休み時間、松永さんと雪野さんと席を囲んだ。
「今日、ホスピス行かない?」

 明るい笑顔で二人を誘う。

 二人は少し戸惑って顔を見合わせた。


「スタッフさんも『いつでも来て』って言ってたし、ノアちゃんたち、琴音ちゃんに本を読んでもらうの楽しみにしてたよ。エルちゃんも一華ちゃんの折り紙に夢中だったし」


 説明を重ねると、二人は「まあ、行ってもいいかな」と応じてくれた。
 ひとりでも行けるけど、英斗にバレると面倒だ。

 友達と一緒なら、ボランティアの名目で、英斗に知られても怒られない。

 それに、二人が子どもたちの相手をしてくれれば、わたしは摩夜くんとゆっくり過ごせる。
 二人も得している。わたしと一緒にいることでクラスで浮かずに済むし、意見を通してあげることもできる。ウィンウィンの関係だ。

 思惑通り、わたしは摩夜くんの部屋で二人きりの時間を過ごしていた。
 彼と話すと、心がふわっと軽くなる。なんだか柔らかい毛布に包まれているみたい。

「……でね、あいつ、ほんとしつこいの。今日もずっと絡んできてさ」

「まあ、白根くんだしね」


 摩夜くんは優しく相槌を打つ。声が穏やかで、安心できる。
 でも、その穏やかな空気が急に変わった。

「君のママのこと、正直に言っていい?」

 え? ママ……?
 摩夜くんの探るような目が向けられて、心がざわつく。
 さっきまでの安心感が消えてしまい、体が固まる。
 息をするのも忘れそうで、手を膝の上でぎゅっと握りしめ、小さく頷いた。

「本気で社長を落とす気ないんじゃない?」

「え、なんで……?」

 どうして、そんなことを言うの?

 摩夜くんは穏やかな表情のまま、冷静に続ける。わたしは焦って、髪を何度も指に巻きつけた。

「社長は、奥さんに嫌われても離婚しないよ。白根くんが君に夢中なのと同じで、社長も奥さんに夢中だね。やっぱり親子だよ」

 摩夜くんはクスッと笑ってみせたけど、わたしには笑えない。頬が引きつるのがわかる。

「じゃあ……ママは、何のために?」

「決まってるでしょ。しーちゃんを白根くんと結婚させて、白根家に入り込むためだよ」


 胸の中に、重い石が落ちるような感じ。嫌だ、そんなの絶対に嫌だ。

「無理だよ……ママが頼んだって、そんなの無理だもん」
「しーちゃんには三つの選択肢があるよ。一つ目は、ゼロに近いけど、ママが社長と結ばれるのを待つこと。二つ目は、白根くんと結婚すること……そして三つ目。白根英斗を脅して、ママの雇用を守りながら別れること」

「え?」と、わたしはきょとんとしたまま、考えていたことが口からこぼれた。
「脅すって……どうやって? わたし、泣くくらいしかできないよ?」

 摩夜くんは、少し呆れたように首を振る。

「感覚が麻痺してるよ。白根くん、君にモラハラしてるってわかってない?」
「もらはら……?」
「義務を押しつけたり、友達まで制限してる。完全なモラハラじゃん。ひどいことだって言われてるでしょ?」

 ああ、わたしがされていることは、モラハラなんだ。
 摩夜くんに言われて、初めて「確かに」と実感が湧いた。今まで自分では気づいていなかった。

「白根くんは君を支配しようとしてるんだよ」と、摩夜くんは続けたが、途中で「彼だけじゃ……いや、いいか」と何かを言いかけて止めた。〝わざと仄めかす〟みたいに。

 何かが胸にひっかかって、スカートのひだを指で強く押し潰した。もやもやする。
 でも、摩夜くんは冷静な目でわたしを見つめ直し、英斗を脅す方法を口にした。

「しーちゃんは、白根くんを煽って、モラハラ発言を録音すればいいよ」と、あっさり切り出す。

 摩夜くんの提案は冷静で現実的すぎて、わたしは圧倒された。
 英斗はチーラボ社長の息子として有名だ。
 そんな英斗のモラハラ発言を録音してネットに流せば、すぐに評判はガタ落ちする。
 あいつのハスキーボイスは特徴的だから、すぐに本人だとわかる。

「……だから、白根くんには『音声を拡散されたくなければ、別れて』って言えばいい。『ママの仕事も守って』ってね。そうすれば、どっちも上手くいくよ」

 自信満々に話す摩夜くんを見て、感心しながらも不安が募る。
 そんなこと、本当にできるの?
 手を膝の上で擦りながら黙っていると、摩夜くんが「じゃあ、あと一つ」と薄く笑いながら言った。

