真夏が急いで劇場に入ると、受付前で秋穂がどう見てもイライラしながら立っていた。そして真夏を見つけた途端、入場口のほうに歩いていった。
「ごめんごめん」 
 追いついた真夏が手を合わせて謝っても、とくに反応することもなく、さっさとチケット二枚を受付に渡した。
「出がけにちょっと忘れ物しちゃって」
 なおも言い訳を続ける真夏のことなど応じることもなく、秋穂は劇場に入っていく。
 事前に確認していたのか、秋穂は席のほうへと向かっていった。事前にネットで最寄りの扉も席の位置も確認していたのだろう。
 二人は席についた。
「あのね」
 真夏が話しかけようとしたとき、音楽が響き、会場の照明が暗くなっていった。

「本気でぶっ殺そうかと思ってた」
 休憩時間のトイレに並びながら、秋穂が言った。さすがは人気俳優の主演舞台なだけあって、女性用トイレはいつまでも途切れない列ができている。
「でも、直輝のお芝居を観ていたら、怒りよりも、なんていうか、もっと広い、宇宙よりも深い愛みたいなものが溢れでてきちゃった」
「よかったよねえ、直輝」
 真夏も深く頷いた。そして秋穂が怒っていたのも無理もない、と思った。推しの舞台に途中入場なんて、最悪である。しかも二人が現在激推ししている俳優、篠宮直輝は主役ではないが冒頭から舞台に登場するのだ。見逃してしまったらそれはもう立ち直れないほどのショックに陥ることになる。なぜ直輝の登場タイミングを知っているか? シナリオを読んだわけでも告知があったわけでもない。二人が観劇するのが五回目だからである。ほぼ毎週、というか週2で現在新宿の劇場に通っていた。
 千秋楽含め、あと四回ほど参戦予定である。まだ完売になっていない日もあるようなので、増えるかもしれない。
「今日はちょっと前回とは違ったわね」
「やっぱり回数を重ねることでどんどん深くなっているのよねえ」
「観劇はやっぱり何度も観なくちゃねえ」
 なんていっぱしの通ぶったことを言ってるが、もちろん二人は推しが出ていなかったら舞台を観るなんてことはない。むしろ混雑した場にはできるだけ立ち寄りたくない、インドアなタイプである。しかし、好きな俳優が映画に出るなら、なんなら舞台挨拶があるのなら馳せ参じるし、芝居があるならばできるだけ足を運ぶ。
「そういやさ、マオくん、久しぶりにドラマに出るらしいよ」
 真夏がふと思い出して、言った。
「へえ、なに?」
「なんか刑事ドラマの犯人だって」
「頑張って欲しいわねえ」
「よね、なんか懐かしいよね」
「ああ、なんか昔の彼氏がうっかりSNSで出てきちゃった、みたいな」
 そもそも彼氏なんて存在したことないくせに秋穂がぬかした。
「でもべつにわたしたちだって、悪い別れ方したわけでないし」
 まるで二人とも、昔の男みたいなノリで話しているが、そのマオくんと、面識があるわけでもなんでもない。
 マオくんとは、彼女らが初めて推し被りした俳優である。

