徐々に、ママは英斗をわたしの生活にすり込んでくる。
それが少しずつ加速して、中学の卒業が近づくころ、ママは焦っているみたいで、手段を選ばなくなってきた。
ある夜、急にママが勢いをつけて話しかけてきた。
「ねぇ、栞。もうすぐ卒業でしょ? 英斗くんのこと、どうなの?」
「え……だから、何度も言ってるじゃん。嫌だって」
何度断っても、ママは聞いてくれない。
「形だけでいいから、付き合ってくれないかしら? ママだけじゃ白根社長と繋がれないの。栞が〝英くん〟と付き合ってくれたら、家族ぐるみでお付き合いできるのよ」
――〝英くん〟? 気持ち悪い。
ママの目は真剣だ。わたしが英斗と付き合うのが当然みたいに話す。
背筋が冷たくなった。突然、ママが一枚の求人票を差し出してきた。
『株式会社チーズラーメンラボ 事務員(正社員)』
給料もいいし、条件もホワイト。でも、大卒以上、実務経験二年以上……。
「ママ、この会社で働きたいの。でも普通に応募しても無理。だから、栞が〝英くん〟と付き合って、将来のお嫁さん候補にでもなれば、ママも採用されるかもしれないの」
――お嫁さん候補? あんなやつと結婚? 気持ち悪い。無理。
「無理! 絶対に嫌!」
わたしが叫んだ瞬間、ママの顔が変わった。
「この恩知らずが……」
え? 低い声でママがそう言った。
急に近づいてくる。息が詰まる。目が大きく見開かれていて、いつものママとは違う。
見たこともない、恐ろしい顔。
体が固まって、動けない。背中が凍りついたようで、圧迫感がどんどん強くなっていく。部屋全体が狭く感じる。
「栞、私はどれだけ苦労してきたかわかってる? 贅沢させてあげたのに、習い事も全部投げ出して。それでも我慢してきたんだから」
冷たい声が、部屋の空気をピリピリと引き締める。針が散らばっているみたいで、少しでも動けば刺さりそうだった。
――どうして……急に……。
視線を畳に落とす。足裏に伝わる冷たさがじわりと広がる。古い障子のシミがこちらを睨んでいるようで、ゾクゾクする。
ママを見ると、凍りついた笑顔が動かない。逃げ出したいのに、体が言うことを聞かない。
「私はあなたを守ってきた。パパに殴られても、蹴られても、耐えてきたんだから。裁判も命がけでやったのに、何も知らないふりしてるの?」
声に怒りがこもっている。
「何か言いなさい!」
「ひっ!」
反射的に声が漏れる。胸がぎゅっと縮む。ママの表情が一瞬で変わる。
笑顔が剥がれ、怒りが噴き出してくる。顔が般若みたいで、目が鋭く光り、口が裂けたように開く。
――怖い……やめて……。
ママがさらに迫ってくる。息が詰まりそう。顔が近すぎて、視界が歪んでくる。
足が震えて、その場に尻餅をついてしまう。
スカート越しに冷たい畳の感触がじわっと広がる。ママが睨みながら、さらに屈み込んでくる。
――逃げなきゃ……でも、動けない……。
頭の中で逃げ出したい気持ちが渦巻いているのに、体は凍りついたまま。
圧迫感がどんどん大きくなり、呼吸ができなくなる。背中が壁に押し付けられているように重たい。
「全部犠牲にしてきたのに……お前は何もわかってない!」
――お前なんて、初めて言われた……。
ショックを受ける暇もなく、ママに肩を掴まれた。爪が皮膚に食い込んで、鋭い痛みが走る。声が出ない。何も言えない。涙があふれて、ママの顔がぼやけて見えた。
「それなのに! 『大変だったね』『幸せになろうね』なんて、よくも言えたわね!」
――違う、そんなつもりじゃ……助けたかっただけなのに……。
「田舎が嫌だ、虫が怖い、周りがダサい! 文句ばかり!」
――違う……そんなふうに思ってない……。
「いい子に好かれても、文句ばかり。家のことをちゃんと考えてくれそうな子なのに、見下して!」
――やめて……英斗の話は聞きたくない……。
英斗のねっとりとした視線が頭によみがえる。あの視線で舐め回されるように見られていた日々を思い出すだけで、寒気がする。あの手に触れられる未来……想像するだけで吐き気がする。
――結婚なんて……絶対に嫌だ!
