保護観察処分を受けてから、もう二年が経った。
あの夜の出来事は遠い過去のように感じるが、罪の重さは今も心に残っている。
栞と付き合っていた頃は、自分の行いが罪に問われるなんて考えもしなかった。
栞が告白してきたのだから、自分の求めに応じるのが当然だと、歪んだ考えに支配されていた。
裁判で栞との関係を問い詰められたとき、自分の異常さに初めて気付かされた。
罪状が告げられた瞬間、ニュースで目にする犯罪者と同じだと痛感し、罰を受け入れるしかなかった。
事件後、栞や奈緒がどこで暮らしているのか、何をしているのかはわからない。
奈緒が何かの罪で裁かれたらしいと、うっすら知っている程度だ。
母さんが裁判で対応している姿を見て、それが事実だとわかったけど、詳しいことは教えてくれなかった。
ただ一つ確かなのは、栞が俺の前から完全に消えたということだ。
彼女との断絶が残したのは、強烈な孤独感だった。
蛇沼の薬をトイレに流した件も、たとえ仕組まれた罠だったとしても、俺の責任が消えるわけじゃない。
薬を流したという事実がある限り、蛇沼の命を危険に晒したことには変わらない。
もっとも、病気が進行して、あいつはもうこの世にはいないだろうが。
俺の過ちは、個人の罰だけにとどまらず、父さんの事業崩壊を引き起こした。
チーラボの評判は一気に悪化し、客足は激減。結局、廃業に追い込まれた。
父さんは取引先への賠償や融資の返済に苦しみ、資産をすべて失った。
母さんも耐えられず、離婚を切り出した。父さんはそれを受け入れるしかなく、俺は母さんと彩絢と一緒に別の市へ引っ越した。
その後、星囲は財政難に陥り、街を立て直すために飲食チェーンなどの企業を誘致しようと必死らしいが、うまくいっていないとネットニュースで見た。
俺は、あの街には、もう二度と戻れないだろう。
だが、新しい場所に移ったところで過去を消し去ることはできない。
特に俺を苦しめたのは、ネット上の誹謗中傷だった。
高校生経営者としてチーラボの宣伝動画に出演していたことで、顔も名前も広く知れ渡っていたからだ。
事件の発覚と同時に、それが裏目に出た。
「モラハラクズ息子」「殺人未遂高校生」などの罵声がネットで飛び交うようになった。
騒ぎは収まる気配もなく、名前と顔がどこへ行ってもついて回るような気がして、俺は半年間、引きこもっていた。
母さんは、その頃から俺に対して過保護になった。
父さんがいなくなった影響もあるのだろう。以前の自由な生活とはまるで違い、俺の行動一つひとつに目を光らせている。
籠る生活が続いていたが、気が晴れると外出したくなる。
でも、母さんは行き先や理由をしつこく聞いてきた。そのせいで、引きこもりから抜け出すのに時間がかかった。
通信制高校に通い直したのも、母さんの勧めだった。自分のペースで勉強できたのは良かったが、一年遅れることには抵抗があった。
それでも、なんとか卒業し、今は大学生だ。
通学を始めて一ヶ月が経つが、世間はすっかり俺のことを忘れたようで、大学でも冷たい目で見られることはない。
もうすぐ保護観察期間が終わる。少しずつ前を向いて歩ける気がしていた。
そんな矢先のことだ。
大学から帰って、いつもの静かな家に入る。リビングに向かおうとしたとき、母さんと彩絢の話し声が耳に入った。
俺が帰ってきたことに気づいていないらしい。廊下で立ち止まり、二人の会話に耳を傾けた。
「……英斗が事件を起こして、正直わたしも巻き込まれるんじゃないかって心配してたけど、結果的にお父さんと離婚できてよかったよね」と、彩絢は軽い口調で話している。母さんもその声に自然と応えた。
「あんな事業、事件がなくてもいずれ破綻していたと思うけど、すっきり離婚できたのはよかったわ」
「でもさ、お父さん、ほんと惨めじゃない? すべて失って、唯一残ったのはお母さん名義で作ってた仮想通貨だけだったんでしょ? でも、お母さんはそれも一瞬で売っちゃったし」
「彩絢、あの人の肩を持つ気なの?」と、少し鋭い声で母さんが尋ねた。
「まさか」と彩絢は鼻で笑った。
「むしろお母さんの決断力の速さを尊敬してるよ。一番高いときに売ったんだから、すごいじゃん?」
しばらくの沈黙。母さんが声を潜めて言った。
「ねえ、彩絢、英斗には絶対に黙っていてほしいんだけど、乙黒奈緒が出所したの」
思わず息を飲んだ。奈緒が出所? そもそも刑務所に入っていたなんて知らなかった。
