真夏がいま働いている事務商品を扱うメーカーは、小さいながらアットホームな雰囲気で居心地がいい。ああ、転職してよかった、と常々思っている。前に勤めていた会社は最悪だった。残業が当たり前だったし(おかげで推し活が滞った)、上司であるおじさんたちは、若い女の子をねばっこい目で見ていた(おかげで現実の男がほとほと嫌になった)。そんなとこに比べれば、ここは天国である。さすがに忙しいときもあるけれど、どうしても外せない用事があると申し出れば、退社することもできる。というか、この会社に入ったときに、自分の事務処理能力がとてつもなく優秀であることがわかった。できるやつになって、やたらと仕事を渡されるのは嫌だと思っていた。同じ給料だったら、そこそここなしとけばいい、と考えていた。ここに勤め出してから、推し活を融通してもらっている手前、多少は残って作業する羽目になっても、前ほどイライラはしない。
 ……会社には推し活のことは言っていないけれど。ていうかスキルアップの勉強のためとか言っているけれど。
「おつかれさまです」
 隣のデスクの磯村が営業から帰ってきた。くたびれた顔をしている。
「おつかれさま、どうですか調子は」
 真夏は訊ねた。
「まあまあですね。三歩進んで二歩下がるって感じですかな」
 磯村は関西の部署からつい最近、東京の本社へ異動してやってきた。大阪のほうではかなり有能だったらしいが、いまのところ苦戦している模様だ。
 しかし、これまでの担当者のお得意さんを回るのと同時に、新たな顧客を得るべく奔走しているらしい。つまり、けっこう頑張り屋である。
「磯村くん、週末どうしてるの?」
「お、デートの誘いかなんかですか」
「違う。東京にきたばっかで、知り合いもいないんだろうな、って憐れんでるだけ」
「なんすかそれ」
 磯村くんが笑った。歳が近いし、なんとなく気安く話すことができた。真夏にとってはめずらしい異性だ。
 磯村は、かっこいいタイプではない。正確にいえば、真夏が好きな感じではなかった。細めの暗い感じ、というか思い悩んでいる姿が似合うタイプが好きだ。磯村はどっちかといえば、明るくスポーツが得意そうで、万人に好感を持たれる感じ。髪もフェードの七三分けなんていうちょっといけいけに見える。
「ま、洗濯したりしてるうちにいつのまにかサザエさん始まってますね」
「ああ、なんか寂しくなるやつやつね」
「全然。サザエさん、めちゃおもろいし。ていうか、この会社くんの好きだし」
 まっさらな言葉を磯村が口にしたので、真夏はちょっとどきりとした。
「磯村くん」
「なんすか」
「いいね、なんか」
「そうすか」
 会社くるのが好き、か。もちろん真夏だって会社が好きだが、「前のとこよりまし」という比較からのものである。
「わたしもこの会社気に入ってるけど、日曜の夜はちょっとばかりしんどいけどね」
 まもなく退社だ。今日は直輝の舞台の千秋楽である。ふとスマホをひらくと、秋穂からラインがきていた。
「すまん、今日仕事やばい、いけそうもない。楽日最前列だったのに! 直輝!! なので代金は払うから一人で行って。満席にしてあげられないなんて、遺憾でしかない」
 そして謝っているスタンプ。
「まじか」
 真夏はため息をついた。
「どうしたんすか」
 磯村が顔を歪ませている真夏を見て、おかしそうに訊ねた。
「いや、今日友達と芝居に行く予定だったんだけど、急にキャンセルになっちゃって」
 べつにお金はいいけれど、次に会ったとき、ぐちぐち言ってくるだろうなあ、と面倒に思った。
「へえ、芝居なんて真夏さん観るんですか」
「まあ、ね」
「どんなやつなんすか」
 真夏がバッグのなかに入っているチラシを磯村に渡すと、物珍しそうに表と裏をせわしなく眺めた。
「こういうの好きなんすか」
 磯村の発言が「こんなもの」と言っているように聞こえ、ちょっと真夏はむっとした。
「まあね」
 磯村のようなやつには、直輝の美しさはわからないのである。そう思ったが、まずそこ、なので真夏も作品自体を評価しているわけではなかった。
「じゃあ、俺が行きますよ」
「え」
「なんか今日、ちょっと気分転換したいとこだったし。チケット払いますよ」
「まあ、いいけど」
 急に、人に見せてもいいものなか、不安になってきた。この芝居、直輝以外に見どころがあったっけ?