二ヶ月後、店は本当に閉店してしまった。
 同僚たちはそれぞれに身の振り方を決めていた。フランス料理にかかわっていたいからと転職する者もいたし、会社内の別のレストランに移る者もいた。
 谷は次期社長とどうしても反りがあわず、駅前のデラックスホテルからのヘッドハンティングを受けることにしたという。
 一応、どうしても他に行き場がないなら、と彩里も誘ってくれたが、閉店を知った日の谷との温度差を埋められる気がせず、礼を言って断った。
 彩里は自分で見つけてきたホテルやフレンチレストランの求人に応募したが、返って来たのは人事担当者の困惑や憐憫だった。
「この資格欄は……いやぁ意識高い……じゃなくて、りっぱだねぇ」
「何でうちなんかに応募したの? もっと、能力を生かせる場所に行った方がいいよ」
「ホールスタッフは、バイトしかいらない」
 似たようなことを異なる会社で何度も言われるうちに、お前の居場所などどこにもない、と宣言されているような気になってくる。
 その上、無職となった身にも容赦なくのしかかる家賃や水道光熱費の支払いが、彩里を暗い気持ちにさせた。
 計算したものの、失業保険では生活を賄えそうになく、少ない貯金が目減りするのを恐れて、バイトの掛け持ちでしのぎながら、正社員の求人を探した。
 実家に帰る気はなかった。
 少しだけ見栄を張りたい気持ちはあったが、深夜の人恋しさに負けて、彩里はある日オンライン通話ソフトの文字チャットを立ち上げ、めぐみに自分の近況を打ち明けた。

「東京においでよ」
 一通り話を聞いた後、めぐみは軽い口調で、彩里を誘った。
 その言葉も発言したひとによっては微妙に地雷になるところだったが、彩里のことを「わかってる」めぐみが相手だと、ふしぎと腹が立たない。
「簡単に言いますけどね……」
「うちに住む?」
「だからね、めぐみさん、そんな簡単なことじゃないんです」
「どうして? なにが問題?」
「生活していけるか……。家賃も物価も、東京は高いんでしょうし」
「そんなに違うかなぁ。ちょうどいい物件を見つけるまで、うちのマンションで寝起きしたらいいじゃない。きれいじゃないけど、ひとり寝るところくらいなんとでもなるし。引っ越してもいいし」
「そんな、気軽に決めることじゃないです! いつ就職が決まるか、なんの保証もないし、迷惑かけたくない……」
「彩里ちゃんの経歴なら、ぜひ来て欲しいって一流どころがいっぱいあると思うけどな。それはそれとして、すぐに仕事決まらなくっても、私は、彩里ちゃんなら大歓迎」
「どれだけ仲良くても、他人と暮らすのって、大変じゃないですか?」
「彩里ちゃんが大学生の頃、一回泊まりに来てくれた時ね。ドライヤー後に、床に落ちた自分の髪を集めて、捨ててくれていたのを見たの。若いのにちゃんとしてるなぁ、って思って。だから彩里ちゃんなら、全然負担じゃないと思うなぁ」
「……心配かけて、すみません。大丈夫です、このままなんとか、やっていけなくはないので。愚痴を聞かせてしまって……」
「勝手に話を打ち切ろうとしない。そういう話じゃなくて……ねえ、私って、彩里ちゃんのことすごく好きでしょ」
「ありがとうございます」
「あー、もう、違う、社交辞令とかじゃなくて。つまり特別に、っていうこと。力になりたいんだけどなぁ、どうしたら甘えてくれるんだろう」
「充分元気づけてもらってますよ」
「そうじゃなくてだよ……」
「お気持ちはすごく嬉しいんですけど。返せる保証もないのに借りをつくるのは」
「出世払いでいいよ」
「出世なんてしません」
「……うう、私が男なら、身体で返せよ、って言えば解決しそうな案件なのに」
「めぐみさんってばスーパー攻(せめ)様……。苦境に陥った受(うけ)をオークションで落札、的な」
「BLの王道でしょ」
「はい。でもわたしは受みたいにかわいくないし。めぐみさんもドSな石油王じゃない……。あ、オークションものと言えばですね、」
「いや待って待って、二次元に持っていかずにもうちょっと相談させて。ねえ、そしたらね、本当にまじめに考えてみない? だって、女の子同士でも、結婚はできるでしょ?」
「結婚?」
 彩里もめぐみのことはすごく好きだったが、恋愛感情とは違う気がする。
 そもそも二次元以外で、他人に恋愛感情を覚えたことがあるかどうかもあやしい。
 めぐみが向けてくる感情にも、色っぽい香りなんて、のぼったことはないように思うけれど。
「そうだよ。結婚しよう。……ぼんやり考えることはあったんだ、ずっとこのままひとりでいるのってどうなんだろうって。でも結婚して、『妻』とか『母』とか、自分以外の何者かになることなんて想像できない。仕事も趣味も、やめられないし。やめなきゃいけないくらいなら、今のままでと思ってたけど、相手が同じ趣味の女の子なら、というか彩里ちゃんなら、完璧じゃない?」
「……それは、もちろん、毎日楽しそうですけどね」
「彩里ちゃんとそうできるなら、幸せだな、私。彩里ちゃんはどう思う?」
「いいですね、しましょう、しましょう」
「もう、まじめに訊いてるのに」
「どこがですか」
 言われた瞬間は呼吸が止まったものの、冷静に考えてみると、めぐみの提案にはリアリティがなかった。
「だって、このお話、めぐみさんにはなにもメリットがないですよ」
「彩里ちゃんといると楽しいんだから、一緒に暮らせること自体がメリットでしょ。あと、実は、私、海外旅行に行きたいの。出張でしか行ったことないから。新婚旅行っていう名目なら……」
 そんな理由、とは、彩里は思わなかった。むしろ、心惹かれた。
「そっか……仕事してると、長いお休み、取れませんもんね。わたしもフランスの田舎のワイナリーレストランとか、ずっと行ってみたかった」
「ね。行っちゃう? 一緒に」
 彩里はあいまいな笑みを浮かべ、返事をしなかった。結婚に対してはそれほどイメージがないので流すこともできたが、フランスには本当に行きたいと思っていたので、ノリでOKすることがどうしてもできなかったのだ。