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七月某日。
ついにその日がやってきた。
俺と奈緒さんは早めに奥星囲に到着していた。
柴原と営業の連中も一緒だ。準備はすべて整い、あとは参加者を待つばかり。
朝十時、バスが到着する。
子どもたちと保護者が次々と降りてきた。松永、雪野もいる。
広大な草地を背景に、営業のやつらがカメラを構えている。
青空の下、慈善活動の様子を撮りたいんだろうが、そんなことは俺にはどうでもいい。
蛇沼が最後に降りてきた。栞が隣にいる。
「大丈夫?」
栞が蛇沼に向けて優しく声をかける。耳に入った途端、胸の奥で嫉妬が焼けつくように燃え上がる。
爆発しそうだが、必死に抑え込む。蛇沼に向かって無理やり笑みを作る。
「ようこそ、奥星囲へ」
蛇沼は俺にだけわかるように、小さく笑った。
「急にいい人になったね」
「今日は仕事だから、くだらないことで怒ってる暇なんかない」
「ふーん。同じ部屋になるけど、物騒なことはしないでよね」
一言一言が癪に障る。鼻をへし折りたくなる衝動を抑え、奥歯を噛み締めた。
気づかれないように、栞を見る。不安げな瞳で、俺と蛇沼のやり取りをじっと見つめている。
だが、栞の目はすぐに蛇沼に向かい、無垢な笑顔を浮かべた。
牛舎に詰まった牛たちの白と黒の模様が、視界の中でゆがんで見える。
牛と触れ合う時間が始まり、子どもたちは笑顔で牛に手を伸ばし、楽しそうにしている。大人たちは感動しているんだろう。
「病気と戦う勇気ある子どもたち」なんて美談で勝手に感動しているんだろう。俺は〝感動搾取〟の舞台にいるだけで、役割を果たすつもりもない。
ふと、視界の端に栞と蛇沼の姿が映る。
栞はずっと微笑んでいる。あんな笑顔、俺には一度も向けたことがないのに、蛇沼には簡単に向けている。
なぜ俺じゃない? なぜ蛇沼ばかりなんだ?
栞に近づこうとすればするほど、逆に遠ざかっていく。目の前にはいつも蛇沼が立ちはだかる。俺を押し戻すかのように。
――ふふ。
笑い声が耳をかすめ、牛の鳴き声に混ざって消えていく。
奈緒さんの姿が一瞬視界に入り、その向こうに蛇沼の舐めるような目が映る。
あいつだ。俺を見て、またあの憎たらしい笑みを浮かべている。俺を見下しているんだ。
今の笑い声もあいつだ。挑発してきやがる。くそ……許せない。
周囲を見回すと、子どもたちが無邪気に蛇沼の周りに集まっている。
まるであいつがヒーローかのように、余裕たっぷりの笑顔で子どもたちの頭を撫で、楽しませている。
「摩夜くん、髪……」
「ん? しーちゃん?」
栞が蛇沼の髪に付いた牧草のくずを、優しく払っている。その手つきが妙に温かく、目を背けたくなる。あの手は俺には届かない。
「サンキュー。牛の食べカスだね」
子どもたちの笑い声、蛇沼の余裕に満ちた態度が、広がる草原と澄んだ青空を、俺の中で黒く染めていく。
バター作りでも、子どもたちは楽しそうに瓶を振り、出来上がったバターを舐めて歓声を上げる。蛇沼が冗談を飛ばすたびに、子どもたちはケラケラと笑い、栞もつられて笑う。
「摩夜くん、次は何するの?」
「みんなで子牛を見に行くよ。しーちゃんも来る?」
「うん、行く!」
まるでカップルだ。
子牛との触れあいの時間も、栞はずっと蛇沼に夢中で、俺は存在しないような扱いだ。
栞は俺を見てくれない。ずっと蛇沼だけを見ている栞を、もう見たくない。
視界が滲んだ気がした。泣いているのか?