次々に明かされる事実を理解しようとするが、頭が追いつかない。無意識に拳を握りしめた。
「えっ? 早くない?」
彩絢の声が高く響いた。
「自首したことや、服役中の態度が良かったらしいわ。それで早まったのかもしれない」と、母さんが静かに答える。
「でも、もう関係ないよね? あの女、結局お父さんの会社を乗っ取ろうとして失敗したわけだし。今は何もないじゃん」
「そうであってほしいけどね……」
母さんの声が少し低く、どこか不安が滲んでいた。
奈緒が刑務所に入っていたこと、出所したこと、二人の会話が頭の中で渦巻く。
現実味がじわじわと増してきたが、関係ないと自分に言い聞かせる。
俺は更生プログラムを受け、奈緒との関係は断ち切った。
栞のことを過去にしようと努めていたが、心の奥にまだ影が残っている気がする……けれど、もう関わることはない。
息を整えて、気づかれないように自室へ戻る。
何事もなかったふりをして日を過ごし、夜が訪れる。
そんな夜、スマホに通知が入る。
画面に表示された名前に、思わず目が止まった。
栞。
消し去ろうとしていたはずの彼女が、突然目の前に現れた。
胸の奥でざわざわと何かが蠢くのを感じながら、こわばる手で画面をタップする。
『久しぶり。わたしのこと、覚えてる?』
短いメッセージに血の気が引き、指がスマホから離れないまま次のメッセージが続く。
『いきなり、びっくりするよね』
さらに届く。
『話し足りなかったよね』
『今だったら、客観的に見れるの』
一通、また一通。次々と届く栞のメッセージが、俺の内側を締め付けていくようだ。
『あなたがわたしにやったこと、ママがあなたにしたこと』
『もう気にしてないよ』
止まらない。圧迫感が全身を覆い、どんどん追い詰められていく。
『でも、このまま音信不通っていうのも変だよね』
次のメッセージが決定的だった。
『ねえ、一度、会って話さない?』
スマホを握る手が止まったまま、動けなかった。
初めに湧き上がったのは、栞に対する恐怖ではなく、自分自身への恐怖だった。
時間をかけて忘れ去ったはずの彼女が、たった一瞬で心に膨れ上がってくる感覚に、身震いする。
必死に押し返そうとしながら、最後の力でスマホの電源を切った。
深く息を吸って吐き出し、熱を帯びた体をどうにか冷まそうとする。
それでも頭の中に問いが浮かんで離れない。
本当にあれは栞だったのか?
付き合っていた頃の栞は、おどおどしていて、こんな強引なメッセージを送るなんて想像もできなかった。
あのときのアイコンは、木にしがみつくモモンガの写真だった。
それが今では星屑の画像に変わっている。まるで栞自身が別人になったみたいだ。
翌日、スマホの電源を入れても、新しいメッセージは届いていなかった。
無視した俺に、栞も興味を失ったのかと思い、平凡な大学生活を過ごした。
だが、その夜、ベッドに潜り込んで眠ろうとしたとき、またメッセージが届いた。
『どうして返事をくれないの?』
『何か疑ってる?』
『無視するつもり? 既読ついてるのに』
心拍がどんどん速くなり、恐怖が全身を駆け巡る。
『わたしにしたこと、忘れた?』
『欲望を押し付けて、わたしを〝もの〟のように扱ったよね』
メッセージがナイフのように胸をえぐり、罪の記憶が鮮やかに甦ってくる。
『でも、摩夜よりあなたにしとけばよかったって、後悔してるの』
――え? 頭が追いつかない。
『摩夜はクズだった。あいつに全部潰されたの。死んでよかった』
潰された? 一体何が起きたんだ……。
メッセージが途切れ、一瞬の静寂が訪れたが、安堵する間もなく、スマホは光る。
『ずっと黙ってるんだね』
『ほんとにわたしか、疑ってる?』
『付き合ってた頃、よくわたしの写真が欲しいって言ってたよね?』
――そう言って、彼女は。
『今のわたし、あげるね』
スマホを握る手がじっとり汗ばみ、画面に映る栞の姿が目に焼きついた。
黒髪がさらさら揺れ、あの優しげな瞳がまっすぐこちらを見ている。
ふっくらした唇も昔のままだけど、今の栞は……違う。
腹の底で何かが爆発しそうになり、頭がぼんやりと浮かぶような感覚に襲われる。
「栞……好きだ……栞!」
気づけば理性は吹き飛んでいた。
画面越しの栞が、俺を誘惑するように微笑んでいる。
心臓が激しく脈打ち、息が乱れてスマホの画面が曇る。
