただろう?」
 どこまで自分はひねくれ者なんだと糢嘉は自己嫌悪に陥る。
 糢嘉の毎日は卑屈な感情がまとわりついており、そこから脱出したくてもできなくて後悔と反省の連続だ。
 あわてた糢嘉はテーブルの上にお金を置くとそのまま退席して、そそくさと喫茶店から飛び出した。
 だがしかし、ここで諦める弥宵ではない。
 急ぎ足で大通りに向かった糢嘉の腕を弥宵が勢いよく掴む。
「モカ、待ってよ。家まで送って行くよ」
 本当にパソコンに送信されていた内容の通りだなと糢嘉は思った。
 弥宵はお節介なほどにどこまでも糢嘉のことを追い求めてきてくれる。
 公共の場所だというのに、糢嘉は弥宵から抱きしめられた。
「俺のことを〝モカ〟って呼ぶのやめろよ」
 文句は言うが、糢嘉は弥宵の腕を振り払おうとはしない。
〝初めて〟体感する弥宵の腕の中は居心地が良くて、糢嘉はそのまま自分の体を弥宵に預ける。この幸福な息苦しさは糢嘉だけが味わうことのできる特権であり、そこから抜け出したいとは微塵たりとも思わない。永遠に手離したくはないと懇願する。
「どうして? だって僕とモカはただのクラスメイトじゃない。特別な関係なんだよ?」
「特別ってなんだよ⁉ 俺にはそんな趣味はねーよ!」
 全世界中の人類に自慢したいほど嬉しいくせに、憎まれ口しか叩けない。
 そんな糢嘉の心情を知ってか知らずか、弥宵はイタズラっ子のような顔で糢嘉にほほ笑みかける。
「じゃあなんで僕を誘ったの? なんでこうして僕に抱きしめられているの? 嫌なら抵抗すればいいのに」
「今から抵抗するところだったんだよ! とっとと離れろ!」
 だけど、こんな愛情表現しかできない不器用な己をどうか許してほしい。
 だって、四月十六日の弥宵は逃げようとする糢嘉のことをどこまでも追いかけてきて、捕まえて離そうとはしなかった。
 そのときと似たような状況でまったく同じように愛されなかったらあまりにも悔しくて悲しくなるから、今、この場所でも試してみたくなる。
「ねえ、モカ。四月十六日に何があったのか今から再現してみようか?」
 弥宵から茶目っ気たっぷりに言われてしまい、糢嘉の頬が一瞬にして薔薇色に染まる。
 糢嘉は過去の『松崎糢嘉』に嫉妬する。
 過去にこんなにも素敵な体験をしていたのに、何一つも覚えていないだなんて、それはあまりにも冷酷すぎではありませんか。
「もうわかったから、べつに再現とかいらねーよ!」
 これは嘘だから、どうか本気にしないでください。
 本当はね、何一つ見落としのないように、仕草までも事細かに再現してほしいんだ。
「ダメ。僕は何一つもわからないから、今すぐここで再現させて」
「学年一番の秀才がすっとぼけてんじゃねーよ!」
 糢嘉は四月十六日に起きた出来事を知っていた。
 過去の糢嘉が『絶対に忘れたくはない大切な事柄』として現在の糢嘉に教えてくれたからだ。
 四月十六日の糢嘉は自分の持つスマートフォンから自室の机の上に置いてあるパソコンにメールを送信した。そこには弥宵と喫茶店で一緒にコーヒーを飲んだこと。弥宵とキスしたこと。そして弥宵と恋人同士になり、弥宵とデートの約束までしたことが記載されていた。
 過去の糢嘉が現在の糢嘉にメールを送信したのは、弥宵と糢嘉が両想いとなり、お互いの番号とメルアド、そしてライン交換するために電源オフになっていたスマートフォンの電源をオンにしたあのときだ。
 手書きではない郵便に糢嘉は疑心暗鬼だったのだが、どうやらやっと信じることができそうです。