ひとりで学校の丘を下る。五月なのに、日差しが強く肌を焼くようだ。汗が少し滲む。
 見渡す限り、星囲市の景色はいつも通りだ。
 周囲を山々に囲まれた盆地には、緩やかな丘が続く。
 夏になれば緑が広がり、冬にはその緑が雪に覆われる。
 国道を観光バスがゆっくり北に向かって進んでいく。
 山の向こうには、奥星囲の『ほしかこい牧場』や『スカイリゾート』が広がっている。
 夜になると満天の星が見える、観光地として知られる場所だ。

 一方、坂を下りると目に入るのは活気を失い、シャッターが閉まった店が並ぶ閑散とした街並みだ。
『子どもホスピス』ができたときは一時的に注目を集めたものの、街全体が変わることはなかった。

 国道沿いにガラス張りの建物が見えてくる。
 父さんが経営する飲食チェーン『チーズラーメンラボ』、通称『チーラボ』だ。
 星囲市とその近隣に五店舗展開しており、ここは本店。二階が本社になっている。
 街の中で唯一賑わいを見せている場所で、星囲産のチーズを使ったラーメンが評判だ。
 今日は『モッツァレラ丸ごと塩ラーメン』の試食会がある。牧場のモッツァレラチーズを使った、俺考案の自信作だ。
 高校二年生ながら、店の経営に関わっていることに少し誇らしさを感じる。父さんも「やったな」と言ってくれたし、社員たちも期待している。
 店内を覗くと、四時過ぎにも関わらず店員が忙しそうに動き回っていた。ほとんどの席が埋まっており、自然と足取りが軽くなった。
 裏口の階段を上がると、冷房の風が汗ばんだ体に心地よく当たる。少し疲れが和らいでいく。深く息を吸い込んだとき、奥から聞き慣れた声が聞こえた。

「おかえり、英くん。あれ? 栞は?」

 声の主は栞の母、奈緒さんだ。本社で秘書をしている。三十代半ばとは思えないほど美しく、ブラウンの長い髪にぱっちりした目が印象的だ。かわいらしさと色気が絶妙に混じり合った雰囲気を持っている。

「英くん」と呼ばれるたびに、少し緊張する自分がいる。
「ただいま。なんか、ボランティアらしいんすけど……」
 
 苦笑いで気まずさを隠した。

「え? そんなこと言ってなかったけど。明日、英くんの新メニューの試食会だって話してたのに」
「マジか……」

 思わずつぶやく。
 奈緒さんは一瞬、目を細めたが、すぐに柔らかな表情に戻して「ごめんね、嫌いにならないであげてね」と軽く笑いながら謝ってきた。

「いや、それくらいで嫌いにはならないです」
「素敵な彼氏だね。あの子、幸せ者よ」
「あはは……」

 奈緒さんは俺たちの関係を一番応援してくれている。その場で栞に電話してくれたが、繋がらなかった。
 甘くてほのかに塩気のある香りが漂い、鼻をくすぐる。急にお腹が空いてきた。

「もうできてます?」
「うん、社長と柴原くんが待ってるよ」  

 会議室に入ると、父さんが「お疲れ」と声をかけてきた。
「お疲れ様です」と返す。実の父親でも、仕事中は敬語だ。
 父さんは180センチの長身で、俺と同じくらいの背丈。濃いめの顔立ちやハスキーな声までそっくりで、ときどき自分の未来を見ている気がする。

「栞ちゃんは?」

 声をかけたのはコック姿の柴原。店長で、新メニューの開発にも関わっている。
 奈緒さんが小声で「ばっくれたのよ、最低でしょ」と柴原につぶやいた。そのあと、すぐに父さんに向き直り、頭を下げた。

「いやいや、栞ちゃんはお客さんとして呼んでただけだから」と父さんがフォローして、ラーメンを前に促す。
「じゃあ、できたてを熱いうちに食べよう」

 栞のことはそれ以上触れず、俺たちは試食を始めた。
 目の前に置かれた「モッツァレラ丸ごと塩ラーメン」は、黄金色に透き通ったスープに白いモッツァレラチーズが浮かび、見ただけで食欲をそそる。
 レンゲを入れると、チーズが少しずつ溶け、スープに広がっていく。
 父さんが一口すすって「いいじゃん」とつぶやいた。俺も一口飲むと、さっぱりした塩スープと濃厚なチーズのクリーミーさが絶妙にマッチしていて、思わず「うっま」と声が漏れた。

「これ、絶妙ですね」と柴原が頷く。奈緒さんも満足そうに微笑んでいる。
「全然ありだな。でも、もう少しパンチがあってもいいかもな」と父さんが締め、試食会は順調に進んだ。

 食後、水を飲んでいると、奈緒さんのスマホが鳴る。

「栞からです」と父さんに伝え、電話に出た。

 俺もスマホを取り出し、栞へのラインを確認するが、既読にもならず、下唇を噛んだ。
 奈緒さんは眉をわずかに寄せ、スマホを耳に当てて低い声で問い詰める。

「どうして連絡しなかったの? いい加減にしなさい」

 冷たい響きが含まれた。短い間が続き、息を静かに吐き出すと、声のトーンが少し和らぐ。

「英くんに謝りたいって」と言いながら、スマホを差し出してきた。

 父さんたちの視線を感じながら、会議室を出て応接室へ向かう。
 静かに扉を閉め、耳にスマホを当てた瞬間、栞の震えた声が聞こえた。

『……英くん』

 声がかすれて、弱々しい。

「泣いてんの?」

 わざときつめに問いかけたが、返事はない。代わりにすすり泣きが響く。
 ため息が出そうになり、肩をわずかにすくめた。

『……ごめんなさい』

 頼りない声が耳に残る。

「泣くならちゃんと言えよ」

 厳しくするつもりでいたのに、栞の泣き声が続くと、どこかで気持ちが揺らいでくる。

『……うんっ……ぐす』

 ここまで泣かれると、何も言えなくなる。言いたいことは山ほどあるのに。

「もう……怒ってねえよ。けどさ、奈緒さんの電話は返したのに、俺のラインは未読のままだったけど、なんで?」

『……ごめ……なさい。えい、くん……嫌いにならないで……わたし、えいくんが、好きなの』

「好き」と言われたとき、体の緊張がふっと解け、力が抜ける。内側にじわじわと広がっていく熱が、いつの間にか小さな興奮に変わり、にやけが浮かんだ。

「なんねえよ、バカ。俺もお前が好きだし……あー、もういいや。今日は言わない。明日、朝迎えに行くから」

『……うん』

「奈緒さん困らせんなよ。お前のこと心配してるんだから」
 
 声を少し低くして伝える。通話を切り、スマホを見つめたまま動けずにいた。