(2)

 高校に入っても、英斗との関係は続いていた。
 ママが採用されたからって、すぐに別れられるわけじゃない。むしろ、別れたらママがクビになるかもしれない。
「社長に気に入られるまでは、英くんと付き合っていてね」って、ママに言われたから、嫌われたくなくて彼女のままでいた。

 英斗とは同じ高校だけど、クラスが違うから少しは距離を置ける。
 学校で顔を合わせることも少ない。それだけが救いだった。
 しかも、「好き」「かわいい」って言うわりに、全然手を出してこない。
 意外と奥手。まだ手も握られてない。
 普通のカップルなら変に思うかもしれないけど、わたしにとっては好都合。期待されるのも嫌だし、何も言わずに流していた。

 ある日、英斗が「栞って、彼氏は初めて?」って聞いてきた。
「うん」と嘘をついた。経験があると思われたら、いろいろ求められるかもしれないし。

「俺も、栞が初めてなんだ」

 そう言われたとき、あの態度で? って笑いそうになりながらも、少しほっとした。
 それでも、英斗がわたしとの距離を縮めたがってるのは感じていた。

 通学中、一緒に歩いているとき、何度か不自然に手を掴もうとする動きがあった。
 髪を直すふりでかわして、そのまま流した。
 少しもやもやした顔をしていたけど、それ以上何かしてくることはない。
 束縛は嫌だけど、このくらいなら我慢できる気がした。

 またサッカー部のマネージャーをすることになった。
 英斗は部活に入っていないから、自然と距離を置ける時間が増えて、少し安心できていた。

 でも、三ヶ月が過ぎたある日、その安心が崩れた。
 テストが終わった日、友達と帰ろうとしたとき、昇降口で英斗が待っていた。

「栞を借りる」  
  
 そう言って手を強く掴まれた。抵抗できないまま、引きずられるように連れて行かれる。
 汗ばんだ手がじっとりしていて、夏の暑さがさらに重く感じた。胸がぎゅっと縮んでいく。

「どうしたの?」

 声を絞り出しても、英斗は無言。荒い鼻息だけが聞こえてくる。
 何も言わないことが逆に怖い。手を振りほどこうとしても、力が入らない。頭の中がざわざわしてくる。
 連れて行かれたのは、お城みたいな二階建ての家。高い塀に囲まれていて、中は見えない。
 大きな門が重々しく立ちはだかり、全身に威圧感がのしかかる。冷たい汗が背中を伝い、心臓が早くなった。
 英斗は無言で門を開け、わたしを引っ張り込んだ。
 廊下には高そうな絵や飾りが並んでいて、フローリングの床が足音を吸い込むように感じた。
 重い空気が頭を締めつけるようで、目眩がしそうになる。

 階段を上がり、奥の部屋に押し込まれた。英斗の部屋だ。
 広いのに、散らかった服や教科書、雑に貼られたサッカーのポスターが目につく。
 豪邸なのに、この部屋だけがだらしなくて、どこか不釣り合いだった。
 英斗は無言でエアコンをつけ、「座れよ」とだけ言って部屋を出て行った。

 少しして英斗が戻り、無言でオレンジジュースを差し出してきた。
 こんなことで安心させるつもり? 安心できるわけないし、むしろ「やばい」と感じた。
 緊張で口元が少し開き、息は浅く速くなる。英斗の視線に気づき、慌てて口を結んだ。
 わたしの仕草を、英斗は都合よく解釈しているのかもしれない……。

「今日、誰もいないから」

 低くしゃがれた声が耳に触れた。

「お前って、俺のこと本当に好きなの?」
「……すき、だよ?」

 口元が震えた。言葉を選び間違えた、と後悔する暇もなく、英斗は言い放つ。


「じゃあ、なんでサッカー部のマネージャーなんかやってんだよ。他の男と喋って、笑ってるのが嫌なんだ。お前、俺の彼女だろ」


 ここまで引きずり込んで、言いたいのはそれ? 
 恐怖よりも呆れが勝って、思わず本音が漏れる。

「他の男子とも普通に喋るよ」

 髪をかき上げながら、冷めた目で冷たく突き放した。

 そのとき空気が変わった。英斗の顔が歪む。何かが引き金を引いた。


「じゃあ、俺と普通のカップルみたいにしろよ」

 強引に近づいてきた。あとずさりする。背中にベッドが当たる。逃げ場がない。

「こういうの、普通だろ?」

 荒い息遣いが耳元で響く。充血した目が刺すように迫り、じりじりと肌に圧力がかかってくる。
 冷たい汗が背中を伝い、体が固まって喉が詰まる。声が出ない。
 何か言わなきゃ、何かしなきゃ。でも、体が動かない。
 英斗の体がわたしを覆う。その影が長く伸びてわたしを飲み込む。
 手がゆっくりと降りてきて、心臓が跳ね上がる。恐怖が押し寄せる。

 もうすぐ手が届く。触られる!
 嫌だ!

