「遅かったね。星でも見てた?」

 コテージに戻ると、蛇沼はベッドでくつろいでいた。

「まあな」

 俺は平然と答えた。心の中ではほくそ笑んでいる。
 お前にはもう明日はない。死ぬ前に星を見なくていいのか?
 蛇沼は満足そうに目を細め、「ご飯おいしかった。俺でも食べられるもんばっかで助かったよ」とつぶやいた。

「そりゃよかったな」

 表向きはそっけなく返したが、内心では次の瞬間を待ち焦がれていた。
 お前は気づいていないだろう。それが最後の晩餐だってことを。

 ふふふ……はははははは!

 蛇沼の薬は就寝前に飲む。それまであと二時間あるが、焦る必要はない。
 時が来ればすべて終わる。

「ゲームでもするか」

 俺はカバンから携帯ゲームを取り出した。
 驚いたことに、蛇沼も同じようにゲーム機を手にした。
 妙に気が合う。皮肉なもんだ。もしお前が栞を奪わなければ、友達になれたかもしれない。
 だが、お前は俺のものを奪った。もう同情する余地はない。
 無言のままゲームを始める。画面を見つめ、指だけが動く時間が続く。
 静かな部屋に、ゲームの音だけが響く。

 一時間が過ぎたころ、蛇沼がぽつりとつぶやいた。

「あー、目が疲れた。指も鈍くなってきたな。少し横にならないと、体がもたない……斑点も広がってきたし」

 声には弱さが混じっていたが、俺は顔を上げず、ゲームを続けながら横目でちらりと見る。
 蛇沼がカバンに手を伸ばす。薬だ。待っていた瞬間が来た。
 手が止まり、沈黙が広がる。再びカバンを荒々しく掻き回し始めた。探すたびに動きが乱れ、焦りが浮かぶ。

「……ない、なんで……」

 声が漏れ、混乱が顔に出ている。
 やつの恐怖がじわじわと広がっていくのを感じる。

「……どこだよ……」

 探る手は荒く、動きがどんどん焦燥に染まっていく。

「ない……! なんで、ないんだ!?」

 声が震え、汗が額を光らせていた。
 唇が一瞬何かを言いかけるが、再び必死にカバンを探る。動きが混乱している。

「どうした?」
「薬が……ないんだ! ケースが空っぽで、中身がない!」

 やつの声が割れ、目は血走り、焦りに覆われた顔が俺に向けられた。

「大丈夫か?」
「大丈夫なわけねえだろ! 薬、どこに隠した!? 返せ! 頼むよ!」

 叫び声とともにカバンを叩きつけ、四つん這いになった蛇沼が血走った目で俺に迫ってくる。
 指が床を掻き、爪がすり減る音が部屋に響く。顔に浮かぶ赤い斑点が、やつの体を震わせていた。

「落ち着けよ」
「落ち着けるわけねえだろ! 薬がなきゃ俺は死ぬんだ! お前が隠したんだろ!? 返せよ!」

 蛇沼は絶叫し、俺に掴みかかろうとしたが、手は力なく崩れ、足元に倒れ込んだ。
 冷たい床に這いつくばり、唇が震え、かすれた声が漏れる。

「助けてくれ……頼む……俺、死ぬ……」

 体が痙攣し始める。
 皮膚が赤紫に染まり、斑点が広がっていく。
 俺は無表情のまま見下ろしながら、心の奥では歪んだ笑みが浮かんでいた。

 終わりだ。お前は死ぬ。

「お前が……やったのか?」
 
 かすれた声で、蛇沼が虚ろな目をこちらに向ける。顔は恐怖で染まっていた。

 ――教えてやるか。俺が罪に問われることなんてありえない。死人に口無しだ。


「ああ、俺がトイレに流してやったよ」


 静かに答えると、蛇沼の目が見開かれ、体はピクリとも動かなくなる。
 痙攣が止まり、部屋の空気が急に重たくなった。蛇沼は床に転がり、静けさだけが残る。

 そのとき、窓に何かがぶつかる鈍い音がした。
 視線を窓に向けた瞬間、ぎょっとした。大きな蛾がべったりと窓に張り付いている。
 ぶつかった衝撃で黄色い液がじわりと滲み出て、羽を擦りながらその液をガラスに張り付ける。蛾は弱々しく動き、次第にその動きが鈍くなっていく。
 バタバタ――蛾の羽音が耳につく。

「うっせえな……」

 窓を叩いて蛾を払い落とすと、黄色い液がべっとりと窓に残る。
 それは蛇沼の斑点を模倣するようにじっとりと広がっていた。
 振り返り、蛇沼を見ると、壊れた人形のように硬直したまま動かない。
 気にするな、もう邪魔者はいないんだ。

 頭を振り、次に進むべきことを考える。

 それは、何よりも欲していたもの……。

 じりじり……胸の奥から熱が湧き上がり、全身に広がっていく。

 バクバク……心臓が激しく暴れ、鼓動が耳元に響く。

 現実が遠のき、足が勝手に動き出す。ガクンと体が前に進む。

 ギシッ……遠くから、風に揺れる木々の音だろうか、きしむ音がかすかに聞こえる。

 現実がぼやけ、音がどんどん遠ざかっていく。


 足は勝手にドアへ向かっている。ギシギシ……床が響くたびに、体が揺れる。
 鼻先が熱くなり、鼻息も荒くなる。

 頭の中で、何かが弾けそうな感覚。くらくらするが、どんどん高まっていく。

 ザワザワ……脳内で何かがざわめく。この感じ……これが欲しかったものか?

 トントン……足音? 声?

 遠くで誰かが動いている……俺に会いに来たのか?

 そう考えると、止まらない。

 じわじわと中心に力がこもり、内側でパンパンに張り詰めていく。

 
 冷たい金属が手のひらに当たり、ガチャリと音を立てて回す。

 もうすぐだ……待っていろ。俺はもう止まれない――。

 ニヤリ……唇の端がかすかに上がるのがわかる。

 ぽたぽた……涎が垂れる。舌先で唇を舐める。

 はぁ、はぁ……笑いがこみ上げ、止まらない。


「待ってろよ……栞」