【英斗】
俺は気づいたら走り出していた。
唇から涎が垂れて、風にさらされ乾いていく。
「栞……」とつぶやくと、体が一気に熱を帯びる。
拳を握りしめ、爪が手のひらに食い込むが、痛みなんか感じなかった。
「どこだ、栞!」
コテージの外の茂みで叫んだ。
草を踏みしめる音がやたら大きく響くが、栞の気配はどこにもない。
「クソが……!」
拳を握り締めたまま痙攣が止まらない。
腕に力が入りすぎて、じんじんとした痛みが広がる。
目に入るのは木々や茂みばかりで、遠くに別のコテージの明かりがぼんやりと見えるだけ。
どこからも返事はない。
背後で蛾がランプにぶつかり、パタパタと音を立てる。
たったそれだけで神経を逆撫でされるようにイライラが募っていく。
「出てこい! お前は俺のだろ!」
地面を蹴りつけて、空を見上げる。
冷たい星が俺を監視しているようで、全身がギシギシと固まっていく。
そのとき、足元に目が留まった。草むらに薄ピンクのハンカチが落ちている。
しゃがみ込み、拾い上げると、体がさらに熱を帯びた。
「これ……栞のだ……」
生地は湿り気があった。間違いない。栞がこれで汗を拭いたのだ。
湿ったハンカチを手に取り、鼻を押し当てて息を吸い込む。頭の奥までじんとしみわたるような甘い匂いが広がっていく。
栞の匂いだと確信する。
「ふふ……栞……」
心臓がドクドクと早く打つ。体の奥で熱が膨れ上がっていく。栞はここにいる。
何を目的に来たのかは知らないが、この近くにいるはずだ。逃げるなんて無理だ。
ハンカチを握りしめ、足は自然とコテージに向かって動き出す。
玄関には小さな白いスニーカーが並んでいる。栞の靴だ。
「栞……いたな……」
部屋が揺らいで見える。
「朝まで楽しもうぜ……栞」
荒ぶる気持ちが足音に重なり、L字の角を曲がって寝室へ向かう。
そこにいた。膝をつき、蛇沼の死体を見つめている栞。華奢な体と長い黒髪が揺れていた。
「おい、栞!」
大声を張り上げると、栞がびくっと震えて振り返った。
涙を浮かべた目で、強く睨んでくる。
「摩夜くん……息をしてないよ」
最初に気にかけるのがあいつかよ。無意識に指の関節をポキッと鳴らした。
「どうでもいい。あいつが薬を忘れたんだ。勝手に死んだだけだ」
栞はゆっくりと立ち上がる。足元がふらついている。
「なんで……こんなことになったの……」
「こんなこと? 俺には関係ない。薬を持ってなかったのはあいつの責任だ」
栞は両手で顔を覆い、めそめそと鼻をすすりながら、「摩夜くん……」と未練がましく名前を呼び続けている。
「うるせえよ。こいつの自己責任だろ。ほら、約束守れよ」
栞は顔を覆っていた手を下ろし、赤く染まった目で俺を見上げる。
「バカなの? 人が死んでるんだよ!」
「うるせえ。蛇沼なんかどうでもいい」
「どうして……ひどいよ」
「お前は俺のものだ。ぐずぐず言うな。こっちに来い」
「気持ち悪い……ほんとに最低」
「何だと? 黙れよ、声も出せなくしてやる!」
怒りが爆発し、俺は栞に掴みかかろうとした。
だが、栞が「来ないで!」と叫びながら、ポケットから何かを取り出す。
銀色に光る鋭い刃。光が揺れた。
「わたしに触れたら、刺すから……」
栞は唇をかみしめ、ナイフを構えてにらみつける。
は? そんな冗談が通じると思っているのか。お前が俺を刺せるわけがない。
俺は椅子を蹴り飛ばした。さらに一歩、栞に迫った。
「俺を刺せるって? 臆病者のお前がそんなことできるわけないだろ」
栞はナイフを両手で前に突き出し、声を震わせながらも視線を外さない。
「刺せる……殺してやる……」
迷いのない目だ。まっすぐこちらを見据えている。
気づけば、俺の指が小刻みに震えている。なぜだ……。
拳を握りしめようとするが、力が入らない。足元がふらつき、体が思うように動かなくなっていく。
「……あなたは、わたしの内側なんて一つも見てない。外ばかりで、中は全然知らないくせに」
何を言ってるんだ?
