(3)

 絶対に来いよ、と英斗に言われていた試食会の日。
 終礼が終わると、すぐに教室を飛び出した。
 松永さんと雪野さんには適当に言い訳して、英斗への対応は任せて、わたしはホスピスへ向かう。
 わざと試食会をドタキャンして、英斗を苛立たせるつもりだった。

 ホスピスに着くと、摩夜くんは子どもたちに囲まれていた。
 二人きりで話せなくて残念だ。笑顔の彼を見ていると、胸の奥がぎゅっと締まる。

「彼女になってあげてもいいけど」って言ってから、もう二週間も経つのに、まだ何も言ってこない。
 期待と焦りが入り混じって、心の中に不安が少しずつ広がっていく。

 すると、ミズくんが駆け寄ってきた。まだ十歳だけど、体つきはしっかりしていて、元気そうに見える。
 摩夜くんと同じ病気を抱えているせいか、彼は摩夜くんに懐いていて、摩夜くんを通じてわたしとも関わりができ、よく甘えてくる。
 今日は英斗のことで本当に疲れていて、摩夜くんと話して少し楽になりたかった。
 それなのに、ミズくんにしがみつかれて、何をしに来たんだろうと、心の中で大きなため息をついた。

 でも、摩夜くんが視界の中にいるから、ここで冷たくあしらうなんてできない。
 押し返したい気持ちをぐっと抑えて、仕方なく背中を優しく撫でる。

「ん? どうしたの?」

 少し抑えた柔らかな声で話しかける。
 口元に無理やり微笑みを浮かべ、目を細めて優しそうな表情を作るけど、内心は早く解放されたい気持ちでいっぱいだ。
 スマホが震える。ママからの電話だ。ミズくんはまだしがみついて離れない。

 なんとかスタッフに助けを求め、ようやくミズくんから解放される。
 スマホを握りしめて外に出る。急いでママにかけ直すと、電話の向こうからは、強い口調が響いてきた。
 思わず目を強く閉じた。ドタキャンしたことへの厳しい言葉が追い打ちをかけ、涙が滲む。
 ママはそのまま英斗へと電話を回した。

「……英くん」
『泣いてんの?』
「……ごめんなさい」
『泣くならちゃんと言えよ』

 言うわけない。バカみたい。

「……うんっ……ぐす」 


 嘘泣きだ。ほんと、ちょろい。

『もう……怒ってねえよ。けどさ、奈緒さんの電話は返したのに、俺のラインは未読のままだったけど、なんで?』

 スマホを握る手が強くなる。つま先で芝生を軽く踏みしめた。

「……ごめ……なさい。えい、くん……嫌いにならないで……わたし、えいくんが、好きなの」
『なんねえよ、バカ。俺もお前が好きだし……あー、もういいや。今日は言わない。明日、朝迎えに行くから』
「……うん」
『奈緒さん困らせんなよ。お前のこと心配しているんだから』
 
 通話がやっと切れた。英斗だけには言われたくなかった。
 言い返せないまま、弱々しい彼女を演じている自分が悔しかった。

 家に戻ると、ママの叱責が待っていた。
 居間は薄暗く、正座をさせられたまま、冷たい目でじっと睨まれる。
 試食会をドタキャンしたことや、英斗を不安にさせたことで叱られるのは覚悟していたけど、ママの一言一言が胸に刺さって、ズキズキと痛んだ。
 一番きつかったのは、ママが自分の秘書としての評価を気にしていることだ。
 社長には厳しくは言われなかったらしいけど、ママが何度も謝った話を聞いた。
 正座している足がじんじんと痺れて、体を支えるのがやっと。
 崩れそうな姿勢を必死で保ちつつ、何度も「ごめんなさい」と繰り返す。
 摩夜くんのことは、まだママに知られていない。英斗のモラハラを録音していることも、気づかれていない。
 いつかは話さなきゃいけないけど、どう伝えればいいのかはまだわからない。