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 摩夜くんと二人、夜の高原を歩く。
 夏の風が頬をかすめ、遠くから虫の声が響いてくる。
 手を握られると、温もりが広がって、少しだけ心が落ち着いた。
 コテージの灯りはもう遠く、ここにはわたしたちしかいない。

 見上げると、星が静かに輝き、風が心地よく肌を撫でる。
 自然に包まれ、張り詰めた心がゆっくりとほどけていく感じがする。

 けれど、コテージでの出来事がどうしても頭から離れない。
 計画はうまくいったけれど、失敗していたら英斗に襲われていたかもしれないし、摩夜くんに薬を届けられなかったかもしれない。
 今さら不安が押し寄せ、胸がドキドキして足が震えた。
 歩みが重くなり、ふと立ち止まった。すると摩夜くんが静かに声をかけた。

「どうしたの? さっきのこと、気にしてる?」

 摩夜くんに心の奥を見透かされた気がして、わたしは小さく頷いた。

「あのとき、たまたま英斗が外に出てたからコテージに入れたけど……もし居たままだったら、どうなってたんだろうって」

 摩夜くんが軽く笑う。

「それでも大丈夫だったよ。しーちゃんにはナイフがあったし、きっと対抗できたから」

 確かに、わたしはママから渡されたナイフを手にしていた。万が一に備えて。

「でも、もし……ナイフを奪われて逆に脅されてたら」
「そうなっても、俺がすぐに演技をやめて動くつもりだった。おばさんも近くにいて、応援を呼ぶ準備も整っていたし」

 摩夜くんの落ち着いた声が夜風に溶け込んでいく。
 そう、この計画は、どんな展開にも対応できるように組まれていたのだ。
 英斗がどう出ようと、薬を抜く瞬間さえ映像に収めていれば、目的は達成できていた。

「まあ、でも百点満点だったんじゃない? 白根くんが外に出て、しーちゃんが俺に薬を届けた。そして、おばさんもすぐ到着して、俺が『実は死んでなかった』って見せて驚かせる。完全に精神的に追い詰められてたし、マジで完璧だったよ」

 あっさり言うけれど、摩夜くんの計画は本当に抜け目がなくて、怖いくらい。
 摩夜くんと話して、「これで終わったんだ」とあらためて実感し、体が軽くなる気がした。

 道はなだらかな丘へと続き、登るにつれて空が近づいてくるような気がする。
 広がる星々の下、わたしたち二人だけ。手をつないで歩いている今が、計画の成功を象徴しているように思えた。
 あとのビジネスの話はママの得意分野。
 チーラボがママのものになるのか、大金を手にするのか、全部ママの手にかかっている。
 わたしたちはただ青春を楽しむだけ。

 摩夜くんの手の温かさが、安心感をゆっくりと広げていく。
 遠くに北極星が輝き、どこかへ導いてくれるように見える。
 摩夜くんと並んで歩くたび、星の世界に少しずつ近づいていく気がした。
 彼の病気が治って、ずっと一緒にいられる未来を、心の奥で願っている。
 虫たちの声が響き渡る夜。ここだけ、世界が止まっているような静かなひととき。


「しーちゃん、頂上はこの辺かな?」

 摩夜くんの声に、心臓が少し跳ねる。

「うん」と小さく頷いた。
 彼は首をかしげ、微笑みを浮かべている。
 
 頂上にたどり着き、摩夜くんはそっと手を離した。
 温もりが消え、わずかな心細さが広がる。
 彼は座って、夜空を見上げた。
 わたしも隣に腰を下ろし、膝を抱えて体を小さくした。
 二人だけの静かな時間が、映画のワンシーンみたいに流れていく。
 摩夜くんがふとわたしを見る。

「……何?」

「しーちゃんとずっと二人になりたかったんだよ」

「えっ?」

「だって、あの人がいると、願い事だって頼みづらいでしょ」

 そうだ、摩夜くんにお礼しなくちゃ。
 彼はいつもの笑顔でわたしを見ている。恥ずかしさがこみ上げて、星空に目を向けた。
 ぎゅっと近く感じる星たち、まるで隕石が落ちてきそうな迫力に、少し怖い気持ちがする。
 だんだん彼の行動が読めてきた。
 