俺は栞のすべてを知ってるつもりだった。触れてきたし、言う通りにさせてきた。
俺のものだったはずだ。
それなのに、栞はじっと俺を見返してくる。怯えていない。
背中に冷たい汗がじわりと広がっていく。さっきまで燃え上がっていた熱が、どんどんしぼんでいくのを感じた。
動け。
椅子を投げれば簡単に倒せるし、ナイフだって取り上げられる。
全部を支配して、怒りも欲望もぶつければいい。
でも――できない。
栞に否定されたことが頭の中に突き刺さり、ショックで体が硬直する。
やっと首を動かし、大きく振った。
「うるさい! お前の外も中も、どうでもいい! お前が俺に惚れて告白してきたんだ。だったら、俺に従えよ! お前は俺の女だろ!」
栞は引かない。
「恋人に上下関係なんてない。毎日がつらかった。あなたは、わたしをいつも『もの』扱いしてた」
栞の勢いに押されて、気づけばあとずさっていた。
「……知るか。何も言わず笑ってたくせに、急に文句言いやがって」
「あなたがそうさせた。少しでも意見を言えば、すぐ縛り上げて、血が止まるくらい強く……彼女相手に、どうしてそんなひどいことができたの?」
怒りで体を動かそうとするが、寒気が広がり、うまくいかない。
耳の奥できしむ音が響いた気がする。俺と栞しかいないはずなのに、どこか妙な空気が漂う。
だが、今は栞だ。唇を強く噛み、血が滲む痛みに頼って震えを抑え込んだ。
「うるさい! 俺はちゃんとお前を彼女だと思ってた! だから、大事にした! セックスだって我慢してたんだ!」
視界がぐらつく。栞が遠く感じられる。
痛みで目を覚まそうとしても、体が思うように動かない。
栞がふいに口角を上げて、表情を変える。
「もう、その我慢も終わりでしょ? だから、摩夜くんの薬をトイレに流したんでしょ?」
頭の中が真っ白になる。なぜ知っている? 誰が話した?
「なんで……」
栞が見つめ返してくる。何かを言いたそうだが、俺の背後を気にしている。
「ママ」
と、栞がつぶやいた瞬間、すべてがひっくり返ったように感じた。
振り返ると、奈緒さんが立っていた。影から滲み出たかのように、無音で現れる。
白い歯が不気味に光り、冷たい目がじっとこちらを見つめる。
「英くん、残念ね」
顎と首がかたかたと鳴る。
「奈緒さん……なんで……俺、言う通りにやったんだよ……どうして……」
蛇沼の薬をトイレに流したのは、奈緒さんとの共謀の結果だった。
それなのに、今は余裕の笑みを浮かべている。
全身に鳥肌が立ち、思考が止まる。
唇を軽く動かした奈緒さんが、俺の動揺を楽しんでいるかのように見えた。
「何のことかしら?」
「……ふざけんな!」
怒りに任せて殴りかかろうと飛び出した。
だが、乙黒奈緒の右手にスタンガンが握られているのが目に入る。
勢いが削がれ、前かがみのまま身動きが取れなくなった。
「近寄らないで、英くん。物騒なことはしたくないの」
歯を食いしばる。悪夢みたいな現実がじわじわと鮮明になっていく。
「私は栞とあなたが結ばれることを望んでいたの。栞が白根家に嫁げば、未来は安泰だから。でも、栞の幸せが一番大事。娘が望まない結婚を、私は強要できないの」
「……嫌だ……俺は栞と結婚するんだ! あんたもそれを認めただろ!」
スマホの光が俺の顔に差し込む。
奈緒は、スマホを掲げ、映像を流している。
そこには、俺が蛇沼のカバンをいじり、薬を取り出し、部屋を離れる一部始終が記録されていた。
全身から力が抜けて立っていられない。同時に、胸の奥がねじれるような痛みに襲われ、呼吸が止まりそうになる。
「英くん、これはあなたが摩夜くんの薬を抜き取った映像よ。部屋を出て戻ったときには、薬はもう消えていた。どう? 完璧な証拠でしょ」
映像が淡々と流れる。
頭を抱えたまま耐えきれず、足から力が抜け、膝がガタンと床に落ちる。骨に響く鈍い痛みがじわりと広がった。