 ふいに頭に浮かんだ。ママに「クズ」って言われたときのこと。
 無力で、ただ泣くしかなかった。
 英斗の存在がその感覚と重なって、頭が混乱する。
 英斗の手が触れそうになる瞬間、涙があふれ出した。
 嗚咽がこみ上げ、英斗は動きを止めた。

「ちが……俺、泣かせるつもりじゃなくて……ほら、落ち着けって」

 英斗はしどろもどろな様子で、それでも息は荒いままだった。
 わたしを泣き止ませて、先を進めようとしている。  
 恐怖で体が硬直し、重たさがじわじわと全身に広がる。
 胃のあたりが軽く痛み始め、息を整える余裕もない。

 泣き続けなきゃ――ふと、演技教室で褒められたときのことが浮かんだ。
 あの「感情表現」、今こそ生かすんだ。

「こわ……い……こわいよぉ……」

 片手で顔を覆い、もう一方の手で瞼をこすった。
 英斗の動きが止まり、はぁはぁと荒い息が髪にかかる。
 背中にぞくぞくと嫌な感覚が走る。
 涙が通用しないなら、本当にどうなるんだろう……嫌、嫌だ。怖い、怖い!
 強く思いながら、短く息を吸って吐く。

「ひっく……いやだよぉ……ひっく、ひっく……」

「ごめん……本当に、ちがくて……」

 英斗は少し引いても、またじわじわと近づいてくる。
 手が震えながら頭に伸びるけれど、わたしが「ひっく」と泣くたびに、ためらい、また引き下がる。
 膝が床に擦れる音がかすかに響き、腰がかすかに前後に揺れているのが伝わってくる。
 食われるか、逃げ切れるか、狩りのような駆け引きだ。

「でも、なんで嫌がるんだよ」

 英斗の声には揺らぎがあった。
 どうする? 
「嫌いだから」なんて言えるわけがない。
 だから、嘘をつくことに決めた。

「……ママが離婚してるの、知ってるよね……」

 息をゆっくりと飲み込み、気づかれないように慎重に言葉を選ぶ。続きを話すために、冷静さを装いながらも心臓がドクドクと早くなるのを感じていた。

「パパが……DVだったの。仕事でミスして、会社をクビになって、それからずっとお酒ばっかり飲んで、暴力を振るって……わたしも、嫌なことされた……」

 視線を下げて、両手をぎゅっと握りしめる。震える指先に力を込めた。

「今でも、そのときのことがフラッシュバックするの……」

 嘘を奥歯で噛み締め、目をぎゅっと細めて英斗をちらりと見上げた。
 眉間に皺が寄っていて、今にも噛み付いてきそうに見えるけど、たぶん、しない。
 もっと大げさに、わかりやすく怖がるふりをしよう。体をさらに縮め、両腕で自分を強く抱きしめた。

「だから……男の人に触られるの、本当に怖いの……」


 囁くような声で言った。
 わたしは頭を振って髪を乱し、取り乱したふうに見せた。

「ごめんね……彼女なのに……こんなこと言って……したいこと……できないよね……」

 髪が頬に張り付き、視界がぼやける。英斗の姿が見づらい。
 スカートに触れてくるはずの膝も感じない。すぐ近くにいるのか、遠ざかっているのか、今は冷えたエアコンの風だけが体にしみ込んでくる。
 英斗の動きを感じ取れないまま、わたしは必死に祈った。どうにか引いてくれればいい、この嘘を信じて、これからも手を出さないでいてくれるならもっといい……。

「……わたし、彼女失格だよね……やっぱり、別れた方がいいよね……」

 英斗は黙っていた。じっと考え込むように、わたしの言葉を飲み込んでいるようだった。
 やりきれなさを咀嚼して、ようやく口を開く。

「……別れるわけないだろ」

 英斗の声が低く響く。わずかに喉が鳴り、唾を飲み込む音が聞こえた。
 わたしが勝ったんだ。英斗の影が後退していくと、ほんの一瞬だけ、ほっとした。
 と言っても、体はまだ緊張したままで、全然リラックスできない。鼻をすすりながら、英斗の動きを探った。
 でもやっぱり、英斗は一筋縄ではいかない。ぶっきらぼうに条件を突きつけてきた。

「マネージャーやめろ。他の男子とは話すな。あと、毎日手を繋げよ」

 小さいやつ。
 心の中でそうつぶやいたけど、ママのために従うしかない。
 しんどいけど、まだ我慢できる。
 もっとひどいことをされるよりは、このくらいなら……。

 その後、英斗は延々と自慢話を始めた。
 わたしは「うん、うん」と相槌を打ちながら、内容なんて聞いていなかった。
 ふと、下の階から物音がした。誰かが帰ってきたようで、嫌な予感が頭をよぎる。ハッと体がこわばった。

「栞、来て」

 英斗が急かす。慌ててリュックを背負って、一階に降りた。

 リビングには、英斗のお母さんとショートカットのセーラー服の女の子が座っていた。


「これ、俺の彼女」

 雑に紹介されて、嫌な気分がこみ上げる。

 気を取り直して、無理に笑顔を作った。

「乙黒栞です。英斗くんとお付き合いさせてもらってます」

 頭を下げると、英斗のお母さんは冷たい笑みを浮かべ、「英斗の母です」とだけ返してきた。目は少しも笑っていない。

 隣にいる女の子、たぶん英斗の妹だろう。無言でスマホをいじり続け、わたしを完全に無視している。

 英斗も「外行こう」とだけ言って、わたしを急かすように促した。
 ざらざらとした違和感が心に残る。この家族、何かがおかしい……。


 ふと、頭をよぎった。英斗のお父さん、白根亮は既婚者だ。

 ママ、どうやって「落とす」つもりなの……?