放課後、栞を連れて星囲病院へ向かった。『子どもホスピス』は病院の敷地内にある。
 ホスピスの庭には、手入れの行き届いた芝生が広がり、色鮮やかな花々やカラフルな遊具が並んでいる。奥にはクリーム色の二階建ての建物が見える。

「スタッフさんに話してくる」と松永が言い、雪野と一緒に中へ入っていく。
 すぐに戻り、「入っていいよ」と告げられた。

「どの男か教えろ。秒で片づける」


 俺が念を押すと、栞は小さく頷いた。
 ホスピスに足を踏み入れる。
 パステルカラーの壁に囲まれた広い部屋。柔らかな光が差し込み、空調の風が肌を撫でる。
 遊ぶ子どもたちの声が響き、消毒液の匂いがかすかに漂ってくる。
 ソファーに座っている男の子は、管に繋がれたまま、ぬいぐるみを抱いてうとうとしている。
 点滴スタンドを引いた女の子が、隣に座っている子に絵本を読んであげていた。
 肌にまとわりつく冷たい空気が不快だった。
 松永と雪野に、子どもたちが駆け寄ってくる。二人はしゃがみ込み、楽しそうに触れ合っている。学校では地味な二人が、ここではまるで別人のようだ。

 周りを見渡していると、小学三、四年生くらいの男の子が立っていて、こちらをじっと見ていた。


「ミズくん、こんにちは」と栞が笑いかけると、子どもが栞に飛びついた。

 おい、ガキ! 何、俺の栞にやってんだ!
 栞は耳元で何かを囁き、背中に手を優しく滑らせている。
 穏やかな温もりが漂い、すべてを包み込むような優しさが伝わってくる。
 ガキはしがみつき、顔を栞の胸に押しつけて甘えている。

 なんで俺じゃなくて、こいつがそんなことを許されてるんだ?
 無意識に奥歯を強く噛みしめる。ギリッ…ギリッ…と不快な音が耳の奥で響き続ける。
 栞がわざと俺を苛立たせるように動くたび、視界が狭まり、ガキの動きに意識が引きずられていく。
 もう限界だ。足を強く踏みつけた音が鈍く響き渡った。

 ふと、ガキの首筋に赤紫の斑点が目に入った。喉が詰まり、息が苦しくなる。
 周りの子どもたちは、俺のことなど気にも留めず、栞や松永、雪野にばかり笑顔を向けている。
 足が動かない。視界がぼやけ、周りの楽しそうな空気から俺だけが取り残されている気がした。
 突然、背後から軽い声が響いた。

「しーちゃんじゃん!」

 栞がびくっとして振り向く。
 しーちゃん? 栞のことか?
 栞に抱きついていたガキが、声に反応して駆け出していく。
 振り返ると、細身で小柄な男が立っていた。長い前髪が顔にかかり、だらしなく着た白いロンTの袖から手が半分だけ覗いている。片手には黒い袋を軽く握っている。
 顔立ちは整っているが、薄い唇に浮かぶ歪んだ笑みが気に障る。目だけが冷たく光っていた。

「ゲーム買ってきたの?」とガキが男に尋ねる。

「うん。でも、ちょっと待ってな。お客さんが多いから」


 男の視線が俺と栞の間を行き来し、にやつく。

 栞が震えながら、か細い声で「マヤ、くん……」とつぶやく。こいつが例の男か。

「しーちゃん、今日もかわいいね」

「……やめて」

「俺、しーちゃんのこと超好きなんだよ。好きな子にかわいいって言うの、ダメ?」

「……ダメ、だよ」


 栞は目を伏せ、肩がかすかに揺れている。けど、はっきり拒絶しない。

 ――何してんだ、もっとはっきり断れよ。

「いいじゃん。俺、早くしーちゃんと付き合いたいんだけど」

「なぁ、ちょっと!」


 ガキが俺の荒れた声に怯え、マヤの腕に隠れる。

 マヤは安心させるように背中を撫で、栞も黙って見守っている。

 俺には、それが「家族ごっこ」にしか見えない。
 ああ、腹が立つ。自分でも目が血走っていくのがわかる。

 マヤは冷たい目で俺を鋭く睨んできた。

「しーちゃんの隣の人……どっかで見たことあるけど……まあ、いいや」
「なんだお前は」
「それはこっちのセリフ。子どもをビビらせるのやめてくれない? じゃないと、俺、何するかわかんないよ」

 軽い口調なのに、言葉は妙に重い。
 周りの子どもたちが急に静かになったが、俺が声を上げたからじゃない。マヤのせいだ。

「お前に文句があんだよ」
「しーちゃんのこと?」

 マヤはふざけた笑みを浮かべて返す。
 栞は唇を強く結び、何も言わない。俺は眉を寄せ、マヤに睨みを利かせた。

「うぜえ……! どこでもいい、話せ」
「じゃあ外で」

 マヤは袋をガキに渡し、立ち上がった。
 俺は栞の腕を無言で引き寄せ、強く握りしめたまま外へ向かう。

「……いたっ」

 栞が小さく漏らした声を無視して歩き続けた。
 外に出ると、マヤはブランコに腰掛けていた。
 日差しが長い前髪の影を顔に落とし、その表情は笑っているのか冷めているのか判別がつかない。