体が震えていることに気づくが、どうにもならない。
もう無理だ。蛇沼と栞を見続けるなんて耐えられない。
体が勝手に倉庫の裏へと向かう。
「英くん……大丈夫?」
奈緒さんの静かな声が耳に届いた。
ぐらつく思考の中で、奈緒さんの声はただ音として耳に届くだけだ。
「……あいつ、あんなにいちゃいちゃして……もう無理っす……」
「ごめんなさい……」
奈緒さんは少しの間、静かに黙ったあと、落ち着いた声で続けた。
「だからこそ、今日しかない。英くんが行動しなければ、栞は完全に蛇沼のものになってしまう。時間はないわ。絶対に、躊躇しないで」
心の中で抑え込んでいた感情が、一気にあふれ出した。もうこれ以上耐えられない。
「……わかってます。もう限界なんです。栞がいない世界なんて……蛇沼がいる世界なんて……絶対に無理だ!」
「そうね。これからコテージに移るわ。蛇沼の動きをしっかり見て。必ず隙はあるはず」
「はい……絶対、やってやる!」
倉庫裏から戻ると、子どもたちの笑顔は次第に疲れに変わっていた。
室内で過ごすことが多い彼らには、外で過ごす時間が過酷だ。
親たちの「そろそろ休ませたい」という声に反応し、スタッフや松永たちがすぐに動き出す。
子どもたちをコテージへ誘導する姿を、俺はただ見ているしかない。
「もう少しでコテージだよ、頑張ってね」
――松永の優しい声が、耳に残る。
雪野は無言で荷物を運び、親たちは疲れた表情で「ありがとうございます」と繰り返していた。
森から吹き抜ける爽やかな風が、広大なリゾートを包む。
その風に一瞬、俺の苛立ちが和らぐかのようだった。
みんなが子どもたちのために動いている姿を見て、何か温かいものが胸に宿る――ほんの少しだけ、心が揺れた。
だが、その感覚はすぐに消え去った。
目の前で繰り広げられる栞と蛇沼のやり取りが、すべてをかき消す。
「摩夜くん、大丈夫? 疲れてない?」
「大丈夫だよ。しーちゃんこそ無理してない?」
「ううん」
「俺、男だから変に気遣わなくていいよ」
「やだ。何かあったらどうするの?」
「天使かよ」
「もー、なにぃ」
二人の世界に、俺は決して入れない。
温もりなんて、ただの幻想だ。
蛇沼を早く殺したい――そう思わずにはいられなかった。
七月某日。
ついにその日がやってきた。
俺と奈緒さんは早めに奥星囲に到着していた。
柴原と営業の連中も一緒だ。準備はすべて整い、あとは参加者を待つばかり。
朝十時、バスが到着する。
子どもたちと保護者が次々と降りてきた。松永、雪野もいる。
広大な草地を背景に、営業のやつらがカメラを構えている。
青空の下、慈善活動の様子を撮りたいんだろうが、そんなことは俺にはどうでもいい。
蛇沼が最後に降りてきた。栞が隣にいる。
「大丈夫?」
栞が蛇沼に向けて優しく声をかける。耳に入った途端、胸の奥で嫉妬が焼けつくように燃え上がる。
爆発しそうだが、必死に抑え込む。蛇沼に向かって無理やり笑みを作る。
「ようこそ、奥星囲へ」
蛇沼は俺にだけわかるように、小さく笑った。
「急にいい人になったね」
「今日は仕事だから、くだらないことで怒ってる暇なんかない」
「ふーん。同じ部屋になるけど、物騒なことはしないでよね」
一言一言が癪に障る。鼻をへし折りたくなる衝動を抑え、奥歯を噛み締めた。
気づかれないように、栞を見る。不安げな瞳で、俺と蛇沼のやり取りをじっと見つめている。
だが、栞の目はすぐに蛇沼に向かい、無垢な笑顔を浮かべた。
牛舎に詰まった牛たちの白と黒の模様が、視界の中でゆがんで見える。
牛と触れ合う時間が始まり、子どもたちは笑顔で牛に手を伸ばし、楽しそうにしている。大人たちは感動しているんだろう。
「病気と戦う勇気ある子どもたち」なんて美談で勝手に感動しているんだろう。俺は〝感動搾取〟の舞台にいるだけで、役割を果たすつもりもない。
ふと、視界の端に栞と蛇沼の姿が映る。
栞はずっと微笑んでいる。あんな笑顔、俺には一度も向けたことがないのに、蛇沼には簡単に向けている。
なぜ俺じゃない? なぜ蛇沼ばかりなんだ?