欲望が渦を巻き、画面を拡大、縮小する指は止まらない。
ベッドのパイプがギシギシと音を立てた。
身体中の血が一箇所に集中する感覚が襲い、ついに限界が訪れた。
「……ああっ、しおりぃ!」
抑えていたものが一気に解き放たれ、全身が浮き上がるような感覚に包まれる。
ぐったりとベッドに沈み込むと、まだ体には余韻が残っていた。
ん? かすかにドアがきしむ音が聞こえた気がする。
でも、栞の姿から目を離せない。
「かわいいな……栞……すげー、会いたい」
そうつぶやいた瞬間、背後から声が飛んできた。
「さっきから何言ってるの?」
「え……」
現実に引き戻された。振り返ると、母さんが立っていた。
全身が凍りつき、冷たい汗が背中を伝い落ちる。
母さんの目はスマホの画面を見つめ、険しい顔つきだ。
画面にはキャミソール姿の栞が映っていた。
白い肌が光に照らされ、パーカーが肩に引っかかりながらずり落ちている。
微笑む姿が不自然に色っぽく見え、胸の膨らみが強調されていた。
柔らかな曲線に目が引き寄せられ、自分が情けなくなってくる。
母さんの険しさが増していく。
頭の中が真っ白になり、羞恥と恐怖が混ざり合って押し寄せた。
「何なの、これ……まだ、あの子と……!」
心臓が耳元で爆発しそうな音を立てた。
目の前がぼんやりとし、逃げられない状況に追い込まれていく。
何も言えない。口が乾いて、声が出ない。
母さんの視線が画面から俺に向かい、息が詰まる。
圧倒的な静寂が部屋を支配し、スマホの中で微笑む栞はなお艶やかに映り続けている。
――どうしてこんなことに……。何も考えがまとまらない。ただ、息が苦しい。
母さんはじっと黙ったまま、俺を見つめ続ける。目を合わせることなんかできない。
毛穴から汗がドバドバ流れ、体が石みたいに固まってしまう。
――やめてくれ、何も言わないでくれ!
叫びたいのに、声が出ない。
絶望が全身を覆い尽くす、そのとき――。
スマホの画面が静かに光った。
あの夜の出来事は遠い過去のように感じるが、罪の重さは今も心に残っている。
栞と付き合っていた頃は、自分の行いが罪に問われるなんて考えもしなかった。
栞が告白してきたのだから、自分の求めに応じるのが当然だと、歪んだ考えに支配されていた。
裁判で栞との関係を問い詰められたとき、自分の異常さに初めて気付かされた。
罪状が告げられた瞬間、ニュースで目にする犯罪者と同じだと痛感し、罰を受け入れるしかなかった。
事件後、栞や奈緒がどこで暮らしているのか、何をしているのかはわからない。
奈緒が何かの罪で裁かれたらしいと、うっすら知っている程度だ。
母さんが裁判で対応している姿を見て、それが事実だとわかったけど、詳しいことは教えてくれなかった。
ただ一つ確かなのは、栞が俺の前から完全に消えたということだ。
彼女との断絶が残したのは、強烈な孤独感だった。
蛇沼の薬をトイレに流した件も、たとえ仕組まれた罠だったとしても、俺の責任が消えるわけじゃない。
薬を流したという事実がある限り、蛇沼の命を危険に晒したことには変わらない。
もっとも、病気が進行して、あいつはもうこの世にはいないだろうが。
俺の過ちは、個人の罰だけにとどまらず、父さんの事業崩壊を引き起こした。
チーラボの評判は一気に悪化し、客足は激減。結局、廃業に追い込まれた。
父さんは取引先への賠償や融資の返済に苦しみ、資産をすべて失った。
母さんも耐えられず、離婚を切り出した。父さんはそれを受け入れるしかなく、俺は母さんと彩絢と一緒に別の市へ引っ越した。
その後、星囲は財政難に陥り、街を立て直すために飲食チェーンなどの企業を誘致しようと必死らしいが、うまくいっていないとネットニュースで見た。
俺は、あの街には、もう二度と戻れないだろう。
だが、新しい場所に移ったところで過去を消し去ることはできない。
特に俺を苦しめたのは、ネット上の誹謗中傷だった。
高校生経営者としてチーラボの宣伝動画に出演していたことで、顔も名前も広く知れ渡っていたからだ。
事件の発覚と同時に、それが裏目に出た。
「モラハラクズ息子」「殺人未遂高校生」などの罵声がネットで飛び交うようになった。
騒ぎは収まる気配もなく、名前と顔がどこへ行ってもついて回るような気がして、俺は半年間、引きこもっていた。
母さんは、その頃から俺に対して過保護になった。