「俺の女に手を出すな」
「ジャヌママヤ」
「は?」
「名前だよ。蛇沼摩夜。蛇に沼、摩天楼の夜。普通、名前を聞く前に自分から名乗るもんだけどね」
「……白根英斗」

 名乗ったとき、視界がぼんやり揺れて遠くが少し歪んで見えた。

「素直だね」

 蛇沼はにやけながら言った。

「栞に絡むな。こいつに手を出していいのは俺だけだ」

 蛇沼は喉の奥で「くくく」と笑う。

「しーちゃんって君の所有物なの?」
「まずその呼び方をやめろ。そうだ、栞は俺のものだ。だから手を出すな!」

 蛇沼がゆっくり立ち上がる。光が目元をかすめ、冷たさが宿る目がまるで獲物を狙う蛇のように鋭く光った。

「しーちゃんはどう思ってるの?」

 栞は俯いて震えている。

「お前は俺の女だろ?」と促すと、やっと小さく頷いた。

 俺は栞の反応を見せつけ、蛇沼を睨みつけた。

「それで引けって? 引かないよ」
「は?」
「君の彼女かもしれないけど、法的拘束力なんてないよね? 俺が好きだって言って、しーちゃんが答えたら、それで決まりだろ?」
「……ごちゃごちゃうるせえよ。俺たちの関係は、栞の母さんにもあと押しされてんだ」

 蛇沼の笑みが一瞬だけ揺らいだ。何かが心を過ぎったようだが、すぐに元の笑みに戻る。そのわずかな変化が、妙に引っかかる。

「もっと教えてやるよ。俺はチーラボの役員だ。栞とは二年後に籍を入れる予定だ。星囲は親父の事業で潤ってんだよ。ホスピスだって恩恵を受けてるんだ。栞に手を出すってことは、そういうことだ」

 蛇沼がスマホを取り出し、画面を見ながら薄く笑う。
「これか……」と、にやけながら俺を見比べる。

「ユーチューブで君の動画、上がってるね。ああ、確かに見たことある顔だと思ったら、白根英斗くんって有名人だったんだな。ハスキーボイスも、聞き覚えがあったわ」
「だから何だ。栞には二度と絡むな」
「絡むよ。だって死ぬんだから」

 足元がぐらついたような気がした。体が一気に冷たくなる。

「しーちゃんが、俺の願いを死ぬまでに叶えてくれるんだ。だから、彼氏とか有名人とか、そんなこと関係ない」

 蛇沼がゆっくりと袖をまくり上げる。

「『毒斑血症』って難病で、体の代謝がおかしくなって、有害な物質が体に溜まっていく。これが血流を悪くして、内出血が全身に広がるんだ。こんな感じで」

 日差しに照らされた腕には赤紫の斑点が浮かんでいる。

「神経にももう影響が出始めてて、感覚が鈍くなったり、体が動かしづらくなってきてる。三日に一度は病院で血液を浄化しなきゃい
けないし、薬も毎日三回。少しでも薬を飲み忘れたら、すぐに悪化する」

 蛇沼は涼しい顔で話し続ける。俺は、こいつの言うことを全部聞きたくなかった。

「……普通に見えるけどな」

 思わず、焦りをごまかすように言い返す。
 蛇沼は笑みを浮かべながら言葉を続ける。

「まあ浄化と薬のおかげかな。けど進行してる。余命はあと一年ってとこだな」

 冷たい声が耳に残る。余命一年って響きが頭の中でぐるぐる回る。
 ……でも、ふっと思う。

「……それがどうした?」

 不幸だろうが関係ない。栞は俺のものだ。誰にも渡さない。

「お前がどれだけ不幸だろうと、栞は絶対に離さない」

 それなのに、栞が俺の手を振りほどいて蛇沼に駆け寄った。

「摩夜くん、無理しないで。苦しいでしょ? 部屋に戻ろう? 立ってるのもしんどいんじゃない?」

 胸が冷たくなっていく。なんで栞があいつを助けようとするんだ?
 俺のほうを見ることなく、栞は蛇沼を支えている。栞が笑顔を向けるべきなのは俺だろ。

「しーちゃんはやっぱり天使だね。くくく……はははっ」


 蛇沼の不快な高笑いが耳を刺す。笑い方がどこか狂っている。

「栞! 何やってんだ!」

 声が裏返る。自分の苛立ちが止まらない。栞は振り向かず、俺に背を向けたまま言った。

「ごめんなさい。部屋に連れていかないと」

 声がかすかに震えているのに、強さが感じられた。

「何でお前が……」
「お願い。英くんが〝善意〟でママとわたしを助けてくれたように、わたしも人として摩夜くんを助けたいの」

 栞の声は泣きそうな音なのに、その決意だけは固い。何かがおかしい、そう感じながらも言い返すことができなかった。
 ふらつく蛇沼を支えながら、二人はホスピスの中へと消えていく。
 栞が俺を置いていくなんて、ありえない。
 最後に振り返った蛇沼が、勝ち誇ったように笑っていた。