「白根英斗を落として、ママも見捨てること」
「やだ」

 咄嗟に拒否した。体が先に反応していた。

「英斗のモラハラを残すだけでいい。それで十分。ママは……わたし、大好きだから」

 摩夜くんの言った「ママを見捨てること」を無視するように、英斗を脅すことに気持ちを集中させた。
 でも、心はまだ揺れている。
 体が前屈みになり、さらに縮こまりそうな気がする。
 膝に置いた手からは力が抜け、ゆっくりと滑り落ちた。
 視線をなんとか摩夜くんに向けると、彼は窓の外を見つめ、少し寂しげな表情で「……そっか」とつぶやいた。

 ねえ、どうして「ママも見捨てる」なんて平然と言えるの?


 考えれば考えるほど、摩夜くんが憎らしく思えてくる。

 でも、彼がわたしのために言っていると感じる自分もいる。わたしの感情は矛盾していた。
 ややこしく考えなくていい。英斗さえどうにかすればいいんだから。
 背中を伸ばし、胸を張って、笑顔を作り、摩夜くんに向けた。

「摩夜くん、たくさんアドバイスしてくれてありがとう」

 空気を変えたくて、思わず口に出してしまった。気づけば、とんでもないことを言っていた。

「わたし、もらってばかりだから……摩夜くんがやりたいこと、わたしができることなら叶えてあげる」って。

 顔が急に熱くなって、髪に手をやり、顔を隠した。
 自分で言ってしまったことに驚きながらも、恥ずかしさを誤魔化そうと必死だった。

 摩夜くんは少し驚いたように、わたしをじっと見つめている。

 待って、彼女になって、なんて言われたらどうしよう……!

 胸がドキドキして止まらない。

 彼は、わたしを見透かすように静かに微笑んだ。

「俺に同情してる?  残りの余生にやりたいこと叶えてあげるって、何かの映画?」
「違うよ。ただ、お礼がしたくて。摩夜くんがやりたいことがあるなら、わたし、叶えてあげたいの」

 開き直ったように言うと、摩夜くんは返事をせず、黙り込んでしまった。
 沈黙が続き、焦ったわたしは思わず声を出してしまう。

「……摩夜くんって彼女、いる?」

 ああ、またおかしなことを言っちゃった!
 でも、後悔する間もなく、摩夜くんは首を横に振った。

「いるわけないでしょ」

 え?
 思わず前のめりになってしまう。

「いたことは?」
「ないよ」
「うそ!」
「病気だし、青春なんて終わってるよ」

 摩夜くんは、少しあきらめたように静かに言った。
 彼の悲しげな言葉を聞いたのに、なぜか胸の奥にじんわりと温かさが広がる。
 膝の上で手を組み、指先に力が入る。
 無表情な摩夜くんの横顔を見ていると、守ってあげたくなる気持ちが湧いてくる。

 摩夜くんは、きっと人肌が恋しいんだ。だから、わたしに親身に接してくれるんだと思う。
 わたしと付き合いたいんだ。
 わたしが彼の願いを叶えてあげられるなら、それでいい。

「わたしが、彼女になってあげてもいいけど……」

 言葉にした瞬間、部屋の空気が止まったみたいになる。

 摩夜くんは動かず、わたしを真剣に見つめていて、自然と息が浅くなっていくのを感じる。

「彼女になってほしい」って、きっと言ってくるんだろうなと思った。

 でも、少し不安がよぎる。これでいいのかな? ううん、彼は、英斗よりはずっといい。

 英斗と別れるためのアドバイスもくれるんだから、摩夜くんと付き合うことだって悪くないはず。

 ぐちゃぐちゃになった気持ちを整理しようとしていたら、彼が予想外の返事をする。

「考えておいてもいい?」
「え……? うん」

 思っていた返事じゃない。胸がきゅっと締まる。

「彼女になってあげてもいい」って言ったのに……付き合ってって即答されると思っていた。

 なんで迷うの? 
 髪をさりげなく整えて、首筋を少し見せるように動かしてみた。
 だけど、摩夜くんはまったく気づかない。
 まだ効果がないから、次はシャツの胸元を軽く引っ張って皺を直す動作をしてみた。
 それでも、摩夜くんは無関心なまま。英斗だったら、絶対に目を離さないはずなのに。

 わたしの魅力をこんなにわかりやすく伝えているのに、どうして気づいてくれないの?
 軽く見られているようで、苛立ちが湧いてくる。笑おうとしたけど、口元がうまく動かない。

 そんなわたしを気にも留めず、摩夜くんは平然と「ゲームしようよ」と誘ってきた。
 もやもやしたまま、わたしは彼の遊びに付き合った。