父さんがいなくなった影響もあるのだろう。以前の自由な生活とはまるで違い、俺の行動一つひとつに目を光らせている。
籠る生活が続いていたが、気が晴れると外出したくなる。
でも、母さんは行き先や理由をしつこく聞いてきた。そのせいで、引きこもりから抜け出すのに時間がかかった。
通信制高校に通い直したのも、母さんの勧めだった。自分のペースで勉強できたのは良かったが、一年遅れることには抵抗があった。
それでも、なんとか卒業し、今は大学生だ。
通学を始めて一ヶ月が経つが、世間はすっかり俺のことを忘れたようで、大学でも冷たい目で見られることはない。
もうすぐ保護観察期間が終わる。少しずつ前を向いて歩ける気がしていた。
そんな矢先のことだ。
大学から帰って、いつもの静かな家に入る。リビングに向かおうとしたとき、母さんと彩絢の話し声が耳に入った。
俺が帰ってきたことに気づいていないらしい。廊下で立ち止まり、二人の会話に耳を傾けた。
「……英斗が事件を起こして、正直わたしも巻き込まれるんじゃないかって心配してたけど、結果的にお父さんと離婚できてよかったよね」と、彩絢は軽い口調で話している。母さんもその声に自然と応えた。
「あんな事業、事件がなくてもいずれ破綻していたと思うけど、すっきり離婚できたのはよかったわ」
「でもさ、お父さん、ほんと惨めじゃない? すべて失って、唯一残ったのはお母さん名義で作ってた仮想通貨だけだったんでしょ? でも、お母さんはそれも一瞬で売っちゃったし」
「彩絢、あの人の肩を持つ気なの?」と、少し鋭い声で母さんが尋ねた。
「まさか」と彩絢は鼻で笑った。
「むしろお母さんの決断力の速さを尊敬してるよ。一番高いときに売ったんだから、すごいじゃん?」
しばらくの沈黙。母さんが声を潜めて言った。
「ねえ、彩絢、英斗には絶対に黙っていてほしいんだけど、乙黒奈緒が出所したの」
思わず息を飲んだ。奈緒が出所? そもそも刑務所に入っていたなんて知らなかった。
次々に明かされる事実を理解しようとするが、頭が追いつかない。無意識に拳を握りしめた。
「えっ? 早くない?」
彩絢の声が高く響いた。
「自首したことや、服役中の態度が良かったらしいわ。それで早まったのかもしれない」と、母さんが静かに答える。
「でも、もう関係ないよね? あの女、結局お父さんの会社を乗っ取ろうとして失敗したわけだし。今は何もないじゃん」
「そうであってほしいけどね……」
母さんの声が少し低く、どこか不安が滲んでいた。
奈緒が刑務所に入っていたこと、出所したこと、二人の会話が頭の中で渦巻く。
現実味がじわじわと増してきたが、関係ないと自分に言い聞かせる。
俺は更生プログラムを受け、奈緒との関係は断ち切った。
栞のことを過去にしようと努めていたが、心の奥にまだ影が残っている気がする……けれど、もう関わることはない。
息を整えて、気づかれないように自室へ戻る。
何事もなかったふりをして日を過ごし、夜が訪れる。
そんな夜、スマホに通知が入る。
画面に表示された名前に、思わず目が止まった。
栞。
消し去ろうとしていたはずの彼女が、突然目の前に現れた。
胸の奥でざわざわと何かが蠢くのを感じながら、こわばる手で画面をタップする。
『久しぶり。わたしのこと、覚えてる?』
短いメッセージに血の気が引き、指がスマホから離れないまま次のメッセージが続く。
『いきなり、びっくりするよね』
さらに届く。
『話し足りなかったよね』
『今だったら、客観的に見れるの』
一通、また一通。次々と届く栞のメッセージが、俺の内側を締め付けていくようだ。
『あなたがわたしにやったこと、ママがあなたにしたこと』
『もう気にしてないよ』
止まらない。圧迫感が全身を覆い、どんどん追い詰められていく。
『でも、このまま音信不通っていうのも変だよね』
次のメッセージが決定的だった。
『ねえ、一度、会って話さない?』
スマホを握る手が止まったまま、動けなかった。
初めに湧き上がったのは、栞に対する恐怖ではなく、自分自身への恐怖だった。
時間をかけて忘れ去ったはずの彼女が、たった一瞬で心に膨れ上がってくる感覚に、身震いする。
必死に押し返そうとしながら、最後の力でスマホの電源を切った。
深く息を吸って吐き出し、熱を帯びた体をどうにか冷まそうとする。
それでも頭の中に問いが浮かんで離れない。
本当にあれは栞だったのか?
