俺は無意識に足を動かしていた。
 周囲は妙に静まり返り、遠くでカラスがカァと鳴く声が響く。
 夕方の光が薄れ始め、山々の影がじわじわと伸びていく。
 頭がくらくらして、夕日が反射して車のボディが目に刺さる。
 手に残る栞の温もりが嘘みたいで、裏切られたように感じる。
 蛇沼と栞が触れ合う映像が、見たくないのに頭から離れない。
 車の走行音が耳に入るたび、それが映像の音声みたいに感じる。
 体がじりじりと焼けるように熱くなり、不満と苛立ち、抑えきれない欲求が混ざり合って、頭の中で膨れ上がっていく。

 いつの間にか、チーラボ本店の前に着いていた。
 ガラス越しに店内の明かりが外へ漏れ、白い壁が浮かび上がっている。
 制服姿のカップルがカウンター席に並び、ラーメンを楽しんでいる。
 笑い声が頭の中で響いている気がして、胃の奥がムカムカした。
 裏口に回ってロックを解除し、中へ入る。無人のロビーを抜け、応接室の椅子に深く腰を沈めた。全体重を預けたはずなのに、肩の力は抜けない。
 蛍光灯の白い光が、静かな部屋に妙に不自然な明かりを醸し出していた。
 ドアがノックもされずに開き、柴原の声が突き刺さるように響いた。

「おっ、英斗くんじゃん!」

 やたらと明るい声と馴れ馴れしい態度が、イライラをさらにかき立てる。

「社長に用か? 今日はもう帰ったぞ」
「別に……」

 柴原が近づいてくると、チーズとスープの匂いが鼻をついた。

「顔が暗いぞ? 栞ちゃんと喧嘩でもしたか?」

 空気を読まない一言が、頭の中で何かを弾けさせた。
 肩に手を伸ばしてきたのを無意識に振り払い、冷たく言い放つ。

「俺、次期社長なんですけど。距離感、わかってます?」
「え? あ、ああ……」
「〝ああ〟じゃねえよ。店が混んでんだから、働いてくださいよ」
「すみません」


 柴原は戸惑った表情で、ぎこちなく部屋を出ていった。

 俺が専務になったら、まずお前をクビにする。

 静かになった部屋で少しは落ち着けるかと思ったが、胸の中のざわつきは消えない。
 次にドアが開き、奈緒さんが現れた。髪を解いて、優しい笑顔を浮かべている。ふわりとした雰囲気が、少しだけ心を和らげた。

「英くん、大丈夫?」
「……なんでもないです。もう上がりじゃないんすか?」
「うん。でも、英くんが来てたから」

 奈緒さんは自然に隣に座った。拒むつもりはなかった。むしろ、そばにいてほしかった。
 だれかに全部話したかった。
 栞が蛇沼のところに行ったこと、悔しくて何もできなかったこと、ホスピスでの苛立ちや嫉妬、そして栞を離したくない気持ちまで。
 奈緒さんは優しく聞いてくれた。「英くんは悪くないよ」と、頷きながら。
 抑えられない感情があふれ、ふと栞と出会った頃を思い出して話し始める。

「……中学の卒業式、あいつが告白してくれて、めちゃくちゃ嬉しかったんです」
「私も、英くんが栞と付き合ってくれて嬉しかった。あなたと社長のおかげで、今の生活があるの。本当に感謝してる」

 奈緒さんの言葉で、過去が鮮明によみがえる。
 栞がこの街に来たのは、中学三年の四月。移住支援制度を使い、奈緒さんと一緒に引っ越してきた。家計は苦しく、市の援助を受けていた。
 奈緒さんはドラッグストアで働いていたが、低賃金で体に負担がかかる仕事だった。
 栞は「ママ、体が弱いから立ち仕事はあんまりよくないの」と、よく嘆いていた。俺はなんとかしてやりたかった。

 ある日、栞が「ママがチーラボで事務員になりたいって言ってるんだけど、中卒で事務経験もないし、無理だよね」と訊いてきた。切羽詰まった様子が見ていられなかった。
 本社の人手は足りていたが、父さんは「優秀な人材なら」と条件を出して求人をかけていた。奈緒さんには事務経験もなく、中卒で、条件には合わなかった。
 栞のためだと自分に言い聞かせ、俺は無理に父さんを説得した。奈緒さんは採用され、今では秘書までこなしている。栞の母親というだけじゃなく、会社にとっても欠かせない存在だ。

 でも、あのときは「栞のため」に動いた。他人だったら、絶対に頼まなかった。

 栞が言った。
「〝善意〟でママと私を助けてくれたように」って。

 そうだよ。でも、俺はお前だから〝善意〟を振り向けたんだ。だから、お前は、俺以外に〝善意〟を振り撒くな。
 ずっとお前を大事にして、泣かせないように我慢してきたのに……なのに、なんで……なんでだよ!
 重たい静寂が、部屋中に広がる。
 突然、奈緒さんが俺を抱きしめてきた。

「ごめんね、英くん。つらい思いをして、それでも栞を大事にしてくれて……ありがとう」

 背中に密着する奈緒さんの体。柔らかさと体温が肌にまとわりつき、じわじわと奥まで入り込んでくる。押し当てられる胸の感触が、心の奥底をかき乱す。
 耐えきれず、体を反転させると、気づけば奈緒さんを掴んでいた。

「甘えていいよ」

 耳元で囁く声が、頭の中に溶け込んでいく。
 カーディガン越しの肌の熱と甘い香りが、思考を覆い尽くす。
 栞のことを考えていたはずなのに、今は奈緒さんの温もりに飲み込まれていく。

「英くんは間違ってないよ。悪いのは栞だよ」
「なお、さん……俺……」

 声が勝手に漏れて、とろけていく。

「明日、土曜日でしょ? 家に来て。栞の〝トラウマ〟を気遣ってくれてるのはわかってる。でも、何も形に残らないままだと不安でしょ? あの子が本気でボランティアを続けたいなら、英くんの気持ちだってちゃんと受け入れてもらうべきだと思うよ。形に残しましょう」

 優しい言葉なのに、奈緒さんの声には強さがある。
 ほんとは栞にこうして触れたかった。
 でも、あいつには重い過去がある。
 付き合って三ヶ月目のあの日……少し踏み込んだだけで、泣き出して震える栞を前に、俺は手を引くしかなかった。
 だけど、もう守るだけじゃ足りない。もっと深く、栞に触れたい。