 たぶん、告白されるんだ。
「俺の彼女になってくれ」って。

 二人きりの夜なんだから、そういうことだよね。
 キスだってするかもしれない。摩夜くんにとっては、初めてのキスになる。
 わたしは初めてじゃないけど……あのときよりも、ドキドキしてる。
 彼の瞳に星の光が反射して、わたしが映っている。
 きっと、彼はわたしのことを好きなんだ。

「俺の願い、叶えてくれる?」

 小さく頷くと、摩夜くんはポケットに手を入れた。
 え? サプライズなの? 指輪とか、ネックレスとか?
 そんなロマンティックなことをされたら、もうどうしたらいいかわからない。
 顔がどんどん熱くなっていく。

 もう、摩夜くんが大好きになっちゃうよ。
 そして、彼の手が取り出したものは。
 

 ――ギラリと光る鋭い刃だった。


「死んでよ」
 耳を疑った。摩夜くんの笑顔はそのままだ。
「嘘……」
「本気だよ。一緒に死のう。ひとりで死ぬのは怖いから」

 声はあまりにも冷静で、揺らぎもない。演技なんかじゃない。本気で言っている。
 嫌だ、死にたくない。逃げなきゃ。
 でも、体が言うことを聞かない。固まったように動かない!

「な、なんで……おかしいよ」
「なんでも叶えてくれるって言ったよね?」

 白い歯が、狂気じみた光を放っていた。

「そんなの無理だよ……死にたくない……これから幸せになれると思ってたのに」
「まぁ、そう言うと思ったけどね」

 摩夜くんはため息をつき、刃物をしまった。
 安堵と恐怖が一気に押し寄せて涙があふれる。胸が詰まって、どうしようもなくなった。

「なんで……告白されると思ってたのに、どうしてこんなこと……」

 無理に笑って「冗談だよね?」と自分に言い聞かせるように口にする。
 摩夜くんは立ち上がり、無表情でわたしを見下ろす。人形のような冷たい顔、揺れもしない瞳。

「告白なんてするわけないじゃん。君さ、自分を過大評価してるよね。男なら誰でも自分に惚れると思ってるんだろ? 俺、君や白根くんみたいな恋愛脳じゃないから」

 冷たく突き放す声が、わたしの存在を否定するかのように響いた。

「君が俺を助けたいとか叶えたいとか言ってたけど、それってただの自己満だよ。『彼女になってあげる』って上から目線が気に障る。俺が頼んでるみたいな感じにしやがって。どういう神経してるの?」

 何も言えず、ただ悲しさに沈んで、涙さえも流れない。体が固まって動かない。

「君がやってたのは〝感動搾取〟だよ。余命が少ない俺と一緒にいることに、価値を感じてたんだろ? 俺の病気を感動のネタにして、自分の価値を高めようとしてたんだ。君みたいに、俺を利用して満足するやつが一番嫌いだ。俺は君の物語の悲劇のヒーローなんかじゃない。薄っぺらい同情にはもううんざりだ」

 摩夜くんの言葉が続くたび、心が傷ついていく。
 英斗のモラハラなんかより、よっぽどきつい。

「ホスピスに来てたのも、白根くんに支配されるのが嫌で、逃げる場所が欲しかっただけじゃないのか? 俺なんか、君にとってはただの道具だったんだろ?」

 反論もできず、ただ座り込んだまま。
 摩夜くんは冷ややかな目を向けたまま、嘲笑うように話を続ける。

「そうだ。俺は君にとって都合の良い道具でしかなかった。ホスピスの子供たちに対する冷たい態度、それが本当の君だろ? 興味のないものにはあからさまに無関心だったし、俺の目が届かないところでどれだけ冷たかったか、全部わかってるんだ」

 わかったから、もうやめてよ……。

「特に、ミズへの態度は何だ? 好かれるのが嫌なら最初から来るなよ。何も知らないミズは、君が急に距離を置いたことに傷ついたんだ。最低だね」

 ……。

「君は『運が良い』だけの人間だ。外見に頼って生きてるだけで、何も特別なものはない。それで自分が特別だと信じてるんだろ?」

 ……。

「白根くんも同じだ。金があるだけで、それ以外には何もない。そんなやつが特別だと思い込んでるのは滑稽だよ。君たちは、結局似た者同士なんだ」

 摩夜くんの声が、なんだか……さっきから……あれ? 
 何も感じない。
 なんでだろう。今は、空っぽ。声が遠くで鳴ってるみたいで、薄っぺらく響いてくるだけ。
 泣いていたのに、涙も止まって、心が嘘みたいに静かだ。
 冷静でいる自分が信じられない。なんで、こんなに平気なんだろう?