「栞、英くんと付き合えば許してあげる。優しいママに戻る。痛めつけたくないの。いい子になって。考えて。三十秒あげる」
突然、ママの声が柔らかくなった。涙でぼやけているけど、笑顔を浮かべている。
熊みたいに掴んでいた手が緩み、頬を撫でられた。
けれど、その手は冷たく、冷たいコップに触れたときのような感覚だった。
目は笑っていないままだ。
「あんなやつ、死んでも付き合いたくない……」
「じゃあ、死ぬのね」
ぱんっ。
頬に響いた音。頬が火のように燃えて、痛みが全身に広がっていく。すべてが崩れていく感覚だった。
わたし……ぶたれたんだ。ママに。
声も出ない。放心して、ただ痛みだけが残る。
「結婚しろなんて言ってない。付き合うだけでいいのよ。それも嫌なら、ふりをすればいい。それで白根亮を落とせるんだから。何を意地張ってるの? 栞は顔以外に取り柄なんてないクズなんだから」
ママの口元が歪んで笑っている。それがわたしを押し潰す。
――わたし、クズなの? いい子になるって……英斗と付き合うってこと?
嫌だよ……無理。でも、ママに嫌われるのも無理。どっちも地獄。どうすればいいの……もう、何も考えたくないよ。
「……いや……」
涙がぽたぽたと落ちる。
「泣く演技? それが唯一の特技ね。クズみたいな特技。いい子になりなさい。さもないと、何度でも叩く。このクズ」
――クズだなんて……もうやめて……いい子になるから……。
「ごめんなさい……付き合うから……叩かないで……ママ……」
わたしがそう言った瞬間、ママは笑った。目がうるんで、鼻をすする音が聞こえる。
――ママ、後悔しているの?
――ああ、本心じゃなかったんだ。わたしのために……でも、本当に? わからない。
「叱ってごめんね。クズなんて、嘘よ。いい子にしてくれる栞は、ママ大好きだから」
ママの声は、氷の上に置かれた布みたいに、わたしの心にじんわりと広がっていく。
一瞬で、全身が暖かくなる。
――よかった、わたし、クズじゃないんだ……もう、大丈夫。
ほっと息をつく。けれど、冷たい何かが残っているのに気づいた。
――何かが違う……いや、気のせいだよ。
「ママぁ……」
泣きながらそうつぶやくと、ママは優しく囁く。「もう何も言わなくていい。いい子にしてくれたら、二度と怒らないよ」と。
ママの人差し指が、わたしの唇に軽く触れる。指が離れるたび、唇がぷるんと跳ねる。それを楽しむように、ママは何度も繰り返した。
わたしはされるがまま。でも、ママの優しさを感じている間だけは、安心感があって、そこから逃れたくなくて、ただ身を任せた。
全部、悪い夢だったんだと信じたくなる。自分をコントロールしなきゃ。壊れてしまう前に。
最後にぎゅっと抱きしめられた。
「いい子にしてくれる栞は、ママ大好き」と耳元で囁かれる。
英斗と付き合うなんて、虫が這うような感覚だ。ムカデに囲まれるよりもつらい。考えるだけで頭が痛くなる。
でも、耐えるしかない。頑張るしかない。
ママが喜んでくれるなら、それでいい。
それがわたしの生きる道なんだって、そう思うしかないんだ……。
何かがポキッと音を立てて、折れた。
それが少しずつ加速して、中学の卒業が近づくころ、ママは焦っているみたいで、手段を選ばなくなってきた。
ある夜、急にママが勢いをつけて話しかけてきた。
「ねぇ、栞。もうすぐ卒業でしょ? 英斗くんのこと、どうなの?」
「え……だから、何度も言ってるじゃん。嫌だって」
何度断っても、ママは聞いてくれない。