栞に近づこうとすればするほど、逆に遠ざかっていく。目の前にはいつも蛇沼が立ちはだかる。俺を押し戻すかのように。
――ふふ。
笑い声が耳をかすめ、牛の鳴き声に混ざって消えていく。
奈緒さんの姿が一瞬視界に入り、その向こうに蛇沼の舐めるような目が映る。
あいつだ。俺を見て、またあの憎たらしい笑みを浮かべている。俺を見下しているんだ。
今の笑い声もあいつだ。挑発してきやがる。くそ……許せない。
周囲を見回すと、子どもたちが無邪気に蛇沼の周りに集まっている。
まるであいつがヒーローかのように、余裕たっぷりの笑顔で子どもたちの頭を撫で、楽しませている。
「摩夜くん、髪……」
「ん? しーちゃん?」
栞が蛇沼の髪に付いた牧草のくずを、優しく払っている。その手つきが妙に温かく、目を背けたくなる。あの手は俺には届かない。
「サンキュー。牛の食べカスだね」
子どもたちの笑い声、蛇沼の余裕に満ちた態度が、広がる草原と澄んだ青空を、俺の中で黒く染めていく。
バター作りでも、子どもたちは楽しそうに瓶を振り、出来上がったバターを舐めて歓声を上げる。蛇沼が冗談を飛ばすたびに、子どもたちはケラケラと笑い、栞もつられて笑う。
「摩夜くん、次は何するの?」
「みんなで子牛を見に行くよ。しーちゃんも来る?」
「うん、行く!」
まるでカップルだ。
子牛との触れあいの時間も、栞はずっと蛇沼に夢中で、俺は存在しないような扱いだ。
栞は俺を見てくれない。ずっと蛇沼だけを見ている栞を、もう見たくない。
視界が滲んだ気がした。泣いているのか?
体が震えていることに気づくが、どうにもならない。
もう無理だ。蛇沼と栞を見続けるなんて耐えられない。
体が勝手に倉庫の裏へと向かう。
「英くん……大丈夫?」
奈緒さんの静かな声が耳に届いた。
ぐらつく思考の中で、奈緒さんの声はただ音として耳に届くだけだ。
「……あいつ、あんなにいちゃいちゃして……もう無理っす……」
「ごめんなさい……」
奈緒さんは少しの間、静かに黙ったあと、落ち着いた声で続けた。
「だからこそ、今日しかない。英くんが行動しなければ、栞は完全に蛇沼のものになってしまう。時間はないわ。絶対に、躊躇しないで」
心の中で抑え込んでいた感情が、一気にあふれ出した。もうこれ以上耐えられない。
「……わかってます。もう限界なんです。栞がいない世界なんて……蛇沼がいる世界なんて……絶対に無理だ!」
「そうね。これからコテージに移るわ。蛇沼の動きをしっかり見て。必ず隙はあるはず」
「はい……絶対、やってやる!」
倉庫裏から戻ると、子どもたちの笑顔は次第に疲れに変わっていた。
室内で過ごすことが多い彼らには、外で過ごす時間が過酷だ。
親たちの「そろそろ休ませたい」という声に反応し、スタッフや松永たちがすぐに動き出す。
子どもたちをコテージへ誘導する姿を、俺はただ見ているしかない。
「もう少しでコテージだよ、頑張ってね」
――松永の優しい声が、耳に残る。
雪野は無言で荷物を運び、親たちは疲れた表情で「ありがとうございます」と繰り返していた。
森から吹き抜ける爽やかな風が、広大なリゾートを包む。
その風に一瞬、俺の苛立ちが和らぐかのようだった。
みんなが子どもたちのために動いている姿を見て、何か温かいものが胸に宿る――ほんの少しだけ、心が揺れた。
だが、その感覚はすぐに消え去った。
目の前で繰り広げられる栞と蛇沼のやり取りが、すべてをかき消す。
「摩夜くん、大丈夫? 疲れてない?」
「大丈夫だよ。しーちゃんこそ無理してない?」
「ううん」
「俺、男だから変に気遣わなくていいよ」
「やだ。何かあったらどうするの?」
「天使かよ」
「もー、なにぃ」
二人の世界に、俺は決して入れない。
温もりなんて、ただの幻想だ。
蛇沼を早く殺したい――そう思わずにはいられなかった。