付き合っていた頃の栞は、おどおどしていて、こんな強引なメッセージを送るなんて想像もできなかった。
あのときのアイコンは、木にしがみつくモモンガの写真だった。
それが今では星屑の画像に変わっている。まるで栞自身が別人になったみたいだ。
翌日、スマホの電源を入れても、新しいメッセージは届いていなかった。
無視した俺に、栞も興味を失ったのかと思い、平凡な大学生活を過ごした。
だが、その夜、ベッドに潜り込んで眠ろうとしたとき、またメッセージが届いた。
『どうして返事をくれないの?』
『何か疑ってる?』
『無視するつもり? 既読ついてるのに』
心拍がどんどん速くなり、恐怖が全身を駆け巡る。
『わたしにしたこと、忘れた?』
『欲望を押し付けて、わたしを〝もの〟のように扱ったよね』
メッセージがナイフのように胸をえぐり、罪の記憶が鮮やかに甦ってくる。
『でも、摩夜よりあなたにしとけばよかったって、後悔してるの』
――え? 頭が追いつかない。
『摩夜はクズだった。あいつに全部潰されたの。死んでよかった』
潰された? 一体何が起きたんだ……。
メッセージが途切れ、一瞬の静寂が訪れたが、安堵する間もなく、スマホは光る。
『ずっと黙ってるんだね』
『ほんとにわたしか、疑ってる?』
『付き合ってた頃、よくわたしの写真が欲しいって言ってたよね?』
――そう言って、彼女は。
『今のわたし、あげるね』
スマホを握る手がじっとり汗ばみ、画面に映る栞の姿が目に焼きついた。
黒髪がさらさら揺れ、あの優しげな瞳がまっすぐこちらを見ている。
ふっくらした唇も昔のままだけど、今の栞は……違う。
腹の底で何かが爆発しそうになり、頭がぼんやりと浮かぶような感覚に襲われる。
「栞……好きだ……栞!」
気づけば理性は吹き飛んでいた。
画面越しの栞が、俺を誘惑するように微笑んでいる。
心臓が激しく脈打ち、息が乱れてスマホの画面が曇る。
欲望が渦を巻き、画面を拡大、縮小する指は止まらない。
ベッドのパイプがギシギシと音を立てた。
身体中の血が一箇所に集中する感覚が襲い、ついに限界が訪れた。
「……ああっ、しおりぃ!」
抑えていたものが一気に解き放たれ、全身が浮き上がるような感覚に包まれる。
ぐったりとベッドに沈み込むと、まだ体には余韻が残っていた。
ん? かすかにドアがきしむ音が聞こえた気がする。
でも、栞の姿から目を離せない。
「かわいいな……栞……すげー、会いたい」
そうつぶやいた瞬間、背後から声が飛んできた。
「さっきから何言ってるの?」
「え……」
現実に引き戻された。振り返ると、母さんが立っていた。
全身が凍りつき、冷たい汗が背中を伝い落ちる。
母さんの目はスマホの画面を見つめ、険しい顔つきだ。
画面にはキャミソール姿の栞が映っていた。
白い肌が光に照らされ、パーカーが肩に引っかかりながらずり落ちている。
微笑む姿が不自然に色っぽく見え、胸の膨らみが強調されていた。
柔らかな曲線に目が引き寄せられ、自分が情けなくなってくる。
母さんの険しさが増していく。
頭の中が真っ白になり、羞恥と恐怖が混ざり合って押し寄せた。
「何なの、これ……まだ、あの子と……!」
心臓が耳元で爆発しそうな音を立てた。
目の前がぼんやりとし、逃げられない状況に追い込まれていく。
何も言えない。口が乾いて、声が出ない。
母さんの視線が画面から俺に向かい、息が詰まる。
圧倒的な静寂が部屋を支配し、スマホの中で微笑む栞はなお艶やかに映り続けている。
――どうしてこんなことに……。何も考えがまとまらない。ただ、息が苦しい。
母さんはじっと黙ったまま、俺を見つめ続ける。目を合わせることなんかできない。
毛穴から汗がドバドバ流れ、体が石みたいに固まってしまう。
――やめてくれ、何も言わないでくれ!
叫びたいのに、声が出ない。
絶望が全身を覆い尽くす、そのとき――。
スマホの画面が静かに光った。