「形だけでいいから、付き合ってくれないかしら? ママだけじゃ白根社長と繋がれないの。栞が〝英くん〟と付き合ってくれたら、家族ぐるみでお付き合いできるのよ」
――〝英くん〟? 気持ち悪い。
ママの目は真剣だ。わたしが英斗と付き合うのが当然みたいに話す。
背筋が冷たくなった。突然、ママが一枚の求人票を差し出してきた。
『株式会社チーズラーメンラボ 事務員(正社員)』
給料もいいし、条件もホワイト。でも、大卒以上、実務経験二年以上……。
「ママ、この会社で働きたいの。でも普通に応募しても無理。だから、栞が〝英くん〟と付き合って、将来のお嫁さん候補にでもなれば、ママも採用されるかもしれないの」
――お嫁さん候補? あんなやつと結婚? 気持ち悪い。無理。
「無理! 絶対に嫌!」
わたしが叫んだ瞬間、ママの顔が変わった。
「この恩知らずが……」
え? 低い声でママがそう言った。
急に近づいてくる。息が詰まる。目が大きく見開かれていて、いつものママとは違う。
見たこともない、恐ろしい顔。
体が固まって、動けない。背中が凍りついたようで、圧迫感がどんどん強くなっていく。部屋全体が狭く感じる。
「栞、私はどれだけ苦労してきたかわかってる? 贅沢させてあげたのに、習い事も全部投げ出して。それでも我慢してきたんだから」
冷たい声が、部屋の空気をピリピリと引き締める。針が散らばっているみたいで、少しでも動けば刺さりそうだった。
――どうして……急に……。
視線を畳に落とす。足裏に伝わる冷たさがじわりと広がる。古い障子のシミがこちらを睨んでいるようで、ゾクゾクする。
ママを見ると、凍りついた笑顔が動かない。逃げ出したいのに、体が言うことを聞かない。
「私はあなたを守ってきた。パパに殴られても、蹴られても、耐えてきたんだから。裁判も命がけでやったのに、何も知らないふりしてるの?」
声に怒りがこもっている。
「何か言いなさい!」
「ひっ!」
反射的に声が漏れる。胸がぎゅっと縮む。ママの表情が一瞬で変わる。
笑顔が剥がれ、怒りが噴き出してくる。顔が般若みたいで、目が鋭く光り、口が裂けたように開く。
――怖い……やめて……。
ママがさらに迫ってくる。息が詰まりそう。顔が近すぎて、視界が歪んでくる。
足が震えて、その場に尻餅をついてしまう。
スカート越しに冷たい畳の感触がじわっと広がる。ママが睨みながら、さらに屈み込んでくる。
――逃げなきゃ……でも、動けない……。
頭の中で逃げ出したい気持ちが渦巻いているのに、体は凍りついたまま。
圧迫感がどんどん大きくなり、呼吸ができなくなる。背中が壁に押し付けられているように重たい。
「全部犠牲にしてきたのに……お前は何もわかってない!」
――お前なんて、初めて言われた……。
ショックを受ける暇もなく、ママに肩を掴まれた。爪が皮膚に食い込んで、鋭い痛みが走る。声が出ない。何も言えない。涙があふれて、ママの顔がぼやけて見えた。
「それなのに! 『大変だったね』『幸せになろうね』なんて、よくも言えたわね!」
――違う、そんなつもりじゃ……助けたかっただけなのに……。
「田舎が嫌だ、虫が怖い、周りがダサい! 文句ばかり!」
――違う……そんなふうに思ってない……。
「いい子に好かれても、文句ばかり。家のことをちゃんと考えてくれそうな子なのに、見下して!」
――やめて……英斗の話は聞きたくない……。
英斗のねっとりとした視線が頭によみがえる。あの視線で舐め回されるように見られていた日々を思い出すだけで、寒気がする。あの手に触れられる未来……想像するだけで吐き気がする。
――結婚なんて……絶対に嫌だ!
