授業中、英斗から解放された束の間の時間。
 今日は、いつもよりも「心が痛いな」と感じた。
 英斗にひどいことを言われたせいもある。

 だけど、すぐに摩夜くんが癒してくれないのが、どうしようもなく悲しかった。
 彼に対してこんな気持ちを抱くのは理不尽だとわかっている。でも、やっぱり悲しい。
 窓を叩き続ける雨音が、わたしの憂鬱をさらに重くする。授業なんて頭に入らない。
 昼休みになっても、松永さんと雪野さんの話は耳に届かず、ぼんやりと窓の外を眺めていた。

 ふと目の前にアイちゃんとすずちゃんが立っていることに気づいた。
 前に同じグループだった子たちだ。

「栞ちゃん……相談あるんだけど、いい?」

 すずちゃんが控えめに声をかけてきた。
 英斗の顔が頭をよぎる。あいつの目を気にして、男子とよく話す彼女たちとは距離を置いていた。
 でも、息苦しい毎日が続いていて、少し反抗したい気持ちもあった。

「うん、いいよ」と無理に笑顔を見せて返事をした。
 すずちゃんは少し驚いたみたいだけど、アイちゃんはにこっと笑って「トイレ行こ」と軽く誘ってくる。どうやら込み入った話みたい。

 狭いトイレの中、鏡越しに見る二人の表情は、どこか遠慮がちだった。
 すずちゃんが気まずそうに口を開いた。

「実は、最近付き合い始めたばっかなんだけど……彼氏が急にそういうこと、求めてきて……」

 言葉に詰まりながらも、何が言いたいのかすぐにわかった。

「途中までなんだけど、もうすぐ最後まで行っちゃいそうで……『すずが好きだから』って言ってくれるけど、まだそんな気持ちになれなくて……これって普通なのかな? 彼氏ってみんなこうなのかな?」

 すずちゃんの不安げな声を聞いていると、心の中で小さな苛立ちが湧いてきた。
 別に、すずちゃんの恋愛事情にどうこう思っているわけじゃない。

 わざわざわたしに恋愛相談してきたことが気に障った。
 英斗の彼女として有名だから、恋愛のことなら相談できるって思って話しかけてきたんだろう、なんて。
 わたしは柔らかく、でも少し毒を含ませて返した。

「彼氏、すずちゃんのこと本当に考えてるの? 甘い言葉で誘ってくるなんて、もしかして体目当てじゃない? 急いでる理由もそういうことじゃないのかな。でも、好きなら答えてあげてもいいんじゃない?」

 すずちゃんは顔を伏せたまま、じっと考え込んでいる。
 わたしが言ったことで彼女は傷ついたみたいだけど、特に何も感じなかった。むしろ、少しすっきりした気分だった。
 すずちゃんは、急に表情を変え、どこか挑戦的にわたしを見つめて、言った。

「でも……栞ちゃんと白根くん、してるんでしょ? うちの彼氏が白根くんが話してたって。男子の間で噂になってるよ」

 聞いた瞬間、怒りがこみ上げてきて、顔が崩れそうになった。
 右手で左手の甲をつねり、苛立ちをなんとか抑える。
 あいつは、わたしの手しか握ったことがないくせに、まるですべてを経験したかのように作り話をしてるなんて、信じられない。

 心の中で負の感情を押し込めながら、すずちゃんをじっと見つめた。
 ボブカットでふんわりしたかわいらしい印象だけど、顔立ちは平凡。
 背丈は同じくらいなのに、全体のバランスがいまひとつ。
 わたしの方がずっと整っているのに、どうしてこんな子に追い詰められている気がするんだろう。

 調子に乗るなブス。

 意地悪な口調を強めて答えた。

「ふぅん、そう。わたしは、すずちゃんみたいに不安にならないだけかな。好きなら疑問なんて感じないし、わざわざこんなこと他人に聞かないよね?」

 すずちゃんは黙り込んだ。どこか泣きそうな顔をしているけど、全然気の毒には思えなかった。
 好きで付き合って、どうしてそこまで不安になるの? 自分の意思で選んだんじゃないの?
 わたしに聞いて、「エッチするのが普通」だと確認したかっただけでしょ? わたしを何だと思っているの?
 すずちゃんが肩を震わせて悔しそうにしているのを見て、少し優越感を覚えた。
 アイちゃんがやさしい声で間に入ってきた。

「ごめんね、栞。すずもただ心配だったんだよ。初めてだし……」

 アイちゃんは仲裁しようとしてくれたけど、すずちゃんは何も言い返せず、わたしと目を合わせようとしなかった。
 結局、アイちゃんが「じゃあ、またね」と言って、やさしく笑って軽く手を振って去っていった。
 二人がトイレを出たあと、スッキリしたはずだったのに、心の奥には苛立ちと悲しさが残っただけだった。

 わたしは個室に入った。重い音が響いて、狭い空間に自分の息がこもる。
 便座に腰掛け、頭を抱えた。
 ぐちゃぐちゃの心をどうにかしたい。摩夜くんに聞いてほしい。
 英斗にされた仕打ちを話したい。
 放課後は無理やりユーチューブの撮影に出されるから、今日は会えない。
 だからこそ、摩夜くんにわたしの頑張りを知ってほしかった。

 ラインでメッセージを打つ。
 英斗のパワハラを録音したデータを送って、「すごいの録ったね」って褒められたかった。
「つらかったね、よく耐えたね」って慰めてほしかった。
 昼休みはあと十分。なんでもいいから返事がほしかった。

 でも、五分経っても返信は来ない。胸の奥がじわりと冷たくなり、不安が広がっていく。

 摩夜くんはわたしを大事に思っていないの?
「彼女になってほしい」って言葉を、いまだに聞いていないことが引っかかる。

 わたしが「彼女になってあげる」って言ってるのに、どうして決断しないの?

 このままだと、一度も女の子に触れることなく死んじゃうかもしれないのに。

 わたしくらいの子と付き合うのは、そんなに簡単じゃないんだよ?


 こんなに彼のために思っているのに、それが届かないなんて理解できない。

 苛立ちが募って、わたしの気持ちが置き去りにされているようで胸がじんじん痛む。

 それでも、摩夜くんの優しさにすがりたい。彼の協力がなければ、わたしひとりじゃママを救えない。

 ああ、この曖昧な状況が心をかき乱していく。


「さっきモラハラ音声送ったけど聞いた?」と送り、続けて「すごく不安なの。返事して」と連投した。
 送ったあと、どうして英斗みたいに催促してしまったのかと後悔し、すぐにメッセージを取り消した。

 そのとき、チャイムが鳴った。


 ああ、嫌だと、思った。