「提案があるの。この映像を世間に出すか、チーラボの株式の過半数を私に譲渡するか、それとも社長が保有している仮想通貨をすべて私に移すか。選択はあなたに任せるわ」
ふざけるな、と叫びたいのに声が出ない。口をぱくぱくと開閉するだけで、喉がひりつく。
静まり返った空気の中、栞がひっそりと口を開いた。
「わたしが、モラハラされてた証拠もあるよ」
栞がスマホを取り出し、音声を流す。俺の暴言が響き渡った。
どんどん血の気が引いていく。死人みたいだ。
何かを言おうとしても声が出ない。睨むことさえできず、膝をついたまま、何もできない。
栞の目は冷たく、奈緒は不気味に笑っている。
「あなたにはもう何もできないわ」
「……お前なんか……クビだ!」
「ふふ、残念ね、英くん。あなたが私をクビにしようが、この映像は世間に流れるの。あなたのすべてが終わるわ。会社も、人生も。摩夜くんを殺した罪に問われるわ」
視界が霞んで、耳もふさぎたくなるが、頭に響く音は止まらない。
だが、そのとき。
「おばさん、殺さないでくれます?」
背後から響く声。不気味な気配がすぐ近くに迫ってくる。
栞の隣に誰かが立っている。
影のように音もなく現れた……。
ま、まさか……。
目を見開いたまま凝視する。
そこに立っているのは、死んだはずの蛇沼だった。
俺がトイレに薬を流し、命を奪ったはずの相手だ。
なのに、今ここにいるなんて信じられない。
狂っている。
すべてが嘘だったのかよ……!
栞が持っていたはずのナイフが、いつの間にか蛇沼の手に移り、鋭く光る刃を握りしめたまま、俺を冷たく見下ろしている。
「さて、役者は揃ったね。白根くん、君は嵌められたんだよ」
「……嵌めた?」
「そうよ。もしあなたがもっと栞を大切にしていれば、未来は違ったかもしれない。でも、もう遅いわ」
蛇沼と奈緒がけらけらと嘲笑う中、栞の冷たい目が俺を射抜く。
吐き捨てるように言い放った。
「わたしは、あなたのことが、大嫌い」
俺は気づいたら走り出していた。
唇から涎が垂れて、風にさらされ乾いていく。
「栞……」とつぶやくと、体が一気に熱を帯びる。
拳を握りしめ、爪が手のひらに食い込むが、痛みなんか感じなかった。
「どこだ、栞!」
コテージの外の茂みで叫んだ。
草を踏みしめる音がやたら大きく響くが、栞の気配はどこにもない。
「クソが……!」
拳を握り締めたまま痙攣が止まらない。
腕に力が入りすぎて、じんじんとした痛みが広がる。
目に入るのは木々や茂みばかりで、遠くに別のコテージの明かりがぼんやりと見えるだけ。
どこからも返事はない。
背後で蛾がランプにぶつかり、パタパタと音を立てる。
たったそれだけで神経を逆撫でされるようにイライラが募っていく。
「出てこい! お前は俺のだろ!」
地面を蹴りつけて、空を見上げる。
冷たい星が俺を監視しているようで、全身がギシギシと固まっていく。
そのとき、足元に目が留まった。草むらに薄ピンクのハンカチが落ちている。
しゃがみ込み、拾い上げると、体がさらに熱を帯びた。
「これ……栞のだ……」
生地は湿り気があった。間違いない。栞がこれで汗を拭いたのだ。
湿ったハンカチを手に取り、鼻を押し当てて息を吸い込む。頭の奥までじんとしみわたるような甘い匂いが広がっていく。
栞の匂いだと確信する。
「ふふ……栞……」
心臓がドクドクと早く打つ。体の奥で熱が膨れ上がっていく。栞はここにいる。
何を目的に来たのかは知らないが、この近くにいるはずだ。逃げるなんて無理だ。
ハンカチを握りしめ、足は自然とコテージに向かって動き出す。
玄関には小さな白いスニーカーが並んでいる。栞の靴だ。
「栞……いたな……」
部屋が揺らいで見える。
「朝まで楽しもうぜ……栞」
荒ぶる気持ちが足音に重なり、L字の角を曲がって寝室へ向かう。
そこにいた。膝をつき、蛇沼の死体を見つめている栞。華奢な体と長い黒髪が揺れていた。