 ああ、そっか。
 わたし、冷めちゃったんだ。

 そう気づいたとき、全部がどうでもよくなって、すっと納得した気がした。

「ボランティア部の他の二人の方がまだマシだったよ。少なくとも、君みたいに偽善的じゃなかった。君なんて、ただママの言いなりで、自分の意思なんて持ってないクズだ」
  
 もう、どうでもよかった。何も感じない。
 けらけら笑いながらスマホをいじってる姿が目に入るけど、心の中で「お前がクズだ」と思うだけ。

「君のママもクズだ。俺が薬を飲まなければ死ぬってのを利用して、死んだふりをさせて英斗を嵌めるなんて普通考えないだろ? ホスピスの子供たちをカモフラージュに使って、もし本当に俺が死んでたら、あの子たちにどれだけの傷を残すかなんて考えもしなかったんだろうな。頭おかしいよな、そんな提案をするなんてさ」

 ママのことまで悪く言い出した。
 もう「くん付け」なんていらない。蛇沼摩夜は惨めなクズだ。

「俺の目的は、君を助けて、幸せのギリギリまで持ち上げて、そこから叩き落とすことだよ。最高にスカッとするだろ? はははっ!」
 
 わざとらしい笑い声が夜の静けさに不自然に響く。
 悪ふざけのようで、聞いているだけで気持ちが冷えていく。
 英斗の方がまだマシかもしれないとさえ思うほどくだらないやつだ。
 彼が何かを言い続けているけど、もうどうでもいい。笑い声も、何を言っているのかも、遠い世界の話のようにしか聞こえない。
 頭に浮かぶのは、ただ星がきれいだということだけ。
 わたしが何も反応しなくなると、摩夜はつまらなそうにスマホに没頭する。

「もうどうでもよくなったんだね。まあ、俺には時間がないから、誰がどう思おうが関係ないけどさ。君だって、俺がいなくなったらすぐに忘れるだろう。誰も最後には残らないし、俺なんかすぐ消える存在だ」

 急に弱さを見せるような発言に、さらに嫌悪感が募る。
 自分の病気を「特別」扱いして、それを盾にして同情を引こうとするクズ。
 こんなやつに惹かれていたなんて、バカみたい。

 そのときだった。

「栞!」

 大きな声が響いた。ママの呼び声だ。
 振り返ると、ママが息を切らしながらこちらに向かって走ってくる。
 険しい顔をしていて、こんな表情は初めて見る。

「摩夜のスマホを奪いなさい!」

 反射的に顔を上げる。摩夜の口元が不気味に歪んで、ピエロみたいな笑いが浮かんでいる。
 わたしは立ち上がり、摩夜のポケットから少しはみ出したナイフを見つけ、咄嗟に掴んだ。

 鋭い痛みが手に走る。握ったのはちょうど刃の部分だった。
 血がじわりとあふれ、指先が熱くなる。
 鮮やかな赤が手のひらを染めたけど、ナイフをしっかりと握りしめたまま、摩夜に向けて振りかざした。

「スマホ、渡して! 言うこと聞かないと刺すから!」

 声が震えそうになるのを必死で堪える。息が荒くなるのが怖かった。
 摩夜は眉をひそめ、ちらりとこちらを見てから、スマホを地面に落とした。
 痛みがますます強まり、立っているのがつらくて座り込んでしまう。

「見たところで、どうすることもできないけどね」

 スマホの画面には、SNSで拡散された英斗の犯行の様子が生々しく映し出されている。
 インフルエンサーたちによってリポストされ、拡散は止まらない。
 ママが持っていた英斗への脅しのカードも、もう何の意味もない。  
 あれだけ頑張って集めたモラハラの証拠も、すべて無駄になった。

 一体、何のためにこんなにつらい思いをしてきたの……。
 犠牲にして得たのは、手の痛みだけなの?