 真夏と秋穂は高校のクラスが同じだったけれど、グループは別々だった。真夏のほうは、文化系のちょっとオタクよりの集団に属し、秋穂のほうは、そこそこギャルな集団にいた。趣味が違えどべつに仲が悪いとか、相互で内心見下し合うなんてこともなかった。それぞれ好きなことをすりゃいいし、いちいち仲を悪くする必要もない。困ったことがあったときに助けてもらいことだってあろう、という計算も含め、きちんと人間として認め合っていた。つまり、わりと協調性のあるクラスであった。
 あるとき、秋穂が、真夏のバッグにつけていたアクキーに気づいて、
「あ、それって」
 と思わずいってしまった。
「もしかして、知ってる?」
 真夏は恐る恐る訊ねた。
「うん、それって、日曜の朝の、だよね」
 秋穂は『そこそこ知ってる』ていで言った。
「うん、そうなの」
 子供向けの特撮番組のキャラクターだった。しかも、主役じゃなくて三番手くらいのやつ。
「弟がいて一緒に観ているんだけど、かっこいいよね、なんだっけ」
「常田マオ」
「あ、そうそう、マオね」
「わたし、マオくんのファンで」
「そうなんだあ」
 そのとき、秋穂は同志を見つけた、と思った。というか、推しが被っている! いやべつに被っていることがNGとかはないけれど。まだまだそこまで人気でない、やっぱり主役の美形とか二番手のワイルドな感じに比べたら随分個性が薄いというか、それが逆に「いい」んだけど、身近に自分と同じように推しているやつを見つけて、秋穂はカミングアウトすべきか迷った。
 なんとなくいつものグループでは、みんなと同じようにKポップのアーティストが好き、とか言っていたけれど、実は特撮の若手俳優が好きなのだ。いや、そう言ってもみんなはべつにたいして気にしないだろうけれど、なんとなく属する集団とおなじような趣味でいたほうがいいのではないか、と思っているうちに、白状することができなくなっていた。
 そのときはそこで話が終わった。それからも何度か話すことはあったけれど、常田マオのことが話題にのぼることはなかった。というか秋穂は意識的に避けていた。
 むしろ、真夏の私物が気になった。アクキーの他に、クリアファイルも常田マオだ。それ、ファンクラブ限定のやつ。わたしも入ってるし、ていうか持ってる。それにマオの演じる特撮キャラグッズ……スマホに貼ってるし。そんな目立つところに!
 なんとなくイライラしてきた。そしてあるとき、常田マオの写真集の発売イベントが開催された書店で、二人はばったりと出会ってしまった。
「あ」
 思わず秋穂は硬直した。
「あ、秋穂ちゃんもきてたの? もしかして、弟さんと?」
「ええと」
 いくらファンでも幼稚園児男子がイケメン俳優の写真集(ちょっと肌の露出もあり)を買いになんてこねえだろ、と頭の中で冷静に突っ込みつつ、
「ええと、えーと」
 なんとなく、秋穂は腰の横にまるで誰かいるみたいに頭をぽんぽんとする動きをして、イメジナリー弟を拵えよとしたものの、もちろん出現するわけもなく、
「いや、わたしのほうがファンになっちゃって」
 と素直に告白した。

 推しやジャンルが被るのを嫌がる人もいるが、秋穂は真夏という存在ができたおかげで、ずいぶんと楽になった。グループが違うから表立って教室で話すこともないが、二人が集まり、推しの尊さを語りあい、それぞれが知っている情報を共有することは至上の喜びであった。
 一緒にイベントに行ける相手ができたのもよかった。やはり一人で向かうにはいくら好きな人と近づけるからといって、なかなか厳しいものがある。会場を見渡して、いつもきている人だな、と常連を見つけたりもするが、こっちから声をかけるのは気が引ける。そもそもそういう「同志」を求めていないかもしれないし、ガチ恋勢からすると、同じ人を好きなやつはライバルでもある。いや、絶対に手に届かないし、繋がりなんて持てないとわかっていても!
 秋穂は恋に恋しているときの「イメージの相手」として常田マオを好もしく思っていたし、真夏のほうは恋愛というよりもその姿かたちに惚れこんでいた。つまり、当時の二人はほんとうに好きな男性、なんてものが芸能界以外でできるとは思えなかった。近しい同年代の男の子たちはなんとなくガサツで子供っぽくて、やはりまだまだ知名度は少ないとしてもいちおう芸能人である常田マオくらいの遠さときれいさが、ちょうどよかった。
 なんとなく常田ブームは、特撮番組終了後にそんなに常田マオ自身がハネなかったことで尻すぼみとなったが、それからも二人は、とにかく推しが被った。
 男性誌のモデルとか、舞台俳優とか、マイナーなグループアイドルとか。あまりに被りすぎるので、ちょっといいなという男の子を試しに紹介して、反応を伺ったりすることもあった。それによって、テーマパークのキャストとか、浅草の人力俥夫とか、コーヒーショップのスッタッフとか、ちょっといいな、と思える人をこっそり紹介(といってももちろん面識はない)して、だいたいお眼鏡にかなう、というかその新たな沼へとお互いを誘いあった。
 服装を見ても、モノトーンを好む真夏と派手目のビタミンカラーが好きな秋穂、とすっかり好みが違う二人なのに、推しの趣味だけはぴったりなのだった。