「おい、栞!」
大声を張り上げると、栞がびくっと震えて振り返った。
涙を浮かべた目で、強く睨んでくる。
「摩夜くん……息をしてないよ」
最初に気にかけるのがあいつかよ。無意識に指の関節をポキッと鳴らした。
「どうでもいい。あいつが薬を忘れたんだ。勝手に死んだだけだ」
栞はゆっくりと立ち上がる。足元がふらついている。
「なんで……こんなことになったの……」
「こんなこと? 俺には関係ない。薬を持ってなかったのはあいつの責任だ」
栞は両手で顔を覆い、めそめそと鼻をすすりながら、「摩夜くん……」と未練がましく名前を呼び続けている。
「うるせえよ。こいつの自己責任だろ。ほら、約束守れよ」
栞は顔を覆っていた手を下ろし、赤く染まった目で俺を見上げる。
「バカなの? 人が死んでるんだよ!」
「うるせえ。蛇沼なんかどうでもいい」
「どうして……ひどいよ」
「お前は俺のものだ。ぐずぐず言うな。こっちに来い」
「気持ち悪い……ほんとに最低」
「何だと? 黙れよ、声も出せなくしてやる!」
怒りが爆発し、俺は栞に掴みかかろうとした。
だが、栞が「来ないで!」と叫びながら、ポケットから何かを取り出す。
銀色に光る鋭い刃。光が揺れた。
「わたしに触れたら、刺すから……」
栞は唇をかみしめ、ナイフを構えてにらみつける。
は? そんな冗談が通じると思っているのか。お前が俺を刺せるわけがない。
俺は椅子を蹴り飛ばした。さらに一歩、栞に迫った。
「俺を刺せるって? 臆病者のお前がそんなことできるわけないだろ」
栞はナイフを両手で前に突き出し、声を震わせながらも視線を外さない。
「刺せる……殺してやる……」
迷いのない目だ。まっすぐこちらを見据えている。
気づけば、俺の指が小刻みに震えている。なぜだ……。
拳を握りしめようとするが、力が入らない。足元がふらつき、体が思うように動かなくなっていく。
「……あなたは、わたしの内側なんて一つも見てない。外ばかりで、中は全然知らないくせに」
何を言ってるんだ?
俺は栞のすべてを知ってるつもりだった。触れてきたし、言う通りにさせてきた。
俺のものだったはずだ。
それなのに、栞はじっと俺を見返してくる。怯えていない。
背中に冷たい汗がじわりと広がっていく。さっきまで燃え上がっていた熱が、どんどんしぼんでいくのを感じた。
動け。
椅子を投げれば簡単に倒せるし、ナイフだって取り上げられる。
全部を支配して、怒りも欲望もぶつければいい。
でも――できない。
栞に否定されたことが頭の中に突き刺さり、ショックで体が硬直する。
やっと首を動かし、大きく振った。
「うるさい! お前の外も中も、どうでもいい! お前が俺に惚れて告白してきたんだ。だったら、俺に従えよ! お前は俺の女だろ!」
栞は引かない。
「恋人に上下関係なんてない。毎日がつらかった。あなたは、わたしをいつも『もの』扱いしてた」
栞の勢いに押されて、気づけばあとずさっていた。
「……知るか。何も言わず笑ってたくせに、急に文句言いやがって」
「あなたがそうさせた。少しでも意見を言えば、すぐ縛り上げて、血が止まるくらい強く……彼女相手に、どうしてそんなひどいことができたの?」
怒りで体を動かそうとするが、寒気が広がり、うまくいかない。
耳の奥できしむ音が響いた気がする。俺と栞しかいないはずなのに、どこか妙な空気が漂う。
だが、今は栞だ。唇を強く噛み、血が滲む痛みに頼って震えを抑え込んだ。
「うるさい! 俺はちゃんとお前を彼女だと思ってた! だから、大事にした! セックスだって我慢してたんだ!」
視界がぐらつく。栞が遠く感じられる。
痛みで目を覚まそうとしても、体が思うように動かない。
栞がふいに口角を上げて、表情を変える。
「もう、その我慢も終わりでしょ? だから、摩夜くんの薬をトイレに流したんでしょ?」
頭の中が真っ白になる。なぜ知っている? 誰が話した?