 そんなの、ひどい……。

 そんなわたしの血だらけの手を、ママが優しく取る。
 落ち着いた手つきでハンカチを広げて、傷口にしっかりと押し当てた。

「少しの間、これで止めておきなさい。大丈夫だから」

 ママの声は優しくて、何でもない日常の中で話しかけているようだった。
 ハンカチがじわじわと赤く染まっていくけれど、ママは気に留める様子もなく、その上から手を優しく添えた。
 痛みはまだ残っているけど、ママの手の温かさが、少しだけそれを和らげてくれているように感じた。
 ママも摩夜のスマホに映る画面をちらりと見たが、すぐにわたしに向けて微笑んだ。

「ごめんね、栞。あなたにいつも、嫌なことばかりさせちゃって。ママ失格ね」
 
 わたしは大きく首を横に振る。

「ママ、自首するわ」
「え……どうして? だって英斗のせいなのに……」
「彼を煽ったのも、あなたに無理やり付き合わせたのも、私の責任よ。詐欺や脅迫、どんな罪になるかはわからないけど」
「……なんで。摩夜も関わってるし……わたしだって……」
「責任を取るべき大人は私だけ。もしかすると、あなたをひとりにさせるかもしれない」
「いや……ママがいなきゃ、生きていけない」

 すすり泣きながらそう訴えた。
 ママの目にも、うっすら涙が浮かんでいる。

「大丈夫よ。おじいちゃんにお願いしておくから」
「いや……会ったこともない人なんて……」
「栞は、ママよりずっといい子だから、きっと優しくしてくれる」
「でも……ママじゃなきゃだめ。わたし、ママがいないと何もできない……クズだよ」

 声がかすれ、涙が頬を伝って落ちる。
 ママはわずかに笑った。

「クズじゃないわ、栞。あなたは星屑よ」
「星屑……?」

 ママが夜空を指さす。星の光が明るく瞬いている。

「そう。無数の星が見えるでしょう? 小さいけれど、一つひとつが自分の力で輝いているの。今は暗闇にいるかもしれない。でも、星屑のように少しずつ自分の光を集めていけば、きっと輝ける日が来るわ」

 優しく静かな声に耳を傾けながら、夜空を見上げた。
 夏の大三角が大きく輝き、空全体を支配するかのように光っている。
 北極星も、遠くで道を示すように輝いていた。
 でも、ママの言うとおり、小さな星屑たちも輝いていた。

「大きな星に目が行きがちだけど、その間に無数の星屑があるの。小さくても、自分の力でひっそりと輝いている」

 小さな光が、夜の隙間に忍び込んだ宝石のように瞬いていた。
 普段は気づかれないかもしれない。
 でも、一度見つければ、かすかな輝きが心に残る。


「どんなに散らばっても、星屑は消えないの。栞も、自分の光を絶対に失わないで。強く生きていれば、いつか夜空を照らす日が来るわ。あなたは強い子。大丈夫」

 ママの声が胸に染み込んでいく。

 この先どうなるか、ママと一緒にいられるか、どこで暮らすのかもわからない。それでも不思議と怖くなかった。

 ママがくれた「星屑」という響きが、胸の奥にじんわり広がっていく。

 昔、ママに「クズ」だと言われたことが心に刺さって抜けないトゲみたいに残っていた。
 けれど、今は違う。クズと星屑、似ているけれど全く別の意味を持つ。


 迷わないように、自分を見失わないように――そう願いを込めて名付けられた、栞。

 わたしの名前と星屑には、どこか重なるものがある。

 わたしは、星屑。

 手の痛みも、いつの間にか薄れていた。
 蛇沼摩夜の狂った笑いが響いていたけれど、わたしは無関心だった。

「ママ、わたし頑張る」

 自然に笑みがこぼれ、ママに向けて微笑んだ。
 ママも優しく笑みを返してくれた。

「栞は、いい子。ずっとママが信じている通り……」