「栞、英くんと付き合えば許してあげる。優しいママに戻る。痛めつけたくないの。いい子になって。考えて。三十秒あげる」
突然、ママの声が柔らかくなった。涙でぼやけているけど、笑顔を浮かべている。
熊みたいに掴んでいた手が緩み、頬を撫でられた。
けれど、その手は冷たく、冷たいコップに触れたときのような感覚だった。
目は笑っていないままだ。
「あんなやつ、死んでも付き合いたくない……」
「じゃあ、死ぬのね」
ぱんっ。
頬に響いた音。頬が火のように燃えて、痛みが全身に広がっていく。すべてが崩れていく感覚だった。
わたし……ぶたれたんだ。ママに。
声も出ない。放心して、ただ痛みだけが残る。
「結婚しろなんて言ってない。付き合うだけでいいのよ。それも嫌なら、ふりをすればいい。それで白根亮を落とせるんだから。何を意地張ってるの? 栞は顔以外に取り柄なんてないクズなんだから」
ママの口元が歪んで笑っている。それがわたしを押し潰す。
――わたし、クズなの? いい子になるって……英斗と付き合うってこと?
嫌だよ……無理。でも、ママに嫌われるのも無理。どっちも地獄。どうすればいいの……もう、何も考えたくないよ。
「……いや……」
涙がぽたぽたと落ちる。
「泣く演技? それが唯一の特技ね。クズみたいな特技。いい子になりなさい。さもないと、何度でも叩く。このクズ」
――クズだなんて……もうやめて……いい子になるから……。
「ごめんなさい……付き合うから……叩かないで……ママ……」
わたしがそう言った瞬間、ママは笑った。目がうるんで、鼻をすする音が聞こえる。
――ママ、後悔しているの?
――ああ、本心じゃなかったんだ。わたしのために……でも、本当に? わからない。
「叱ってごめんね。クズなんて、嘘よ。いい子にしてくれる栞は、ママ大好きだから」
ママの声は、氷の上に置かれた布みたいに、わたしの心にじんわりと広がっていく。
一瞬で、全身が暖かくなる。
――よかった、わたし、クズじゃないんだ……もう、大丈夫。
ほっと息をつく。けれど、冷たい何かが残っているのに気づいた。
――何かが違う……いや、気のせいだよ。
「ママぁ……」
泣きながらそうつぶやくと、ママは優しく囁く。「もう何も言わなくていい。いい子にしてくれたら、二度と怒らないよ」と。
ママの人差し指が、わたしの唇に軽く触れる。指が離れるたび、唇がぷるんと跳ねる。それを楽しむように、ママは何度も繰り返した。
わたしはされるがまま。でも、ママの優しさを感じている間だけは、安心感があって、そこから逃れたくなくて、ただ身を任せた。
全部、悪い夢だったんだと信じたくなる。自分をコントロールしなきゃ。壊れてしまう前に。
最後にぎゅっと抱きしめられた。
「いい子にしてくれる栞は、ママ大好き」と耳元で囁かれる。
英斗と付き合うなんて、虫が這うような感覚だ。ムカデに囲まれるよりもつらい。考えるだけで頭が痛くなる。
でも、耐えるしかない。頑張るしかない。
ママが喜んでくれるなら、それでいい。
それがわたしの生きる道なんだって、そう思うしかないんだ……。
何かがポキッと音を立てて、折れた。