「なんで……」
栞が見つめ返してくる。何かを言いたそうだが、俺の背後を気にしている。
「ママ」
と、栞がつぶやいた瞬間、すべてがひっくり返ったように感じた。
振り返ると、奈緒さんが立っていた。影から滲み出たかのように、無音で現れる。
白い歯が不気味に光り、冷たい目がじっとこちらを見つめる。
「英くん、残念ね」
顎と首がかたかたと鳴る。
「奈緒さん……なんで……俺、言う通りにやったんだよ……どうして……」
蛇沼の薬をトイレに流したのは、奈緒さんとの共謀の結果だった。
それなのに、今は余裕の笑みを浮かべている。
全身に鳥肌が立ち、思考が止まる。
唇を軽く動かした奈緒さんが、俺の動揺を楽しんでいるかのように見えた。
「何のことかしら?」
「……ふざけんな!」
怒りに任せて殴りかかろうと飛び出した。
だが、乙黒奈緒の右手にスタンガンが握られているのが目に入る。
勢いが削がれ、前かがみのまま身動きが取れなくなった。
「近寄らないで、英くん。物騒なことはしたくないの」
歯を食いしばる。悪夢みたいな現実がじわじわと鮮明になっていく。
「私は栞とあなたが結ばれることを望んでいたの。栞が白根家に嫁げば、未来は安泰だから。でも、栞の幸せが一番大事。娘が望まない結婚を、私は強要できないの」
「……嫌だ……俺は栞と結婚するんだ! あんたもそれを認めただろ!」
スマホの光が俺の顔に差し込む。
奈緒は、スマホを掲げ、映像を流している。
そこには、俺が蛇沼のカバンをいじり、薬を取り出し、部屋を離れる一部始終が記録されていた。
全身から力が抜けて立っていられない。同時に、胸の奥がねじれるような痛みに襲われ、呼吸が止まりそうになる。
「英くん、これはあなたが摩夜くんの薬を抜き取った映像よ。部屋を出て戻ったときには、薬はもう消えていた。どう? 完璧な証拠でしょ」
映像が淡々と流れる。
頭を抱えたまま耐えきれず、足から力が抜け、膝がガタンと床に落ちる。骨に響く鈍い痛みがじわりと広がった。
「提案があるの。この映像を世間に出すか、チーラボの株式の過半数を私に譲渡するか、それとも社長が保有している仮想通貨をすべて私に移すか。選択はあなたに任せるわ」
ふざけるな、と叫びたいのに声が出ない。口をぱくぱくと開閉するだけで、喉がひりつく。
静まり返った空気の中、栞がひっそりと口を開いた。
「わたしが、モラハラされてた証拠もあるよ」
栞がスマホを取り出し、音声を流す。俺の暴言が響き渡った。
どんどん血の気が引いていく。死人みたいだ。
何かを言おうとしても声が出ない。睨むことさえできず、膝をついたまま、何もできない。
栞の目は冷たく、奈緒は不気味に笑っている。
「あなたにはもう何もできないわ」
「……お前なんか……クビだ!」
「ふふ、残念ね、英くん。あなたが私をクビにしようが、この映像は世間に流れるの。あなたのすべてが終わるわ。会社も、人生も。摩夜くんを殺した罪に問われるわ」
視界が霞んで、耳もふさぎたくなるが、頭に響く音は止まらない。
だが、そのとき。
「おばさん、殺さないでくれます?」
背後から響く声。不気味な気配がすぐ近くに迫ってくる。
栞の隣に誰かが立っている。
影のように音もなく現れた……。
ま、まさか……。
目を見開いたまま凝視する。
そこに立っているのは、死んだはずの蛇沼だった。
俺がトイレに薬を流し、命を奪ったはずの相手だ。
なのに、今ここにいるなんて信じられない。
狂っている。
すべてが嘘だったのかよ……!
栞が持っていたはずのナイフが、いつの間にか蛇沼の手に移り、鋭く光る刃を握りしめたまま、俺を冷たく見下ろしている。
「さて、役者は揃ったね。白根くん、君は嵌められたんだよ」
「……嵌めた?」
「そうよ。もしあなたがもっと栞を大切にしていれば、未来は違ったかもしれない。でも、もう遅いわ」
蛇沼と奈緒がけらけらと嘲笑う中、栞の冷たい目が俺を射抜く。
吐き捨てるように言い放った。
「わたしは、あなたのことが、大嫌い」